No.354 レディ・バズーカは運命のチュッパチャップスをしゃぶらない
レディ・バズーカは気づいてしまった。
目の前で自分のために微笑んでくれるこの身ぎれいで短髪の男は、自分の運命の人でも何でもない。
「運命の人」、まさにそれだったのだ。
何十年、このことに気づかずにきた?
なぜわたしは、運命の夜、運命の人と、運命の出会いをすることをせずに、十数年を無駄にしてきてしまったのか?
思い返すまでもなく、レディ・バズーカには心当たりがある。
わたしは、逃げた。
ずっと逃げまくっていた。
熱心なようでいて、わたしはわたしに、ツブシの利く何かを積み上げてきただけだわ。
レディ・バズーカは友人に人気があり、首が細くて上品だという定評がある。
レディ・バズーカは気づいてしまった。わたしは友人と運命の日を共にしたわけじゃない。
ずっと公平なお付き合いをしてきただけだわ。
しまった、レディ・バズーカは、子供のころの自分に伝えたい。
ずっと古くから言うでしょう、小さなバズーカ? 小指の先から、見えない赤い糸が世界の誰かにつながっている。
その赤い糸は、放射線のように四方八方に広がっているから……
小さなバズーカ、あなたのすることは、その赤い糸の結ぶ先へ、あなたがことごとく出会うことなの。
覚えておいてね、小さなバズーカ。
わたしのようになってはだめ。
「運命の出会い」というのがあるわ、小さなバズーカ。
でも正しく覚えておいて、やがての大きな、首の細いレディ・バズーカ。
運命の出会いがあるのじゃなくて、
「運命じゃなければ出会いじゃない」
その他すべての、出会いに見えるただ知人を増やすだけの作業は、どうってことないものなの、まだ希望と可能性の、手遅れでない小さなバズーカ……
さりとて、現実はこれか。
思わず鏡を見てしまった。
海中にまっすぐ起立して漂っているだけの、することのない昆布のような私。
そりゃそうよね、何一つの運命とも結ばれていないのだもの。
今残念ながら、怒りと共にはっきりわかることが一つだけある。
わたしの目の前のこの男は、確かにわたしの彼氏かもしれないが、わたしにとって何ら必要ではない、見てくれのよいだけのやはり昆布だわ。
わたしに言う資格がないのはわかっているけれど、腹が立ってしょうがないので、心の中で言わせてね。
ごめんね、わたしの現行のダーリン。
(何を、キメたふうの好感触でしゃべっているの? どこにでもいる一把、典型的な○○○○ね)
わたしはこれまで何をしてきたのだろう?
何をしてきたも何も、これをしてきたのだ。
この男と付き合い、この男とセックスをし、この男とイベント会場に出かけて、この男と写真を撮ってきたのだ。
まるでそれが正しいことのように思いながら。
ううん、いいえ、いいかげん覚悟を決めなさいレディ・バズーカ。
本当は、心の底で、そういうものじゃないって知っていた。
何かから逃げているってことを知っていた。
ただどうしても、何から逃げているのかはわからなかったのよ。
わたしはただ、上手に微笑んでさえいれば、何もかもごまかせるということにどこかで気づいてしまったのだわ。
髪型を変えたら男が寄ってきた。
服装を清楚にして、その逆に脚を出したら、男が寄ってきたの。
化粧品のグレードを上げるたびに男が寄ってきたわ。
やさしい女教師のように、あるいは美人の姉のように、男性を諌めるかわいらしい女ってふうに振る舞うと、わたしウケたわ。
わたしのそれがウケたのよ。
大ヒットする人も多かったのよ。
わたしそれで味を占めちゃった。
わたしには妹の脅威もあった。妹はわたしと性格が違って、わたしと違う愛され方をした。
でもわたしは、姉という立場があって、妹に後れを取るわけにいかなかった。
妹よりも上等に愛されている必要があった。
ダサい子になりたくなかったし、ダサい子になるわけにはいかなかったのよ。
今で言うところの、「勝ち組」に入っている必要があった。誰だってそうするでしょう? またわたしには実際それをするだけの器量もあったのだもの。
レディ・バズーカは気づいてしまった。
わたしは目先のことに囚われて、戦うべき全てのことから逃げてきてしまった。
冒険もそれなりにしたつもりだったし、火遊びもそれなりにしてきたつもりだったのに。
レディ・バズーカ、観念なさい。
とっくの昔にこのことに気づいて、勇敢に戦って生きている人が、この世界には数少なくともいるのよ。
わたし少しだけ会ったこともあるんだもの……
