No.407 センスより前に視えているもの
おれはあまりにも人と違いすぎる。
そのことを自慢しているのではなく、整合しきろうとしている。
おれはあまりにも人と違いすぎるのだが、そもそも、本当は「おれ」なんて感覚すらまともに持っていない。
わけのわからない話だが、おれはそもそも「おれ」という感覚じたいよくわかっていないらしいのだ、それもかなり昔からだ。
感覚よりも前に視えているものがある。
このことを、わかりやすく言うためには、「おれにはセンスというものが欠落している」と言えばよいかもしれない。
といって、おれは、陰口にも「センスないね」と言われるたぐいのタイプではないが……
何か根本的なことが感覚的にわかっていないのだ。
たとえばおれは、音楽を聴いたときに、「音楽を聴いている」という感覚がない。
音楽を聴くなどということは、まさに典型的にセンスが問われるものだと思うが、おれはどうも、「音楽を聴いている」ということの根本的な感覚がないようなのだ。センスが欠落しているというのは、そこまで根本的な欠落のことを意味している。
さらに、先ほど言ったように、おれには「おれ」という感覚も実はないので、「おれ」が「音楽を聴いている」なんて感覚は、二重に無いことになるのだった。
今おれがこうして文章を書き話していることについても、おれは「おれが」「文章を書いている」という感覚がない。
じゃあ何をやっているのかというと、おれは「よくわからない」としか言えない。
よくわからないのだが、はっきり言えることは、いわゆるセンスと呼ばれる現象が起こる前に、おれはすべてのことを終えてしまっているということだ。
「センス」というと、たとえば「よし、音楽を聴くぞ」と構えて、「音楽を聴いているぞ」「こういう音楽だな」と認識し、それを感じていくという手続きになると思うが、おれはそのことにまるで興味がないのか、その段階に来たときにはすっかり「やめてしまっている」。
おれには音楽がなくて、小説もなければ映画もない。
映像やグラフィックもなければ、音響やキャラクターもないのだ。
何しろおれは、おれ自身が無いような奴だからな。
じゃあおれは何を視ているのかというと、何かひとつのものを視つづけているらしい、ということになる。
そのひとつのものとは何かというと、強いていうなら「世界」ということになる。
映像の世界や音楽の世界があるのではなく、感覚以前の「世界」があるように視えているようなのだ。
音楽の世界や文学の世界や〇〇の世界を、見たり聞いたりしているのではなく、それら「センス」がはたらく以前の何かが視えてしまっている。
冗談でなく、本当のところを言うと、おれは映像も音楽も「同じもの」に視えてしまっているのだ。
「おれ」と「世界」も同じものに視えてしまっている。
そうしてすべてのものが同じものに視えてしまうのなら、確かにおれは、一つのものを視つづけているということになるだろう。
時間や、過去や、死、そういったものも、区別されてそれぞれがあるのではなく、すべて一つのものとしてしか視えていない。
おれには、ハッとして胸にジンと来る、というようなことがまるでないのだ。
おれには「センス」が無く、無いというよりは欠落あるいは消失しており、そもそも自分に「センス」というものがはたらくことじたいが苦手で、根こそぎ否定してきたということがあるのだと思う。
おれには、アイドルグループの善し悪しを見極めるセンスはないし、同様に、NHK交響楽団の品質を見極めるセンスもない。
ただ、バーンスタインならバーンスタインという友人がいて、その偉大な友人は、あのときに視た自動販売機や、あのときに視た窓からの景色と同じだ、という気がしているのだ。
おれには、「あの日、桜が地面にまで咲いてすべてが桜色に染まった朝焼けのこと」と、「四十年前にテレビ番組で観たらしい『いとしのエリー』」が、同じ一つのものに視えてしまっている。
こんなわけのわからない話があるか。
どうりでおれは、いつまでたっても何一つ成長しないわけだ。
成長というのは、何かそれぞれに別のものがあるという前提があって、低いレベルから高いレベルのものに移行するということで起こる。
すべてが一つのものであっては、そこにレベル差じたいがないのだから、成長なんてしようがない。
おれには「センス」が無いため、おれは「時間」というものの感覚が根本的になく、そのため「こうやって生きてきた」という感覚がない。やがて死ぬという感覚もないし、そのせいで、そもそも自分が生まれてきたという感覚もない。
ずっと同じひとつのものの中にあり続けているとしか感じていない。
どこかに行くわけでもなければ、何かが過ぎ去っていくわけでもない。
物語はあるのだが、それぞれに別個の物語が複数あるという感じではなく、ただ「物語」があるという感覚しかない。それぞれは別個ではないし、そもそも時間という感覚がないのだから、それは時間軸上に再生されていく時間芸術ではない。
おれは、どこぞにいる宗教かぶれのように、バラバラのものを無理やり「ひとつだ」と思い込もうとしているのではない。
ひとつだと思い込もうとしているのではなく、それぞれ「別個」という感覚がないのだ。映像と音楽が別個だと捉えられていない。
たとえば「ビリージーン」というと、ビリージーンのサウンドがあり、ビリージーンのスタイルがあり、ビリージーンのダンスがあると思うのだが、おれはそれぞれを別個に鑑賞できるセンスがないので、ぜんぶひとつの「ビリージーン」だと思っているのだ。
映像を消してもビリージーンだし、音声を消してもビリージーンなんじゃないのかという気がしている。
言ってみれば、それがいったんビリージーンである以上は、もう「ビリージーン」と書いてあったらそれはビリージーンに他ならないのじゃないのかという気がしている。
センスの前に視えているものがある。
おれなんか、そのことが行き過ぎて、あるいはけっきょくセンスの前に視えているそればかりが好きだったせいか、「センス」そのものが消失してなくなってしまった具合だ。
結果、おれはセンスの無い者として、いつもウヘラウヘラしている。
この、いつもウヘラウヘラしているというところが、実におれらしくていいという気がしている。
おれは今、文章を書いているわけではないし、ビリージーンという音楽を聴いているわけでもない、何をしているのかというとたぶん何もしておらず、実態を言うなら「ウヘラウヘラしている」のだ。
ずっと同じ一つのものをやっており、それが何なのかというと、それと別個のもの・それ以外のものが存在しないのだから、それが何なのかを説明することはできない。
数字のすべてが1だったとき、1が何なのかを説明することはできないようにだ。
センスより前に視えているものがあり、おれはそれがウヘラウヘラするほど好きなので、センスがまったく育たず、それどころかセンスが否定の彼方に消失してしまった。
ただ、このとき、もうひとつ別のことをおれは考えるようにもなった。
それは、おれの事情ではなくて、別の状況を説明するためにいくらかは考えるようになった類のこと。
