さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
アミヨの矛盾3.アミヨたちは互いに仲間ではない
もともとネット世論のことを話している。世論ということは一人のことではない。多数の人がその論をおみこしに担がなければそれは世論ではない。もともとは「輿(こし)」の字をあてて「輿論」と書く。ひとりで担いでいるものをおみこしとは言わない。
どのSNSも Youtube も、ニュースサイトのコメント欄も、「5ちゃんねる」の掲示板も「まとめサイト」も、それぞれのプラットフォームに依存したテイストの「ネット世論」がさかんに醸成されているのだが、そこにいるアミヨたちは仲間ではない。さも徒党を組んでいるふうに、その集団圧力を見せびらかしているが、彼らは実際には互いに会ったこともなく顔も知らず、年齢も声も知らない、赤の他人以上にお互い知らない人たちだ。彼らはプラットフォーム上で野合するように見えるが、それぞれ自分の慰めにはしゃぐためにそこに首を突っ込んでいるにすぎず、同調圧力はあっても仲間はいない。こうして自分の慰めと悪趣味に首を突っ込んでいるバラバラの人たちの、その場限りの思い付きとストレス発散で発される、ただの不毛マウントの言行を、そもそも「世論」として尊重しようとすることじたいが比例原則として無意味だ。ただそれでも商売がイメージと直結している人たちは、この騒がしいアミヨたちに食いつかれないよう配慮しなくてはならないし、一方で、このアミヨたちにうまく食いつかせるように作戦を立てなくてはならない。そうして事実上はこのアミヨたちが革命を成し遂げてわれわれの支配者になっているのだが、それでもなおアミヨ「たち」という一個の集団は存在していない。誰ひとり互いに友人でもなけれは仲間でもない、バラバラの者たちだ。
アミヨの矛盾の三つ目はここにある。アミヨはネット世論を醸成して現代の世の中を支配しているが、その武器は世論ふうのそれを醸成するということなので、アミヨは決して単体でその支配をしない。そもそもアミヨは単体で論を提出したりしない。わたしは今ここで明らかにわたし単体で論を提出しているが、もしここにアミヨたちが不毛攻撃を仕掛けてくるとしたら、そのときアミヨたちは必ずかりそめの徒党を形成している。その徒党だって互いにまったく仲間ではなく、集団圧力に野合しているだけでしかないが。
わたしはずっと単体でものを言い続けるだろう。わたしには友人がいて、ここまでずっと友人は増えていく一方だが、その友人たちがいかにわたしに肩入れしてくれたとしても、わたしはあくまでわたし単体でものを言い続けるだろう。援護射撃は必要ない。わたしは自分が話すのに「集団の強み」など持ちたくないのだ。わたしがまったくそういう奴だということを、わたしの友人たちはよくわかってくれているはず。仮にその友人たちをわたしの仲間だとするならば、彼らはわたしがいつまでも単体で書き話そうとすることの仲間だということになる。
アミヨたちが同じ形態を得ることはできない。なぜならアミヨたちは、「大切なもの」を否定・破壊すること、その絶対的な「不毛」に依拠して成り立っているからだ。彼らは互いのことを「大切なもの」とすることはできない。互いのことを内心で「不毛」と見切り続けねばならない。互いに大切でなく、互いに不毛と見切っているものを、どのようにしても「仲間」とすることはできない。それぞれのプラットフォームにそれぞれのアミヨたちが毎夜集っているが、彼らはどのように集っても仲間ではない。
わたしのところにはよく、初対面から友人という人が来る。わたしもけっこう長いこと、このよくわからない書き話しを続けているものだから、「昔からずっと読んでいるんです」と、その人はすでにわたしの友人としてわたしのところにやってくる。それで、ずっと読んでいたとして、いつからその友人の感覚になったのかというと、やはり「たぶん最初からです」とも笑って言われる。それはそうだろう、今わたしはけっこう長い話をここにしているはずだが、どことなくわたしに友人の感覚を得ていなければ、こんな長大な話をここまで読んでいられないはずだ。
