No.362 (四日目)怒りの日、人間の構造
僕の話を聞き取ってくれるみなさまへ。
今からお話しすることは、人間の構造についての容赦のないタネアカシです。あなたはどうぞ以下に解き明かされることを正しく理解し、把握してください。誰にでも知られているとおり、正しい知識は一生の間あなたを支え続けます。
そして前もってお約束申し上げます。これからお話しすることに一切の宗教的要素やオカルト主義の混入はありません。これからお話しすることはすべて誰もが体験から確認しうる再現性のあるサイエンスです。
こういったことを不粋な解説の形でお話することは、実に最大級の野暮だと、書き話そうとする僕自身が前もって慙愧(ざんき)します。けれどもきっと、今ここに闊大のお心を傾けてくださる方がいらっしゃれば、すでに現代はこのような身もフタもない解き明かしをアナウンスとして必要としているということに、ご高察をいただけるものと思います。
あなたはこれ以降、正体の無い悩み方をやめるべきですし、人間という存在について究明のない神秘主義ふうの思い込みを捨てるべきです。夜空の星々は人間が作ったものではないのと同じように、われわれ自身も人間として、やはり人間によって作られたものではありません。ですから天文学者や物理学者が星々の成り立ちや構造を究明していくように、われわれ自身のことも究明によってしかその成り立ちや構造を知ることはできません。「わたしのこころってどうなっているの」。憚りながら申し上げれば、「勉強不足のまま気分に浸り続ける」のはやめましょう。十分な勉強をしたのに不遇なオバサンになってしまったという人はこの世にありません。
なおこれからお話しすることは、博識な方にとってはユング心理学における意識・無意識・周辺的無意識の構造に重ねて読み取りたくなるところが出て来るかと思いますが、そのことはさしあたり有益ではありません。なぜ有益でないか、その理由は最後にお話しできると思います。
さて本題に入る前に、お話をする上での約束があります。あなたの理解と成長を最大限に効率化するために、次の知識を前提として鵜呑みにしておいてください。
・「こころ」は胴体にある(先日までの話をご参照ください)
・「こころ」とは胴体にある気の流れ(主に神経細胞を流れる電気信号)のこと
・「こころ=胴体の気の流れ」は、上層で「理知」に接続している
・「こころ=胴体の気の流れ」は、下層で「インスピレーション」に接続している
・「胴体」とは、あなたの目下にあるそれのこと。比喩的な意味ではなく実物のこと
・「胴体(こころ)」には、胴体同士で「つながる」という機能がある
以上です。これらのことだけ前提として認めていただければ、以下に続く話をあなたは速やかに読み取り吸収していくことができるでしょう。
「こころ」は胴体にあるのです。なぜこのことがもっと言われないのでしょうか。誰でも「胸に手を当てて考えてみろ」という慣用句はご存知であるのに、その先にあるこの当たり前のサイエンスはなぜか追究されず、半ば「胸に手を当てる」などはおまじない扱いされています。
必ずすべてのことが学位ある学者らによって証明される必要があるでしょうか? あなたの生きているうちに、そこまで学者らが有能さを奮ってくれるとも限らないのです。科学的な事象は、科学者が発見する前から存在しており、科学者は常に科学的な事実から遅れている存在です。「ニュートン以前はリンゴが木から落ちなかった」わけではありませんし、「栄養学の成立以前は人間は食事しなかった」わけでもないのです。
ではあなたの今日からをすべて明るく切り拓くため、しばらくの間お付き合いをお願い申し上げます。一気にお話ししますので、あなたも一気に読み進めてください。そしてその後、三度、四度と読み直しをされるほうがずっと効率的です。読み直しを含めてすべてを把握するのに一時間もかかりません。あなたがそのような学び方をしうるように、意図的なデザインをほどこして話を書き進めます。
人間の構造、理知−こころ−インスピレーション
まず、人間が生まれました。人間は胴体なしでは生まれてきません。「こころ=胴体」を持って生まれてきます。
子供が三歳になりました。七五三に連れていかれます。
人間は「こころだけで、その他はカラッポ」という状態では生きていけません。ですので、三歳の子供は七五三に連れていかれ、「この世界は何なのか」「この世界で生きるというのはどういうことなのか」という直観を儀式によって与えられます。こうして獲得される直観のことをインスピレーションといいます。
この三歳のころから、子供は「日本の子」になります。われわれは生まれたばかりのゼロ歳児を見て「日本人だなあ」とは感じません。たとえ日本人の子でも、ゼロ歳からアメリカで育てばアメリカ人になるでしょうから、ゼロ歳児の時点ではまだ何人でもありません。
ではいつから子供は「日本人」になるのでしょうか? それは、「日本式のインスピレーションを与えられてから」ということになります。ですので一般には七五三に初参して以降からは「日本人」になると言えます。もちろん七五三の他にも、「いただきます」「ごちそうさま」の文化(胴体の文化所作)もインスピレーションを与えますし、「むかーし、むかし、あるところに」という昔話の読み聞かせも三歳児の胴体にはインスピレーションを与えます。
インスピレーションは頭で理解するものではありませんので、たとえ後にどれだけ日本の文化を「理解」したとしても、それによって外国の方が「日本人」になるわけではないのです。国籍のこととはまた別のこととして。
「この世界で生きるというのはどういうことなのか」という、直観(直覚)が必要なのだとご理解ください。そして三歳児にそれが仕込まれるのは、三歳児の胴体がまだ柔弱で素直だからです。おおよそどの文化も、子供が小さいうちに、ヘンな世界観・生き方を刷り込まれるよりは、伝統ある文化に接続したインスピレーションの儀式を与えようとするものです。子供の胴体は柔弱で素直過ぎて、放っておくとわけのわからないインスピレーションを抱え込むことがあるということを、どの文化も知っています。
こうして原初に与えられたインスピレーションは重要なものですし、これが彼の人生を最後まで支えてくれれば何よりのことです。このことを指して、「三つ子の魂百まで」という諺(ことわざ)が言われています。
つまり「三つ子の魂百まで」というのは、正確に言うと、
「三歳児の素直で柔弱な胴体(こころ)が、まだ空っぽだったところに吸い上げたインスピレーションが、その後の彼の人生を最後まで支えてくれますように」
という意味だということです。
ただしこのことは現在のところ、「伝統的インスピレーションがあまりに生活の実際と違いすぎ、生活を直観と接続してくれない」という機能破綻を起こしています。ここ十数年でのテクノロジー生活の進化は急激すぎるものです。それにより、実生活とインスピレーションの乖離が起こり、つまり現代では「生きている意味がピンとこない」という人が増えていることになります。なお、そうして実生活とインスピレーションが隔離されるせいで、成人式等の儀式が各所で崩壊を起こし始めていることが、すでに報道によって知られています。
多くの場合、現代人は自分が生きるということおよびこの世界についてのインスピレーションの再獲得が必要です。
次の段階へ進みましょう。
子供が学校に通いはじめました。胴体は下層でインスピレーションに接続しており、上層では理知と接続しています。
子供は七五三でインスピレーションを得、学校で理知を獲得しました。これによって子供は一定の完成した人格を獲得します。図示された三角形の完成を確認してください。
子供が大きくなりました。「大人」です。人格のサイズが子供のころより大きく豊かになりました。
このようであれば何の問題もなく、よろこばしいことです。
ですが「大人になる」ということは、必ずしもそう単純な拡大に向かうだけということにはなりません。
こころが「傷つく」という体験が起こります。どのようなときに「傷つく」が起こるかは後で説明します。
こころとは「胴体の気の流れ」のことです。「傷つく」という現象は、胴体の流れが固まって失われるということによって起こります。ですので図示として、こころが「失われた」「欠損した」という表示になります。こころが「削り取られた」と見てもかまいません。
こころが削り取られたところが空洞化するので、こころはそれを「さびしい」と感じます。「胸にぽっかり穴が空いたよう」とも感じられます。胴体=こころなのですから、「胴体にぽっかり穴が空いたよう」という表現はまったくただしい描写と言えるでしょう。
人に冷たい声を向けられたとき、胴体のどこかが「ビクッ」と怯えるのを、誰でも体験したことがあると思います。その「ビクッ」という現象は、「流れていた気が刺し止められた」ということによって起こっています。だから「グサッときた」という言い方にもなります。電気の流れている回路にナイフが差し込まれて切断されたと思ってください。電流は「バチッ」となって回路は壊れます。胴体は「ビクッ」となります。以降、修復なしには回路の電流は回復しません。
回路に流れる電流が断たれたので、それ以降その回路は冷えていきます。このことを感触として「冷たい」と言います。いわゆる冷たい声や冷たい態度というのはこの「冷たい」という現象から生じています。
また、肩こりや冷え性は「こころ」と無関係ではないだろうということも、多くの人が経験から推察されていると思います。
大変重要な点です。胴体・こころが傷つき、欠損したところに、「キモチ」が取りつきます。図をご確認ください。
ここにはまったく驚くべきことがあります。あなたはぜひこのことを発見してください。
図のとおり、「胴体(こころ)」が傷ついたところに、「キモチ」が新しく取りついています。このとき、あなたの「キモチ」は、実はあなたのものではないのです。「キモチ」とは、どこからともなく現れてきて、あなたに取りつくだけのものです。
あなたの「本体」は、図示されているところの黄色のほうだということを確認してください。青い部分に関係ない、理知−こころ−インスピレーションの「接続」があなたの本体です。取りついた「キモチ」はあなたの本体ではありません。
「キモチ」が取りつくことで、むしろあなたの本体は失われています。
このことは、あなたに画期的な知見を与えると思います。断じて知っておいてください。あなたの「キモチ」は、「あなた」ではありません。あなたの強いキモチは、あなたの強いこころではないのです。あなたの「こころ」が失われたところに、あてがわれて取りつくだけのもの、それが「キモチ」です。「こころ」を失えば失うほど、「キモチ」は大きく幅を利かせていくと言ってよいでしょう。
