さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
3 被害者になる
「大切なもの」がないのにコメントしたがる。「大切なもの」がないのに講演会をしたがる。「大切なもの」がないのに広く承認されたがる。こころはないのに自分の "思し召し" を押しとおしたがる。不毛革命の子だけれど、どこか自分だけは「大切なもの」がある人のように扱われたい。まるで多くの友人に囲まれているように思いたがり、自分は誰かと有意義に話しているのだと思いたがる。
「大切なもの」があればそれで話は済むことだ。「大切なもの」があり、それに自分の時間も労力も投げ込んできたからこそ、その人じたいも「大切なもの」として扱われる可能性が出てくる。アミヨもその主張とは裏腹に、自分も周囲も完全な「不毛」で塗りつぶされて、そのまま数十年も苦役して生きるのは厭(いや)なのだ。たいへん矛盾した話だが、「大切なもの」と共に生きたいと思っているところがある。とはいえ、ネット世論を見れば明らかなとおり、「大切なもの」のすべては自分と同胞たちの手によって根絶やしにされてしまった。「大切なもの」を内心に言い張るにもあまりに無理がある状況だ。
ここで、状況のすべてを打破し、すべての面で自分を有利にするとっておきの方法がある。それは「大切なもの」が、かつてあったのに、それが奪われた・破壊されたという、被害者の立場と経験を主張することだ。そうすることで、実際に大切なものが「ない」ということにも整合するし、立場としては、「本来わたしは『大切なもの』がある人なのです」と主張することもできる。「財産のすべてを侵略者に奪われたのです」と言えば、その人はあたかも貧乏ではないのだと見えることのように。
実際、今ほとんどすべての話題あるいは議題は、ただちに「被害者」という一言に結んでそのすべてのやりとりが完了している。これは、そもそも大切なものに向けての議題があるわけではなく、議題そのものが被害者から提出されてきている由だ。
文面がむなしくなることを承知で次のように列挙すると、
「戦争について」
「被害者のことを考えろ」
「震災について」
「被害者のことを考えろ」
「ブラック企業について」
「被害者のことを考えろ」
「パワハラについて」
「被害者のことを考えろ」
「セクハラについて」
「被害者のことを考えろ」
「喫煙について」
「被害者のことを考えろ」
「ポリコレについて」
「被害者のことを考えろ」
「 LGBTQ について」
「被害者のことを考えろ」
「ヴィーガンについて」
「被害者(家畜)のことを考えろ」
「隣国について」
「被害者のことを考えろ」
このように、すべての議題は「被害者」という一言で満了している。これは現代のネット世論が、「大切なもの」に関わって生じてきているのではなく、すべて「被害者」から生じてきているということの反映だ。
試みに、
「岡本太郎が示した芸術について」
と議題を示したみたとする。すると、岡本太郎の美術に「被害者」はあまりにも存在しにくいから、
「え? なにそれ。なんていうか、ぜんぜん知らないというか、正直まったく興味ないw」
と、「不毛」の一撃が示されて終わりになる。
あるいは、
「えー、わたし岡本太郎さん、すっごく好きなんですよ。初め、観たときすっごいびっくりしちゃって」
と、「かわいい」の一撃が示されて終わりになる。
あるいは、
「あ、わたしの知りあいというか、ゼミの先輩たちが、研究テーマにしていました。けっこうそっち方面の研究で有名な人たちらしくって」
と、徒党の気配が示されて終わりになる。
あるいはさらに強引に、
「なんつーかさあ、岡本太郎のせいで、日本の芸術って余計に狭くなったよね。けっきょく商業主義になっちゃって、その後の芸術家たちは生きられなくなったんだよ。しょせんブルジョワジーだよね」
と、無理やりにでも「被害者」を持ち出してきて終わるということもたまにある。
つまり、目の前にひとつの実物なりを置いて、
「なんだろうね、これは」
「そうっすねえ、はあ」
と、まともにものを言おうとすることに取り組めないのだ。
目の前にあるものについて、「大切なもの」のあるやなしやに向き合うことができない。
なぜなら自分は不毛革命の子だからだ。
万が一、目の前のものに「大切なもの」があったとすると、対照して、自分のすべてが「不毛」だということがバレてしまう。
そのことが耐えがたい屈辱だったからこそ、不毛革命は成されたのだろう。それを今さら、屈辱にまみれるわけにはいかない。
「被害者のことを考えろ」
二〇二二年の四月現在、東欧で国家間の戦争が起こったとしても、そこに千羽鶴を送りつけようとする人がいる。それを送りつけても当地では使い道がない。
