No.394 激動の昭和、罪の平成、魂の令和
あと数日で平成が終わる。
平成はどんな時代だったか、各人が、振り返って観想しようとするだろうが、そのことはまともに果たされないだろう。
なぜなら、もうそんなことを考えるだけの知性と、まとめて明視する魂が残っていないからだ。
物語を観想する霊力が残されていない。
ひとつのことをテーマに、考えてゆく、観想を深めてゆくとして、なぜかそのことが「十五秒も保たない」という現実が、いま人々の身に降りかかっている。
人は霊魂の接続を失うと、そのようにグズクズのガタガタの、バラバラになってしまう。
酒を飲んだ酔っ払いが、やたらに大声を出したり、大学生がうぇーいにさえ力尽きたり、老人のおじさんやおばさんがずっとキレた顔面で歩いているのも、すべて霊魂の散逸が原因だ。
青年は、霊魂を散逸すると、きわめて惰弱な細胞の密集物になり、異性のおっぱいが揺れる映像にしか反応しなくなる。
ミツバチが八の字運動に反応するごとく、単純な反応しか持たなくなる。
今、青年は、平成をひとつの物語として振り返ろうとしても、十五秒ごとに、おっぱいの揺れる映像がいるのだ。
老人は、十五秒ごとにキレる必要があるし、女性は、十五秒ごとに内心のパニックを参照する必要がある。
霊魂が散逸すると、人はそのような様態になり、このことはただの科学的な事実だから、ここに疑義を抱いてもしょうがない。
わが魂はここにあり、と、眼差しと声と立ち姿が堂々と声明を発していればそれだけで済むのだが、そうもいかなくなり、多くの人は実のところ、わけのわからないカタマリとして、ヘンな表情やヘンな情緒を自己安定剤に投与していることを、衆目に開示するしかなくなってしまっている。
なぜこんなことになってしまったのかというと、理由は無数に、輻輳してあるのだろうが、一言でいえば「罪」によって、人の魂は散逸するのだと思う。
平成は何の時代だったかというと、前もってそう考えていたわけではないが、なぜか「罪」の時代だと言いたがる衝動が起こってきた。
僕自身、昭和のころはあまりにも子供すぎ、昭和がどのような時代だったかは、到底語る資格を持っていないのだけれども……
少なくとも、昭和天皇が崩御されて、「昭和」が終わると聞かされて、子供ごころに、
「『昭和』って、終わるものなの?」
と驚いた記憶がある。
それまで、「昭和」のことをいちいち「元号」だとは思っていなかったし、それが天皇の世代交代で変わるものだとは思っていなかったからだ。
当時、サヨク教育が激しかった時代なので、小学生だった僕は、天皇という存在をそもそも教えられていなかった。義務教育を通して一度も「君が代」を歌ったことがない、僕は典型的な世代であり、またそういう典型的な地域に暮らしていた。
僕が中学校に入る年、昭和が終わって平成元年となったのだが、それが「ガンネン」と呼ばれるのに、字がわからず、何がガンネンなのだろうと首をかしげていた。
当時、VHSの家庭用ビデオレコーダが一般化し始めた時代で、同時にレンタルビデオも流行しだした時代なので、天皇陛下崩御となったとき、レンタルビデオ屋が信じられないぐらいの混雑をした。僕自身、父親とその混雑の店舗に行って驚いていたので、はっきり覚えている。
どのテレビチャンネルも、ずーっと天皇陛下崩御のニュースばかりを繰り返すので、退屈になり、ビデオを借りに行ったのだ。すると、「考えることは誰でも同じだな」ということで、レンタルビデオ屋は黒山の人だかりになっていた。
当時、もちろんまだ携帯電話はなく、ポケベルさえもまだなく、通学路にはまだ「コンビニ」は存在していない時代だった。
思えば不思議なものだ。僕は中学のころ、つまり平成のガンネンから四年まで、友人と「コンビニ」に行った記憶はない。ひょっとしたら、すでに行っていたのかもしれないが、そのときにまだそれを「コンビニ」とは認識していなかったのかもしれない。
それが高校生になったころには、なぜか「コンビニ」は当たり前の存在になっていたので、いつのまに「コンビニ」が当然の存在になったのかは不明瞭だ。一時期、「コンビニエンスってどういう意味?」という質問があちこちで飛び交っていた。まだ当然Googleはないので、おじさんたちはテレビ番組の受け売りを話していた。
僕が中学のころ、平成のガンネンから四年まで、コンビニは記憶にないが、「カラオケボックス」はすでに、好きな奴は好きで行っているという話だった。当時の僕としては、カラオケボックスの以前に「カラオケ」がよくわからないのだから、何がボックスなのかはまったく不明だった。
今になって思えば、おそらく各家庭の父親がスナック好きで、その影響から、その息子がカラオケボックスに連れていかれることがあったりしたのだろう。当時のカラオケボックスは「レーザーディスク」だったのだろうか? 僕自身は行っていないので、実際はどのような設備だったのか知らない。
中学生のころ、ゲームセンターで「ストリートファイター2」が流行し、そのせいで僕の中学から高校の時間は、基本的にゲームセンターが拠点になった。「ゲームセンターに住んでいる」とよく言われ、何か用事があったら家族はゲームセンターに電話してきたし、学校を休んだ日にもゲームセンターには「出席」していた。
高校時代も後半に差し掛かると、「スト2」のブームもいったん落ち着き、一方では「ぷよぷよ」の人気が発掘されていった。発掘というのは、「ぷよぷよ」はゲームセンターにリリース当時、何の人気もなかったからだ。当時流行していたゲーム雑誌「ゲーメスト」に取り上げられてから、とたんにゲーム台に行列ができるようになった。僕は先行して「ぷよぷよ」を面白がっていたので、
「どれが面白いゲームかぐらい、自分で判断しろよ」
とブーイングしていた記憶がある。
といっても、「ぷよぷよ」は遡るところ、MSXというパソコンで販売された「魔導物語」というRPGのキャラクターが出ているのが第一のユニークネスであって、僕は当時、ゲームセンターで「ふぁいやー」とか「ばよえーん」と聞かされたとき、「なぜゲームセンターから魔導物語の声が?」と驚いて、それで先行して手をつけたのでもある。
昭和の終わりから平成の初期にかけて、僕は典型的なゲーム少年だったので、記憶のほとんどはゲームセンターとゲーム機器に結ばれている。それを語り出すと、まったく別の「ゲーム機史」になってしまうから、その視点はこれ以上は差し控えようと思う。僕自身、ゲームセンターでは「ラリーX」、パソコンではハイドライドからすでにゲームにのめり込んでいたくちで、ドラクエやゼルダに当然入り込んだあと、PCエンジンまではついていったが、スーパーファミコンが発売された(平成2年、1990年)ぐらいで、いったん家庭用ゲーム機からは手を引いている。スーパーファミコンは所有しなかった。その後も実は、プレイステーション1が最盛期だったころも、友人の家でバイオハザードを徹夜でやったりしていたが、自分では所有しなかった。「ゲームセンターに住んでいた」ぶん、家庭用ゲームからは離れたということだろうか。
(こんな話は個人的すぎて何の意味もない、申し訳ない)