このことが人間の営み・暮らしをややこしいものにしています。本稿は「こころ」を重視し、「キモチ」を疑うことを提案するものです。あなたの主権はどちらにあるべきでしょうか。あなたの本体は黄色側である以上、「与党」は「こころ」であるべきで、「キモチ」が政権を取るべきではありません。
こころが満たされたとき、もうキモチには用事がなくなるということが言えます。図をよくごらんください。
「キモチ」にエサをやらないでください。キモチを肥大させてどうなるでしょう。エサはあなたの「こころ」にあげなくてはいけません。
胴体・こころが傷つけられたとき、こころは欠損します。たとえばそこに「許せない」というキモチが取りつくことがあります。その「許せない」というキモチを膨らませるのがあなたの回復ではありません。ただあなたの「こころ」が回復して満ちていけば、「許せない」のキモチは横に押し出され、勝手に剥落します。そうしてこころでキモチを押し出したとき、いわゆる「乗り越えた」ということになります。こころは胴体であり「流れ」だということを確認し、キモチは「流れ」ではないということを合わせてご確認ください。あなたの本体である黄色部は胴体につながって「流れて」いますが、取りついた青色部はあなたの本体ではなく「流れて」はいません。(「流れ」についてはひとまず鵜呑みにしていてください)
胴体(こころ)は、理知とインスピレーションにつながっています。逆に言うと、胴体(こころ)につながっていないものは理知でもないしインスピレーションでもありません。理知とインスピレーションはあくまで胴体と接続することでのみ保持されるものです。あなたは、「単に知能が高いという人が、理知的な人とは限らない」ということを経験からよくご存じだと思います。胴体の流れにつながっていない知能は人を理知的にしません。
では、胴体(こころ)が欠損し、そこに「キモチ」が取りついたとき、その周辺で理知とインスピレーションはどのように変質していくでしょうか。
このときに、実体験の感触からも確認できるとおり、理知とインスピレーションは「キモチ化」するという形で失われていきます。キモチ化した理知は「思い込み」になり、キモチ化したインスピレーションは「こびりついたイメージ」になります。
先の図と比較することで「キモチ化」の現象をよく観察してください。元、「こころ」だった部分が青色の「キモチ」になりました。続いて、元そこに接続していた理知とインスピレーションも土台を失って青色に「キモチ化」していきます。
「こころ」は「胴体の流れ」です。よって、胴体につながっているものは、同時に「流れ」につながっていることになります。一方、「キモチ化」したそれは「流れ」につながっていません。「流れ」を失うことでそれはキモチ化するものです。
「流れ」を失ったものは、「居付く」という系に変質します。
「キモチ」および「キモチ化」について、「流れ」「居付く」は次のように説明されます。
・理知は流れている/「思い」は居付いている
・こころは流れている/「キモチ」は居付いている
・インスピレーションは流れている/「イメージ」は居付いている
このように覚えておいておおよそ間違いありません。理知およびインスピレーションは「キモチ化」によって失われていきます。
「キモチ化」によってどのようなことが起こるか。現実的な例で説明しましょう。
たとえばある女性がアルバイト先で、男性の店長に口説かれたとします。その口説き方は店長の「キモチ」からのアプローチであり、「こころ」からのアプローチではありませんでした。「こころ」は人間の本体同士として「つながる」ということがありますが、「キモチ」は人間の本体ではないので「つながる」という機能を持ちません。
人に「キモチ」を向けることは人の「こころ」を傷つけます。このことは意外に思われるかもしれませんが、言葉の印象に引きずられず、ここまでに学んだ「こころ」と「キモチ」の性質を正しく捉えることで理解してください。「キモチ」はただ胴体・こころの欠損に取りつくものでしかありませんでした。「キモチ」は人の本体ではありません。本体でないもので男性が女性を口説くと、女性の本体は傷つくに決まっているのです。口説こうとする本人はキモチで一杯ですが、胴体が向き合っていません。それはどう努力しても「こころない」口説き方になります。それによって、口説かれた女性の胴体(こころ)は知らずしらず傷ついていきます。
事実、多くの女性が、男性から「キモチ」で言い寄られ、「ゾッとした」という経験を持っているはずです。それは「キモチ」のアプローチが胴体をおびやかすということの実体験です。特に美貌に優れた女性などは、「キモチ」で言い寄られることがどれだけ傷つくことかを経験的によくご存じでしょう。流れていたものが刺し止められてしまい、そのとき思わず固まってしまうという体験をします。
この場合、アルバイトの女性も、「ゾッとした」のでした。
「○○ちゃん、かわいいし、肌きれいだよね。今度、一緒に食事に行かない?」
口説かれた女性はゾッとしました。胴体・こころが削り取られます。削り取られたところには「キモチ」が取りつきます。
「ちょっとカンベンしてほしい、本気でキモかった」(キモチ)
彼女に「キモチ」が取りつきました。取りついた「キモチ」は、彼女の理知およびインスピレーションを「キモチ化」していきます。理知は「思い込み」に変質し、インスピレーションは「イメージ」に変質します。
「やっぱり収入の低い男性にまともな人っていないわ」(ネガティブな思い込み)
「男の人ってほんと何考えてんの。ちょっと本気で怖くなってきたんだけど。もう将来の結婚のこととか考えると恐怖でしかないわ」(「怖い」イメージ)
冷静に考えれば、この女性は店長と個人的な仲にはならないでしょうし、この場合は店長が犯罪行為までは仕掛けてこない状態です。そして、たとえば修行中の職人さんなど、収入は低くてもたくましい生き方をしている人は世の中にたくさんいます。
ですからこの女性の思い込みは理知的ではありませんし、抱え込んだイメージも過剰な恐怖を帯びているものです。しかし彼女の内に、思い込みは居付きますし、イメージも居付きます。
冷静に考えれば、「アルバイト先の店長に口説かれた」というだけの小さなことを、彼女は抱え込む必要はまったくありませんでした。けれどもそう冷静に捉えられないぐらい、彼女は「ゾッとした」のです。強くゾッとして、胴体(こころ)が欠損したところ、強く忌避するキモチに取りつかれた。このとき彼女の「本体」は削り取られて小さくなったはずです。しかし彼女は自分に居付いた「キモチ」を、自分が獲得した「人生観」だと誤解していきます。
彼女は今、自分のキモチに強い確信があるのですが、本体の能力である理知、こころ、インスピレーションの能力が大きく削り取られたことには気が付きません。
それどころか、彼女は自分のキモチおよび人生観を強く確信しているので、むしろ「わたし強くなったわ」「大人になったわ」と誤解している場合が多くあります。
あなたはここで、ご自身の経験から次のことを考えてみてください。あなたもこれまでに色んな人に触れてこられたと思います。
・たくさんゾッとして、たくさん傷つけられてきたという人は、そのまま「強く」なり、そのまま「大人」になったでしょうか?
「○○ちゃんさあ、前進あるのみだよ!! それ以外に結局ないじゃん?」
「そっか、そうだよね。うん、まったくそのとおりだった! 目が覚めた感じがする。すごいラクになった、ありがとう!!」
人は「キモチ」で後押しされるということがあります。後押しはまさに「後押し」です。図をごらんください。
ネガティブなキモチに取りつかれていたところ、後ろからポジティブなキモチで押してもらう。すると、「こころ」は前に押し出され、ネガティブなキモチは剥落します。
このとき、キモチおよびこころが、後押しによってさしあたり「前向き」になったのは事実でしょう。なんであれ前方に押し出されたのは間違いありません。
けれども注目すべきことがあります。それは、後押しに使われたポジティブなキモチは、剥落したネガティブなキモチより、さらに大きく「こころ」を削り取っているということです。
これはなんと見落とされることでしょうか。
彼女はキモチの上で楽になり、キモチの上で色んなことに有利になります。ふさぎ込んでいたものが活発にもなれます。そうした「後押し」が必要不可欠な場面もあります。けれどもそれは、「こころ」が回復したわけではないので、本来的な解決ではありません。ネガティブなキモチを「乗り越えた」と言うべきではないでしょう。これはたいへん難しいところです。
ネガティブなキモチが剥落すると、「ラクになった」という感じがいかにもします。しかしポジティブなキモチであっても、それが「キモチ」である以上、それは胴体・こころの欠損に取りつくものですから、実はこころは楽になっていないのです。ポジティブなキモチも胴体・こころには負担になっています。このことは大変気づかれにくく、一般的には気づくことはほとんど不可能と思われるほどです。
そして当然、ポジティブなキモチも理知とインスピレーションの「キモチ化」を起こします。
「後押し」を受けた彼女は、生活の仕方が「活発」になりました。先輩に誘われてジョギングサークルに入ることになり、サークルで催されるイベントに参加してよくはしゃぎ、みんなで写真を撮るようになります。
「うちらチョー仲良くない?」(キモチ)
「誰だって本当は、みんな幸せになってほしいって、そう思っているもんなんだよね」(思い込み)
「こないだのあれ、超セレブ婚だったよね! なんか旦那さんイケメンだったし! やばい、本気で憧れるというか、ときめきが止まらないんだけど。あーいいなあ、あんなのされたらわたし一生ついていきます! まじです!」(憧れのイメージ・耽美的なイメージ)
彼女はこのころ、早寝早起きができるようになり、食事が減って「ダイエットに成功した」と思っています。絶好調、と彼女は思っているのですが、そうではありません。彼女はよく眠るということができなくなり、食事をおいしいと感じなくなっているのでした。本当には早寝早起きできているのではなく、節制ができているのでもありません。「胴体」が削られているので胴体レベルの失調が進行しています。
彼女は「自分に強く居付いたキモチ」を、「強い自分」と誤解しています。
彼女は難しい本を読む気を一切失っていきます。理知が大きく失われ始めているからです。また女性として男性に抱かれるというセックスの直観が失われ、セックスに興味が失くなります。それは女性としてこの世に生を享けたというインスピレーションが失われているからです。彼女はそのことも含めて、「最近すごくラクだわ」と感じています。自分に居付いたポジティブなキモチは、もう「動きそうにないわ」と感じられるからです。
