No. 390 今日は夜桜の人、人情派と非人情派
どうでもいいことだと思うが、桜が咲いている。
夜の闇にも咲いているだろう、うつくしいことだ。
人が見ていないときにも咲いている。東西に枝を伸ばして。
春なのだと思う、いやあ恐ろしいほどだなあ……
あまり理論的なことを書きたくない、僕は超絶頭がいいが、理論を愛しているわけではない。
理は世界だから、理は愛しているが、理論は愛そのものではない。
理論は、理が視えないアホのために、誰かが親切に書いてやったものだ。
今日も夜中ずっと、春の風が吹き続けるのだろう。
僕には愛がないが、そうそう、どこかへ連れていくのだったな。
僕には愛がないというか、僕に愛がある必要がない。
僕の愛なんか必要としないぐらい、この世界はうつくしいからだ。
そこへ連れていくという話だったな、まあ連れていかなくても、おれはずっとひとりでも行くのだったが……
どこかへ行かなきゃカッコ悪いし、説得、というのがこの世で一番カッコ悪いだろう。
僕の幸福は、自分自身を一度も説得せずに済んだことだと思う。
春の夜にどこかの店がパカーと入口を開けていたら、それだけで光に誘われて入っていってしまうものな。
すでに、人情は死んでおり、もしくは、死んでいる人々が、人情にしがみついている。
そんなわけは、ないのかもしれないが、別にそんなわけはなくてもかまわないだろう。
世の中にはゾンビ映画だってあるのだ。誰かが楽しめるだけマシだろう。
僕は眼ざめているので、どこかへ行くし、人情なんてものからは、とっくに切り離されているのだ。
人情が悪いわけではない。
人情がすでに死んでいるからしょうがないのだ。
死んでいるものを家に抱え込んでどうする。
愛は死んでいないし、むしろ栄えている。
もともと愛や魂や命は死んだりしない。
死んだものに、息を吹き込んでも生き返りはしないし、絵面として不気味だ。
世界大戦が始まったら平和ではなくなるだろう、そのときに平和に息を吹き込んでも無駄なことだ。
あるとき突然、平和が終わったというようなことを、これまでの人類は生きてきたように、あるとき突然、人情が終わったということを、現代の人々は体験している。
人情が終わっても、部屋に電気は通っているし、LEDライトは光り続けているので、その下で人々は暮らしていく。
何の話をしているのかと、怒られそうだが、しょうがないのだ。
話がないので、ない話をしているのだ。
話がないというのは、どういうことかというと、この世界のあちこちに、人情派は家に引きこもってうっすら存在しているとしても、非人情派というのはどこにも存在していないということだ。
もはや、人情派の存在も、きわめてうっすらしたものなので、もうこの世界に存在していないとしたほうが、実際的ではあるけれども。
「この世界」というのは、もちろん僕が書き話す世界のことであって、一般に言われている現実がどうこうの話ではない。現実なんてものはもとから存在していない。
それでも役に立つ話をしようとするから、いつも苦労しているのだ。
非人情派というのは、今流行りの、パワハラやサービス残業は決して許さないという痩せ鬼の勢力だが、そんな勢力はこの世界に存在していないので、話がない。
そういう勢力は、仮に存在しているとしても、この世界に存在しているとは言えない。
リアリティやリアリズムが存在を成り立たせてはくれない。
色んなことが、「リアル」にあるだろうが、たいていリアルなものであればあるほど、この世界には存在していない。
リアリティのために存在を放棄したというのが、そういう「リアル」の現象だ。
だから、夜の空に咲き続ける桜の花びらを見て、リアルだなとは、誰も思わない。
仮に、この世界に「現実」なんてものがあったとして、その現実の人々は、古い人情派と、新しい非人情派に分かれるだろう。
非人情派は、光のない眼球に黒々とした穴をこさえており、人情派は、やはり光のない眼球に、黒々とした穴をこさえている。
同じだ。
なぜ光のない眼球になったのかは、当人達にはわからないだろう。