センスより前に視えているものがあり、それが、まったく好きでなかった場合はどうか。
ウヘラウヘラするどころか、「ギャー」と悲鳴を上げてしまうという場合だったらどうなるか。
その場合、その「センスより前に視えているもの」をこそ、否定の彼方に消失させたくなるのではないか。
そして、「センス」以後のことを開拓していくのではないか。
センスより前に見えているものについて、「ギャー」と悲鳴をあげた例は、歴史的にサルトルが有名だ。
サルトルは、その奇怪なものに「嘔吐」を覚えたという話が、そのままのタイトル「嘔吐」として有名だ。
おれはウヘラウヘラだが、サルトルは嘔吐だったということになる。
センスより前に視えているものがある。
それはセンスより前に視えてしまうものだから、当人にはどうしようもない。
実はそれは、本当は誰にでも視えているものなのかもしれない。
ただそれが、人によってウヘラウヘラだったり、「ギャー」だったりするので、「ギャー」の人は、それを視ないようにせざるを得ないというだけなのかもしれない。
おれは、映像と音楽が別個ではなく、それぞれは映像でもなければ音楽でもない一つのもので、それはすべてが桜色で染まった朝焼けと同じで、いとしのエリーと同じで、ビリージーンと同じだ。
それについての呼び名はないので、おれは強いていうなら「世界」と呼んでいるが、世界とおれだって別個に存在しているわけではないので、おれはおれではない、やはりすべてと同じ一つのものだ。
おれは、おれと世界を別個に捉えるセンスさえないのだからしょうがないだろう。同じ一つのものがウヘラウヘラしている。「ギャー」はしていない。
***
おれに限らず、実はすべての人が、センスより前に視えているものを、視ているし知っているのではないか。おれは最近そう考えるようになったし、ずっと以前は、何もわからないまま、勝手にそのように思い込んでいた。
当時の、何も知らないがゆえの思い込みは、確かに何も知らなかったにせよ、結果的に誤っていたわけではなかったのではないかと思う。ただ、本当に何も知らず、明らかに人々の事情と噛み合わないということへの考慮がゼロだっただけじゃないのかなと今になって思う。
おれは、スタート時点で幸福なのだ。スタート時点、あるいはより正確に、スタートの号令が掛かる前から、歓喜の何かに満たされていると言っていい。だからおれは、ヨーイドンとスタートを切られても、「えっ、どこに行けばいいの」と戸惑うのだ。
不遜なことだが、ごまかしてもしょうがない正直なところを言うと、おれはもともと、永遠の命のようなものが日常だ。おれは永遠の命というものがどういうものか知らないが、どうも今さらになって永遠の命と呼ばれて尊ばれている――ないしは、一部で空想されている――ものが、どうもこれのことっぽいという推定に至っている。もしこれが「それ」なのだとすると、それはおれがガキのころからずっと毎日生きてきた日常だということになる。
おれはそもそも、ガキのころから、命が滅ぶということがよくわかっていない。命は滅ばないのでは? という気がしていて、そのあたり何が議題なのか、実は感覚的にわかっていないのだ。永遠の命を信奉しているということではなく、そもそも命が滅ぶという感覚が内心でよくわかっていなかったということ。そうして考えると、おれは何一つこれまでに信奉しようとしてきたものはなく、何かを信奉しなくてはならないという感覚もよくわからなかった。そのことを必要とすることじたい、スタート時点からすでになかったのではないかという気がしている。おれはいつも、気づくとウヘラウヘラ「してしまっていた」のであり、何かを信仰しようとしてきたことはまったくなかった。
おれの記憶にあるのは、ある一定のタイプのオバハンとオッサンが、おれをヒステリックに攻撃してきたということだけだ。それがなぜなのかはよくわからなかったし、そもそも「なぜなのだろう」と疑問を覚えることじたい根本的になかった。
ガキのころから、おれは、おれをヒステリックに攻撃してくるある種の「現象」のようなものについて、それを目の当たりにしたとき、何か「えげつないもの」をひたすら目撃しているような気分になっただけだった。おれには何の悪意もなかったし、今もない、おれには何の悪意もなく、蔑視の気持ちもない。ただ、おれにはよくわからないひたすら「えげつないもの」を見せられているような気分だけがあった。
そのことについて、おれは本当に何も悪意も蔑視も覚えておらず、そもそも、おれの側から先方へ向ける関心は一ナノも無い。完全にゼロだ。ただ、何の現象なのか、知って納得しておきたいという気持ちだけはうっすらあった。今になってようやくそれが、「ひょっとしてこういう現象なのか」と推定が及んでいる。
おれには「文化」がないのだ。おれには世界があって文化がない。
逆にいえば、おれをヒステリックに攻撃してくる人は、必ず「文化」を持っていた。そして、深入りして聞くことがないので推定でしかないが、構造的に推定されるところ、先方は「世界」を持っていないことになるだろう。
おれには世界があって文化がない。
「文化」というものは、永遠の命の反対側、永遠の命が無い者たちに発生するということが浮かび上がってくる。
文化には、文化圏というものがあり、文化圏の外側では、それぞれの文化は通用しない。当たり前のことだし、よく知られていることだ。
わかりやすく言うと、海外に「ハラキリ」の文化はない。そして日本にもハラキリの文化はない。海外で切腹死しても「クレイジー」と言われるだけだし、今の日本で切腹死してもやはり「クレイジー」と言われるだけだ。今のところ、「ハラキリ」の文化圏はどこにもないだろう。
「ハラキリ」がそうして、文化圏の外側ではただのクレイジーになってしまうということは、それは世界に普遍の営為ではないということだ。そもそも切腹は、豊臣秀吉がその権勢を振るっているときに死にざまのひとつとして秀吉に称賛されたことが始まりとされ、つまり安土桃山時代以降の文化だ、それ以前の室町時代や鎌倉時代、平安時代などに切腹の文化は今いち見当たらない。そして明治以降、強引な三島由紀夫のそれなどを除いては、実際には誰もハラキリなんかしていないので、幻想を重視するのでなければ日本はハラキリの文化圏にはない。
文化といって、たとえば一部の部族は唇に穴をあけて、中に器具を入れて唇を引き延ばしたりするし、あるいは首長族の文化や、纏足(てんそく)といって女性の足を閉じ込めて極端に小さくするというような文化もある。日本でも昭和の時代までは、夜這いの文化が残っていたし、今でも世界のあちこちには、遠方の土地で適当に目についた女性を掻っ攫ってきて、嫁に娶るという略奪婚の文化が残っているだろう。あるいは宗教的に、司法を通さずに石打の刑で人を殺すというような文化もあちこちに残っていてもおかしくはなさそうだ。