理知が失われたぶん、「将来に役立つ知識」の獲得には意欲的になります。「資格とかあったほうが絶対有利でしょ」というポジティブな思い込みが強くあるからです。理知を侵食して、「うおおお」という熱意のキモチが強く居付いています。
インスピレーションが失われたぶん、耽美的なイメージに惹かれることが多くなります。男性アイドルに思いがけず熱狂したり、思いがけず「腐女子」ジャンルへ傾倒し始めたりすることがあります。インスピレーションを侵食して「キャー」という恍惚のキモチが強く居付いています。「鳥肌」と言われることもあります。
彼女はこうして、彼女本体の声によってではなく、彼女に居付いた「キモチ」の声に動かされて生きていくことになります。
ネガティブなキモチはポジティブなキモチで「後押し」され、上書きされます。またそのポジティブなキモチも、やがてどこかでネガティブなキモチで上書きされます。こうしてキモチの「ネガ・ポジの上書き合戦」を続けていくうち、元あった本体のほう、理知−こころ−インスピレーションはひどく細くなるまで削り取られていきます。
このときすでに、やせ細ってひん曲がってしまった頼りない黄色部分が「本体」なのだということを図に確認してください。頼りない本体を猛烈なキモチが取り巻いている状態です。
彼女は「仕事はゼッタイでしょ」というポジティブな思い込みを持ち、「愛で結婚とかゼッタイうそだわw」というネガティブな思い込みを持っています。この思い込みはすでに理知的でないので彼女の中でほとんど不動に居付いています。一般に「ブレないね」と言われます。図示、理知の機能がほとんど残されていないことに注目してください。彼女は強い意見が常にあり、理屈っぽいですが、理知的でないムードをまとっています。「ブレない彼女」は同時に「まるで理知的でない」のです。
「だってわたしがそう思うんだものww そんなのわたしの勝手www」
彼女は「チョー楽しい」というキモチを強く持ち、同時に気に入らないことは「マジありえない、チョーうざい」と否定的なキモチを強く持ちます。ある男性に「マジ大好き!!」と熱烈に恋をしたかと思えば、二か月もせず「うっざー!」と完全に嫌悪します。すべて居付いたキモチの支配下で、彼女本体の声は残されていません。
このころ、何をどうしても「こころが満たされない」ということに気づき始めています。
そのくせ、本人は表面上へっちゃらに見えます。それは、あまりにも「こころ」が残っていないため、「こころが満たされない」ということ自体をもうこころに感じ取れないからです。
それどころか、彼女は「キモチ」だけは強烈にあるため、周囲からは「あのコ強いよね」と誤解されています。また当人もその誤解に乗っかって、自分自身を誤解し続けます。
「三年後とか、うちらも三十歳でしょ。なんかもうマジ怖いんだけど」
「正直、今はアイドルの○○君だけが生きがいだわ。いやこれホントに」
「怖い」イメージが居付き、そのぶん、耽美的なイメージを「癒し」として、手放せないと感じるようになります。その「癒し」「生きがい」を手放したとたん、「怖い」イメージがやってくるので、それが恐ろしくてもう手放せません。
そうした強いキモチに取り込まれた中、彼女はすでに、自分が「生きる」ということを完全に見失っています。何をどう聞かされても、「ピンとこない」という感触になります。理知およびインスピレーションの機能そのものがすでにやせ細っているからです。
彼女はほとんど、ポジティブなキモチと願望、および耽美的なイメージに、毎日「しがみついて」いないと、自分自身が恐慌してしまうという状態になります。このとき本当に「癒し」は、大金をはたいてでも手放せないものになっています。彼女はイベントやパチンコ遊び、ソーシャルゲーム、あるいはアイドルのグッズなどに驚くほどお金を使っており、それはいつの間にか友人に話したとき「ええっ?」と驚かれる金額に膨らんでいます。
彼女は運動をして体力を鍛えているのですが、同時に、日々の寝食に猛烈なダルさを覚え始めています。食欲がなくなります(逆転して過食になる場合もあります)。カッとしやすくなる一方、集中力が極端に落ち、いろんな趣味や稽古に手を出しても、「身に付く」ということがなくなっていきます。「本体」が失われているので「身に付く」ということは起こりません。
お酒か睡眠薬を飲まないと眠れなくなったり、生理不順、めまい、身体の震え、ふらつき、悪寒、極端なイライラ、内心の異様な不快が起こったりし始めます。出かけようと予定していたところが、「どうしても起きられなかった」ということが出てきます。
多くの場合、「ストレスでしょ」と思われているものの真相がこれです。キモチに本体が削り取られ、本体の営為がほとんどできなくなっているのでした。「ストレスでしょ」「ストレス解消しなよ」で済むような単純な話では本当はありません。
本稿の推奨するところ、キモチがぎっしりという状態は本当に「豊か」なのかどうか、改めて図を見て確かめてみてください。
ポジティブなキモチとネガティブなキモチが左右から取りつき、政権の取り合いをしています。どちらも主権のある国民ではないのにです。どちらが与党になったとしても、あなたの本体の主権は回復しません。
これが「こころ」と「キモチ」の関係であり、正体です。
鍛えられた胴体と、軟弱化した胴体
「こころが傷つく」「キモチが取りつく」ということから、お話を続けてまいりました。もう少し踏み込んだ話にまいりましょう。
同じ「こころ」といっても鍛えられている/いないの差がそれぞれにあります。誰でもが同じ状況で傷つくとは限りません。鍛えられた胴体(鍛えられたこころ)は、生半可なことでは傷つかなくなります。
この場合、「傷つかない」というのは、
・胴体にある「気」の流れが失われない
ということになります。
たとえば細い水道のホースを想像してください。あなたはそれを足で踏んづけることで、そこにある「流れ」を刺し止めてしまうことができます。踏んづけられたホースは水圧によって「ムッと膨れる」でしょう。差し込んだ蛇口からドバッと外れて水を吹き出すこともあります。
そういったことは、故意でなくてもたまたま足元にあったホース踏んづけてしまうことで起こりますし、踏んづけるまでもなく、少し絡まっただけでもホースが折れ曲がって水はすぐ流れなくなります。誰でも水撒きなどをしたときに経験があるでしょう。弱いホースは使いづらいものですし、かといって硬いホースではそれは筒であって使い物になりません。
ではこのとき「流れ」について、それが細い水道のホースではなく、滔々と流れる大河だった場合はどうでしょうか。あなたがどれだけ大暴れでそれを踏んづけても、そこに流れているものを刺し止めることはできません。
こころが鍛えられているというのはそういう状態です。「流れ」が太くたくましく、雄大に、えんえんと滑らかになり、もはや「止めようがない」という状態になることです。
胴体(こころ)が鍛えられているというのは、カチカチに固めてあるということではありません。
細いホースをカチカチに固めたところでどうなるでしょう。その強度などたかがしれたものですし、
「ポキッと折れるから触らないで!」
という、実用に堪えないホースにしかなりません。
ホースがポキッと折れたり、蛇口からドバッと外れたりすると、水がぶちまけられて、「あーあ」という困ったトラブルになるのですが、このトラブルに多く関わることが、われわれの豊かな体験だということになるでしょうか。そういうことではないと思います。
豊かに水をまき、土壌に豊かに作物を実らせたかったのです。そのためにはホースはただ太く強靭で、かつしなやかに洗練されてあればよかった。
あなたの胴体にはこのホースが無数に通っています。おおよそ解剖学的に知られる神経細胞がそれです。神経細胞はホース状になっており、電気信号が「流れる」ことによって機能しています。人間の身体を動かすのも神経細胞であり、「熱い」「冷たい」などを感じさせるのも神経細胞です。
この無数に接続したホース構造と、そこに流れている「流れ」が、あなたの「こころ」です。そのターミナルセンターの第一は胸の中央、心臓付近にあります。だからこそ「心(こころ)」といいます。
「こころ」とは「胴体の流れ」であって、精神的なものではないのです。このことが一般には非常に理解されづらいところになります。一般的にはほとんど、「こころ」はイコール「精神のことでしょ」と思われています。本稿はそれが断じて誤りであることを指摘しています。
「こころ」とは「胴体の流れ」のことです。あなたがこれを鍛えるというとき、それは強いキモチを持つということではありませんし、強いメンタルを養うということでもありませんし、ましてトレーニングで筋力を強くするということでもありません。
もしこのことを、安直にわかりやすく、強いて言うなら、あなたは相撲取りで言うところの「横綱」を目指してください。相撲では昔から「心・技・体」ということが言われます。力士と呼ばれるにも関わらず、彼らのメソッドに「パワー」の視点はないのです。試合開始にゴングの合図はなく、「阿吽の呼吸」と言われるように、お互いに「気を合わせて」正面から立ち合うことが相撲の大前提になっています。あなたはこのことについて横綱になればいい。パワーを鍛えるのではないのです。自分に向かって来る誰とでも、「阿吽の呼吸で、気を合わせて正面から立ち合う」ということが強くできればいい。別に力比べをするわけではありませんが。
相撲取りは日々を胴体のぶつかり稽古で過ごしています。そこで鍛え抜かれていく胴体の強靭さはどれほどのものでしょうか。もちろんあなたは力士になるのではありません。けれどもあなたの胴体の中にある「流れ」、それ自体は横綱級であって構いません。
あなたが女性だった場合、あなたはひょっとすると、女性は非力でナヨナヨしているものだという思い込みがあるかもしれません。また、そうして非力でナヨナヨしているものが、女性としてうつくしいのだという、耽美的なイメージをこびりつかせているかもしれません。ですがそれは誤解です。本来あるべき女性の胴体は、ガッシリはしていませんがナヨナヨもしていません。
例として、ある女性イラストレーターの方のことをお話ししておきます。彼女はとても女の子らしい体つきをした、丸顔の若い女性でしたが、彼女の細い身体を無理に抱きすくめようとした男性のすべては、彼女が見事にその力の拘束からスルリと抜けてしまうということを体験させられました。男どもはそのたびに「あれっ?」と目を丸くさせられます。
彼女は何を習ったわけでもありませんが、ただそういう胴体の使い方ができる女性でした。情に厚く、おだやかでこころやさしく、よく笑い、よく感じる女性でした。彼女は逃げるわけではありませんし、抵抗するわけでもないのですが、それでも男どもは彼女を抑え込めないのです。それは彼女が全身を「流れ」で動かすことを独力で体得していたからです。流れているものは抑え込めません。彼女はむしろ、握力など筋力については平均よりずっと低い女性でした。