今、古い人情派と新しい非人情派が、猛烈に殺し合って、軍配は非人情派にあがりそうなのだが、もちろんそのことで非人情派は人生に勝利するわけではないし、そもそも人情派のほうだっては目の光を失った時点で敗北している。
(僕は今、夜桜の話をしているのであり、社会問題を話しているのではない)
人情を信じていた人々は、なぜ自分たちの目に光がなくなったのか、自分でもわからないのだ。
ただ、いつの間にかそうなっていた。
人情派はきっと、非人情派たちのせいだ、と責任をなすりつけているだろう。
だが非人情派のほうは、古い人情派どもに向けて、「聞き飽きました、こうして光などないお前らを糾弾するのが待ちに待った正義なんですよ」と確信を持っているだろう。実際、人情派は今も習慣的に威張り続けていて、もうとっくの昔に光がないという事実から強引に目を逸らし続けている。
このことについては、きっと非人情派のほうが正しい。
きっと気の毒なのは、ごく一部の、例外的な、目に光を宿したままの人情派だ。
もうそんな人は、ほとんど残っていないだろうけれども。
僕は愛派であり、ソウル派、学門派だから、何の関係もないというか、そもそも事象平原として接触できる関係にない。
夜桜に人情はないし、夜桜には非人情もない。
何の話をしているかというと、何の話もないのだが、今、世界でないどこかで人情派は窮地に立たされており、一方で非人情派は、各方面に進出して陣地を増やしているが、そもそもがやはり「ただのやけくそ」でしかないということなのだった。
夜の桜に、香りはないかもしれないが、それは人の鼻がそれを嗅げないだけで、すさまじい香りが夜の大気に放出されている。
人が真の友人と、真の世界の夜桜を観に行くというのはどういうことか。
夜桜が世界にあるように、人も世界にあるしかない。
人情派は世界から脱落したし、その瞬間を、非人情派に討ち取られた。
それはもう、目に光のない人情派などというのは、まったく滑稽な自己主張でしかないのだから、討ち取られて当然だ。
それでもなぜ目の光が消え失せたのかは彼らにはずっとわからない。
人情派は自らの傲慢によって世界から脱落した。
世界から脱落しているくせに、つまり愛なんかないくせに、人情を押しつけるふうの自己満悦に耽っていたから、やがて力を蓄えてきた非人情派に討ち取られた。
人情派が、世界から脱落しているくせに、桜の花見を決め込んでいるふうをするから、その醜さを正視しかねて、非人情派が矛を手に取ったということ。
会社の上司と花見に行くような奴はいない。どんな人情があっても、その頭上に桜なんか存在していない。
桜って春に咲くんだぜ。
じゃあ上司の頭上に桜が咲いているわけがないだろう。
現実などという、ありもしない世界の中で、花見に行くような奴はいない。何度も言うように、桜は春に咲くのであって現実に咲くのではない。
おれが花見に誘って断る人はいない。
はるか遠方からでも、おれが誘えば、絶対に行きますといって、はるばるやってくるだろう。
だからこそ、うかつなことは言えないという状況もあるが……
何の話もないというか、話はすでに、始まる前から済んでいるので、こういうわかりづらい調子になってしまうが、それでもこれが正しい書き方なので、そこは耐えていただきたい。
かつて、人情派なんてものが存在して、人情派は一般的に正統の価値観の首座を占めていて、最も身近なぬくもりと光を持っていた。
だが実は、その光は、人情から生じているものではなかった。
たぶんどこかの時点で、人情派がそれを誤解して、そこに生じているぬくもりと光は、自分たちのものだと思い込んだのだ。
それで傲慢化して、世界から脱落してしまった。
きっと、ポル・ポトとトルストイの差に似ている。
ポル・ポトもトルストイも、表面上は、同じようなユートピアを描いている。
誰もが平等で、単純な労働がよろこびだというユートピアだ。
だがトルストイは、あくまで神の意に接続して履行する自分自身が歓喜であり幸福だと前提しているのに対し、ポル・ポトは表面上を同じにすれば同じぬくもりと光が得られると思った。