それらの文化は、文化圏から出てしまえば、外側からは「クレイジー」と言われるだけのものだ。たとえば昭和の中期まで、日本には夜這いの文化が残っていただけではなく、だいたい十五歳になった少年を、村の中年女たちが複数で相手する「筆おろし」の文化があったそうだ。村の少年は十五歳ぐらいになると、この筆おろしを済ませ、また村の青年組にも入り、一部にはいわゆるイニシエーションと呼ばれる、何か祭りの度胸試しみたいなことをさせられて、それを済ませれば公式に村の女性たちに「夜這いしてよし」という青年男性の資格を得るというシステムだった。そのことは、かつての日本の文化としてちゃんと事典に載っているのだ。女性の側には夜這いに来た者を拒絶する権利があったりなかったりするが、地域によっては「結婚するつもりなら強姦してもよし、無罪のみならず夫婦と認める」という文化もあった。そのことは昭和の中期に、裁判沙汰になってきっちり "被害者" の記録も残っているのだ。
「文化」というものはそういうものだが、やはりここで見ても明らかに、文化圏から一歩出てしまえば、率直にいって「クレイジー」としか思えないのではないだろうか。おれが近所の少女をレイプして、「結婚します」と言っても誰も「良し」とは言ってくれないだろう。
それでも人々は、文化の中を生きている。それは、割り切って大胆に言ってしまえば、人が「狂気の中を生きている」ということではないだろうか。おれはこの乱暴な話を、聞いてくれている人の記憶の片隅に残しておきたいと思っている。人は狂気の中を生きている。それが「文化」だということ。そのことを知っていれば、ある瞬間、自分が致命的に閉じ込められる前に、文化圏から脱出できるチャンスが得られるかもしれないからだ。自分までその狂気に取り込まれてしまう前に。
そういうことは、むろん目撃も体験もしないほうがよろこばしいが、目撃も体験もすることは大いにありえるので――と、年長者として申し上げておく――そのときになってショックから思考停止しないよう、「あのときすでに教えてもらったことだ」となりうるよう、このことをためらわず書き話しておきたい。
人は狂気の中を生きており、それは一般に「文化」と呼ばれる。
いつかその「文化」があなたを刈り取りにくることが、あってまったくおかしくないのだ。
文化圏の内側はその狂気が正義として勝り、文化圏の外側に出てしまえば一気にその権威は潰える。
文化の権威は文化圏でのみ有効で、「文化の権威は世界の権威ではない」からだ。
なぜ人は、狂気の中を生きねばならないのか? またなぜそれを、狂気のままとせず、「文化」という形に変えて振りかざすという手間をかけるのか。
それについて書き話す前に、文化が狂気に他ならないという例をいくつか示しておく必要があると思った。それは、書き話すことのロジックとしての必要性からではなく、おれが勝手に、「こういう狂気に巻き込まれないように」と老婆心から予告しておきたいという必要性からだ。あなたを取り込に来る狂気は実際には狂気というわかりやすい形ではやってこない。目くらましの利いた、文化という形でやってくる。
***
あなたのところに夜這いがやってこないとは、おれは思わない。そういうものがある夜とつぜんやってくることは、いくらでもあっておかしくない。
もちろん、村の風習としてそれがやってくることは今や極めてまれだろう。だがそうではなく、たとえば閉塞して未来のない地域があったとして、そこに唯一、中央政界と細いパイプを持った名士の家があったとする。そこまででなくても、地主であるとか古くは豪農だとか、ちょっとした金持ちというだけでもいい。
その金持ちの息子が、ちょうど嫁を探しているところだとすると(この場合、伴侶や妻を探しているという具合ではないだろう)、それを聞きつけたあなたの母親は、その金持ちの息子を自宅に招き入れ、あなたに、
「偉いところの息子さんだから、あなた応接しなさい。あなたもいい歳なんだから」
と、茶飲み話の相手や、酌ぐらいさせるかもしれない。
そこで、
「おかあさん、ちょっと出かけてくるからね。失礼のないようにしなさいよ」
あなたはその男と家に二人きりで取り残されるが、あなたの母親はそれとなく、その金持ちの息子に、
「うちの娘など、不束者ですけれど、気立ては悪くなくて、どうぞ好きなように、万事よろしく教えてやってくださいね」
と言い伝えてある。そして、閉塞的な地域で名士の族とされているその男は、そうした据え膳を与えられることに慣れている。
その夜、もちろんあなたの母親は帰ってこない。
このようにして、かつての風習の夜這いそのものではないが、結果的に母親が手引きして、あなたのところに夜這い男を送り込むというようなことはあっておかしくない。
こんな前時代的なことは、現代において現実的ではないと思うだろうか。
それはまさに、文化圏の外側から見ればクレイジーなことだ。
けれども突然、その夜はやってきて、その夜になって急に、隠されていた本当の「文化圏」があなたに覆いかぶさるのだ。文化圏があなたを包み込むとき、文化圏においてはその「文化」が正義として勝る。
母親がそうでなかったとしても、たとえばこのことを、事務所とスポンサーに置き換えてみる。
あなたの所属する事務所の所長が、
「スポンサー会社の役員さんがいらっしゃるから、きみ応接してよ。ここでコケたらわれわれ全員、もう仕事無いんだから、失礼のないようにしてよ」
と、あなたに酌をさせる。
事務所の所長は、スポンサー会社の役員にやたらペコペコし、スポンサー会社の役員は、事務所の所長にやたらきつく当たる。残虐なほどきつく当たる。打ちのめされて、縮み上がりながら、それでもペコペコするしかないあわれな所長と、その力関係……そのような "寸劇" を入念にする。
なぜそのような寸劇をするのか。その荒々しく剣呑な空気の中、
「で、〇〇ちゃんだっけ。君ちょっと、ぼくの隣に来なよ」
と、男が言いつけるのを、あなたに断れなくするためだ。
ここまでの運びに、その男と事務所の所長は "よく連携している" 。これは珍奇にテクニカルな方法ではなくて、すでに使い古されてきた伝統的な、王道の手法だ。その寸劇をするのに、もはや打ち合わせなど不必要なほどで、初対面でも即座に暗黙の合意を取り合い、彼らはそのことをいつもどおり進めてゆける。
あなたの母親が急病で倒れたとする。不運なことに、容体は悪く、数日のうちに急逝してしまった。
病院に見舞いに来た人の中に、目を丸くしてぷるぷる震えている一人のオジサンがいた。
「今、知り合いから連絡あって、急病で倒れたって聞いてね」
「あ、母は……二時間前、他界してしまいました」
「なんですって。なんですって。信じられない。ああ、お悔やみ申し上げます」
聞けばその男は、母の同窓生で、中学のときの同級生だという。
「あなたの母御さんは、そりゃもう、わしら同級生のあいだでも人気者だったから。それがねえ、こんな突然なくなるなんて……」
「そうなんですか、わざわざ見舞いにきてくださって、ありがとうございます」
「いやあ、先日もね、みんなで集まったとき、みんなで旅行にいこうとか、食事会をしようとか、盛り上がっていたところなんですよ。それが、なんと残念なことか」