彼の言う、友人の話、思い出の話、仕事の話、恋人のこと。語りかけるすべてのことは、どれだけ誇らしいものだったでしょう。
わたしはずっとそのことから目を逸らしてきたわ。
わけのわからない、昆布みたいに! 背筋だけ伸ばして、意味もなく微笑んで、わずかに身を逸らして、心通わぬように。
自分が逃げていることが決して誰にもばれないように。
わたし自身にさえばれないように、微笑んで。
わたしが微笑んでいるのは、何のことはない、これは「防壁」だわ。
これが都合上、最も有益に防壁の役割を果たすから、わたし防壁を立てているだけなの。
わたしの現行のダーリンとまったく同じにね。
(わたしに言う資格がないのはわかっているけれど、どうしようもない本当の気持ちだから心の中で言わせてね、わたしの現行のダーリン。わたしにはあなたの仕組みが丸見えなの。わたしとまったく同じなのだもの、あなたはキメ顔の防壁くん。あなた本当はけっこうな無能で、何もかもわかったふりをしているだけね。本当には何もわかっていないものね。わたしからはあなたが丸見えに見えるわダーリン、だってあなたがラム肉を食べる瞬間って、顔がものすごくヘンだもの。)
レディ・バズーカの本当のあこがれ。
そのあこがれは、本当に遠く、遠くなりすぎて、今は目を凝らさないとそのわずかな影像も見失う。
わたしだって誇らしい友人が持ちたかった。
わたしが得たかったのは、友人ではなくて誇らしい友人関係だった。
友人のために、胸を張って友人の名誉を守って戦うような……
「あの人のことを悪く言うのは、わたしが許さないわよ」って、一生に一度でいいから、言ってみたかった。
なんて遠いのだろう。今さらそんな……
すべてのことを抱きかかえて、すべてのことを誇らしく語り、斃れ臥したお腹の底までウソ偽りない笑いに満たされた人間でありたかった。
当たり前じゃない? レディ・バズーカ。
ごくごくまれに、わたしはその本当のあこがれの実物に出会い、表面上、直面したこともある。わたしはそのときなぜかジャッキー・チェンの古いクンフー映画を思い出した。あの爽快な構え。
でもそのときわたしは、あろうことか、身を逸らして微笑み、聞き流して背を向けた。
わたしはわたし、なんつって。
わたしはそうやって、自分にやってきたかけがえのない運命の機会からは、ことごとく背を向けてきた。
なぜ? そんなの決まりきっている。
それがわたしの本当のあこがれだったからよ。
わたしが偽物だって暴き立てる、そんな薄情なもの、背を向けるしかないじゃない。
わたしだって苦労してきているのよ。わたしがずっと、本心から、気楽をしてきたと思っているの?
内心ではひどいサバイバルだったわよ。
自宅のお風呂でさえ、自分を守るために何かに微笑んでいなくてはならないという、この地獄の苦しみがわかって? そんなことを言いだせばわたし、レディ・バズーカの告白なんてものすごく無限にあるわ。
あの人は、遠い目をして、棒付きのアメ玉をしゃぶっていたな……
わたしはそのときのことを覚えている。
わたしはそのとき、どうしたらいいかわからなかった。
彼はわたしの防壁に取り掛からなかったし、わたしの防壁を破ろうともしなかった。
わたし必死に耐えたわ。
攻め込まれもしない防壁を保ち続けるのってものすごいヤケクソの力が要るの。
あの人は本当に生きていた。わたしの目の前で、ノウノウと、わたしに見せつけることに、何の遠慮も会釈もなくて……
わたしはレディ・バズーカ、たとえばわたしが運命と向き合わないクセは、そうしたところに記録されています。
わたしに出来る本当のことは、あの人の棒付きアメを引っ張って奪って、わたしの口の中に放りこんでおしゃぶりすることだったの。
そうしたらあの人は笑ってくれたわ。
やるじゃない、ってわたしに向けて笑ってくれたわ。
そうしたらわたしは、あの人から無限に話が聞けて、わたしの未来もそこから無限に拓けていったはずなの。
運命はそうやって現れて、わたしそうやって自分から逃げていくの。
レディ・バズーカは気づいてしまった。
本当に恐ろしいことが進んでいる。
わたしは朝起きてから出掛けるまで、自分の一日が運命の日にならない前提で動いている。
夜眠るときも、明日やってくる運命の日など決してないと、どこかで確信しながら眠っている。
レディ・バズーカ、あなたは今日運命の出会いが無いと確信してお出掛けしてきたの?
何のために? レディ・バズーカ。
運命の出会いが無いと確信しているのに、あなたは何のために出掛けるの?