わかりやすい傲慢化だ。
同じようなことがきっとあちこちで起こったのだろう。人情派は、己の人情が普遍の光をもたらしていると思い込んだ。
トルストイが収穫するブドウは、自分たちが収穫するブドウと同じだと思い込んだわけだ。
「なんだ、簡単なことじゃん」と、あっさりした歓喜を見つけただろう。とんだまがい物の歓喜だが……
そうして傲慢化した人情派に、強制されてブドウの収穫をさせられた子供たちは、空気を読まされ、力で抑圧されながら、とうに世界から脱落している人情派たちを憎悪しただろう。
それはそれは、抑圧される子供たちにとっては不快この上ないものだったろうから。
それで、今になって子供たちは成人し、非人情派として欺瞞に満ちた人情派どもを屈服させ、つまりサービス残業などはさせられなくなったのだが、かといって非人情派の彼らが晴れ晴れと世界に凱旋できたわけではない。彼らはただ、傲慢化した人情派たちを荒れ野で討ち取っただけだ。
討ち取られた人情派は、すでに各地に断片化し、今は単なる匪賊のように隠れ住んでいるが、彼らのことごとくを討ち取ったとして、非人情派が「世界」に迎え入れられはしないし、人情を否定しきったとして、それは非人情派の勝利とはならない。
人情というのは、滅ぼしたとして、別に誰が歓喜できるものでもないからだ。
世界中の座布団をなくしましたというぐらい、どうでもいいようなことで、かつ、やめておけばよかったかぎりのことだ。
ありもしない世界について話すのは、このようにむなしくて退屈だが、さしあたりしょうがない。
ありもしない世界だとしても、仮にその問題について言うならば、問題の焦点は今、人情派のサバイブというところにあるだろう。
人情派は、当たり前のことだが、非人情派に直面して、殺されるのが怖いのだ。
これまで自分の信じてきたこと、大切にしてきたこと、自分の生きてきたことのすべてを、否定されて殺されてしまう。
その信じてきたことの中に、重大なやらかしがあり、傲慢化したのだから、己で修正してしまえばそれで済むのだが、何が傲慢化でありどこが修正箇所なのかなんて、誰も教えてくれないので、ひたすら死に物狂いで、人情派としての己を安全保障せねばならないのだった。
こんなことをしていても意味がないというのは、人情派たち当人が一番よく知っているだろうが、かといって緩めればもうその日のうちに殺されてしまうので、しょうがないのだ。
今、人情派たちは、非人情派たちを否定・排斥するために、メンタルのすべてをガチガチに固めて使い切っている。
誰か、自分の代わりに「やっぱり人情だよ」と言ってほしくてたまらないのだが、すでに人情派の瓦解と敗北は決定的なので、もう誰も本心から信じて「やっぱり人情だよ」とは言ってくれないのだ。それはまあ、すでに瓦解しているものを、本心から信じることは誰にもできようがない。
人情派は、今も人情をすべてにしているので、それを否定されたら、もう数十年分のメンタルが一気に空っぽになるので、とてもじゃないがそれを手放すことはできない。
しかもそのときには、非人情派のやけくその高笑いを、死の最期まで見上げて過ごさねばならないのだ。
それは、いかに存在していない世界のことだとしても、あまりに陰惨すぎるだろう。
夜の桜の香りが、何かを解決してくれるということはなく、元より解決している者しか、真に咲いている桜の下を歩くことはできない。
当初はコキ下ろしていたAKB48の商法が、瞬く間に天下を取ってしまい、人々はAKBのセンターとその周辺を、「スター」として受容し、見上げなくてはならなくなった。
自慢のわが街には、誰も戻ってこなくなったし、観光客もこない。
どこよりもくつろげるのどかな村は、実は当の村民自身が息苦しさに耐えているという情況に陥り、人のつながりと言いながら、正直もう誰の顔も見たくないと思って、あれほどバカにしていた番組の視聴をして己を保っている。
そういうことが一番よくあるのじゃないか?