そこで男は、しばしば目頭を押さえながら、
「それでね、娘さんね、この後、葬儀とかどうされます。通夜、葬式と、不慣れなことで忙しくなると思いますが」
「あ、はい。これから段取りしようと……」
「われわれもね、ほかならぬ〇〇さんのことだから、お弔いはぜひきちんとして、協力もさせてもらいたいと思って。同級生一同、みな同じ気持ちでおると思います。それでね、わしらの同級生に、葬儀屋やっている者もおりますんで、お母さんとも仲の良かった人でね。よければそのよしみで、そいつに〇〇さんの葬儀、やらせてやってもらえませんか。もちろんわしら、他のところでもお手伝いさせてもらいますんで。いやあ、本当になんと言ったらいいか、こんな悲しいことがねえ」
あなたはもちろん、母の友人や同窓生についてなど詳しく知らない。
そうして、身内のごとく親身になってくれるオジサンに、葬儀の手配を頼んだところ、打ち合わせも見積もりもなしに葬儀は行われ、後になって届く請求書は四百万円だ。
あなたは請求書の金額にめまいがして、何度もケタを数えてみるが、やはり四百万円だ。とてもじゃないが払えない、相場の問題でなく実際の資金として払えない金額だ。
それであなたは、困り果てて、勤め先の上司に相談する。上司は同情してくれて、会社の同期にいる法務課の人を連れてあなたの自宅にやって来、葬儀屋と件のオジサンに対して値切り交渉をする。件のオジサンはそのときになって、葬儀屋と "よく連携している" 気配を明らかにする。あなたの上司と法務課の人は、無法ではない相場を勘案して正当なコストダウンの「お願い」をしたのだが……
葬儀屋の男は、しきりに首をかしげ続け、ついに嫌悪感そのものというきつい声を発し、
「何かねえ、はは! お話になりませんな。それじゃあもう結構ですわ!」
と言い放って、感情を激して交渉の席を立ってしまう。件のオジサンも、同じく首をかしげて葬儀屋の男についていってしまった。あなたと上司と法務課の人は、先方の不明の挙動に「え?」と不明だけを覚える。
葬儀代の支払いについて、何がどうなったのかよくわからないまま、ある日まったく、何の理由で不機嫌なのかわからない近所の老婆がやってきて、
「あんたとこの、向こうの畑、なんであんなにゴミだらけになっとんの。あんなんでいいの? ふうが悪いけえ、なんとかしなさいよ。周りも迷惑しよるわ」
あなたの家は、古くは農作を家業としていて、今は兼業というほどでもないが、いちおう畑をやっていた。あなたが慌てて畑を見に行くと、今年の作付はまだされていない畑に、ゴミというよりはコンクリートの瓦礫が大量に捨てられてある。とてもじゃないが人力で、一人で処理できるような物量ではない。
翌日、あなたのところに葬儀屋から電話が掛かってきて、
「あのねえ、先日の、葬儀代ねえ。支払い、いつになります? おたくが払ってくれないから、こちらにも支障が出ているんですよ。これ以上遅れるとなるとね、こちらも遅延損害金を請求せざるを得なくなりますんでね。あのね、先日の葬儀はね、ほかならぬ〇〇さんの葬儀ということで、うちも精一杯やらせてもらったんでね、こういうことはきっちり、きれいに済ませてくださいよ。周りの者も、あんたんとこはおかしい、〇〇さんは立派だったのにその娘さんはどうかしているって、いいかげん悪ぅに言い出してますよ。こんなんじゃ、今後あんたのとことは誰も付き合わんようになりますよ。こちらとしてもね、無理は言いたくないんで、できたら今週中、それが無理でも、来週中には必ず支払いのほうお願いします。それじゃあ」
驚くべきことは、こういうケースにおいて、件のオジサンと葬儀屋が母親の同級生だったということ、またしばしば交歓があったということが、実はウソではないというところだ。実際に彼らは母親の同級生だったし、今もって同窓生として仲が良く交流があったというのも、いくらか誇張ではあれウソではなかった。
だからこれは、 "文化圏が違う" のだ。文化圏として、「友人が亡くなったのだからぼったくり価格や中抜きはしないだろう」ではなく、「友人が亡くなったのだから、ぼったくりと言わず支払うだろう」という文化圏なのだ。
ふつうわれわれは、「友人に対して不当な高額は請求しづらいだろう」と考えるものだが、文化圏によってはそうとは限らない。「友人に対して値切ったり支払いを拒否したりはしづらいだろう」と考える文化圏もあるということ。「友人なのだから払わざるを得ないだろう」と捉える文化だ。そしてこの地域の人たちは、こういうときのために、愛してもいない人たちと長く「友人」をやってきたということが真相としてある。
こういう場合、知っておかなくてはならないことは、「文化圏」において、その文化に立つ側は、正義の確信をもってそれをやるということだ。このことが、実に文化圏の外側からはわかりづらい。
友人の葬儀なのだから、存分に金をかけてやるのが餞(はなむけ)でしょうという正義。一生に一度のことなのだから、なんとかしてでも払わせてあげるほうがいいでしょうよという正義。娘のために、また家のために、名士との縁を取り持ってやるという正義。うちの事務所に来てこの仕事を選んでいるのだから、仕事のキモに関わらせてやるのが認めているということだという正義。
毎日ニコニコしてテレビを観ている、人情派のオジサンとオバサンが、あるとき突如としてその「文化」をやるのだ。正確に言うと、ふだんは忘れているが、本当にはそのことだけを続けている「文化」、それがしばしば表舞台に出てくるということ。
このクレイジーなものが、なぜ日常はニコニコして、人情派のふうに毎日のんびりテレビを観ているかというと、その仕組みは極めて単純で、自分がやっている「文化」を日常は百パーセント忘れているからだ。本当に単純に "忘れている" 。フロイト的忘却下にあると言ってもいい。
人は日々、何でもない日常を生きてなどいない。人は日々、狂気を文化に変え、その文化だけを生き続けている。
自分の娘に夜這いするよう男を手引きする母親や、友人の死去にぼったくりをする葬儀屋、またその仲介をして中抜きをするオジサン、事務所のキャストを通例どおりスポンサーに差し出して食わせる所長。彼らは、お盆やお正月はきっちりやるし、法事もきっちりやる、客先にはきちんとお中元やお歳暮を欠かさず、近所づきあいもきちんとする。達筆ということもよくある。およそわれわれがイメージする文化的な "体面" については抜かりが無い。
彼らはその「文化」に恭順することでけっきょく有利に生きていけることを骨の髄まで知っているのだ。文化は彼らの立場を強化し、狂気が彼らの強力な味方になる。
そして彼らは自分たちの文化圏を決して出ない。
文化圏を出たらその狂気はまったく通用せず、何の庇護も受けられずに「クレイジー」とバカにされておしまいだからだ。
***
なぜ人は、狂気たる「文化」の中を生きねばならないのか。ごく単純に、自ら狂気を愛している者などいないのだから、「狂気なんかやめて、正気で生きればいいじゃない」と言いたくなる。