ただ、このあたりの話は、何にせよ「罪」のない時代のワンシーンだと今になって思う。当時からオタクというものはいて、いわゆる「コミケ」というものも当然あった。何なら僕は90年代の前半に、その「コミケ」の主催者側に友人がいたのだから、その筋では僕はずいぶんな古参ということになるだろう。だが「コミケ」のたぐいは、一度だけ物見遊山で首を突っ込んで以来、二度と行こうとは思わなかった。何であれ当時の彼ら(オタクたち)は何かマジメにやっていたし、彼らは何も社会的な存在ではなかったので、なんというか、街中にあるプラモデルショップの、塗装が異様に上手な兄ちゃん、というような人たちと同じような存在だった。
当時のオタクは、案の定セーラームーン等が好きだったようだが、そのただならぬ入れ込みようと裏腹に、何かそれを単純にオナニーのオカズにしているという様子ではなかった。一方で、そのオタクの兄ちゃんが、ゲーム基板をコンパネにてきぱきつないだり、ミニ四駆と呼ばれた古いおもちゃからタミヤのモーターを取り出し、あっさりと独自の連射装置を作ってゲームコントローラーの裏に仕込んだりするのを見て、感心させられたりもしたのだった。そういうれっきとした「オタク」は、当時よくゲームセンターの店員としてアルバイトしていて、レバーやボタンやコインシューター等、機器の不具合はそのオタク店員さんがその場で修理していたのだ。そうした光景は、やれやれと肩をすくめたくなるオタク風情に満ちているとはいえ、何か現代にありうるような「罪」の気配とは無縁だった。当時はまだ「イケてる」「キモい」「イタい」という言い方が発生していない時代で、それぞれの風情についてはキモいとは言われず「マニアだなあ」と言われていた。もちろんその言い方じたい、当のマニアたちしか持ってなかっただろうけれど。
これらの罪のない光景、平和な光景は、1995年に阪神淡路大震災が起こるまで続く。またそれだけに、1995年の1月17日、午前5時46分に生じた震度7の地震は、まさに青天の霹靂で、平和だった空間を急激に暗転させた印象がある。なぜ僕がこの地震の発生時刻まではっきり覚えているかというと、この時刻のまま止まっている時計を当時の神戸で無数に見たからだ。
当時、大阪堺市に住む高校三年生だった僕は、何を思い立ったのかわからないが、震災から一週間も経たないうちに、「ボランティアに行く」と言い出して、フェリーに乗って南港から神戸の港へたどり着いた。当時、震災に打ち砕かれた神戸の街は、まさに瓦礫の山と化している印象が第一だったが、そこに生きながら早くも復旧・復興へ向かっていた人たちの、底意地の明るさと、純真な魂のありようを、僕は今も忘れることができない。こんな悲惨な出来事の中、人はこんなに明るくてやさしいのかということを、僕は当地で毎日のように見せつけられ、住み込みの一ヶ月間、その感動に浴し続けていた。もちろん、肉親を失って悲しむほかないという人もたくさんいらっしゃったが、正直なところ、それ以上のまぶしさを、震災直後の神戸の街は持っていたと思う。
今でこそ、災害が起こるとただちにボランティアが集まるようになり、ただちに「義捐金」が集められるようになったが、それらの風潮はすべて阪神淡路大震災が発端だ。もともとマニュアルとしてあった手続きではない。年齢的に、当時のことを知らない人たちに向けては、あのときの神戸の人々のあり方が、単純に「日本中を感動させた」のだと、僕は伝えておきたい。あのとき大量の義捐金と大量の救援物資が寄せられたのは、今とは違い「通例」のことではなかった。神戸の人々の底意地の明るさが日本中を感動させ、義捐金と救援物資の送りつけが自然発生したのだ。
あのとき、何百億もの義捐金が集まって、そのことに赤十字の末端職員まで感動していたということを、僕は僕自身の記憶によって確実なこととしてお伝えできる。僕が当時、ようやく回復した電話回線で、赤十字に集まっている義捐金の総額を聞いたところ、返ってきた声は金額以上の歓喜に震えていた。
今でこそ、やれ千羽鶴や寄せ書きは被災地に送られても役に立たないし邪魔で、むしろ害悪だなどと言われるが、当時はまったくそのような扱いはされずに、人々はただ単純に感動していた。何しろその送られてくる千羽鶴や寄せ書きを避難所に運んでいたのが僕本人なのだから間違いない。僕はそのときの当事者としてこのことをいつまでも言わなくてはならないという気がしている。千羽鶴や寄せ書きが、どれだけ役に立たずどれだけ邪魔かというのは、他ならぬ僕自身がよく知っているし、深々と頭を下げて「受け取りきれない」と謝絶した各避難所の教頭先生たちがよく知っている。次々に送られてきて困るということを、想像ではなく直接の状況・困惑として知っている。だが、いくら困るからといって、それに唾を吐いて害悪呼ばわりするような人は誰もいなかった。
千羽鶴や寄せ書きが、災害現場に送られても「困る」ということぐらい誰でも想像がつくだろう。だがかつてそれが純粋に「感動」だったということは、今多くの人にとって想像不能のことではないだろうか。
翌年、浪人で受験勉強を済ませた僕は、何の因果か神戸大学に入ることになるのだが、僕は入学オリエンテーリングの帰り、高台にある神戸大学からの見晴らしを目前にして、その見下ろす夕刻の街にすっかり明かりが灯っているのを見て、「あれだけやられた街が、一年でここまで復興するのか」と、正直なところ呆然とさせられていた。
これが平成8年(1996年)のことだ。その後、僕の大学生活が始まるとして、僕個人の時系列に結びつけるならば、ちょうど僕の大学生活の前半をもって、平成という時代の前期が終わると見ていいだろう。ここまでで何となく、平成の前期における、「罪」のない光景についてお伝えすることができたと思う。
一方で「罪」とは何であったか。僕が生まれて初めてギョッとしたこととして、その「罪」の端緒は、どうも当時言われた「ブルセラ」あたりにあると思う。今やブルセラという言い方さえ死語だが、要は女子中学生や女子高校生の、使用済みのショーツ等を買い取り・販売するということ。当時、僕も思春期の男子だったわけだから、女性の下着に対して、変態的であれ一種の誘引力があることは理解しえたけれども、それを当事者が「売却」して、それを買い取る業者がおり、その業者が「小売」するというのは、いくらなんでも異様なことに思えた。それはあくまで変態的なことであるはずで、商流として成り立つべきことではないはずだった。けれども仄聞するところ、女子高校生の側が少なからず小遣い稼ぎに乗り気だったようだし、また実際に、繁華街の路地裏あたりにいくと、雑居ビルの3Fの窓には、そういった系統のショップが小さな看板を表示していたりしたのだ。それは単純に、性的嗜好を超えてひたすら「気色悪い」と感じられ、まったく「気色悪い」と、当時の友人たちと罵ったものだった。この罵りに、少なくとも僕自身の隠蔽や抑圧はない。今になっても思うが、女性の使用済み下着に変態的な性的嗜好があるのならば、せめて自分でなんとかして盗めと思う。パンティ泥棒というほうがまだ理解に堪える。それを正当な消費者のごとく「購入」するというのは、何かよくわからないが、こめかみを横から殴打してやりたくなる不潔さがあるのだ。ただしそれも当時の感覚で、その感覚を現代において振り回すものではないのだけれども。
おそらく平成6年、1994年あたりで、これらの現象が起こっている。単純にいってブルセラブームと言ってよいのではないか。直接のブルセラ商品購入でなくても、たとえばいわゆるギャルゲーとして有名な「ときめきメモリアル」が同時期に大ヒットした。同時期、小室哲哉が安室奈美恵をプロデュースし、いわゆる「コギャル」のブームを牽引し始める。「ドラクエ」や「天空の城ラピュタ」のちょうど十年後にこのことが起こっていることになる。