人情派、特に強硬なまでの人情派こそ、「じゃあ人情の実物を見せてよ」と言われると、本当は何一つお見せすることができないという実情がある。
「若い人に人情のありかたを教えないと」といって、そのために人を集めようとしても、誰もまともに集まらず、来た人は我が強いばかりで誰とも和合しないという、ひどい「人情」の実態。
とっくに壊れているものに、それでも縋らねばならないのは、やはりどこでしくじって、どこで壊れたかがわからないからだ。
自分が信じてきたもののありさまが、ここにきてこんなものだとはとても受け入れられないし、信じたくもない。
ここは人情の町、と言い張ってきたものが、まったく実情を隠蔽して、観光客にはササッと上っ面を見て通り過ぎてもらわねばならないような、そういう現実が修復不能に膨れ上がってしまっている。
現実なんて、ありもしないものを信じてきた結果がそれだから、今さらどうにも動かせないだろう。もういずれ、近いうち、すべての人が「わたしは知りません」とバックレるしかなくなる。
人情がすでに滅んでいることには、何も恐怖しなくていい。
人情というのはもともと、あくまでその上があって、初めて頼りにできたぬくもりであり、光だったからだ。
人情そのものにぬくもりや光があったわけではなかった。
言うなれば、桜の下に人情があったときだけ、ぬくもりと光があったのであり、そのぬくもりと光は、春の桜から来ていた。
人情から自噴していたわけではない。
人々の上には魂があるのだ。そうでなければ春の夜に桜を見上げる道理がない。
ただ、魂のことはあまりにむつかしかった。いつの時代の人にとってもそうだった。
だから、魂のことはむつかしいやねということで、いつまでもそれに難儀しながら、難儀する同士で人情が通いあっていた。「魂のことはむつかしいやね」と酒を酌み交わしていた。そこに、誰かがこっそり、ぬくもりと光を流し込んでくれていた。まるであわれな民を慈しみ励ますように。
いつしかそれを誰かが誤解し始めたのだろう。
人情が酒を酌み交わすと、ぬくもりと光が生じるなどという、理知的に考えてありえないことを、勝手に妄信しはじめてしまった。
妄信すると、人情派は、自分たちをこの世で最も高度なものだと思い込むようになり、昂ぶった。昂ぶりの恍惚は彼らの血を掴み、彼らはそこから離れられなくなった。
自分たちが、価値観において至高の地位を占め、しかも「粋」でもあるという、その最高級の妄信を彼らが己で疑えるはずがなかった。彼らは自分たちに興奮してスペシャルな笑いがしたかったし、誰もが自分を先生とあがめてよいのだと思いながら毎晩を眠りたかった。謙虚な自分にだけ特別な朝が訪れていると思いながら、芝居が効いているオハヨウを言いたかった。
すべてのことは、冗談のような醜悪さに見えるが、現実という存在していない世界だからこそ、むしろ冗談のような醜悪さだけが充満する。
今、現実には二つの派がある。人情派と非人情派だ。
そして、現実というものがそもそも存在していないので、この二つの派は、苦しんでいるだけで本当に存在してはいない。
存在していないのだ。「苦しんでいるだけ」で、それが苦しいからこそ、まるで存在しているかのように錯覚してしまう。そういう仕組みでこの現象は起こっている。
