No.373 二〇一八年の文体回帰
友人や恋人は同時代のみに存在するにあらず、そのことを祝福して冒頭に書いておきたい。終末を明らかにせよ……なんつって。「現代」に合わせてはこのように複雑怪奇に書くよりないが、このことをもって僕はまだ文体の妙および文学の能力を失っていないことを自分自身にも示しておきたい。けっきょくこれだけが役に立つのか、という痛快な心地。どれほど嘆き、暴れ回っているように見えても、お前はここに帰ってくるのかという、安物のストーリィを本懐にする、せめてこの馬鹿らしい本懐の心地の中で平成二十九年の終わりに向き合うことをしたい。
例年通り、この一年を振り返ったコラムを一本書くとして、そのことは実行に難儀させられ……時刻はすでに二十二時の手前だ。この近所迷惑なこだわりのせいで僕はまだ夕食も摂っていないが、思い返せばいつもこうした不愉快さのストレスの中で、僕はまだまともな人間らしさを保持してきたはず。文体への直截の感覚、文学の直截表示。人を笑(わら)かすことをして遊ぶ僕は、「文体」のことについては急に冷厳になる。ああ来たる平成三十年、二〇一八年は、文体に回帰する年にしよう。いかなる知恵も小細工もこの直截のことに敵いはしない。
この年、平成二九年(二〇一七年)は、カミサマについて実践する年であったし、またそこから思いがけない反動として、周囲の人々から「カルマ」のありようを切実に告解される一年だった。すべてのことはすでに、詳細に書き記すことを許さないほど膨大だ。
僕は長足の進歩を遂げたが、それについて最も言われるべきは、この長足の進歩は「当然」のことであって「驚く」には値しないということ。長足の進歩を「当然」とみなすことは、同時に際限のない停滞に苦しむ人の停滞についても「当然」と見做すことになり、その視点を本来の注目すべきメカニズムのほうへと誘うだろう。タネあかしが済んでみれば何でもないことだ。
男と女、その身分と振る舞いと、行いはどのようであるべきかについて、多くの人が苦しんでいることを知った。またそのことにどう展開が起こり、一部にも寛解と呼ぶべき事象が生じていくためには、どのような過程が必要だったかについて、やはりすでに詳細を述べるだけの時間を与えられてはいない。ただすべてのことは、今あなたの目の前にも明らかなように、文体が文体として示されるように、男は男の文体、女は女の文体として、その振る舞いが直截示されるより他に抜け道はないのだ。文面においては文学者としての僕以外は求められていないことと同様に、男も女も、局面においては男者・女者としてしか求められていない。そのことは、事実としてはわかりやすいくせに、実行としては不可解を極める。そしてしばしば、その実行に難を覚えない者は、そのいちいちの事実を認識さえしないものだ。
振り返るところ、この一年は、僕自身の胴体の「貫通」――尻穴の近くから、脳天の上までの――とも観るべき一年であり、そのことは端的には「声」の一年でもあった。文体から生じる「声」とは異なり、実声の音声の中に混じる、独特の透過力を持つ「声」。この「声」はおそらく肉体に宿る「霊」のようなものを自分の頭頂へ投げ出すような行為で、それにより僕自身の能力は文学から胴体の流れの能力者へと偏った。ここまできてようやく断じることができると思うが、文学における「声」と、詠唱や歌唱における「声」は別物だ。これがそれぞれどのように異なるものであるのかは、この一年を振り返っての大きな疑問として残ることになった。おそらく、歌の上手い文学者というのは歴史上にも極めて稀だと推定できる。歌唱と文学を同時にこなすことは、胴体や霊や叡智の使い方において非常な無理があるからだ。よって一般に文学者は早死にし、音楽家は長生きをする。このことへの追究は、早速翌年からの愉しみになった。
時間がない。一年を振り返って……僕は<<すさまじい物の見方>>をいつの間にか身につけていた。人々は本当には何をしているか。背後にある、「it/それ」と呼ぶべきものの作用によって、それはときにカミサマのようであり悪魔のようでもあった。人々は本当には何をしているのか……人々はすべからく健全な長生きするようこころがけるべきだが、そのことは単なる健康増進への意欲では為されない。僕は文学者気取りでいるわけだが、この文学者気取りの立場からこの世界の端で申し上げたい。<<文学というのは営みではなく、いわゆる文学者などという「役割」はこの世界に存在していない>>。文学者が早死にし、あるいは自死に追いやられるのはそれが理由だ。人はときに文学を示してよいが、それは余技であって人の営むべき本質の行いではない。このことから正しく言えば、いっそトルストイは文学者ではない。文学者とは、この世に生まれた人間がカルマ償却を放棄した場合についてを言うのだ。
文学とは何の能力を指すのか。時間がないので、卑近だが正しいという譬え方をしよう。それはまるで自動車に対するカーナビのようなシステムだ。自動車はしゃにむにガソリンを焚き、右へ左へと走行していくのが使命だが、その使命の中で自動車は現在位置を見失いがちだし、目的地への合理的な走行を不明にしがちだ。そこでカーナビは役に立っている。熱いエンジンの咆吼とは別の機構として、冷静な指示と情報を与え続けている。
けれども、カーナビのない車は自動車でありえても、カーナビしかない車は自動車ではありえない。文学者は、その冷静なナビゲーション機能しかない純粋な文学者になるとき、自ら為すべきことの償却が放棄されるので、罪の深まる不安の中でその命数を崩壊させていく。芥川龍之介の自死の理由が「漠然とした不安」であったことはよく知られている。
時間がないな。もういいかげん、天ぷらを食べてスコッチを飲んで紅白歌合戦を観ていたい。二〇一七年を振り返って……それはカミサマをよくした年であり、反動的に、人々のカルマの重みを教えられた一年だった。カルマの重みにも笑おうと語りかけ――僕は男だからな――、歌いかけようともするうち、僕の「声」は強引にも胴体を貫通して出現した。そのことはいっとき、僕自身を文学の能力から引き離したが、そのことは僕を文学者の往く自死のコースから転向させ、ナビゲーターではない自ら道を行くものに切り替えさせてくれたのだといえる。
つまり、わかるか。僕の愛人たち。
君たちが僕を長生きさせてくれているのだ。
このままなら文体のほうもやれるのだ、だからどうかこれからもよろしく。
本年は誠にお世話になりました、来たる新年も何卒宜しくお願い申し上げます。
九折空也