94年に、現在まで「ねるとん」と呼びうることになる、イベント的に演出された男女の集団お見合い形式の、すべての語源となった「ねるとん紅鯨団」という番組が放送終了する。そして同時期に、現在「DQN(ドキュン)」という言い方をされている勢力の、語源となった「目撃! ドキュン」という番組がスタートする。ここで<<「ねるとん」という浮かれた男女恋愛のモチーフが終わり、一方では女子高生の使用済みショーツを「購入」したり、また一方では「DQN」という痴愚の勢力が酸鼻な生態を現し始めた>>と言える。尾崎豊は92年の時点に二十六歳で死去している。92年は宮崎アニメでいえば「紅の豚」の年であり、それ以降は97年の「もののけ姫」に続く。「紅の豚」は男たちの陽気な騒ぎがある一方、比較すれば「もののけ姫」は明らかにシリアスだ。
つまり、94年の時点で、人々はどこか「シリアス」になり、それまでにあった、「つまらないものは吹っ飛ばそう」とする魂は失われていっている。94年の翌年が阪神淡路大震災だが、あの震災が、悲惨さ以上に感動の光景をもたらしえたのは、年代的に見てギリギリのことであって、それが十年後のことであったならば、すでに人々は「シリアス」の一辺倒に吸い寄せられてゆき、脱出できなかっただろう。
僕自身、記憶しているのは、ちょうど大学に入って初めての年、こいつがどんな大学生活をしているものかと、高校時代の友人が訪問してきたときのことだ。実際に会って旧交を温めてみると、大学生活の話など脇に置かれて、それよりその彼がめっきり「SPEED」に入れ込んでいるという話が展開された。「SPEED」という四人組のことは当然僕も知っていったが、もう二十歳も近い大学生の男が、中学生の女の子が歌って跳ねるのに入れ込んでいるのはいかがなものかと、憂うというよりも率直なところ僕はゾッとしたのだった。それは、彼の目つきや気配の奥に、すでに進行している荒廃を感じとったからだ。これがたしか1996年(平成8年)のこと。このころから、「何かのファンになる」ということは、目つきや気配に荒廃を帯びるのが前提になっている。本来、何か追いかける像を見つけたならば、溌剌として艶を増すようでなければおかしいのだが。
それから二年ぐらい経って、たしか「モーニング娘。」がプロデュースされたはずだ。ちょうど「ゆず」が「夏色」を歌って登場してきたころのこと。ビジュアル系の「GLAY」「ラルクアンシエル」がメジャーシーンに出て来たのも同時期だ。「酒鬼薔薇事件」と呼ばれる猟奇的事件が起こり、さらにその犯人が中学生だとわかり人々が騒然とした時期だった。この事件も性的な欲求から生じたものらしく、犯人は被害者の遺体を切断中に射精したとレポートされている。ちなみに「萌え」という言葉も、実はこのころにオタク系のゲーム等の作中に使われている。僕はこのころ、ちょうど二十歳になったぐらいに、機嫌の悪い女性から「ああ、彼って、イタい人なのね」という殺伐とした言い方が発されるのを初めて聞いた。時系列として、「チョベリバ」の次ぐらいに当たるだろうか。このころ、男性でも眉毛の形を整えるのは「身だしなみ」だとして一般化した。それまでは、男性は自分の眉毛をいじるということが、伊達男を除いては、発想そのものとしてなかった。
このように考えると、平成の前期、平成ガンネンから平成10年ぐらいまで、平和な光景の背後に、一種の「罪」の萌芽が起こっているように思える。それは、性的な歪みであり、もし最大に端的に言うならば、「女子高生を崇(あが)めはじめた」と言ってもよいのではないかと思う。急激に「ビジュアル系」が台頭したのも、つまり顔の肌がなまめかしく白い、女性寄りの男性をこそ崇(あが)めうるという当時の新思想の反映ではないだろうか。人々は女子高生を崇め、女子高生に己を近づけようとした。
むろん、ブルセラ・コギャルブームが起こる以前から、高校生・青春のあたりの女の子に対する憧憬は当然のようにあった。古い歌にも、「いつもの駅でいつも会う、セーラー服のお下げ髪」という歌詞がある(1963年)。だがこのころの憧憬は、使用済み下着を購入しようというたぐいではないし、ホットパンツを穿かせてダンスステージに立たせようというたぐいでもないし、こぞってルーズソックスを履くだろうというたぐいでもない。まして彼女を真似て青年が女装しようという発想でもなかっただろう。
僕は当事者でないのでわからないが、あくまで仮説としては、バブル景気がクラッシュしたあとのリビドーが、歪んだ形でコギャルに向かったのだと捉える見方もありうる。80年代の終わりから90年代の初頭にかけて、湯水のような札束で、ワンレン・ボディコン・イケイケ娘を飼い慣らしていた時代が破綻し、破綻後に蔓延した罪のムードの中、まだそうした金銭の罪とは直接関係のない女子高校生にリビドーが向かった。少なくとも、小室哲哉がバブル娘の残滓をシンガーに抜擢はしなかっただろう。ブルセラ・女子高生は当時、共産主義にもバブルにも見放された絶望の民にとっての新しい「信仰」だった。
何はともあれ、僕は平成という時代について、それは戦争がなかったということでまさに平成という元号の時代だったとよろこびはすれど、同時に「罪」の時代だったという一側面も強く覚えるのだった。その「罪」の端緒は、性的な歪み、端的には「女子高生を崇めた」ということ、何なら当時のこと、女子高生の靴でも舐められるものなら舐めたいという中年男は無数にいたのではないだろうか。それが信仰であるが故に。
女子高生が「崇められていた」ということ、それもファナティク(狂信的)にということは、当時を女子高生として過ごした女性なら、紛れなく心当たりがあるはずだ。実際に当時、中学生の女の子が、「女子高生になるのが楽しみでしょうがない」と言っていたのを、僕は複数の例で記憶している。
平成の前期はそうした時代で、罪のなかった光景の裏側で、性的な歪みという罪が萌芽し始めたということ。次に中期(平成10年〜20年)がやってくると、今度はインターネットの「常時接続」という時代がやってくる。そのことによって僕は、性的な歪みは両極端の方向へ拡大されたと感じている。罪が大きくなるほどに人々の魂は散逸してゆき、よって平成10年(1998年)以降、シンガーでさえシャウトする人々は減っていくのだ。
***
平成の中期、平成10年ぐらいから、ちょうど人々は携帯電話を持ち始める。当時は「ピッチ」と呼ばれ、PHSというタイプが安価ゆえの主流だった。人々は携帯電話を持ち始めると、単純に、セックスに到る機会が多くなった。なぜならそれまでは、電話といえばいわゆる「家電(いえでん)」しかなくて、家電に電話すると、母親や父親や兄弟など、家族の誰かも電話口に出たからだ。つまり単純な個人的関係が持ちにくかった。いちいち電話口で母親に「どちらさん?」と、平たくいえば圧迫されるようでは、男性は女性を誘い出すのにも尻込みしたし、そのぶん女性が家族に防衛されてもいた。その後携帯電話が個人の手に得られるようになり、結果的に十八歳未満の売春、いわゆる「ウリ」と当時は呼ばれた現象も拡大していく。これが電話ならまだしも、メール機能が搭載されるようになると、寂しがり屋の若い人々は、人とのつながりというより単純にメールのやりとりに首ったけになった。時代的に前世紀末のころ、若い人々はさびしさを癒すのにひたすら「メール」の連打で夜を過ごしていた。そういう時代があったということも、やはりどこかに記録されていくべきだと思う。