だがそのことにこそ、冷静に見つめれば、どうしようもない困難がそびえ立っているのがわかる。人はやがて死ぬのだ。そして毎年ごと、人は老いるのみであり、年ごとに若返っていくということはない。昨日よりも今日、今日よりも明日と、日ごとうつくしくなってゆけると信じうるのは、成長期の若さか、あるいは成熟の途中にある若さであって、ふつうその若さは生涯の初期にしかない。十歳よりも二十歳のほうがうつくしいことはよくありうるが、二十歳よりも三十歳のほうがうつくしいことはありふれてはおらず、三十歳から四十歳となると極めて限定的になり、その先はもう一般には現実的でなくなる。特にアスリートや、アスリートそのものでなくても、フィジカルや神経でその権威を高めようとする者にとっては、およそ二十代の後半からはひたすら喪失の日々だけが続いていくことになる。だからほとんどの人は、わが身ではなく権力や立場によってその獲得の拡大に焦がれていくことになる。
0歳から二十五歳までは "無条件" で獲得の日々だが、二十五歳から五十歳まではしばしば概念的にしか獲得の日々ではあれない。それが五十歳から七十五歳となると、多くの場合は概念的どころか、ただそのように思い込もうとしただけでしかないということが往々にしてあるだろう。何歳になっても若々しい人がよろこばれるし、また誰しもそのように望むが、それは加齢が人々の本意ではないことを端的に証している。およそ、「明日とつぜん二十歳になる」というファンタジーと、「明日とつぜん八十歳になる」というファンタジーなら、前者が夢物語で、後者が悪夢のたぐいだ。
悪い魔女に魔法をかけられると、老人になるものであって若者になるものではない。ということは、われわれはすでに、毎日悪い魔女に魔法をかけられているがごときだ。今日も一日ぶん加齢するという悪い魔法をかけられている。その果てには死が待ち受けているし、死にはしばしば苦しみが伴うことが予想されている。いくら善行を積んだとしてもこのことは避けられないし、いくら悪行を積んだとしてもこのことが加速するわけではないのだ。人はまるで、<<わざわざ獲得させられたものを、わざわざ喪失させられる>>ということをやらされているようだ。生を享けたものを、最後は失うわけだし、わざわざ四肢の溌溂を得たものを、最後は失う。精気と美肌を得たものが、次第に失ってゆき、財産と身分を得たものが、最後にはそれを保有できずいずこへかと去ってしまう。われわれは日々、実は何をやらされているのか意味がわからないのだ。われわれが知りえるのは、得ていかなければ死んでしまうということと、得ていったとしてもやはり死んでいってしまうということだけだ。このことじたいが、正視すればなかなか狂気じみているのであって、この狂気を忘れようとする以上、いかなる文化もその土台は狂気でしかありえない。誰だって空想するところ、<<天国には文化など無さそう>>ではないか。実はわれわれの認識にとって、わけがわからないのは天国ではなくて、この実際に「生きている」ということのほうだ。
より実際的なことを考えよう。われわれが二十歳から十年経って、三十歳になるということは概ね「さびしい」ことだ。三十歳が四十歳になり、四十歳が五十歳になるというのはさらにさびしいことだろう。五十歳が六十歳になったころ、若さだけでなく健康や健常さえ失うかもしれない。そしてその十数年先には、そろそろ生そのものを失うということがやってくる。生を失うということが最もさびしいことだろう。しかもその喪失は、自分だけでない、自分の家族や友人たちにもやってくるのだ。かつて隆盛と健啖と、無謀と無茶を誇っていた友人が、入院して点滴と機械の世話になり、ろくに声も出せずにベッドに臥したままになっている。もう自分も友人も、酒池肉林にはしゃいで跳ね回るということはないのだ。もはや誰かを呼ぶということもなくなり、誰かに呼ばれるということもなくなっていく。それは当然「さびしい」ことだ。
誰にでも「若いころ」というものはある。けれども、一瞬のときが永遠にも足る青春を得た人がどれほどいるだろう。若いころは自分の時間を青春と思えたとしても、加齢と共に、それはたいしたものではなかったどころか、一種のまやかしの状態だったと見捨てる人も少なくない。生涯のうちに、本当に永遠に足る恋あいを得たことがあるだろうか。ほとんどの人は、生に渋みを加えていくのみであって、「あのときのあれは永遠にあり続ける」と確信できるものを数十年とて保持できないものだ。自分の得た場所や、自分の得た学門はどうか。自分の声、自分の姿は。自分の顔は。そうして点検していくと、実はわれわれの生というのは、大半の場合で充実していないと認めるのが合理的だ。われわれは人が生きるうちで、次々にかけがえのないものを得ていくと思い込まされているが、それは一種のスローガンのたぐいで、なかなか本当にすべてを振り返って「まさにそのとおりだった」となる人は少ない。これらのすべてが一言でいって「さびしい」。これがさびしかったとして、巻き返して今からなんとかできるわけではないから、そのさびしさはいっそ峻厳に立ち誇っているのだ。二十歳の誕生日を二度体験できる人はいないし、十七歳の春を二度体験できる人もいない。日めくりカレンダーがそうであるように、われわれの生に時間の巻き返しはない。ありふれた昨日だって、この先に戻ってくることは永遠にない。
このさびしさは、本当の意味においてはなかなか向き合えるものではない。少なくとも、余人の胆力で向き合い続けることはできないものだ。人はそんなに強くない。人はそんなに強くないからこそ、「それが生きているってことよ」というふうに、さもそのことに勝利したふうに言い張ることをせずにいられない。終身刑で牢獄に入れられている者が、自分が終生牢獄にいることについて、「それが終身刑ってことよ」と言い張ったとして、終身刑そのもののみじめさが消え去るわけではない。それで言えば、われわれはまるで有限刑を受けているがごときだ。「それが有限刑ってことよ」と言い張っても、やはりその刑罰を受ける身のあわれさが消え去るわけではない。
まるで解脱したかのような誰かを仮定に置くことはわれわれの思索を益しないだろう。われわれのほとんどは、この残酷な有限刑の「さびしさ」を、正視して向き合うことはできないものだ。向き合うことのできないものはどうするべきかというと、唯一の手段、忘れてしまうしかない。われわれの日々は、三十年と言うと果てしなく長いように思うが、一万日というとカウントの実感があって短く感じるものだ。だが三十年と一万日はだいたいイコールだと見てよい。三万日は九十年近くになるので、われわれはどうあがいても五万日は生きないことになる。いかにも「有限」ということが冷淡なほどに浮き上がってくる。