人は空気中にいるとき、空気が存在していることは忘れるし、真空の部屋に放り込まれると、そこには呼吸できず血管を切り裂かれるという苦しみの、真空というものが特別に存在していると錯覚するだろう。
本当に世界に存在しているのは、魂であり命であり、学門と理、 forms 、春に咲く桜だ。
魂は存在しているのに対し、現実は存在していない。
だから、学門派(魂派)と、人情派・非人情派を比較することはできない。そもそも比較( ratio )は現実という錯覚の中にしか機能していないので、何でも比較しうると思い込んでいるのは、存在していない現実に特有の主張だ。
現実というのは、マンガで例えると、<<マンガのふきだしの中>>だ。ふきだしの中にだけ、マンガ家の画筆は触れていない。
今、人情派と非人情派は血みどろの抗争をし、非人情派は酷薄で無慈悲な刃を人情派に向けている。
人情派は、すべてを否定されてしまう明日が目の前に感じられて、恐怖のあまり、叫びと恫喝の壁を建築して己を防御している。
抗争は概ね、非人情派の勝利に終わりそうだ。これまで驕り高ぶってきた人情派の隙につけこまれた以上、人情派は非人情派の刃をよけることはできない。
単に、人情派が、これまでのマネーを溜め込んでおり、後続にゆずることがないため、非人情派に対する防衛力が保てているにすぎない。このマネーが尽きたとき、人情派は何の対策もなく斬り殺されるだろう。そのとき人情派は、これまで言い張ってきた己の光(のつもりだったもの)のすべてを偽りでしたと否定して、自分の目に光がないことをついに自ら認めねばならず、そのまま光なき死へ向かってゆかねばならない。
僕は人情派を否定する者ではないし、非人情派を肯定する者でもない。
ふきだしの中のものを、否定するも肯定するもない。
非人情派は、己の目に光がないことを自認し、その理由を、自分を抑圧し続けた人情派に帰責し、むしろ怨恨に変えて己のエネルギーにしているだろう。
人情派は、その怨恨の刃に恐怖しながら、なおも人情を主張しようとするが、己の目に光がない理由がやはりわからず、そのことに目を伏せたまま、すでに説得力の瓦解した主張で己を防衛せねばならない。
現実というのは、そういう恐ろしいものだ。だがやはり、その恐ろしさをもって、そうしたものが存在しているとは言えない。現実はそもそも真に存在しておらず、真には存在していないものだからこそ、こうした恐ろしさと苦しさばかりが充満する。
僕はどちらも、肯定も否定もせず、先ほどから述べているように、ずっと夜の桜の話をしている。
このごろになってわかったのだ。僕が話す、魂についての説き明かしは、ときに人情派に非人情を推しているかに誤解され、非人情派に非人情の加勢を申し入れているかに誤解されるらしい。
また、魂についての説き明かしが、人に希望を見いださせるとき、人情派は誤って人情の再興に昂ぶるらしく、非人情派は誤って自派が真理に到達していると昂ぶるらしい。
僕は学門派・魂派であり、この世界に存在する forms のことを話している。そもそもこの世界に存在していない現実の人情・非人情の両派に干渉する意図はないし、干渉しうる脈絡も持っていない。
大きな誤解をされているということがわかったのだ。僕は人情を捨てろとは言っていないし、非人情をやめろとも言っていない。人情と非人情のどちらも捨てる必要はない。そもそも本当には存在していない現実の派閥を、どうやって「捨てる」ということが可能なのか?