僕自身はこの後、商社マンになって、自分以外の人々のありようなど「知ったことか」という時期を、数年間過ごすけれども、今になって振り返れば、この平成の中期はインターネットの「常時接続」がすべてを変えた時代だと思う。かつては電話回線で「ダイヤルアップ」でつなぐしかなかったものが、ISDNになりADSLになり、光回線になり、平成の後期には接続線さえ要らないWi−Fiになった。平成10年にすでに「eメール」はあったが、それはパソコンの所有者がプロバイダ契約と共にメールアドレスを取得し、帰宅ごとにダイヤルアップ回線に接続し、メールを受信したら接続を切って接続料を節約する、というようなものだった。これが常時接続になるということは大きな変化をもたらす。
今になってはもう、想像さえしにくいことだろうが、インターネットの常時接続が得られる前、たとえば若い誰かが一人暮らししている場合、その若い人は本当に毎夜「することがなかった」のだ。テレビがあるといっても何時間も観るわけではないだろうし、毎夜借りてきた映画を観るわけでもないだろう。当時、本を読んだりする人が多かったのは、つまりインターネットの常時接続がなく、本当に「することがなかった」からなのだ。当時と現在とでは「読書」の持つ意味が違う。今は読書といっても、その読書をやめれば、ふたたびスマートフォンに帰るという具合だろうが、当時はその読書をやめたところで、一人ぽつんと、やっぱりその本を読むぐらいしか「することがない」という実情だった。それだからこそ、いつも枕元にあって、自分の生きた時間に寄り添った一冊、というようなものも成立しえたわけだ。この、「することがない」という根本的な状況を、インターネットの常時接続は消し去ったと言えるだろう。
また、「することがない」という実情があったからこそ、不意に友人が訊ねてくるというようなことは、本当に無邪気にうれしかったのでもある。若い人が毎夜のごとく「することがない」まま過ごす時間はまるで物理的に感じるほどにずっしりとしていて、自分がいろいろと考え込んでしまうことにも何の防波堤もないという状態だ。そこに、友人と一緒に、朝まで話して過ごせるというのは、本当にうれしくて照れ笑いが止まらないようなところがあった。当時の一人暮らしというと、よほど交遊が豊かな者でなければ、現代人が一人旅に出ることよりよほど孤独の実感が募った。今でもウェブ上の掲示板に「孤独だ」というようなスレッドが立ったりレスがついたりするかもしれないし、そういったツイートが為されるかもしれないが、そのスレッドやツイートというシステムじたいがなかったということだ。本当に時計の針の音しか聞こえてこないという状態がありえた。
しかし今になって思うに、そうした物理的なほどの孤独、ひとりの夜、さびしさというのは、魂を養うには必要な時間だったのかもしれない。そこにある、のっぴきならない物理的なほどのさびしさは、魂の危機であり、魂の危機であるからこそ、魂が存在していることを直接に教えたからだ。たとえば現代人においては、多くの人がすでに恋人など必要ないと価値観を形成しているが、それは本当に時計の針しか聞こえない中を何ヶ月も何年も暮らしていく中で、恋人など要らないと考えたものだろうか。今多くの人は、恋人は要らないだろうし、仕事といっても、安定して正当な給与のために一定の労働力を提供するのに異議はないというていどの捉え方だろうが、それらの価値観はおそらく己の魂に問いかけて魂から得た回答としての価値観ではない。自分をズブズブの尽きない娯楽に漬け込むという前提がいつの間にかある。
平成の中期、インターネットの常時接続は何をもたらしただろう。それはひとつに、魂の危機に安堵をもたらしたといえる。もちろん、ニセの安堵であり、それはあくまで魂の危機が「ない」かのごとく見せかけるようにはたらきかけたにすぎないけれども。同時にインターネットは、魂の危機を欺瞞すると同時に、大量の「オカズ」を提供しただろう。インターネットから得られるのは、性的なコンテンツというよりは、直接に「自慰向けのコンテンツ」とみなすべきだろうが、各種大量の自慰向けコンテンツに、今人々はワンタップでアクセスできる状態にある。
そうするとここには、先に述べた、「女子高生の使用済みショーツを購入する」という罪とは異なる、新しい方向へのリビドー放出が起こっていることになる。女子高生を崇めるという退廃的信仰があったとして、その靴を舐めたがるにしても、じっさいにその靴を舐めようとすればずいぶん<<手間暇が掛かる>>わけで、それとは異なる安上がりの方向へのワンタップが安易に隆盛するのは明らかなことだ。
僕はこのことに、性的な「引きちぎり」が起こったのだと、今になって考えている。今になってというのは、僕はこの平成の中期、一時期は商社マンで、ひたすら鬼のような思考をしていたし、また商社を蹴って小説家を志望したいと転針した後にも、僕は自分の希望に邁進する日々があっただけで、正直なところ他の誰かがどのような状態にあるかなどまったく考えなかったからだ。平成の中期、多くの人にとってどのようなことが起こったのか、当時のリアルタイムにおいては僕は知らない。だから今になってという言い方になるのだが、今になって、僕はそこに性的な「引きちぎり」があったのだと思っている。だから僕の知らないところで、世の中にLGBTの土台が出来、腐女子が大発生し、フェミニズムや、ミソジニー・ミサンドリーが発生していったのだろうと思う。僕はそのような性的変型の話を、いくらか仄聞してはいたが、本当にただの局所的な、ジョークのたぐいだと思っていたので、そのジョークが現在にまでつながるシリアスなネタだとは思っていなかったのだ。誰も真剣にそんなことを言っているのだとは思わなかった。
性的な「引きちぎり」とは、憧れる異性と、直接の性行為の対象が、遠くかけ離れて分断されてしまうという現象を指す。
バブル景気のクラッシュによって、もう「ジュリアナ」で踊り続けるボディコン娘に入れあげる夢は永遠に否定され、人々は秘密警察のようになり、バブル生成と崩壊をやらかした「戦犯」を探し始めた。おそらくはそのときに、その経済的な罪から無縁な女――バブル生成と崩壊の犯人たりえない、完全に手の白い者たち――に、女神像が移動している。
実際、バブル景気に浴して、泡でしかない札束に毎夜微笑んで踊っていた者たちの顔と臓腑は、現在に到っても蓄積した薄汚さを免れない。いくら隠していたとしても。当時のことを、当事者以外は観想しようもないが、考えれば不思議なこと、バブル経済が崩壊して損失補填しようとした証券会社が吊し上げをくらい、投資家や不動産業がつぎつぎに首つり自殺していく中、女たちはいつどのタイミングで「ワンレン」の頭髪をこっそり切断したのだろう? バブルが崩壊したあとのワンレン・ボディコン・イケイケ娘などは、何の輝きもない残骸でしかなかったに違いなく、その残骸はまったく思い出というよりは醜いばかりの証拠物件だったろうと想像されるのだ。それはいつの間に、そっと地下倉庫に埋葬されたのだろう?