このことに対抗する唯一の手段、「忘れてしまう」ということに、有効な方法はどのようであるか。部屋で壁に向かって座っているべきだろうか。いやそれではますます、思索が生の有限性に向かってしまうだろう。「こうして座っているうちにすべての時間が過ぎ去ってしまう」。このさびしさを忘れるためには、何か「それどころじゃない」と苦しむか、そうでなければ、苦しみの根源と言われている煩悩、つまり欲望のたぐいにうつつを抜かすしかない。欲望に支配されたとき、人はさびしさを忘れることができる。このことは何度でも強調して示しておくべきだと思われる、何しろわれわれを支配する、一種の「支配者」のような現象なのだから。「欲望に支配されたとき、人はさびしさを忘れることができる」。
一般的な観念からいっても、「人は欲望に支配されている」というあたり、漠然と認められそうな言い分で、また漠然と周知済みの事実であるかのように聞こえる。けれどもおれがここまでのことをずっと見てきたかぎり、どうも本当にはそうではないようなのだ。どういうことかというと、たとえば人のうちに「カネが欲しい」というわかりやすい欲望があったとして、一部の人がそれで実際にケタ外れの財産を為すことがある。「カネが欲しい」という欲望が満たされたわけだ。それで、欲望を満たされた者がその充足によって無欲になるかというと、おれはカネを得て無欲になった奴を見たことがない。直観的にいっても、「いやそうはならんだろう」と第一に確信があるはずだ。カネを得た者は、必ずそのカネを何かに変えようとする。それはもちろん、カネなんて何かを買わなければただの紙切れでしかない。それで、高級な服や高級な食事、高級な異性や高級な宝石、高級な住宅や高級な身分を買う。買って満たされるのか? そんなわけはないだろうということが誰にでも前もってわかる。そのことに、「達成感」があることは想像されるが、達成感が何になるというのか。人は空腹時には食欲を覚え、満腹になると食欲を失うが、そうしたところで欲望そのものが消えるわけではない。人はひたすら、次の欲に向かうだけだ。欲望のページを満たしていけば、そのぶんの達成感はありえても、その後は次のページの欲望に向かうだけで、そのページに終わりがあるわけではない。そもそも欲望にはそのページごとの満足・満了はありえても、欲望という機能そのもののコンプリートがあるわけではない。だいいち、人は欲望を解決したがっているわけではないのだ。さまざまな欲望を満たしていくと、人は欲望が満了していって安心するかというと、逆だ、むしろ自ら次の欲望を発掘するためにアンテナを張り巡らして活動的になる。貧乏人が金持ちになって「何もしない」ということは決してない。見下げられていた男が千人の美女を抱いたとして、その次に「何もしない」ということはない。必ず次のことをするし、次のことが見当たらなければ、いつのまにか血眼になってその「次のこと」を探しているものだ。
よって、おれの見てきた限り、人は欲望の充足に向かって動いているのではない。「人は欲望に支配されている」というのはそういうことではないのだ。人は不本意に欲望に隷従しているのではなく、「さびしさを忘れるために自ら望んで欲望に隷従している」のだ。人は欲望を忌避しているかに見えて、実はそうではなく、本当には欲望を拝んでいて、欲望さまに「どうぞわたしを支配し続けてください」と懇願しているのだ。人はこのことに自ら気づかず、しばしば「こんな欲望がなければどれだけ楽だろうね」と的外れを言う。欲望がなければどうなるか、それは膨大で底知れない「さびしさ」がその真の姿を現してきて、人をどうしようもない恐慌に突き落とすということになる。そのことの恐ろしさに比べれば、あたかも「欲望でキリキリ舞いしているだけさ」と見えることのいかに気楽なことか。
人を支配している皇帝は、欲望ではなくさびしさなのだ。もし、さびしさという裏の皇帝がいなければ、単なる欲望については人はド根性のストイシズムでそれを打ち破ることができるかもしれない。できるかもしれないというより、それはそこまで困難なことではない。だがどうしても、さびしさを打ち破ることはできないのだ。打ち破ることのできないさびしさの、威力に滅ぼされるのを避けるため、人は自ら欲望に帰依しているということが真相にある。仮にさびしさを皇帝とするならば、欲望という地方領主がその領民を守ってくれているという状態だ。この地方領主のもとを出奔してしまえば、自分はおそるべきさびしさという皇帝に直接拝謁しなくてはならなくなる。そのことはおそらく己の魂を打ち砕いてしまうだろうから、地方領主たる欲望を「我が王」と拝んでその実効にすがっているのだ。
さびしさが募るほど、人は欲望を「やる」しかなくなる。この原理を、われわれの知っている世の中の全体に当てはめて眺めてみれば、実際に危険と言いうるほどスリリングな透視が得られてくる。一般に、若い人より老人のほうがさびしいと言いうるのだから、老人のほうが欲望を「やっている」はずだと推定できる。あるいは、にぎやかな地域より、さびれた地域のほうがさびしいと言いうるのだから、さびれた地域のほうが欲望を「やっている」と推定できる。派手な仕事より地味な仕事をしている人のほうが欲望を「やっている」はずで、異性にモテる人よりモテない人のほうが欲望を「やっている」はずだ。といってもちろん、表ざたに堂々と、「わしは欲望をやっておる」とその眼精を明らかにして立つ老人がいるわけではない。
さびれた地域で友人も得られず心身にも恵まれなかった誰かが、自分の未来の閉塞と共に、「欲望をやっています」と声明を出して生きるのではない。欲望はより本質に接近しすぎで、それを声高に言うものは明らかに警戒される。
だからそこで「文化」になるのだ。「欲望をやっています」を捻じ曲げて「文化をやっています」という言い分にすり替える。これはそれほどトリッキーな作業を要しない。先に言ったように、夜這いはかつて日本の「文化」であって、日本の「欲望」だったとは定義されていないではないか。
母親が娘を名士の息子に差し出すとして、母親は身分や家柄や生活水準を向上させたい――つまり「優雅」になりたい――という欲望があったわけで、その欲望のままをぶちまけるのではなく、そういうときに「文化」を取り出す。欲望では正義を言い張ることはできないが、文化なら正義を言い張ることができるからだ。同級生の死去に、ぼったくりを仕掛けた葬儀屋とその仲介者も、心底、自分たちは文化を担っているのだと確信しており、よもや自分たちが「欲望」をやっているとは思っていない。だから彼らは、心底から自分たちの正義を信じて、その「文化」を振り回している。
しょうがないのだ。われわれは、さもこの世界のことを知って、納得してたくましく生きているようだけれども、土台そもそも、この「生きる」ということにまったく勝ち筋を見つけられていない。ここまできて仕組みは単純で、人は死をボスとした「さびしさ」に勝ちようがなく、それを忘れるために「欲望」に帰依せざるを得ない。欲望をそのまま欲望と言って振り回すわけにはいかないから、それを「文化」にすり替える。だからこそ、文化は狂気であり、それも三重の狂気と言っていい。一段目は、勝ちようがない死とさびしさを突き付けられ続けているという狂気。二段目は、それを忘れるために欲望にすがるという狂気。三段目は、それを変形して文化と言い張る狂気。