もし僕が本心を言うなら、多くの人は、何を捨てるべきというより、まだ捨てうる何かさえ手にしていないということなのだ。人情と非人情はただの比較( ratio )であって、夜の桜のような魂( form )ではない。
比較( ratio )なんて、<<どちらに昂ぶるか>>でしかないじゃないか。
この世界に本当に存在する魂を、何も掴んでいないのに、いったい何にしがみつき、何を捨てようというのか。
今、人情派と非人情派は、それぞれ呪詛の恫喝と酷薄の刃で血みどろの殺し合いをしており、そのことで頭がいっぱいだから、僕が話していることがまったく別のことだということがそもそも視えていないようだ。
僕も勘違いしていたのだ。なぜ僕が魂のことについて説き明かしを進めると、決まって一部から不明の抵抗と攻撃が生じるのか。僕はそれを、本当に僕に向けられた敵愾心だと思っていた。表面的には確かにそのとおりに違いない。
だが当事者の誰がどう考えても、僕が説き明かすのをよろこんで聞く人がいて、その中で僕が攻撃されねばならない合理性はまったく見つからない。敵対する人はそもそも話なんか聞きに来なければいい。僕の勘違いは、人々が現実という思い込みの中で、今ちょうど殺し合いの真っ最中だということを知らなかったことに端を発する。人情派と非人情派が激烈な殺し合いをしているピークで、誰も彼もが自分が殺される恐怖に直面しているところだったとは、僕はまったくそのことを知らないまま、魂のことだけをよろこばれるように話していた。
僕が話しているのは、人情派からの離脱でもなければ非人情派への転入でもない。つまり転属のことを話していない。存在していないAから存在していないBに転属するように僕が呼びかけるなんて道理があろうか。僕は人々の抵抗についての誤解を修正するので、願わくば人々も、誤解から抵抗を生じる仕組みを修正されますように。人情派と非人情派の殺し合いという恐ろしさと苦しみはあるが、苦しみがあるだけでその世界が本当に存在しているわけではない。その恐ろしさと苦しみは、強烈にあるとしても、それはやはり強烈な「趣味」でしかなく、本当に存在している世界ではない。
だからけっきょく、人情派の呪詛も非人情派の刃も、まったく僕には当たらなかっただろう。
象徴的に、わかりやすいように、「このパリサイ派どもめ」と誇張して叱ったことがあるのも事実で、僕はそのことを取り下げない。なぜなら、福音書に悪く書き綴られているパリサイ派の人々も、実際にそういう苦しみの中にあった人たちだったかもしれないと思うからだ。
なぜ自ら話を聞きに来ようとし、説き明かされると本能のように揚げ足を取ろうとし、しかもその論駁さえあっさり説き伏せられると、わけのわからないムンとした行き詰まりの空気を主張して、なおも素直に「そのとおりです」とはうなずかないのか。それは根本を誤解しているからだ。どこまでいっても転属は認められないという内心の状況がある。誰も転属は勧めていないのに、転属を勧められていると誤解しているから、納得はするけれど転属はできないという、何とも噛み合っていない空っぽのジレンマに陥る。両派の比較( ratio )しか知らないからそうなる。人情派と非人情派は友人ではないが、人情派と人情派も友人ではない。非人情派と非人情派が友人でないのと同様にだ。
ここに、学門派と人情派と非人情派の三派があるのではない。学門・魂という存在において、その内が言葉派や数式派や音楽派や物語派等に分担されているのであり、それに対して人情・非人情は、そもそもこの世界に存在していない「現実」のものにすぎず、世界の派閥として承認されてはいない。地球上に東西冷戦が起こったとき、夜空の星々に東西の派がありえただろうか。夜空の星々は真に存在しており、東西冷戦は真に存在してはいない。ただ「人々がそのように苦しんだ」というだけだ。
現在のように、人情派が非人情派に追い詰められ、その誅殺への苦しみが大きくなるほど、人情派の色はますます濃く塗り込められていくだろう。人情派にせよ非人情派にせよ、それは存在ではなく、その色はただ苦しみの色でしかないからだ。
ずっと夜桜の話をしている。夜桜の下で、マンガのふきだしの中の話をした。むなしく退屈な、それは色濃く苦しみあい、とても現実的で、本当にはどこにも存在していないことの話だ。
あなたの魂の中に、今日の僕は、夜桜の人としてしか出会われていない。それで……この世界に存在しているどこかへ、連れていくのだったな。それで、手近すぎるかもしれないけれど、春なので夜桜ぐらいには連れていきたいと思っていた。だからずっと夜の桜の話をした。
[今日は夜桜の人、人情派と非人情派/了]