そのことを踏まえれば、確かに当時の「女子高生」は、ボディコンの落ち武者女たちよりは、格段に清潔でうつくしくあれただろう。そうした潜在的な罪の構造があり、無罪の女子高生が「救済」の成分を含んで崇められるようになり、それが小室哲哉・安室奈美恵のラインからコギャルブームとして社会現象化することには、罪と救済という仕組みにおいて、目には見えないにせよ構造的な必然性があった。
ねるとん」が終わってドキュンになり、使用済みのセーラー服が販売されるようになり、高校生の安室奈美恵や中学生の「SPEED」が歌い踊るのを「崇める」ようになったのが、平成の前期における、「罪」の側面だった。それが若さへの賛美ではなかったことは、同等に男子高校生が崇められてはいないことから断定できる。コギャルブームの時代に男子高校生のブームはまるで存在していない。
これが平成の中期になると、インターネットの常時接続がテクノロジーの側面から介入し始めて、人々はそこから大量の「オカズ」を検索するようになった。かつて、「スナッフフィルム」といい、ごく一部の異常な趣味として、殺人や拷問の映像を嗜好的に愉しむ人たちがいたが、インターネットの常時接続以降、「オカズ」探しに深入りした人は、何かしらの「グロ画像」も一通り目にすることになったはずだ。平成の前期に「女子高生を崇める」ということで成り立った女神像は移行しうる次のモデルを見つけられないまま、人々にとっての「オカズ」はテクノロジーに援助を得て一気に程度を苛烈にしていく。憧れうる「異性」は、白い手の女子高生に固定されたまま、性欲・射精対象としては、外国語のウェブサイトを経由しなくてはならないような、どぎつい性的怪物に移行していった。
少し余談を挟むと、たとえば「ボイン」といって、現在はバストの大きな女性が、性的シンボルとしてもてはやされる時代だが、「ボイン」というのも60年代の造語だし、そこからずいぶん長いあいだ、「ボイン」というのは揶揄・からかいの表現であり、ボインを人々が尊んでいるわけではあまりなかった。ボインというのは、どちらかというと馬鹿にされる向きがあった。だから、いわゆるアイドルタレントでいうと、松田聖子や中森明菜の時代、見渡しても「ボイン」のアイドルはいない。やはりこの現在につづく「巨乳」のブームも、92年あたりを皮切りに、おそらく細川ふみえさんあたりを草分けにして、つまりほとんどは芸能事務所イエローキャブが切り拓いていった新興の性価値観だ。水着姿のおっぱいを恣意的に揺らす映像は数十年前には現代のように「美」ではなかった。
平成の中期、人々はけっきょく、手の白い女子高生を捜し求める旅には出なかった。女子高生ではなくとも、何かしらそうした罪と無縁の、手の白い女が引き続き崇めるべき女神像であったけれども、何しろその女神像を実際的に追い求めるのには、ずいぶんな労力と手間暇が掛かる。そこにインターネットが常時接続されていれば、人々は第一に、今日もウェブサイトの果てに「オカズ」を求める冒険に出るのが現実的だった。このあたりのことを語るのに、いまいち現実感が伴わないのは、実際に現実に起こっていたことに現実感がないので致し方ない。率直にいえばこの平成の中期、人々は、常時接続の中でのめり込んでゆける「オカズ探し」に、「ワクワクしていた」のではないだろうか。現在はそのワクワク感さえ失われたからこそ、そのかつてのワクワク感が引き立ってくるわけだけれども。
僕自身、実際にこの時期に、多くの女性とインターネット上で連絡を取り合い(僕は2002年、平成14年から現在のウェブ管理者だ)、未成年も含めた多くの女性から、たくさんのラブコールを受けている。そのラブコールは、つまりメールや、当時新しく始まったチャットサービスを媒介して交わされたのだが、その中で何度も、直接会った少女が、目の前で対面するとたちまち凍りついてしまうという現象を目撃した。電脳通信を媒介してやりとりしているときは、性的に貪欲であり、異性に対して能動的で、日常的に自慰に耽り、性交への希求が強くあると少女は言う。けれども、実際に生身で直面してみると、自慰の程度に比較して異性との接触はまるで希薄で、実体は恐慌で凍りついているのだ。そのことは、いっそ「毎度のパターン」だったので、僕は実際に、わざわざ直接に面談してから、それぞれの座席を離して、携帯のメールでやりとりしたことが何度もある。少女は、メールにおいてはいつもの貪欲な彼女だった。けれども直接に近づくと、やはり機械仕掛けのように硬直して、ウンともスンとも言わなくなり、ひたすら震え続けるのだった。中には群を抜いて目立つような美少女もいて、うつくしい髪にうつくしいネイルを整えていたのだが、それでも実際には凍りついて震えることしかできないため、僕はとっくに下心などはよそに置いて、「こいつは一体何をやっているのだ、こいつは大丈夫なのか?」と深刻に訝しんだものだった。
インターネットの常時接続は、人々に大量のオカズを提供したが、むろんそのテクノロジー自体が、新しく憧れるべき異性のモデルをもたらしはしない。憧れるべき異性のモデルは古くさいままで、それはやはり女子高生であったり、女性にとっては、やはり少女漫画に出てくる美男子であったりしたままだった。こうして人々の性愛は、魂の求めるところと性器の求めるところが極端に乖離していくことになった。魂が求めるところの異性と出会うために旅に出るというような、手間暇の掛かることはすっかり忘れ去られ、日々の性愛は、まず性器の求めるところにコンテンツをあてがって満足させるということが具体的に第一になった。
平成の初期の罪が、退廃の結果として「女子高生を崇める」であったとするならば、平成の中期の罪は、「引きちぎられた満足」にあったと思う。本当には、魂は何も満足していないはずが、「満足しています」と言い張るようになった。なぜそのように言い張れるかというと、真夜中に一人になっても、自分には「することがある」ように思えるからだ。文化的にも性的にも、自分には常に「することがある」ように、インターネットの常時接続は人心を欺瞞した。人々は、出てもいない冒険の記憶を錯覚している。
罪があると人は魂を失う。罪によって己の魂は散逸する。平成の初期、女子高生を崇めた人たちは、ひとしきり自失に耽るまでしてリビドーを迸らせることができたかもしれないが、やはりその中で己の魂を散逸しただろう。平成の中期、インターネットが常時接続されると、人々はさびしさという魂の危機に直面することを避けられ、その罪のぶんだけ魂を失っていった。本当は、文化的にも性的にも、ひどく「することがなかった」はずなのだ。本当にはすることがなかったはずが、事実として常に何かをしており、物理的なほどのさびしさというものには直面したことがないのは、魂とは引きちぎられた満足行為があったからのはず。