それでも、彼女は逃げないし抵抗しないし、しかも抑え込まれないというのだから横綱級です。心・技・体という考え方に、「パワー」の視点はありません。本稿も同様に、こころ・流れ・胴体という考え方に「パワー」の視点を持たないものです。
もしあなたの住居のとなりが相撲部屋だったとします。あなたはその隣人の相撲取りから、「嫌味を言われて傷つく」ということがあると思うでしょうか。あの胴体をもって、「嫌味」? それはいかにも想像しにくいことです。
こころは胴体にあります。鍛えられた胴体(こころ)の人間は人を傷つけません。逆に、鍛えられていない胴体の誰かが、どれだけ隣人と仲良くしたいというキモチと善意を持っても、それは「こころある」ものにならないため、必ず隣人を傷つけ疲れさせてしまうのでした。
現在、あなたの胴体(こころ)の鍛錬度はいかほどでしょうか。それはあなたの胴体がこれまでにどの程度ぶつかり稽古をしてきたかによります。人と人でもそうですし、仕事でも学問でも、あるいは芸術でも、「体当たりでやれ」ということが昔から言われています。この「体当たり」というのは単なる比喩表現ではありません。理知とインスピレーションは胴体に接続しているということを思い出してください。理知で学問に取り組み、インスピレーションで芸術に取り組もうとするとき、むしろ正しい取り組みならば体当たりにならざるをえないのです。正しい取り組みをしたとき、それは胴体にダラダラ汗を掻き、学問でも仕事でも芸術でも、人間の胴体(こころ)を鍛えるものになります。
現代は指先で操作する通信端末での娯楽とコミュニケートが急激に発展したため、胴体のぶつかり稽古とは逆様相の生活が営まれています。そのため、胴体(こころ)の「異常なほどの」軟弱化が多くの人に起こっています。
話を戻しましょう。
現代はキモチ主義の人が多くなったので、人から「キモチ」を向けられることが多くなります。むしろそれは善意的なことが多いぐらいです。
このとき、キモチを向けられる側の胴体が十分に鍛えられてあれば、胴体・こころが「傷つく」ということはいちいち起こりません。
ですが、現代は多くの人に胴体(こころ)の軟弱化が起こっています。
胴体が鍛えられていない場合、いちいち「傷つく」という欠損が大きく起こります。たとえ善意と好意のキモチであってもです。
「おれマジさ、お前のことアリだと思ってっから」(善意と好意のキモチ)
「あなた、いつもステキよねぇ〜」(善意と好意のキモチ)
「○○ちゃんさ、そういうとこ直したほうがいいよ」(善意と好意のキモチ)
胴体・こころは「流れているもの」ですが、キモチは居付いているものであり、「流れて」はいません。
「キモチ」(流れていない)を向けられたとき、鍛えられていない胴体はそのまま「流れが奪われる」という形で傷つきます。胴体が固まります。
そのことは、善意や好意のキモチを向けられて、「すごいうれしい」という形でさえ起こりうるので注意が必要です。
さらにはこのことは、「キモチ」を直接に向けなくても起こります。
すべては「キモチ」が「流れていないもの」だということに尽きます。流れていないものに付き合わされると、鍛えられていない胴体はやはり付き合って流れを失ってしまうのでした。
もっともわかりやすい例としてはこうです。たとえば、ミーハーな乙女心の女性がいたとして、彼女はある日母親に、
「ねえねえ、お母さん! 超イケメンの○○君に、あいさつしてもらえちゃった! どうしよう、超うれしい。超うれしくて、テスト前なのに、何も手に付かないんですけど!!」
という話をします。「手に付かない」ということは、胴体に流れる「気」が乱れているということの表れです。実際彼女の手足はこのときジタバタしていておかしくありません。
彼女の胴体(こころ)は鍛えられていないので、その「うれしい」というキモチに容易に居付かれたままになります。
キモチが居付いているので、彼女は翌日も色んな友人に、
「あのさあ、あのさあ! わたし全っ然テスト勉強してないんだけど! だって昨日○○君がさあ。ねえ聞いて!!」
と話しかける調子になります。顔面は紅潮して、手足はジタバタしています。
そのことは度が過ぎると、やはり友人に、
(はいはい、わかったわかった。つーかこのコ、いいかげんウザいわ。カンベンしてよ)
というキモチを引き起こすことになります。
彼女が友人に「キモチ」を向けたため、友人も胴体・こころを傷つけられ、やはりキモチを居付かせたということです。その友人はまた別の友人に、
「あのコさあ、いいコかもしんないけど、いいかげん本気でウザくない?」
とキモチで話を持ち掛けるようになります。
「あ、それわかるー」
とキモチが返ってきます。
これらのキモチのやりとりは胴体・こころのやりとりではありません。よってこれは、端末からのチャットのやりとりでも問題なく進められます。
こうして、鍛えられていない胴体同士の間柄では、互いの胴体・こころを削り取りあい、キモチを居付かせあってしまうということになります。
ここで、たとえば極端な話ですが、もしこうしたやりとりが為されている会話のテーブルに、突如プロレスラーが同席したらどうでしょうか。
「○○君がさあ」「あのコ本気でうざくない?」「わかるー」とやりとりをしているテーブルに、突如巨大な胴体のプロレスラーがドスンと同席し、
「何の話してるの?」
とかすれた声で言います。強力な胴体の存在感があります。
その途端、さっきまで浮き立っていたキモチの嵐が、とたんにシュンと終息してしまうのが想像できると思います。それはプロレスラーの胴体が鍛えられて強いからです。胴体レベルの直感で、目の前のプロレスラーには「こんなキモチの話はまるで通じない」ということがわかります。それで瞬間的にキモチの嵐がシュンと終息するのでした。本来学校の先生などは鍛えられた胴体の者として教壇の上からこの役割を果たしています。
鍛えられていない胴体と鍛えられている胴体では、そういう違いがあります。端的に言うと、
・鍛えられていない胴体は必ず「キモチ」の話になり
・鍛えられた胴体は決して「キモチ」の話にならない
という性質があります。
言い換えてみれば、
・あなたは「胴体の流れ」を使うことで、周囲にはびこる「キモチ」の話を打ち止めにできる
ということです。
このことは、鍛錬すると、「今からやってみせます」と宣言して実演できるほど、明瞭な技術になります。
実演された側は、「あれっ?」と目を丸くさせられます。
先に話した、あるイラストレーターの女性は、男どもの力の拘束からスルリと抜けることで、「あれっ?」と男どもの目を丸くさせました。
そのとき、男どもが、彼女を無理に抱きすくめようとしていたキモチを、打ち止めにされているということに注目してください。スルリと抜けられて「あれっ?」となってしまったものが、そのまま再び襲い掛かるということはさすがに無理です。男どもが彼女を「抱きしめよう!」と燃え立たせたキモチは、彼女の「胴体の流れ」の実演によって打ち止めにされてしまいました。
それが我が身でできるというのが、胴体(こころ)が鍛えられてあるということです。
話を進めましょう。
人から向けられるものとして、必ずしも「キモチ」だけがあるわけではありません。「キモチ化」した、ネガティブな考え方や、ネガティブなイメージの話を、ただ聞かされたということもあるでしょう。そのことはしばしば「愚痴を聞かされてさあ」という体験に起こっています。
ネガティブな考え方やネガティブなイメージを、「さんざん聞かされた」ことによって、自分のものでないネガティブな考えやイメージが居付くようになります。
このことは、悪趣味なマンガを読むことや、悪趣味なテレビ番組を視聴することでも起こります。
一部のメディアコンテンツにR−18の指定がされることがあるのは、「まだ鍛えられていない胴体にこれらの考え方やイメージを居付かせるのは危険だ」ということが社会的に知られているからです。
胴体が鍛えられていない場合、居付いた考え方やイメージが、胴体(こころ)を侵食し、「むしばんでいく」ということが起こります。
このことは、結果的に「胴体(こころ)が傷つけられる」ということには変わりないのですが、見落としやすい特徴があります。
それは、直接こころを傷つけられたときと違い、「グサッとくる」という感触がないことです。
この現象は、図示されたとおり、「後になってじわじわくる」ものです。だから「むしばまれる」という言い方が当てはまります。症状が現れるまでに時間差がありますので、しばしば、「何によって不安・不快になっているのかわからない」「心当たりがない」ということがあります。
このとき注目すべきは、「胴体がむしばまれている」ことにより、じわじわと、
・自分の挙動がコントロールできない
ということが起こってくるということです。
このようなときは、特に交通事故などに注意しなくてはなりません。
「胴体がむしばまれる」とき、その逸脱挙動がどのように起こるかはまったくケースバイケースですが、多くあるのは「ひきつり」と「ふらつき」です。
そのことはじわじわやってきて、「いつの間にか」という形で起こるのですが、典型例としてあるのは以下のとおりです。
・自分でも思ってもみない大きく引きつった声が出てしまう。声の音量が調節できない
・不用意で失礼な発言をする。「選択ミスばかりする」という自覚はあるのに収まらない
・顔の表情が勝手にひきつる。目の周りの力がどうしても抜けない
・運ぼうとしたものや、テーブルの上のものを床に落としてしまう
・手荷物やサイフ、チケットやアクセサリーなどを紛失する
・歩いていて人にぶつかりそうになる
・十分な睡眠時間を取ったはずが、起きられない、あるいは信じられないような二度寝をする
・とんでもないところで気が抜ける
・とんでもないところで笑う
・いつの間にこうなったのか、「さあ」と心当たりがない
このとき多くは、自分の逸脱挙動に「邪悪」な感じがつきまとうという特徴があります。ネガティブな考えとイメージにこころが侵食されてそれが挙動になっているのだから当然かもしれません。自分で出した声の黒さ、邪悪な気配に、自分でびっくりするということがしばしばあります。えげつない言葉が自分の口から勝手に出てきて、やはり自分でびっくりするということがあります。
「胴体がむしばまれる」こと、および逸脱挙動が起こるのは、もちろんポジティブなキモチ化においても同じです。その逸脱挙動はしばしば傍目に「洗脳された」というふうに見えます。
・急にニコニコ笑いだすが、何に笑っているのか本人にも不明
・脈絡もなく感動的な「セリフ」を言い出す
・誰とでも突然性交渉しようとしだす
・友人の数だけ増やして、誰が誰だかは忘れてしまう