アミヨの第三の矛盾はこうだ。アミヨは単体で何かを言えるわけではなく、徒党に依存してしかものが言えない。にもかかわらず、互いに誰も仲間ではないのだから矛盾している。誰ひとり仲間ではないならそんな他人どもからは離脱すればいいのに、離脱して単独ではものが言えない。仲間が必要なら仲間を尊重すればいいのに、仲間を「大切なもの」とするというようなことは断固として拒絶する。この矛盾の解決手段はアミヨの側にはない。そもそもこの矛盾が解決するなら彼はアミヨになっていない。アミヨたちは互いに仲間ではないのに、離脱もできず、かといって互いに大切な仲間になることも絶対にできない。仲間ではないということはけっきょく、ひとつの論を輿に担いでいるというのも見せかけだけのウソだ。
徒党ということについて、引き当ててわかりやすいサンプルがあるので述べておこう。今でいう言い方ならば「オラつく」というのがわかりやすい。誰でもこれまでに、色んなところで「オラついて」いる人を見かけたことがあるはずだ。そしてそのオラついていた人は、何かしらで徒党を組んでいたはず。典型的には暴走族などがそれに当たる。何の権力もなしに単体でオラついている人などまずいない。
徒党を組んで酒を飲み、その帰り道に大声で叫んでオラつきながら歩く人は、徒党を組んでいるからオラつくのであって、一人で酒を飲んだ帰り道に一人で大声で叫んでオラついたりはしない。ということは単純に、彼は本質的に強くはないということだ。徒党に依存しなければものが言えない。われわれはそうして、一人でいるときはおとなしいくせに、徒党を組んでいるときだけオラつくような人のことを、美と誠実さにあふれて勇敢だとは評さないものだ。であればアミヨも同様で、その醸成するネット世論が表面的にどれほど正義感を装っていたとしても、本当にはそのアミヨは美と誠実さにあふれて勇敢だとは言えない。けっきょくは「徒党に依存してオラついている」という点で同類のものだ。
このように、言いだせばキリがないだろうが、代表的なものだけでも三つ、アミヨは矛盾に満ちている。アミヨ自身が不毛なものであって、アミヨは自ら大切なものではないと自分を言わねばならないし、そのアミヨが醸成するネット世論も、どれだけ影響力があったとしても「大切なもの」ではないと言わざるを得ない。いかなる影響力も世の中を「不毛」に向かわせることにしかはたらかない。
不毛革命の結果、「大切なもの」は確かに根絶やしにされたが、なぜか今もアミヨは差別を受けている。「大切なものがないんですね」。大切なものなんてどこにもなく、誰にもないなら、アミヨは差別を受けなくて済んだはずなのだが、大切なものおよび、それを持っていた人は確かに存在したと、こともあろうかアミヨ自身が証明してしまっている。アミヨが「嫉妬」したということは、大切なものを持っていた人は存在したのだろうし、今も嫉妬しているということは、やはり「大切なもの」は存在し続け、それを持っている人も存在し続けているのだろう。
アミヨは大量発生しているかに見えるが、互いにまったく仲間ではない。なぜアミヨ「たち」という一種の集団性を誤認させられるかというと、彼らは仲間ではないのに互いに依存しているからだ。徒党を組んでいないとものが言えない。そうして自分が頼るものなら、正当に仲間になればよさそうなものなのに、彼らは決して仲間になることはできない。互いのことを「大切なもの」に扱わない仲間など成立しえないからだ。仲間でないなら離脱すればいいのに、離脱するとものが言えなくなるから、仲間でもない徒党に依存している。お互い、自分を侮辱する者たちと依存しあい続けるしかないのだ。そして仲間ではないものたちがおみこしなんか担げないのだから、そこに輿論など本当は存在していない。ただ、有り余る不毛な時間をすべて不毛なブーイングに投資できるという攻撃能力がそこにあるだけだ。もともと革命というのは、そうしてすべてから離脱した攻撃能力だけによって成し遂げられるものではあるけれども。
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