この「引きちぎり」という上手い方法は、その後「居直り」「跳ね返り」というような現象をもたらしてくる。それらは常に上手い方法に見えるのだが、やはり本質的には罪があって、罪を重ねるごとに魂は失われていくのだ。平成には、罪の時代だったという側面が確実にあると僕は思う。
***
平成の後期は、平成20年〜30年で、むろん終焉の31年も含めて差し支えないだろう。平成20年は西暦2008年であり、すでに三年後に東日本大震災を控えている。
バブル経済の崩壊以降、二〇年にわたって根本的に回復しようとしない景気に対し、2005年ごろにはいささか強引な「バブル再来か」という作り物のムードがあったのだが、この骨のないムードは翌年のライブドアショックで地に落とされる。地に落とされた人々は、やはりバブルの夢は捨てて堅実にやっていこうとこころに誓い直したのだが、そんな誓いこそ安っぽいのだと断罪されるかのごとく、2008年にはリーマンショックが起こり、どうやっても滅びるものは滅びるのだという教訓を人々は得た。
この教訓に打ちひしがれている中、2011年には東日本大震災がやって来、人々の構築した街と財産と生命が、容赦なく黒い波に呑み込まれているのを目撃することになった。福島の原発トラブルは、ともすれば東日本全体を居住不能にするかもしれないという可能性が、可能性というより「五分五分」というリアリティをもって日本人の目の前に突きつけられた。今になっても、使用済み燃料プールが損傷せず、偶然にも建屋が吹っ飛んで、外部からの注水が可能になったということは、マグレのような幸運、不幸中の幸いの最たるものだったと僕は思う。本当のところをいえば、あれは五分五分というより、七割方ダメという見方が正しくて、偶然の幸運が残りの三割を引き当てて日本は救われたのではないだろうか(より深刻な可能性は、使用済み燃料プールの破綻にこそあったことは、今でもあまり知られていない)。
平成の後期はそのように端を発している。何かもう、めちゃくちゃという率直な印象があるのだが、このめちゃくちゃという印象の中で、2009年にAKB48が大ブレイクし、その後のヒットチャート記録を更新していく。2009年以前にもAKB48は存在したそうだが、けっきょくは2009年に「握手会」という方法を考案・敢行したことで、握手券の付録たるCDは爆発的に売り上げを出し、晴れてメジャーの存在となった。
AKBが、オタクファンたちの「握手」目当てにつけ込んで、そのCD売り上げを嵩増しというよりは倍増させ、音楽のヒットチャートを書き換えるということは、当然ながら不正の手段だった。また不正という以上に、不潔な方法であって、当時はその仕掛け人である秋元康に対し、「頭がおかしい」と公言した著名人もいた。このときまで、まだAKB48は「キモオタ」のジャンルだった。AKB48のシングルは尾崎豊のレコードより売れたという比較には何の正当性も認めないと人々は信じていた。けれども、リーマンショックで誰もが打ちひしがれているところ、さらに極大規模の震災が起こると、正直なところAKBの手法がどうこうというのは、「もうどうでもいい」というため息に勝れなかった。「原発は安全です」というひどいウソを、保安院の人たちが毎日ごまかそうとする醜態に人々は耐えねばならなかったのだから、そこに握手券の同封商法がどうこうと、もはや正論を言い出す気にはなれなかった。
2011年(平成23年)3月11日の、東日本大震災以降、まるで日本の歴史は凍結したかのように、何も起こっていない印象を受ける。よって、この震災の年をひとつの分岐点とみなすのが妥当なところだろう。東日本大震災がどのような情勢下で発生したかだが、このことを振り返ると、まさにそこから日本の歴史は凍結しているのがわかる。2006年ごろに、SNSの草分けとして「mixi」が流行し、2007年ごろにはすでに、SNSから発生する「炎上」という現象が注目され、危険視されていた。2008年にはすでにツイッターが普及しており、だからこそ震災のときにもツイッターで安否の確認や「拡散希望」がすでに出回っていたのでもある。
つまり、現在が2019年だとして、十年前と比較すると、十年前と「何も変わっていない」ということがわかる。現在でもわれわれは、SNSで発生する炎上に注目しながら、ツイッターがあれこれ言い合うのを漠然と立ち聞きしている。いわば、リツイート・バズや炎上騒ぎひとつにしても、「そんな古いことをまだやっているの?」という嘆きが、本来あるべき時期なのだ。この十年間はまったく凍結されており、その凍結を、リーマンショックと大震災が決定づけたと考えうるだろう。
その凍結の中で、たとえば「バルス祭り」というような現象があったり、レディガガやジャスティンビーバーが人気になったり、「ピコ太郎」がブームになったりしても、それらをもって何か「出来事があった」とはみなせない。震災以降に起こったことは、ただWi−Fiエリアの拡大と、動画サイトの拡充、あとはいくつかの「みじめな規制」だけだ。動画サイトの拡充は確かにここ近年で目を見張るものがあり、またいくつもの「みじめな規制」については目を覆いたくなるものがある。ここ十年で起こった本当のことというと、実はそれ限りかもしれない。数年前に、たとえば「倍返しだ」「じぇじぇじぇ」「レリゴー」「ズクダンズンブングンゲーム」が流行ったとして、それを人々は自分の生きた時代の傍証とは認めておらず、ただ本当に「そのとき流行っただけ」だ。仮に、もしどれかの流行についての記憶を消去されるとしても、正直痛くもかゆくもありませんというのが人々の偽らざる心境だろう。あるいは金曜ロードショーで「君の名は」が放映されたとしても、その映画について級友たちが休み時間に話し込むということはないだろうし、いくら「モンハン」や「ポケモンGo」が流行ったとしても、それが自分の若い時間のひとつの起点だったということはやはりないはずだ。
Wi−Fiと動画サイトの拡充、および「みじめな規制」の氾濫以外に、「何も起こっていない」というのが平成の後期の特徴だ。ただ時間だけがずるずる過ぎていく。つまり、平成の後期は表面上、平成の中期をそのまま保存しているということになる。そこにリーマンショックと大震災が襲いかかったのだが、むしろそのどうしようもない外部からの威力襲来こそが、人々に能動性を放棄させて、「もうどうでもいい」というため息がいっそ己の固定的スタイルになり、人々は何もしないまま十年を過ごしたように見える。
平成の後期が、そのように「何も起こっていない」「何もしない」「能動性を放棄した」十年間だったとして、何もしていないぶん、人々は「罪」から無縁でいられただろうか。この十年間のことは、むろん僕自身にとっても記憶に新しいわけだが、その記憶の中、この十年間の人々が「罪」から無縁だったという印象はまるでない。何もしていない十年間でも、加齢はしていくわけだから!