・転倒する。落としたものを拾わなくなる
・仕事のことを考えて、興奮して眠れなくなる
どのような逸脱挙動が表れるかはケースバイケースですが、とにかく胴体・こころが侵食されることによって、自分の挙動がコントロールできなくなるということが起こるのは同じです。
やや蛇足ですが、「胴体がむしばまれる」という現象は、すでに本体をほとんど失った人については起こりません。図をご確認ください。「むしばまれるものがすでに残っていない」場合は、むしばみによる逸脱挙動も起こってきません。
ですので、たとえばコップ一つを床に落としたときでも、
・逸脱挙動の場合、「いつもの○○さんと違う挙動」に見える
・元々キモチに支配されている場合、「いつも通りの○○さんの挙動」に見える
という違いがあります。
逸脱挙動の場合、今胴体がむしばまれているという緊急性がありますが、元々キモチに支配されているそれの場合、「いつも通り」のことなのでそのときに緊急性はありません(慢性的という意味です)。
この「むしばまれる」および「逸脱挙動」は、むしろまだ胴体・こころを柔弱なまま残しているからこそ起こるとも言えます。よってこの逸脱挙動、「いつもの○○さんと違う」という現象は、若い人に現れることがほとんどです。
さて、鍛えられた胴体と、鍛えられていない(軟弱化した)胴体についてお話ししました。胴体が鍛えられていないと、いくらでも傷つき、いくらでもむしばまれるということが起こってしまいます。
あなたは今後、ご自身の胴体(こころ)を鍛えていくのに、以下のことを心がけるとよいでしょう。
・人、および物事と「胴体」を向き合わせる。「体当たり」
・「キモチ」を引っ張り出さない、「キモチ」の打ち止めを目指す
・ひきつってはならない
・ふらついてはならない
・自分からどんどん(胴体で)ぶつかっていく
あなたは人と話すとき、両肩がピシッと相手に照準を合わせているでしょうか。胸は下がっていませんか。みぞおちは落ち込んでいませんか。不必要に笑顔になり、「キモチ」でごまかしをしていませんか。
人と話すとき、勉強をするとき、仕事をするとき、本当にひきつっていませんか、ふらついていませんか。人の話を聞くのに、ふらふらと胴体を揺らしていたりしませんか。自分が話すとき、引きつって両手を振りながら話していたり、首を縦に振りながら話していたりしていませんか。じっくり観察するとわかることですが、特に人と話すとき、余計な挙動なしに人と話せている人は世の中に極めて少数です。軽微な逸脱挙動にワンサカというほどむしばまれているのがふつうです。
そして何より、人へ、物事へ、ボサーッと受け身になっていませんか。胴体を鍛えるのは必ず胴体のぶつかり稽古です。自分から行くしかなく、受け身の稽古などというものは存在しません。あなたが受け身と思っているそれは、実は受け身ではなく「居付き」です。そのときあなたは必ず一定の自分のキモチと付き合っています。そうしてキモチにエサをやり続けると、胴体(こころ)はますます軟弱化してしまうでしょう。
あなたの過ごす時間のうち、あなたが胴体を所有していない時間はゼロです。ですから、あなたは生きるすべての時間を、自分の胴体(こころ)を鍛えることにあてがえます。
今このときに、背筋を伸ばすのも悪くありません。ですが本質的なことは、胴体の気がまっすぐに流れていることです。背筋が伸びるのは結果的なことでしかない。
筋力で背筋を伸ばさないでください。両肩を照準にしてまっすぐ向き合ってください。胴体で向き合えば胴体は勝手にまっすぐになります。胴体に気が滔々と「流れて」さえいれば、それがS字であってもよいですし、どのような形であってもかまわないと思います。それはそのときの「こころ」の形です。
本来あるべき「こころ」と「こころ」
ここまで、こころが「傷つく」ということ、およびそこに「キモチ」が取りつくということをお話してきました。そして、その「傷つく」とか「むしばまれる」とかいうことは、胴体(こころ)が鍛えられていないから好き放題に起こってしまうのだというお話でした。胴体が鍛えられておらず、かつ、誰もが「キモチ」を人に向けてくるものだから、人は知らずしらず傷つけあっている。どうにかしたいと思っても、鍛えられていない胴体は必ず「キモチ」の話をしてしまうのでした。
そういうお話だったのですが、では本来、人が人に「キモチ」を向けるのではなく、「こころ」を向けるようであれば、そこには何が起こるのでしょうか。そのことについてお話しします。
胴体(こころ)には「つながる」という能力があります。
人と人とが、いわゆる「向き合う」という状態になり、「こころを開く」ということが起こります。「一心同体」とも言い、図示されているとおりそこがつながるのならば確かに「一心」であり「同体」ということになります。「こころが通い合っている」という状態です。すべて「胴体」に起こることだということを忘れずにいてください。
「こころがつながり」「通い合う」ということ。このことは「相思相愛」ではありませんし、「相互理解」でもありません。相思相愛や相互理解では、肝心なところの「胴体」が抜け落ちています。ここで示されているのはまったく「胴体」の現象であり、精神的な現象ではありません。
実際にはどうやら、一方の胴体の「気」の流れが、なぜか相手の胴体の「気」の流れにも映りこむようです。相互の胴体の「気」の流れが、相互の胴体に映りこみあいます。なぜなのかはわかりません。この現象について厳密な科学測定が為されたという話は未だ聞いたことがありません。
けれども、これほど体験的に知られていることを、認めないというのは逆にひどく非科学的です。実際のことをお話ししましょう。胴体が胴体に正しく向き合うと、胴体には向き合う胴体の「気の流れ」が映りこみます。それによって、相手の「こころ」がわかるのです。胸の痛みなら胸の痛み、腹立ちなら腹立ち、食い気なら食い気、色気なら色気が、理解するというのではなく、自分の胴体(こころ)に映りこむことで、直接感じ取られます。
このことを、「こころがわかる」と言います。
あなたは友人に、「おう!」とあいさつされたとき、どのように応えるべきでしょうか。同じように「おう!」とあいさつするべきに決まっています。ですがそれは概念上の理解でしかない。「こころがわかる」というのとは違います。
相手の胴体は挙動しています。胴体には「気」が流れていて、その流れによって人の胴体は挙動しています。
その胴体の気の流れが、胴体から声を発させて、「おう!」となっています。「おう!」の出現は表面的なことでしかありません。あいさつで呼応しあうのは胴体の「気」の流れです。文言ではありませんし、発声のテクニックでもありません。
ここでいわば、あいさつ一つをとっても、「完璧なあいさつ」というものがあることになります。胴体が挙動し、「おう!」という声が掛けられました。何であれば、その声が届くよりも先に、胴体にはその挙動の「気」の流れが映りこんでいます。そして映りこんだ「気」の流れのまま「おう!」と応えます。これが完璧なあいさつです。このときあいさつの「おう!」の声は、どう応えるか・どう向くか・どういう声か・どういうタイミングか・どういう仕草かという全てについて、自分の意識からは生み出されていません。相手の胴体から直接「気」の流入があり、その流入した「気」のまま挙動を返しているので、自分の意識やキモチが介入するプロセスがないのです。
胴体が「つながる」というのはそういう状態です。
さて、ふたたび先ほどの図をごらんください。胴体はその能力によって、他の胴体と「つながる」ということができます。「こころを開く」ということがおこり、つながることで、お互いのこころは大きく相手側へ引き出されました。
この先には次のようなことが起こります。
胴体(こころ)は、その上層で理知に、その下層でインスピレーションに接続しています。ですから、こころが大きく引き出されたところに、新しい理知と新しいインスピレーションを獲得します。
人格の三角形が拡大しました。これでまたひとつ「大きくなった」「成長した」「大人になった」ということができます。
これまでを幸福に生きてこられた方は、思い出の中に「あの人」と呼ぶべき人の思い出があると思います。そして「あの人が教えてくれたこと」や、「あの人がわたしにくれたもの」までを含めて、あなたはそれを「思い出」とし、胸の内にそっとしまってあると思います。思い出を頭の中に陳列してあるという人はないでしょう。
「日本の初代総理大臣は、伊藤博文だね」。これは頭の中に入っている記憶です。ですが伊藤博文を思い出にしている人は現在すでにいらっしゃらないでしょう。胸にしまっておけるのは胸に受け取ったものだけです。
それはともかくして、本来の「こころ」、人と人とが互いに胴体(こころ)を向け合うということは、図示されたとおりのことになります。こころが大きく引き出されます。引き出されたこころに、新しい理知とインスピレーションも獲得します。そうして成長し、「あの人とこころを通い合わせて過ごした」という時間を胸の思い出に残します。
ただそれだけのことです。
また当然ながら、「こころ」がそうして「つながる」というのは、一対一のこととはかぎりません。五十人がいたら五十人とも、「胴体を揃える」ということによって、こころがひとつにつながるということがあります。そこに得られる強力な理知、強力なインスピレーションは、人間を大きく成長させ、かつ、かけがえのない時間として、かけがえのない思い出を人に与えます。
五十個の三角形を並べて、その「こころ」が一つにつながるのだとしたら、その図示はきっと壮観でしょう。ここであなた自身の、青春の思い出をひとつ思い出してみてください。あなたが豊かな青春を過ごされた場合、あなたの思い出はきっと、「胴体が並んでいた」という映像で残っていると思います。あなたの胸はあなたの知らないところでそのような営みをしているのです。あなたの「こころ」は、そうして胴体(こころ)がつながって並んでいることを大切に受け止めていたのでした。
メインのお話はこれが最後になります。
現代はテクノロジーの進化により、生活の様相を大きく変えています。ほんの二十年前まで、たとえばクラスメートに週末の予定を聞くのでさえ、わざわざ胴体を目の前に持っていって尋ねるしかありませんでした。
「あのさ」
「なに」
「土曜日って何してる?」
「今週の?」
「うん」
「うーんとね。うん。ヒマだよ」
「そうか」
「なあに?」
「えーっと……」
「なあに。わたしたった今、土曜日に美容院いくのあきらめたよ」
(心臓が心臓に、「おいでおいで」と言う)
二十年前、勇敢な人たちは、胴体の距離を近くしていました。これは単純な空間的距離です。からかわれると、すぐにお返しに肩を叩ける距離に胴体がありました。そのときは、胴体(こころ)が「つながる」ということに、わざわざ特別なレクチャーは要らなかったのです。勇敢な人にとっては常に、レクチャーなどよりはるかに身近に誰かの胴体がありましたから。