すでに正気の沙汰ではなくなっているわ。
驚いたことには、わたしはそうして運命に出会わないことを確信しながら、日々出掛けるふうにすることを、なぜか「充実」と信じていたのだわ。
本当に恐ろしいことが淡々と進んでいく。
こんなことって本当にあるんだわ。
このままいけばわたしは、運命でない友人たちと付き合い、運命でない仕事を続けるでしょう。運命でない男と寝つづけ、運命でない身ごもりをして、運命でない結婚をし、運命でない子供を産むでしょう。
そして運命でない挨拶をし続けるんだわ。
だってわたし、すでに準備しているもの。
すでに今このときも、新しい知り合いに微笑む準備をしているし、結婚式で微笑む準備が内心にあるし、生まれてきた子供にもとりあえず微笑むっていう計画があるのだもの。
運命でない新居で、運命でないご近所さんに、とっておきの微笑みをするって準備がすでにあるもの……!
わたしのこれは何をしているの。わたしはいったい何に踊らされているの。
わたしは上手くやってきたのではなくて、ただただ、ゆっくり破滅してきただけじゃないの?
レディ・バズーカは気づいてしまった。
わたしはすべての時間を無駄にしてきてしまった。
あの人が言っていた「貴重な時間」はこれのことだったのね。
なぜすべての日を、運命の日と受け止めてこようとしなかったの。
なぜ自分の時間を安全にすりつぶすことだけを充実なんて言い張ってきたの。
棒付きのアメ、わたしに運命を投げかけてくれた人もゼロではなかったのに。
レディ・バズーカ、勇気が要るに決まってる。
レディ・バズーカ、そしてわたしには勇気がないに決まっている。
レディ・バズーカ、そしてもう一つ受け止めて、認めなくてはならないことがあるわね。
レディ・バズーカ、あなたは、いえわたしは、もう一度棒付きのアメのチャンスが巡ってきたとき、それを引っ張って奪って、自分の口に放り込むなんてことはしない。
それをやれと言われたらやるわ、でもそれはわたしがやるってことではなくなるの。
わたしはわたしの意志においてはやらないわ。わたしは何もやらない。やっているふりをしているだけ。わたしはただ、漠然と人にそうやれと言われたことをやるだけ。
安全に時間をすりつぶすの。
レディ・バズーカ、やはりあなたには何の運命もないわ。何の運命でもない付き合いをし、何の運命でもない仕事を続けるの。何の運命でもない男と結婚し、何の運命でもない場所で暮らし続けるわ。だからこそ微笑み続けるの。自分が決壊してしまわないように。でもその決壊は必ずやってくるわ、レディ・バズーカ。取り戻せない時間は今すでに恐ろしいもの。時間が経つほどこの恐ろしさは膨れ上がってゆくのだから、レディ・バズーカ、いつかは悲惨な想像もつかない破裂を迎えるのでしょう。
すべての日を運命にして、すべてに向き合ってゆけばよかったのにね、レディ・バズーカ。
***
ご連絡をありがとう。レディ・バズーカ、あなたのことは覚えています。
あまり強い印象ではなかったですが、首の細いと伺ってあなたのことを思い出しました。
レディ・バズーカ、まずはあなたの向き合われた恐怖のただならぬこと、およびそのことに向き合われたあなた自身のことへ敬意を表します。
レディ・バズーカ、くさいことを言うようですが、共に苦しみましょう。余裕のヨッちゃんで生きている人は誰もいません。
そして忘れないでいてください。誰であれあなたに攻撃を仕掛けてくるものは敵です。敵が攻撃を仕掛けてくるのではなく、攻撃を仕掛けてくるから敵です。冷たい敵愾心と対立してやり込めたりやり込められたりすることは、あなたを何ら豊かにしないでしょう。敵を重視しないことです、レディ・バズーカ。敵を重視するということは、味方同士で群れ集まることへ依存するのと同じ意味で愚かですから。忘れないでいてください、あなたの敵があなたに攻撃を仕掛けてくるのは、敵だって内心で苦しいからなのです。どれだけ余裕のあるふりをしていても内心ではね。
僕は運命論者ではなく科学主義者ですから、レディ・バズーカ。あなたの言われることは、科学の見地においてよくわかります。あなたの言う「運命」のこと、それは決して占星術者が騙る運命のことではありませんね。あなたの心が受け止める一種の尊厳のようなものです。レディ・バズーカ、一つ一つの日々を思い、一つ一つの出会いを噛みしめていこうとするなら、それは正しい心に運命の感触をもって受け取られます。あなたのおっしゃる通りです、レディ・バズーカ、運命の出会いが無いとわかりきっていながら出掛けるというのは、何をしに出掛けているのか、胸弾むものは無く、すでに正気を失っています。あなたのおっしゃる通り、無数に広がる運命の赤い糸を実際に確かめていくことなしに、人はいったい何を自分の誇りにしてゆけるでしょう。人間が生きるうちに対面するものを二つに大別すれば、一つは運命的なものであり、もう一つにはやはり「どうでもいいもの」と言わざるを得ません。どうかレディ・バズーカ、あなたが今の正しい心を見失わず、これからも運命の出来事をオカルトの手口にごまかされずにゆくことを祈ります。
共に直接生きましょう、レディ・バズーカ。