ここにきて、現代に新興している「文化」を見てみれば、実は旧来とまったく同じ「文化」の現象がそれを形成していることが発見される。今やアイドルグループの活動と、その中に「推し」を見つけるファンたちの様式は一種の文化と言えるだろうけれど、それは多くの場合、さまざまな事情から「さびしい」人が、欲望によってさびしさを忘れられるということに耽溺し、それを欲望のまま言い張って振り回すことはできないので、「文化」と言い換えているではないかということ。過激化していくコスプレや、SNSで承認欲求と揶揄されているもの、そういったものはすべて、「さびしい人たち」がそれを忘れるために「欲望」にすがり、それを振り回すため「文化」と言い換えたということで成り立っている。
この先われわれは、旧来の文化、たとえばお中元やお歳暮や、お盆、年賀状、葬式や法事、結婚式などを、かつてのようには一大事に取り扱わなくなっていくだろう。古い文化は廃れてゆき、新しい文化が何かしら取り入れられてくる。
けれどもそれは、新しい文化に見えつつも、「文化」が発生する原理としてはまったく旧来と同じもので、あくまで装いを新たにしただけにすぎない。中身は同じだ。さびしさを忘れるために欲望を言い換えたもの、という一文で説明しうるものに変わりはない。
なぜこんなことを続けねばならないのか。どうすればこのことをやめられるのか。この狂気じみたことを。それについて、本当に答えうるのはおれではないだろう。けっきょくおれはこのことの当事者ではない。何しろおれには文化がないのだ。文化のない者が、このことについての真の回答者たりえない。
おれはそもそも、さびしさというものがよくわかっていないのだと思う。何しろおれは、海や空や星空があるとウヘラウヘラしている。春の風が吹き、夏の日差しが梢を焦がし、秋の色が斜めに揺れ、冬の氷雪が耳たぶを冷やすとき、ウヘラウヘラしている。おれには時間がなく、命が滅ぶということもよくわかっていない。命が滅ぶということは「意味がわからない」と感じているし、おれが生まれてきたとか生きているとかいうことも、どうやら根本的にわかっていない。
さびしさに到達するセンスさえないということなのだろう。おれはセンスより前に視えているものばかりを視てウヘラウヘラしている。おれだって年長者には敬語を使うし、年賀状を書いたりするし、人に会えばあいさつをする。一見すると「文化」のようなことをおれだってやる。だがおれがやるのはいつだって文化ではなくて「世界」だ。おれには世界はあるが文化はないのだから。
***
さびしさに勝てないということ。
欲望にすがるしかないということ。
変形して「文化」と言い張るしかないこと。
文化圏においてそれが正義になるということ。
とりあえず、このことだけきちんと組み立てられていれば、いつかのとき、あなたを決定的に助けるかもしれない。
構造的に「仕組み」を看破できるということは常に有益で有利だ。
単純に言って、さびしい地域ほど「文化」が色濃くなり、さびしい人ほど「文化」を振り回すということが、これだけの話でもわかるだろう。
さびしさの狂気が、欲望の狂気を要し、さらに文化と言い張る狂気を要することになる。
ある閉塞的な「村」があったとして、その村は祭りや風習などの「文化」が色濃い。
これだけでは狂気は浮き彫りにならないかもしれない。人々は素朴に暮らしている、ように見える。
けれどもその閉塞的な村に、何かの偶然で、極端な美少女がひとり生まれたとしたら。あるいは迷い込んで来たとしたら?
その閉塞村に狂気は浮き出てこないだろうか。
浮き出てきた狂気は、その村の「文化」の衣を借り、「正義」の確信と共に、何事かを実行するのではないだろうか。そしてその実行は、文化圏の外側からはただのクレイジーにしか思えないだろう。
おれはいちいち、そんなしょうもない小説を書く気はない。
おれは架空にも、文化を書くつもりはない。おれは世界のみを書く。
おれには世界があって文化はないのだから、どうしてわざわざおれに無い文化を書く必要があるか。
世界の対極に文化がある。
世界から遠のけば遠のくほど、文化が濃くなるということだ。
鎖国していた江戸時代の、徳川文化の日本みたいにだ。
徳川幕府の二百五十年間、また鎖国の二百年間で、当時の日本は、文化的にコテコテに濃密になっていただろう。
世界の対極に文化があるのだから、世界を否定することから文化が始まると言える。
その点、鎖国というのは特にわかりやすい。
ただしもちろん、おれが言っている「世界」というのは、国際情勢のことではない。
国際情勢がゼロでも「世界」はまったく変わらずある。
今、二〇二一年の二月だが、われわれの周囲は、ものすごい勢いで「文化」を構築していると言える。
たとえば目につきやすいお笑い芸人は、いつのまにか専門学校のノリになり、いかにも文化的なものになった。
もともと、人が笑うということは、ただの世界のワンシーンだったが、現代のお笑い芸人は、人が笑うというシーンに興味があるものではない。
宮崎駿は、ある種の世界を描き出そうとしてきたに違いなかろうが、現代の新興のアニメやマンガはそうではなく、あくまで文化的なものだ。
なぜなら、世界を視てきた人が何かを描いているのではなく、アニメ文化やマンガ文化を見て育ってきた人がその創作をやっているからだ。世界の子ではなく文化の子がそれを担っている。世界がマンガに描かれているのではなく、マンガ世界がマンガに描かれている。
風景の中に育った人が風景を描くのではなく、美術館の中で育った人が「風景画」を描いているような状態だ。
おれはそのことについて、いいとか悪いとかを言おうとしているのではない。
おれはセンスが欠落していると先に述べてあるとおりだ。センスが欠落しているので、文化的なものを享受する能力がそもそもない。
だからいいも悪いも言いようがなく、ただセンスのないおれにはそちら文化的なものは「わからない」というだけだ。
文化とは何なのだろう。
文化というのは、つまり世界の捏造だ。
たとえば、おれが来訪したとき、そこにいた女性が、三つ指をそろえて地面に伏し、おれを迎えたとする。
そういうことは、あってもおかしくないし、どちらかというとおれは、「そういうのはおれの趣味に合わないからぜひやめろ」と言っている側だ。
事実というか、本当にそうなのだからしょうがない。
そうまでして遇したほうが、当人が落ち着くというのだが、そうされるとおれの側が落ち着かないので、ぜひやめろという。
そうすると「え〜」と不満を言われる、ほとんど趣味でやってんじゃねえかテメーという気がするのだが……
それはいいとして、もし、そうして「三つ指をそろえて地面に伏し、主人を迎えること」という風習を課せば、そんなものは明らかに世界の捏造だ。
誰ぞの「欲望」を、変形して「文化」と言い張ろうとしているだけだ。
少なくとも「世界」のことではないのは明らかだ。