初対面でさえ勇敢な人はそういう距離でいました。
それだけに、二十年前は、「初対面が苦手なんです」ということを真剣な悩みにしていた人も多かったのです。現在では想像のつかないことですが……
現代は残念ながら、人と人で、すぐに肩を叩ける距離に胴体は向き合っていません。
ですがこれから先はわかりませんし、これから先のあなたに限ってはわからないでしょう。
図示されたものをご覧ください。現代は「キモチ」を人に向けることが多くなっています。自身が人から「キモチ」を向けられることも多いです。そのキモチのほとんどは善意や好意ですので、それを否定してかかるのはいかにも心苦しいでしょうし、そして少なくとも、ネガティブなキモチを向けられることについては、必要上のこととして対応策を持たねばなりません。この「キモチ」の攻勢について、「胴体(こころ)」はどうすればよいでしょうか。
人間は胴体がなくなったわけではありません。鍛えられた胴体(こころ)は、なお誠実な向き合い方をするならば、図示のとおり、キモチを飛び越えてこころのほうにつながるということが可能です。そのことが正しいのだ、とは誰も言えませんが、ただ人間の胴体(こころ)には、そのようなことが可能なのだとだけ、確信をこめて申し上げておきます。
***
以上、人間の構造についてのタネアカシはいかがだったでしょうか。人間のこころやキモチについて、難しい話をしたような錯覚があります。けれども本当はごくごく単純なお話をしかしていません。そのことはあなたがこれから、さかのぼって三角形の図示を眺めていくだけで了解されます。突き詰めていえば、あなたは「こころでつながる」ということと「キモチでこじれる」ということの厳密な区別がしたかっただけですから、これを難しい概論にする必要はあなたにはありません。すでに大半、あなた自身の手で三角形の図と性質を書き示せるはずです。
あなたは今、「こころ」の正体についての確実な知識を持っており、かつ、理知およびインスピレーションという最重要の能力についても手に取って触れるような手ごたえを感じています。忘れてはいけないのは「流れ」だけです。「流れ」、こいつだけはどうしても獲得しづらく、現代の生活においてはどうしても忘れがちですから、なんとか鵜呑みにだけでもして、忘れないでいてください。
あなたの胴体(こころ)そのものから、理知とインスピレーションへ、豊かな「流れ」の接続がありますように。またあなたとあなたの友人の間へ、やはり豊かな「流れ」の接続がありますように。
初めにお話しした、ユング等の深層心理学との重ね合わせについてですが、このように言えます。確かに、ここに示された人間の構造はユングの示したそれに似通っていますが、旧来の臨床心理学は、現代のような通信テクノロジー生活を前提にしていません。フロイトもユングも19世紀に生まれた人で、いくらなんでも時代が違いすぎます。テレビもなければネットもチャットもアイドルもないかつての時代と現代とでは「こころ」の踏み荒され方がずいぶん異なります。
そして何より、旧来の心理学は、精神を精神として捉えるのみで、そこに「胴体」の関わりを組み込んではいません。まして「流れ」などという発想はない。アフリカや東洋のやり方に関心が高かったユングでさえ、その捉え方の中に「流れ」などという事象への注目はありませんでした。
多くの臨床心理学の技法は次のように語ります。
「心理的に受け止めきれなかった体験は、無意識下にひとまず抑圧される。後に、自我が十分に力をつけてから、抑圧は再び意識化され、統合を果たすのだ」
この説はすでに十分な歴史の検証を受けて、間違いのないものと認められています。けれども一方で、その肝心なところ、「十分に力をつけてから」という部分について、具体的なことはお茶を濁されています。十分に力をつけるというのはどういうことでしょう? そして、十分に力をつけられなかった人はどうなるのでしょうか?
ここにおいて、その「十分に力をつける」ということが、「胴体=こころを鍛えることだ」と指摘されたとして、その指摘はわれわれの直感に不自然なものとは感じられません。
あえて申し上げるなら、このような見方があります。たとえば西洋の宗教における神父や牧師という存在について、彼らが「修行」を経た存在だというイメージをわれわれは持っていません。一方、東洋の宗教においては、それが神道であれ仏教であれ、その教義は「修行」を前提としているということをわれわれは漠然と知っています。あるいは空手であれ柔道であれ、さらには板前であれ落語家であれヨガであれ、われわれは「修行」という土台をいつの間にか前提に知っています。それを職業とする場合、「修業」という捉え方もありますが、それでもそれらのすべては「修行」と呼んで差し支えないことを、われわれは自らの言語感覚の中で感じ取っています。
「修行」とは何のことを指すでしょうか。それは単なるトレーニングとは違うということをわれわれは知っています。また単なるお勉強とも違うということを知っています。たとえば禅寺でお坊さんがバーベルを担いでスクワット運動をしていたとして、それを「修行しているな」とわれわれは見ません。あるいはヘッドホンで教材を聴きながら、寝転んで仏教用語を暗記していたとして、それを「修行しているな」とはわれわれは見ません。「修行」とはもっと別のものです。
われわれはすでに、われわれの文化の中で、「修行」がどのようなものかを知っています。それはこうです。
・何かしらの形で、胴体を厳しくまっすぐに並べ、胴体を何かに向かわせ続けている、胴体を何かに晒し続けている
そういう形で「修行」は営まれるものだということをわれわれは知っています。たとえば真冬に冷え込む禅寺で、僧侶たちが作務衣のまま壁に向かってただ静かに座り続けるのが座禅行です。そうして「行を修める」ということをしています。それが滝行であろうが勤行であろうが「行」であるには違いありません。
そして座禅行をしている最中、いわゆる「雑念」が起こったと看取された場合は、導師によってどのような仕打ちをされるのか。イメージとしてご存知だと思います。警策と呼ばれる平たい棒で、肩をバシーンと強く打たれるのでした。
これはつまり、「キモチに囚われた者の胴体を打ち」、「キモチを追い出し、胴体へ焦点を取り戻させている」と言えます。肩を打たれればそれだけ痛く、そのときはキモチどころではなくなりますから。ただちに胴体の「行」に戻ることができる。座禅行と呼ばれる古来からのメソッドが、神秘主義に耽らず正当な胴体のサイエンスを継承しているのだと言えるでしょう。
ありとあらゆる「修行」の中で、「キモチを大事にしよう!」などという修行は存在しません。われわれは誰でも、修行というときそれがいわゆる「無心」を目指してのものだということをすでに文化から知っています。無心というのは「こころが無い」という意味ではなく「無」のこころという意味です。このメソッドは西洋のスポーツ思想が信奉する「強いメンタル」の発想とは基本的に逆です。
われわれは今、たいていの場合、「無心」と「強いメンタル」の真ん中でブラブラ迷わされているように思います。
ちょうど現在、2016年の2月、かつては伝説的なヒーローであった元野球選手が、覚醒剤に耽溺して凋落したという悲しいニュースが報じられています。われわれはこの「現代」、スポーツメディアの見せつけるファイティング・スピリッツの栄華を、引き続き讃嘆し続けると共に、その背後にありうる危うさ、つまり「キモチというのはどうなのか?」ということについて、改めて警戒を深くせねばなりません。「キモチというのはどうなのか?」。どうやら少なくとも、「キモチとこころは違う」ということは確実なことのようですから。
いわゆる構造主義的に考えれば、きっと西洋でフロイトおよびユングが理知によって深層心理学を開拓するより以前から、東洋はインスピレーションによって人間の「こころ」のことを深く追究してきました。そして発想の違いとして、西洋は「こころ」についての「概論」を発見して継承してきたのに対し、東洋は「こころ」についての「方法」を発見して継承してきたのです。「こころ」についての概論は西洋に一日の長があるとすれば、「こころ」についての方法は東洋に一日の長があるでしょう。よってここでは、ここまでしてきたお話を改めてフロイトおよびユングの唱えた概論に当てはめなおすことに利益を見出しません。すべてのことは結局、「胴体を鍛えろ」という一点への示唆に行き着くだけでしょう。
なんであればわれわれは、漫画「ドラゴンボール」の主人公である孫悟空についてさえ、彼が「修行」を経てきてこその戦士なのだということを知っています。孫悟空は「かめはめ波」という強い「気」の技を使いますが、われわれは彼のその技が、技ではあっても「魔法ではない」ということを知っています。修行を経て強く鍛えられた孫悟空の胴体から、「気」のエネルギーが発射されておかしくないということをわれわれはマンガ上で直観的に認めています。またその漫画は世界中に広く知れ渡って人気作品にもなりうるのですから、世界中の誰だって、胴体を持っている人間は「かめはめ波」の成り立ちを直観に納得できるということでしょう。たとえフィクションの漫画であっても、修行で胴体を鍛えて強い「気」を操れるようになるという点は、荒唐無稽な作り話ではないのです。
「気」は、かめはめ波のような「力」を持った砲弾としては飛び出してくれませんが、「能」となって自分の胴体を流れ、かつ相手の胴体にまで届いてくれるというのは事実です。この部分は聞き流してくださってけっこうです。「能力」という言い方を誰でもします。「能力」というのは「能と力」という意味であって、「能」と「力」はそれぞれ別の事象を指しています。「能力」に引き当てて「無能」「無力」という言い方をしますが、ほとんどの人は、自分の「無力」より自分の「無能」を嘆いているでしょう。そこに「力」を鍛えるという発想は筋道として間違いです。「能」が拓かれねばならない。「気」が流れて行きわたっていることを「気が利いている」および「能がある」と言います。
われわれは想像力のうちに、孫悟空と握手したときの(気の利いた)感触を手のひらに受け取ることができますし、同時に、その握手をする孫悟空が現代のアイドル文化の空間には馴染まないだろうということも「こころ」のどこかで知っています。これらのことをわれわれの「こころ」が知っているからには、われわれは自分の「こころ」をどうすればいいか、本当は感覚的に知っているということです。
「胴体(こころ)を鍛える」ということは、実はわれわれにとって、本当はすでによく知っている身近なことではないでしょうか?