平成の初期に女子高生を崇めて自失しようとするような罪が始まり、平成の中期には引きちぎられた満足をもって己の魂の満ちたるを言い張る罪が蔓延した。これらの罪の中、さらにSNSが流行して、「することがない」はずの人々は、炎上騒ぎを覗いたり、首を突っ込んだり、意見を述べたりして、「することがある」ふうを偽装していたのだが、そこに物理的な衝撃まで刻みこむ大震災と大津波が起こり、放射線の毒で人々を脅迫し始めたとき、誰が自分たちのことを、祝福を受けた民たちだと信じられただろうか。まるでことごとくが「死ね」と言いつけてくるような、断罪のムードが、あの極大の震災にはあったと思う。
あの震災以降、人々は、自分たちが祝福を受けた何かであるということを信じられなくなり、むしろはっきりと、「そうではない」という確信さえ植え付けられたように思う。
2011年(平成23年)3月11日、僕は東京の葛飾区にいて、直接の震災被害はなかったにせよ、午後二時四六分には、大地は鳴動し、街中の家屋が揺動し、この世の終わりのような音が鳴り響いた。揺さぶられたプリンのように湾曲して踊り続けるそれぞれの家屋が、なぜ倒壊しないのか不思議に思えるほど、それは大きく揺れ、長く揺れ続けた。僕はその揺れに晒されながら、家の前の路地で、ガードレールに掴まって、とっさのことながら当然に、かつての阪神淡路大震災のことを思い出していた。「割れたガラス窓が降り注いでくることに注意しなくては」。
東日本大震災が起こったとき、僕は原発の危機をニュースに聞き取りながら、なぜかずっと前に本で読んだ、スリーマイル島事故のレポートが、すらすら頭に出てくるのをわれながら不思議に思った。勉強はしておくものだ、と冗談のように感心したものだった。建屋に爆発が起こるということはすでに遊離した水素が満ちているということで、格納容器が破損するとすると、放射性プルームを含んだ雲が、無風、「時速10マイル」で南下するとして……と、なぜこんなレポートがすらすら思い出せるのか、笑ってしまうほど不思議な現象だった。
僕は、原発事故は別として、震災の危機と復興について、古い記憶を思い出していた。ライフラインをすべて断たれた現地では、あちこちに孤立した避難所が発生するのだが、その避難所がどこにどれだけ発生し、人々が何人いるのか、どこに怪我人と病人が何人いるのか。とにかくその情報がほしい。現地では必ずそういう状況になる。震災の現場は、まずその情報がないのだ。どこに何をどれだけ持っていけばいいのかわからないし、どこに誰を助けにいけばいいのかわからないのだ。実際に震災直後の現場に立たされると、何をどうしたらいいか情報がまったくなく、極論するところ、「自転車でとりあえず周囲をまわってみるか」ということをスタートにするしかなかったりする。地図に情報を書き込んでいければよいのだが、その地図だって急に手元にはないのだ。
僕は、僕がまだ本当に若かったころ、まだ十八歳の高校生だった、震災直後の神戸にいたときのことを思い出していた。あの瓦礫の山の中、悲惨なダメージを目撃しながら、それ以上の感動に浴していた日々のことを思い出していた。人々が隠し持っていたあの底意地の明るさのことを。
僕はこのとき、最悪のケースを想定して鼻白みながら、同時に、あのときのような希望にまた触れるのかもしれないと感じ、そのことについて友人に漏らしたりもしていた。その思いは、ちょうど震災直後、村上龍がニューヨークタイムズに寄稿した文章とそっくり重なるので、その名文をここに引用しておきたい。
――――――――――――
(前略)
今この時点で、私は新宿のホテルの一室で決心したスタンスを守るつもりでいる。
私よりも専門知識の高いソースからの発表、特にインターネットで読んだ科学者や医者、技術者の情報を信じる。彼らの意見や分析はニュースではあまり取り上げられないが、情報は冷静かつ客観的で、正確であり、なによりも信じるに値する。
私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。
今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。
東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。
だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。
大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。
だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。
だから私は信じていく。
(危機的状況の中の希望/村上龍)
――――――――――――
村上龍氏が言うように、「すべてを失った者が、希望を得る」ということが、まさにあることを、僕は平成の前期に直接知った。そのことに重ねて、僕は村上龍氏の発言を受けて、まさにそのとおりであるはずだと願ったし、まさにそのとおりなのだとも信じた。同時にそのとき、やっぱり今も、村上龍は村上龍なんだと信じることにもなった。
けれども、おそらく数ヶ月もしないうちに、村上龍はこの名文たりうる発言を、きっと取り消したく感じたはずだと、僕は思うのだ。僕自身がそう感じたように。平成の後期、私たちの仲間と資源は根こそぎ大地震と津波に奪い去られ、全てを失った日本は、しかし希望を得などしなかった。むろん、神戸の震災とは規模が違うということもあるだろう。だが規模以上に時代が違った。東日本大震災にまつわって起こった出来事はことごとくが陰鬱だった。おそらく、原発の現場では、死を賭して義を果たした勇士がいたに違いないが、そのことをさっ引いても、やはり東日本大震災の周辺はひたすら「陰鬱」という印象に括られている。
阪神淡路大震災と、東日本大震災が、なぜこうもムードが違うのかということについて、僕は数年のあいだ考え続けた。考えた結果、これという解答は出なかったのだが、今、平成の終わりと令和の到来を目前にして、ようやくひとつの結論にたどり着ける心地がしている。
平成は罪の時代であって、平成の前期に生じた震災と、平成の後期に生じた震災を、同列に比較することはできないのだ。女子高生を崇め、引きちぎった満足を言い張るということは、思いのほか罪が重いらしく、震災によって危機的状況に晒されたとして、その底意地が陽たる霊魂の側へ再生するということは、どうやら事実上「ない」らしい。僕自身を含め、同時代の人々は、このしょうもないことに思えた「罪」を、たぶん甘く見ていたのだと思う。いざというときは、もっと感動的な本性が出るものだと、まさに甘く見ていたのだろう。人々の生身に及ぶ危機的状況というもののインパクトより、しょうもないことに思えていた「罪」のほうが、思いがけずはるかに根が深いようだ。東日本大震災では、震災が起こると真っ先に、銀行のATMが襲撃を受けたという話もある。震災直後の神戸ではそういう話を聞いたことがない。すでに罪により魂が失われた時代と、まだ魂が保たれていた時代のことを同列に並べることはできない。
東日本大震災をクリティカルの一撃として、平成の後期には、どういう「罪」がありえただろうか。僕が思うに、そこには罪に対する「居直り」、さらには「跳ね返り」さえ生じたのではないだろうか。つまり、たとえば先に引用した村上龍の寄稿についても、氏が希望へ回帰しようとすることに対し、むしろ人々は居直り・跳ね返り、村上氏の言を嘲笑して地に落とそうと(マウントしようと)はたらきかけるのではないだろうか。
リーマンショックや、東日本大震災は、まるで何かが日本人に「死ね」と言いつけているかのごとくだったから、その祝福のなさに、人々は逆に居直り・跳ね返る挙動を示した。ほとんど痙攣のような脊髄反射で。僕は村上龍の当時の寄稿には村上龍の魂をやはり認めるが、そこに魂が認められるからこそ、今の人々はそれを踏み殺そうと(マウントしようと)するのではないだろうか。
平成の前期・中期を経て、罪によって魂を失っていった人々は、平成の後期に到り、失われた魂を取り戻そうとする勢力とはならず、むしろ残存する魂を踏み殺して回ろうとする勢力になった。東日本大震災の一撃は、残念ながら村上龍氏の言ったような、魂に回帰する契機にはならず、むしろ人々を居直り・跳ね返りさせる決定的な「とどめ」の一撃になった。