レディ・バズーカ、確かあのとき、あなたは映画を観た日の帰りでした。あなたはいくつかの映画について話してくれましたが、あなたはきっと、まだ一つの映画を観て身体を震わせて泣いたことがありません。そのことをもう一度確かめていきましょう、レディ・バズーカ、あなたがいくら映画に詳しくなっても、二時間のフィルムがあなたの観念を超えてあなたの心身を打ち震わすのでなかったとしたら、それはあなたにとって運命の一本ではなかったのです。それがどうあなたの誇りになりえますか? それはしょせんくだらないことです。どう観念的に飾り立ててみてもね。直接生きているとは言えない。
ですからレディ・バズーカ、全てのことにこう言っておやりなさい。音楽にこだわる人へ、果たしてあなたは運命の一曲に出会ったことがあって? と。企画と交流を重視する人へ、ではあなたが出会った運命の人は? 運命の出来事は? あなたが言う本当の「あの日、あのとき」は? どうぞ……と。運命の出会いと運命の瞬間に覚えのある人なら、そのことへ向けては奥深い歓喜と確信の眼差しがあるはずです。その遠い歓喜と衰えぬ確信の眼差しが思い出話に見当たらないのはなぜ? そうしてすべての真実を見るままに曝け出してください、レディ・バズーカ。いくら映画を観て本を読んで、向学して昇進して人と知り合い地歩や身を固めたとしても、それらが運命の出来事として己の生に突き刺さらないなら何一つ自慢にも思い出話にもなりません。生きるふりを豪華にしてもそれは本当に生きることとは違うのですから。やはりあなたの気づかれたことが正しいのです。運命に向けて出掛けない人はいったい日々どこへ向かってお出掛けしているのでしょう?
レディ・バズーカ、あなたがすでにお気づきの、とっておきのきついことを僕自身も確認してゆきたく思います。運命の人でない人と長年恋人をやらされることほどつらいことはありませんし、運命の仕事でない仕事を頑張らされるほどつらいことはありません。運命でない場所に住まされることほど虚しいことはありませんし、運命の一本でない娯楽をえんえんと注ぎ込まれるほど退屈を実感することはありません。考えてみれば当たり前です、我々は誰だって生きているのですから。運命の只中にいない人はそうして、どのように気張って見せても虚弱なものです。しかし我々はしばしば、そういった極限のつらさへ平然と押し込められます。運命を忘れた、何の運命も見当たらない日々が……!
前もって宣言しておきましょう、レディ・バズーカ。直接生きるのです。それは状況に与さず自分の生き方を決めるということです。それはとてつもなく難しいことですが、目が覚めてしまえばそうするよりないただ一つのことです。直接生きるということはね、レディ・バズーカ。宣言しておきます、今のあなたのやわな胸では受け止めきれないほど切なくて苦しいロマンティックなものです。あなたはきっとすぐごまかしをしたくなるでしょう。すべての日々、すべての秒数、すべての出来事とすべての出会いが、それこそ一輪の花や一陣の風が目や頬に触れることまで、すべて自分に与えられた運命なのだと知って受け止めれば、レディ・バズーカ、あなたの胸は苦しくなってすぐにペシャンコになってしまうはずです。そんな中で男性とキスをしたら? あなたにはまだ、到底耐えきられません。だからあなたはすぐ手馴れたごまかしのほうへ切り替えてしまうでしょう。でもそこからです、レディ・バズーカ。そのときあなたはまた逃げたのです。向き合い続けるしかないのです。
make each day countという佳い言葉があります。レディ・バズーカ、あなたにお尋ねしましょう。いわゆるトランプと呼ばれるカード一組は、ジョーカーとエクストラジョーカーを合わせて全部で54枚のカードで成り立ちます。あなたの大切なカード一組のうち、ちぎって破り捨ててよい一枚が存在するでしょうか? クラブの6なら破いてもよい、ダイヤの2ならしわくちゃに丸めてもよい、そんなことがあるでしょうか。そんなことはきっとないと思います。1から13まで続くカードが四種類、その数字の全てを足すと364になります。そこにジョーカーを足すと365です。これはつまり一年間を指していて、カードの赤と黒とは昼と夜です。エクストラジョーカーは? むろん、四年に一度のうるう年がありますね。そのときはすべてを足して366です。レディ・バズーカ、あなたが今日何月の何日を生き、何曜日を生きていたとしても、それを要らないものだとちぎって捨てることはできません。カード一組のうちどの一枚だって捨ててしまってはいけないのです。カードという目に見える形にするとすべてのものが捨ててはならないcountableなものだとすぐわかりますね。我々が生きる日々でもそうなのです。レディ・バズーカ、お忘れなきように、一年間は365日ですが、百年間は36500日しかありません。そのうち華やかな日々などせいぜいが10000日限りです。ですからせめてその10000日は、直接生きようという僕の考えにご賛同いただけますか。あなたがまだ若いレディ・バズーカであるうちから、オールド・バズーカのような生き方をすることはないでしょう!