以上で今回の話、「人間の構造」はおしまいです。
あなたの胴体には「何か」が流れています。生きているのですから当然です。あなたの胴体は、上層で理知に接続し、下層でインスピレーションに接続しています。そして理知にせよインスピレーションにせよ、事象の系が胴体に接続した「流れ」であってこそ、それは本当にあなたのものであり、あなたそのものになります。あなたがあなたの本体でない取りつきモノに、無能な時間を過ごすことのないように祈ります。
ありがとうございました。
(以下にいくつかの付録が続きます。大きく理解を広げ、また強化できます。興味の続く方はどうぞごらんください)
付録1、「才人」について
理知およびインスピレーションについて、偏った「才能」を持つ人がまれにあります。おおよそ、理知の才人はカリスマ経営者などになることが多く、インスピレーションの才人はクリエイターや表現者になることが多いです。そういう人はたいてい若いうちからどこか人と違う才気を見せています。
ただし、よく知られているように、彼ら「才人」のすべてが最後までそのことをうまく為し遂げられるとは限りません。元は英雄的なカリスマ経営者だったものが、後には多くの人に呪われる人になってしまったり、元は天衣無縫の感性であったものが、後には精神に失調をきたしてしまったりというようなことが、決して珍しくないことを誰もがご存知のはずです。
なぜそのような悲しい結末が数多く起こるのでしょうか。またそのことを未然に防ぐ対策はないのでしょうか。そのことについて以下の図示で説明することができます。
たとえばインスピレーションの才人は下図のようになります。
インスピレーションの才人の場合、そもそもの「こころ」が下層の側(インスピレーションに接続する側)に偏っています。
この偏りは誰にでも少々はあるものですが、いわゆる才人という場合、この偏りが極端な場合が多いです。
この場合、図示にある通り、
・与えられる理知はうまく胴体につながらない
・与えられるインスピレーションは胴体に物足りない
ということになります。
人格の三角形が完成せず、隙間が多くあってグラグラです。
よほど環境に恵まれないかぎり、この隙間にはまず「流れていないもの」が入り込んでしまいます。
下図に進んでください。
「理知」が、あるにはあるのですが、土台の「こころ」と隙間があるので、ずっと「ピンとこない」という感触のままです。勉強をしたり仕事をしたり、人並み以上に頑張ろうとするのですが、頑張りながらどこかでやはり「ピンとこない」と感じながらそれを続けています。
一方「インスピレーション」のほうは、土台の「こころ」が大きくあるため、常にインスピレーションが「足りない」(さびしい)と感じます。「こころ」はこの「足りない」ぶんを補おうと求め、わざわざ「流れていないもの」まで引き受けてしまいます。
その引き受けてしまったものが「悪夢」となって、「こころ」をむしばみ始めることがあります。インスピレーションの才人によくあることです。「こころ」がむしばまれると胴体に逸脱挙動が起こるのですが、この逸脱挙動は度を越した悪夢から引き起こされているので、まれに悪霊に取りつかれたかのような挙動になります。
こうして、「こころ」がインスピレーションの側へ大きく傾いている場合、一般に、「見なくていいものを見てしまい」、「取りつかれなくていいものに取りつかれてしまう」ということが起こりがちになります。
とはいえ、そんなものはオカルトに過ぎないのですから、バッサリ切り捨ててしまえばいいのですが、それをバッサリ切り捨てるための「理知」が、当人にとっては「ピンとこない」ままですから厄介です。
こうしてインスピレーションの才人は、多くの場合、人格の維持に不安を抱えて生きる時間が多くなります。
この場合も結局、必要なことは胴体(こころ)を鍛えることですが、まず危急に必要なことといえば、「わざわざ自分から悪夢を引き受けにいかないこと」です。インスピレーションの才人はどこかでいつもインスピレーションが「足りない」と感じていますから、知らずしらず自分から悪夢へ接近していることがあります。注意が必要です。
インスピレーションの才人は、インスピレーションの夢を多く見、またその夢を深く見ます。そのインスピレーションの才能によって、人より何倍もの「かけがえのない思い出」を持つことができます。これはつまり、うつくしい夢を膨大に得られると共に、膨大な悪夢にも取りつかれうるリスクを持っているということです。
こういう人にとっては当然、
・自分の「こころ」を理知のほうへ鍛えてくれる人
・「足りない」と感じられるインスピレーションを正しく(流れてうつくしく)与えてくれる人
の存在が重要になります。
こういう人にとって、そういった非凡な誰かとの出会いは必須のようなもので、その希求は平凡な人が非凡な人へ向ける好奇心とはまったく次元が異なります。七五三や修学旅行だけではとても済まないのです。そのことは、理知の才人の場合、就学範囲を超えて学校の先生を質問攻めにしてしまうという形で現れたりします。そちらはそちらで、やはり教科書とNHK教育だけではとても済まないのです。
さて、環境にもよりますが、インスピレーションの才人は、その「足りない」と求めてしまう部分に、強力な悪夢を抱えてしまうことがあります。その「悪夢」および、そこから起こる「悪霊のような逸脱挙動」が、ついに限界に近づくと(人格の損傷リスクが決定的になると)、やがて「こころ」は自然にその突出部をパージ(切り捨て)することを決定します。図をご参照ください。
こうして突出部をパージすれば、人格の安定は回復しますが、せっかくの才能と可能性を切り捨てたことにもなりますから、それはいささか残念なことです。
本来最も望ましいのは、才人はその才能にふさわしく、堂々と天才になってしまうことです。新しく完成した雄大な三角形をご覧ください。
ただしこのことのためには、人並み外れた鍛錬が必要になります。
図をごらんください。インスピレーションの才人の場合、むしろ「こころ」の上層、理知の側を鍛錬する必要があります。こうして不得意分野の側を人一倍鍛えなくてはならないということに大変な負担があるのでした。もともとの自分の「こころ」の形に逆らっての鍛錬ですから、これはとてもしんどいことになります。
続いてさらに、「こころ」の上層に、人並み外れた理知を獲得し、「こころ」の下層に、人並み外れたインスピレーションを獲得せねばなりません。図をごらんいただく通り、すでに大きさが人並み外れているので、その獲得へのコストも当然人並み以上にならざるを得ません。
それでも、この三角形をついに完成させることができたならば、それは通常の「大人」より群を抜いて大きいので、その群を抜いてはみ出した部分が「天才」と呼ばれます。
このようにして、つまり才人というのは、可能性と同等のリスクを背負って生きていることになります。これは理知の才人の場合も同様です。
こうして才人の行く先はおおよそ、
・人並み外れた鍛錬をして「天才」に到達するか
・断腸の思いでパージして「凡才」に引き返すか
・どちらともならず破綻するか
の三つになります。ただしこの場合の「天才」というのは、必ずしも「大天才」とは限りません。スケールの大小はケースバイケースでさまざまです。
才人に該当する人は、才能をよろこぶ以前に、同等に帯びているリスクのことをよく知って身を処する必要がありますので注意してください。
なお言うまでもありませんが、単に「すごく強いキモチがある」ということは才人に該当しません。才人というのは、理知もしくはインスピレーションに対し、余人には及びのつかない追求があるということで現れてきます。よってここでは、たとえば「極端に昆虫に詳しい少年」や「猛烈にスポーツが好きな少女」のような個性のことを才人とは扱いません。そういった個性の現れは、尊重されるべきではありますが、そこに人格が損傷するリスクはないので、そのぶんここでお話する注意すべき才人の性質とは無関係です。
才人の人は、生きるうちのどこかできっと、「ピンとこない」側に向けて胴体・こころを鍛えなくてはならないという場面がやってきます。少なくとも、そのことへのあらかじめの心構えは才人の人にとって決して無駄にはならないでしょう。
付録2、時代文化と胴体
付録の2です。以下に引用された画像をごらんください。それぞれの時代文化を象徴していると思える胴体のありようがご確認いただけるかと思います。
87〜98年に放映されていた深夜番組「釣瓶・上岡パペポTVです。おそらく90年代前半の映像でしょうか。二人がえんえん話し続けるトーク番組です。
胴体の距離と向き・角度にご注目ください。いつでも互いの胴体に手が触れられる距離・向きになっています。「肩寄せ合って」という慣用句が当てはまります。この映像の感触は現在からは「別の時代」と見えるものです。
そして想像力上、二人の話す声は甲高くないだろうと感じ取られます。いわゆる「声を張って」話すような胴体距離ではありません。
なおこの釣瓶・上岡の二人は事務所も違い、所属上は何らの相方でもありません。
08年〜現在に放映が続いている「にけつッ!!」という深夜番組です。やはりこれも二人が話し続けるトーク番組です。
この映像は「現代のもの」と見えるものです。胴体の距離、向き・角度にご注目ください。相手の胴体には手が触れられない距離・向きになっています。「肩寄せ合って」の慣用句は当てはまりません。
われわれは現代を、このような胴体の距離感で暮らしています。ここ十数年で胴体をどう向け合うかの文化が大きく変わったことが看て取れます。現代でこれ以上近づくと「近いわ!」と制止されるでしょう。想像力上、二人は「声を張って」話しているだろうということが感じ取られます。
昭和38年に来日した、ハーバード大学図書館の副館長と、当時の東京大学図書館館長の懇談です。やはり胴体の距離、向き・角度にご注目ください。いつでも互いの胴体に手が触れられる距離・向きになっています。来日して懇談ということはおそらくこの二人はこのとき初対面でしょう。
二人の肘が十分にデスクに乗るほど、二人は身を乗り出しています。前傾姿勢であり、腹部はデスクのふちに強く押し付けられているでしょう。「肩寄せ合って」の慣用句が当てはまります。このような話し合い方も、やはり「別の時代」と見えるものです。やはり想像力上、二人の話す声は甲高くないだろうと感じ取られます。声を張って話すような距離ではありません。
2013年、AKB48のミュージックビデオの販売頒布を活性化するために企画された討論CM撮影の映像です。胴体の距離・向きにご注目ください。後傾姿勢で、胴体とテーブルの距離は広く空いています。「肩寄せ合って」の慣用句は当てはまりません。この映像は「現代のもの」と見えます。想像力上、討論は「声を張って」なされるだろうと感じ取られます。
現代の文化で「懇談」というと、むしろこちらの様相が正常というべきです。
これらは比較の上で良し悪しを論じるものではありません。ただ時代文化ごとの胴体の変遷を看て取ることができます。胴体の距離は明らかに違い、胴体の角度、胴体の向きも異なります。もちろんその物理的な配置だけを強制的に真似しても、やはり「現代のもの」は「現代のもの」でありつづけるでしょう。
それぞれの映像を見比べてみて、あなた自身が発見すべきことがあります。それは、
・「こころが通い合う」をどちらに看て取るか?