平成の後期は、魂が失われるどころか、残存する魂を掃討する時代になった。その掃討作戦に従軍した人々には、いよいよ決定的な罪が重ねられることになっただろう。実際、魂のないものを壇上に立て、魂の残存するものを、マウントによって踏み殺そうとする。たとえば会社の上司は、こっそりと、魂のない挙動をするアイドルのファンであり、まだわずかでも魂を残そうとする若い新入社員を、なるべく打ちのめして元気をなくさせようとする。なぜかわからないが、人々はすっかりそうした衝動に取り憑かれている。そうしてマウントを取られて押しつぶされた側は、何かしら「みじめな規制」を転用することで、力の上位者を屈辱的に滅ぼせないかと、そのことについてだけは血眼に考える。
人の魂が罪によって失われるものなら、目の前に魂を残す誰かがいると、ますます自分の罪深さに心当たりが増してくるということなのだろうか? しゃかりきに、平成後期の人々は、残存する魂を根こそぎ踏み潰そうとした。希望にあふれる眼差しや表情、またその物語を決して許そうとしなかった。そうして、自分は表面上、罪のないほうへ立ちたがり、他の誰かに罪があるように思い込みたがった。
平成の中期においてはまだ、人々は、己が魂を失ったことについて、また引きちぎられた満足の中で、偽りの安逸に時を過ごしているということに、ひとしきりの自覚と悔い、また疑問と、何であれば改めようとする気概を持っていた。少し酒の勢いも借りたにせよ、「こんなことじゃだめだ、わかっているよ!」と。いくつもの「みじめな規制」群については、ほぼすべての人が「アホらし」と鼻で笑っていただろう。その気概が、平成の後期に到ると完全に失われる。もはや、魂などない、この空虚といびりあいこそが正義なのだと、無理にでも言い張ろうとする気配に、平成の後期は満ちた。それは平成の後期における、中心的な、死に物狂いの主張だっただろう。
だがその涙ぐましい渾身の主張も、性質としてはただの罪であって、ますますの、しかも決定的な、罪の累積と魂の散逸をもたらすだけだった。
平成はこのようにして、罪の時代という側面が確かにあったと思う。遠くは、バブルの崩壊があり、泡沫のカネに舞い上がり続けた罪と、その莫大な債務から目を背けんあまりに、女子高生を崇めるという罪の始まりがあった。それは性倒錯というよりは、罪から救済されて楽になりたいという、根の深い衝動からの現象だったと、今になっては感じられる。制服を着た彼女らは、重苦しい罪から無縁の、平成初期のマリアたちだった。女子高生・女子中学生に対する「信仰」があったということを、当時を生きた人々は否定しないだろう。女子高生も十年後にはよく知られている年増になるということに、あえて目を背けつづけたことも含めて。
その架空のマリアたちに憧憬を覚え続けるだけでも、いかがわしさの罪が深かったに違いなかろうに、その憧憬を追い求める魂さえ横着をさせて、実際には平成中期、常時接続のインターネットに無尽のオカズを探し回った。このときはいっそのこと、一種のユートピア幻想さえあったかもしれない。インターネットが常時接続さえされていれば、自分はいついかなるときにも「やることがある」。自分には何もなくて、恋人も青春も仕事も本質的には無いのだけれども、にもかかわらず常に「やることがある」という、ユートピアの状態が錯覚されただろう。「やることがある」と錯覚できる人々は、自分が魂の喪失によって見下されるという悪夢から逃れることができた。魂から引きちぎられた満足であっても、さしあたり言い張れるだけの満足はぎっしりと手にしているし、それが尽きることはきっとないのだから、このまま押し通せるような気がしてくる。それならば今夜はとりあえず深く眠れそうな気がする。
平成の後期には、そこからさらに居直り・跳ね返りが起こる。確かに、すべての満足は引きちぎられた偽りのもので、恋人はいないのに自慰コンテンツで「満足」しているし、仕事も友人もまともに無いけれども、それにしても事実として毎日「することがある」のだから、それらの「満足」がけっきょくすべてであってよいのではないのか? なあ! 幾人かの当事者は、壮絶に苛立ったことだろう。もしそこに、魂から引きちぎられていない、魂と合一したままの「満足」および「することがある」という者がいたりしたら、その者に対しては、とにかく上からのしかかって、押しつぶさないでは気が済まない。そうして押しつぶすために、いくつもの規制を用意しろ。確かに自分は、「白い手の女子高生」を憧れる女神像としながら、実際には汚穢に満ちたヴィジョンでオナニーと射精をしているかもしれない。それで、たとえば空想でしかありえない少女キャラクターを我が女神と崇め、その少女キャラクターが汚穢に犯される同人誌をオナニーのオカズにしているという事実があったとして、自分はこれで満足と言い張っているのだから、そのことにケチをつけられる謂われはないのではないか? ……彼の魂はすでに罪によって散逸しており、まとまった思考など持てないから、結果的に生じるのは、ただ衝動的なマウント態度だ。彼はもう、そのことを自分で制御できない。彼は不倫についても喫煙についても、本当に十五秒しか考えることができない。何かを考えるということがもう出来ず、数秒のうちに絶対的なマウント衝動が起こってくるだけの人体装置に成り果ててしまった。
あと数日で、平成が終わる。そこで、この直近の一年間ほどを、平成の「末期」と捉えるならば、この平成の末期において、この罪の時代を生き抜いた人々は、一種の息切れを起こしているように僕は思う。女子高生を崇め、引きちぎられた満足に向けて「やることがある」とユートピアに言い張り、いっそ残存する魂の勢力には、上からのしかかって攻撃し、押しつぶせばいい、意外になんとかなる、非行をほじくりだして拡大し、私刑の対象にしろ……という一連の方法に、ついに当人たちが息切れを起こした。十五秒で自分の精神が分散するという事実に、さすがに生理的というほどの恐怖を覚えているのかもしれない。自分が正しいと信じたはずのものが、果てしなく自分を疲れさせていく。
人々はことごとく、これまでを何であれ、自分が勝ってきたように考えている。女子高生を崇め、引きちぎられた満足を「やることがある」と言い張り、魂のうんぬんについては前もって瞬発的なマウントで何とかしていけばいいというやり方が、ここにきてまったく別の話題のように、「もうあなたの魂は帰ってこない」と言われると、そのことのほうにリアリティがあり、急遽「なんとかなりませんか」と、有効な手当ての教示を乞いたくなる。本当に、あと数日で平成が終わるのだ。確かにもう魂は失ったまま、容赦なく次の時代に放り込まれるのが恐ろしいのだろう。直観的に、「すべては本当にそういうことなのだ」と視えてしまうのだと思う。
でも本当にそういうことだ。
これまで、昭和の名残に食い下がっていた老人たちに、何の救いも必要ないと、正当に見限ってきたように、これからは平成の名残に食い下がろうとするような加齢者たちに、何の救いも必要ないと正当に見限られるだろう。激動の昭和という言い方がされるが、それが本当だったのかどうかは知らない。ただそれは、すでに終わったことという点だけが重要だ。平成は罪の時代だったと思うが、それが本当だったかどうかはさておき、重要なことはそれがもう終わるということだ。
激動の昭和が終わり、罪の平成が終わる。平成の民が、昭和の戦争を否定したように、令和の民は、平成の悪あがきを否定する者たちでなければならない。
罪の平成には、無数の、悪あがきの痕跡が残っている。今それはすべて過去の遺物になろうとしている。かつて少なからぬ人々が昭和から脱出できなかったように、これから少なからぬ人が平成を脱出できないだろう。
人々は、この平成という時代に、「罪によって己の魂が失われる」という現象の三十年間を実地に生きたのだと思う。そこで、そのことにはもう飽きたから、これから新しく来る令和は、魂の令和であってほしいと僕は望む。魂を失った者は、すでに何もまともに考えられず、十五秒で精神が分散し、何かのコンテンツを補充しないとやっていけないのだが、罪に対するそうした悪あがきが、ついにその目を覆いたくなるような惨状・醜態にまで行き着いたということだ。もうそのことはいいじゃないかと僕は言いたい。罪によって魂が失われ、その悪あがきはどのような様態に行き着くかということは、もう一億人が三十年間も体験したのだ。もうこれ以上は必要ないだろう。ここに話したことは、こんにちまでの事実だが、数日後には、もう終わった過去のことになっている。僕は今日も引き続き笑われるにしても、これから先、もう平成の人に笑われることに痛痒はない。
[激動の昭和、罪の平成、魂の令和/了]