そんな、お仕着せで三つ指そろえて迎えようが、あるいは当人のノリで「ちょりーっす」と迎えようが、どちらも「世界」のことではないのは明らかだ。
御三家の大名行列に平民がひれ伏すのは、鎖国日本の強烈な文化だったが、強烈な文化は何の世界にもならない。この幕府権力のあわれな底意地を、本当にわれわれは笑えるのか。
世界のないところにお仕着せの文化を課しても世界が成り立つことにはならない。
世界の捏造にしかならない。
文化が世界の捏造だとしたら、もう一方、「世界」とは何なのだろう。
世界とは、初めから言っているように、「センスより前に視えているもの」だ。
これが困ったことに、共有のしろものではないようなのだ。
世界というのは、人の数だけ、あるいは魂の向きだけ、それぞれ固有としてあるものらしい。
文化は共有のものだが、世界は固有のものなのだ。
それがつまり、おれにとって世界はウヘラウヘラだけれど、サルトルにとっては嘔吐だということだ。
視えている世界が違う。
センスより前に視えているものが違う。
世界とは、そのようにそれぞれ固有されているもので、つまり「その人」に直接関係しているものだ、ということになる。
これだけでは意味がわかりにくいに違いない。
このことは、文化と対照するとわかりやすくなる。
文化のほうは、「その人」に無関係なのだ。
世界は、「その人」に直接つながったものだが、文化は、「その人」につながっていない、隔絶したただの「文化」だ。
わかりやすく誇張してみよう。
「文化」として、たとえばお盆になったら迎え火を焚き、お坊さんを読んでポクポクチーンとしたとする。それでどうなるかというと、「その人」は何も変化しない。ただ「文化」という袋が、その為された文化のぶんだけプクーッと膨れるだけだ。
クリスマスになって、教会でミサに出席し、ロウソクを持って賛美歌を唄ったとしても、「その人」は何も変化せず、やはり「文化」という袋が、内容を増やしてプクーッと膨れるだけだ。
ガンジス川に行って、祈りのプージャを精霊流ししても、やはり「その人」は何も変化せず、「文化」という袋がプクーッと膨れるだけだ。
一万冊のマンガを読み、一万時間のアニメを見て、一万本の映画を鑑賞し、一万曲のレコードを聴き、一万回ライブに行って、一万回舞台を観に行ったとしても、それらはすべて「文化」という袋を膨らませるだけで、「その人」には何の影響も寄与もない。
「文化」という袋だけが際限なく膨らんでいくだけだ。本人に寄与はないが、いちおう本人はその袋の膨らみぶりを自慢はできる。
一方、「世界」のほうはそうではない。
「世界」のほうは、袋に入るのではなく「その人」じたいに入る。
だから、一本の映画でさえ、それを「世界」として摂取するのは大変だ。
「その人」じたいに入るということは、「その人」が新しく大きい人になるということだからだ。
この単純な差が、そのまま決定的な、文化と世界の差だ。
だから実際、文化的な人に会っても、その人をまるで「大きな人」とは感じないということがある。
逆に、大きな人は、まったく「文化的な人」とは感じない。
マイケルジャクソンを見て「文化的な人」とは感じないし、マハトマ・ガンジーを「文化的な人」とは言わない。
文化的な人はもっと小さくなくてはならない。
文化は世界の対極なのだから、文化的な人は、世界から遠ざかりきった、さびしい人でなければならない。
世界から遠ざかりきって、さびしく、欲望にすがるしかなくて、しかもそれを文化と言い換えるしかなくなっている、狂気を生きている人、そういう人が「文化的な人」だ。
ひどいことを言っているようだが、どうしてもそれが当てはまってしまうことは、あなたがいくつかのサンプルと照らし合わせても明らかなことだから、しょうがないだろう。
これは、悪口を言っているのではなくて、単純にどうしようもないのだと思う。おれの側がどうしようもないのと同じに、向こうの側もどうしようもないのだと、おれは勝手に思っている。
おれにはセンスがないので、センスより後に見えるものがわからない。
向こうにはセンスがあるので、センスより前に視えているものが視えないのだろう。
文化的な人が、よもや「映像と音楽が同じ一つのものに視えてしまっている」とか、わけのわからないことは言わない。
おれの側から見ると、「文化とは世界の捏造」だし、きっと向こうから見れば、「世界とは文化のセンスがない奴の虚妄」なのだろう。
センス・感覚より前に得られるものがあるなんて、定量的には証明できないし、そこを言われるとどうしようもない。何しろそれがどんなものか説明しろと言われても、それを文化的に説明することはおれにも不可能なのだ。
そこはどうしようもないな。
とりあえず、文化というのは、文化という袋に入るのみであって、「その人」に入るわけではないという点は確実だ。
その意味では、文化というのは、等しく共有されうるもので、人々に平等なものだと思う。
世界というのは違う、世界はそれぞれ固有だ。
世界というのはほとんど「その人」そのものなのだから。
世界というのは差別的で、差別も何も、それ以上に、そもそも他者と比較さえできない、純粋に固有のものだと思われる。
おれが春にポテチを食うと、おれはすべての春とポテチを一つのものとして食っているからな……
そんなもん、明らかに一般平等にあるポテチではないし、もはや味覚のセンスがどうこうという領域のものではない。
ポテチの味を吟じるころにはもう食い終わっちゃっているよ。
文化とは何か、世界とは何かということは、そのように説明されうると思う。
そして、おれはけっきょく思うのだが、人それぞれ、自分が固有する「世界」のことを、本当はみんな視えているのではないだろうか。
センスより前に視えているものを、本当はみんな視えているのではないだろうか。
少なくとも、一番初めはそれを視たはずなのだ。
誰だって、生まれた直後からセンスがあったわけではないのだから。
ただ、人によってそれが、初めから絶え間ない歓喜だったりするし、どうしようもない嘔吐だったりもする。
たぶん、まずいものが視えちゃったのではないだろうか。
それが自分の固有する「世界」だったのだが、視えちゃったそれがまずかったので、とっさにそれを視ないようにした。
世界を視ないようにして、代わりに自分で世界を捏造して事を済ませようと発想した。
そうすると、捏造に使う材料を、いろんな人が共有してくれるわけでもあって――相互に「センス」を称えたり蔑んだりしながら――いつのまにかトントン拍子にそれは進んでいった。
それが「文化」になっただけで、本当の本当には、自分の固有する世界が視えなかったわけではないのだと思う。
だから「文化」を生きている人の目の色は、「怖いものを視た目」になっている。
「怖いものを視た目」……この目がまた、狂気を生きていくのに有効活用されるという仕組みだ。
サルトルの目は嘔吐していただろうし、おれの目は歓喜でウヘラウヘラしている。その目も、その声もな。
おれは文化のことは次第に言わなくなっていくだろう。
[センスより前に視えているもの /了]