・「理知的」をどちらに感じ取るか?
・「インスピレーション」をどちらに覚えるか?
ということです。胴体(こころ)が理知とインスピレーションに接続しているということが改めて明瞭に理解されるかと思います。
以下に「胴体」が強く表れているいくつかの資料を引用しておきます。これらの資料を、あなたは視力で観察しようとせず、自分の胴体(こころ)へどう影響をおよぼしてくるかを感じ取るようにしてください。胸の中央がやはり一番重要です。
これらは小さな画像であっても胴体・こころへつながってくる機能を持つものです。心臓(胴体・こころ)へつながってくるものを感じ取ると同時に、「キモチ」へ接触してくるものがないということも同時に確認していただければ何よりです。
非常に強い胴体で歌うソウル・シンガーのジェームスブラウン。爆発的な「胸」が彼の中心であることがいかにも看て取れます。
びっくりするほどまっすぐで健やかな胴体の「気」を感じさせるフランク・シナトラ。
驚くべきしなやかさの「胴体」を見せるフレッドアステア。しなやかな「気」の流れとは、単にストレッチ的な柔軟性を言うのではありません。身体は浮いているのですが、「力」でジャンプした痕跡がゼロです。しかも気の流れが極めて精密にコントロールされており、ステッキの方向と脚の方向が完全に同一になっています。
サミーディビスジュニアとマイケルジャクソン。二人の穏やかな胴体と気ごころが二人の関わりと人柄をはっきりと出現させています。これはサミーとマイケルの気ごころだからこのようによろこばしいのであって、もし現代のおじさんが現代のお兄さんに一輪の花を差し出していたらその絵面はただ「ヘン」なものになるでしょう。
2013年のアリーナ・コジョカルさん。有名な天才バレエダンサーです。とてもかわいらしい女性ですが、やはり胸の中央に強力きわまる「こころ」があり、指先まで「気」が流れきっています。特にただならぬ胸部のエネルギーに注目してください。どれだけ「顔」を見ようとしても、「人」が見えてしまう、そういう作用がはたらいています。
2015年のシルヴィ・ギエムさん。百年に一度と言われた現代バレエの女王です。ただ立っているだけに見えますがとんでもありません。身体はすべて衣服に隠れているのですが胴体の存在が見えます。似たような状況で写真を撮ることは誰にでもできますが、決してこのようには映りません。
空前絶後というべき合気道の天才、塩田剛三です。顔にも姿にも、驚くほど「キモチ」が皆無です。そして胴体から流れる「気」が、屈強な若い男の胴体を隅まで制しているのが見えます。
ピーターフォーク演じる「刑事コロンボ」のワンシーンです。コロンボ警部がもはや犯人の「胸」に直接触れて、胴体ごと詰め寄っています。犯人はもう作り笑いでは逃げきれそうにありません。
優れたマンガ作品にも「胴体」の描写を強くしているものがあります。「強いキモチ」を顔面で描写するのではなく、「肚(ハラ)が決まった」という姿を胴体で描写しています。
同じくマンガ作品における強い「胴体」の描写。「逃げる」という宣言をし、「ヤジ馬ども」という罵声を発しているにも関わらず、胴体の描写から彼が強いハートを持っている男だということが一目瞭然に受け取られます。
さて、これら一連の引用資料を見ていただいた上で、あなたにはやはり確認するべきことがあります。
これらの資料に映し出されている人々について、あなたは彼らを「理知的でない」と感じるでしょうか。インスピレーションを覚えず、単なる「希薄な記録情報だ」と感じるでしょうか。
彼らは会話のために「声を張る」でしょうか?
これら小さな映像からでも、あなたの胴体(こころ)、その中心に届くものがきっとあったと思います。
そしてこれらの映像はすべて、あなたの「キモチ」を煽るものではなかったはずです。
続いて最後に、現代を罪なく象徴するものの一つとして、以下の映像をごらんください。
有名なボーカロイドの先駆、「初音ミク」です。この映像の少女の姿は、あなたの「キモチ」をある種の方向へ傾かせる作用を持っています。
この一枚だけを見続けているぶんには、あなたは何の不快感も覚えないでしょう。これ自体は見目麗しいデジタル少女の絵であり、キモチの上で不快を与えるものではありません。
けれども、これまでに並べられた「胴体」の一群から引き続いて、急にこのボーカロイドの姿を見たとき、あなたの胴体(こころ)が活性化していたならば、あなたは急に胸がスカッと空振りするような感触を覚えるところがあったはずです。胸がスカッと空振りをして、胸に少し空洞を食らったような感触がする。それが、よくよく観察すると、さびしくて冷たい。流れていたものに穴が空いた。それがあなたの「こころ」の感触です。「こころ」というのは本当に胴体にあるのです。何度でも画面をスライドして映像を連続でごらんください。
あなたがこの「初音ミク」および、それに近いような感触を持つ現代のいくつかのものを、好きであろうが、嫌いであろうが、あるいは「特に何も思わないけど?」であろうが、今はこのことを考えてください。あなたは「初音ミク」を見て、「理知的だ」と感じるか、あるいは自己の生につながるインスピレーションを覚えるか。
胸に少し空洞を食らったような感触があるはずが、ごまかされて、さらには耽美的なイメージに励まされるキモチが起こるのは、とても危険なことであり、同時にとても現代的なことです。
どこまでいっても、「こころ」と「キモチ」のどちらが偉いとは言えません。ただここでは、設定した立場どおり、「こころ」の話を進めていくのが正当でしょう。
「こころ」は胴体にあります。そして、胴体の上層は理知に、胴体の下層はインスピレーションに接続しています。胴体には「つながる」という機能があり、それが失われることを「さびしい」「冷たい」といいます。そのとき胴体・こころは傷つき、そこで失われた空洞部分には「キモチ」が取りつきます。その「キモチ」を別の「キモチ」で後押しして、上書きしたとしても、それは「キモチ」の持ちようが変わるのみで、「こころ」のさびしさの解決にはなっていません。
僕の話を聞きとってくれるみなさまへ。特に、まだこの先に豊かな未来がある、今まさに若い人々へ。あなたは決して焦ることなく、現状を否定せず、やけくそにもならず、かといって鈍くもならず、したたかに、あなたの進むべき道を行かねばなりません。それこそ理知的に、かつインスピレーションにも接続して、あなたは「あなたそのもの」の道をゆかねばならない。どうぞ、胸に手を当てて考えてみてください。そのことは決しておまじないなどではありません。
あなたはこれから数多く、現代の人々の集まりで、「人々が声を張って、理知的でない話をする」という現場を体験します。目撃もします。年齢はほとんど関係ありません。現代という時代の問題です。
人々が声を張って、理知的でない話をするという現場。そこには人それぞれの強いキモチがあり、同時に人それぞれの弱い胴体があります。あなたはそのとき、「胴体が弱いから声を張るんだ」ということに気づくでしょうし、「胴体が弱いから理知的じゃないんだ」ということにも気づくでしょう。「キモチだけ強くてインスピレーションがないから、おそろしい不安が起こるんだ」ということにも気づかれると思います。熱烈なキモチの会話は、二時間も続きません。みんな胴体をヨタヨタと崩していきます。みんな我慢しているけれど実はものすごく疲れやすい。みんな食が細く、お酒も少量しか飲めません。誰もすでに意気軒昂ではないですし、健啖でもありません。食べ方も飲み方も、どこかみみっちくて汚らしい感じがします。運動で鍛えているという身体からは疲れ果てた細胞の悪い匂いがします。振り回される手、ひっきりなしにうなずく首、水タンブラーを乱暴に置く物音、いきり立ち差し出される暴力的な握手の手、万事を囃したてる声はどこか苛立って底が黒くゾッとし、よくよく見ればすべてがまるであなたを恐慌に追い込もうと脅かしているかのようです。
ですがそれは当たり前のことなので、あなたは今さら怯える必要はありません。誰もあなたを加害したいわけではない。単に胴体・こころが失われていると誰だってそんなものなのです。ただそれだけの、これはサイエンスなので、何も怯えるには値しません。気を付けるようにはするにしても。友人であろうが家族であろうが、恋人であろうが夫婦であろうが、このことは変わりません。犬や猫でさえ同じことです。現代はテクノロジーが増えて胴体が減っただけです。あなたがこのことについて怖いと思ったところで、その怖いというキモチもすでにタネアカシの中に解明済みです。
それでもきっと、怖いと感じる日や、やりきれなく感じる日があるでしょう。胴体を鍛えてください。怖いとかやりきれないと感じた日は、あなたの理知とインスピレーションがこの話を手放してしまっています。あなた自身、この話を保持してゆけるとは限らない。ですから胴体を鍛えてください。あなたの胴体(こころ)に「流れて」いるものを止めないで。あなたが鍛えるのはその胴体のくじけない「流れ」です。
以上で「人間の構造」の話は全て終わりです。ありがとうこざいました。
[怒りの日、人間の構造/了]