レディ・バズーカ、もし一本の映画があなたの心身を打ち震わせてあなたを観念以上に嗚咽させたとしたら。そのときあなたは引き返せない新しい「あなた」を作りだした一本の映画を、「運命の一本」として大切に抱えます。その作中の一分一秒、あるいは一秒間に二十四枚にわたるそのうちの一コマでさえ、自分にとって大切なものだとして、それらについて一切の損傷や消失あるいは変形を許さないでしょう。それがあなたにとって本当の「大切なもの」です。どうかあなたの生きるすべての日々もそのように、残酷なほど胸に刺さってあなたを苦しめてやまなくなるように。あなたをずっと胸の張り裂ける切なさの中に生きさせ続けますように。あなたは起きて黎明の紫に泣き、眠るとき風の吹きすさぶ音に泣いてよいのです。すべてがあなたを取り囲んでいる実物なのですから。気づいてしまえば何もかも大切な運命のシロモノです、そんな日々を生きているのですよ、レディ・バズーカ。
いつかあなたが僕に直接笑い、また僕があなたに直接笑う、やがてそういう日があればいい。いいですか、レディ・バズーカ。直接したいと思ったことを、そのまま直接にする、そのことだけにあるよろこびがあるのです。
そうして直接生きて直接のよろこびを得るということに、困難な状況があるのはわかっています。けれども状況に与して、状況に応じて自己の選択をすると、それはもうすでにあなた自身の選択ではありません。これがおそろしいところなのです。状況に応じて考えればこうなります。〜このようなことは不可能であり、このようなことは不適である。またこのようなことが可能であり、このようなことが適切である……そういうことがわかってきます。レディ・バズーカ、そういった状況判断のことはかなり多くの場合で必要です。それは交通安全に類することです。でもレディ・バズーカ、すでに状況に応じて考えられたことは加工済みであり、どのように豪華な結果をもたらしたとしても、すでに直接生きるということは失われています。ですから直接生きることのみから得られるよろこびはまったく獲得されません。
状況に応じて選択し、その結果得たというものは、「算段どおりに得られたもの」ということになります。ですからその獲得に運命的なよろこびを覚えることはできないのです。たとえばもし僕にあなたを笑わせる技術や知識があったとして、あなたを笑わせたとしましょう。そのとき僕はあなたを笑わせることに成功しますが、そのことには何のよろこびもありません。人を笑わせるのに必要な技術と知識を持っているのですから、人が笑って当たり前です。そんなつまらないことをするために我々は生きているのでしょうか? いいえそうではないはずです。ですからレディ・バズーカ、僕は直接生きるようにし、また人にも直接生きることを勧めたく思うのです。僕にとっては、あなたが笑ってくれるかどうかはわからないままであってほしい。そうでなければ、僕があなたを笑わせた夜も、僕にとってそれは運命の夜にならないでしょうから。ねえレディ・バズーカ、こんなわかりきったことをもう二度と見失わないでいて。我々はただ直接生きるものであって、よりよく生きるということの業者ではありません。
最後に、レディ・バズーカ、あなたにお詫びしておきます。あのとき僕は、口にアメ玉を咥えたままという、そんな不埒な態度であなたに応接していましたか。申し訳ありませんでした。ご不興を買わなかったことだけが救いですが、改めてお詫び申し上げておきます。
ではまたいつか、お会いできるときを楽しみに。
そのときまで、一日の例外もなく、絶え間ない運命の日々があなたに訪れますように。
[レディ・バズーカは運命のチュッパチャップスをしゃぶらない/了]