千羽鶴に使い道はないのだが、焦点はそこではなく、焦点は「その千羽鶴に『大切なもの』があるか無いか」だ。
現代のわれわれはこのことから逃げている。むろん善人風情をする自分が「かわいい」という原動力だけで定例の千羽鶴パフォーマンスをして躊躇のない人々は、愛や美のまったく反対側にいるだろう。だがそんな猟奇的なことは焦点ではなく、その千羽鶴に「大切なもの」があるかないかが焦点だ。そこに大切なものは「ない」としたとき、それはよいとして、同時に自分には「大切なもの」があるかないかということも問われる。不毛な自慰でしかない千羽鶴に嘲笑を向けるのは簡単だが、ひるがえって自分には不毛でない「大切なもの」があるかと問われると、そのことから途端に退いて背を向けてしまう。そして「千羽鶴を折るぐらいなら、その時間でアルバイトして募金でもしたら?」と言い出す。正しくは募金ではなくて醵金というが、通例的には募金でいいだろう。
自分に大切なものがあるかどうかという問いかけが出てくると、途端に「すべては不毛」で、「誰にも大切なものはない」という乱暴な物言いに変わって遁走する。それはそうだろう、
「ネットに貼り付いて千羽鶴を嘲笑しているぐらいなら、その時間をもっと『大切なもの』に向けたら?」
と言われると、先ほど自分が採った論法がそのまま自分に返ってきてしまう。
だから彼らは必ず、話の焦点を、
「こんなの送り付けても、送り付けられた側が困るだろう、いい迷惑だ」
と、向こう側の「被害者」に置く。いわば "千羽鶴爆撃" について
「被害者のことを考えろ」
とつぶやくことに必ず収まるのだ。
千羽鶴については、かつてはそこに「大切なもの」があったということを、わたしが勝手に保証する。この被災者への千羽鶴様式が始まったのは一九九五年の阪神淡路大震災からで、このこと最初期に、救援物資と共に実際に千羽鶴を先方へ届けた者の一人がわたしだからだ。そうした贈り物が、先方にとってどれだけ「困る」ものかを、わたしは直接見てきてよく知っている。けれども同時に、そのときには、そこにどれだけ「大切なもの」があったかということも、わたしは直接見てきてよく知っている。またそれだけに、定例と化した千羽鶴にその「大切なもの」がないということも残念ながら察しがつく。寒い当地に贈られた千羽鶴は、焚火の火口にでも使われればよいと思う。それはゴミを処理しているのではなくて、いちおうの願いを焚き上げているということでよいではないか。どうか早いこと、どこか大きな寺か神社で「千羽鶴焚き上げの儀」を公式にやって、千羽鶴の処理方法を文化的に定義してやってほしい。いっそ焚き上げを専門にする千羽鶴神社を建てればささやかなビシネスチャンスにもなるかもしれない。
ともあれ、現代のネット世論はすべて「被害者」から発生しており、その議題はそのままただちに「被害者のことを考えろ」と結ばれて満了する。
なぜこんにちにおいてネット世論はそうして「被害者」が始まりから終わりまでを占めているのか。
それは、「大切なもの」が根絶やしにされたあと、大切なものが「あった」と言い張る者、それが「奪われた」「失われた」「汚された」「破壊された」と言い張る者だけが、現代においても「大切なもの」へ帰属している者と装えるからだ。
***
たとえばあなたが、目立ちたがりで、ダンスをかじっていたとする。そのパフォーマンスは、とてもショーと言えるほどのものではないにせよ、あなたとしては「けっこうやっている」つもりのものだったとする。同時に正直なところ、「本当にすごいやっている人には、追いつけっこないというか、なんでそこまでやれんのって、わたしにはそこまでの情熱はないな〜」と半笑いでもある。「いちおう、周囲に迷惑かけないぐらいにはちゃんとやるって自負があるけど」。
もともと、一種のスターになってちやほやされるということに願望があったが、やればやるほど、そのことは遠くてとてもじゃないが届かないということがわかってしまう。もっと本気になって取り組めば別かもしれないとも思うが、「わたしそういう、マジになって、ダサくなってまでやりたいタイプじゃないし、正直、あそこでこれ以上、人間関係に深入りしたくないんだよね。けっこう育ち悪い人も多いし」と思っている。「前に、資料見せられて、四時間ぐらいああでもないこうでもないってディスカッションさせられたとき、マジできつかったもんな〜。そこまで白熱できるの、正直わっかんないわ」。
一方で内心、
(わたしけっこう胸あるし、そもそもスタイルいいから、エロい恰好してりゃ、それだけでいちおう舞台でも注目は浴びるんだよね。それするたびに実際にファンが付くし、それはそれで気分悪くないんだよな〜)
とあなたは知ってもいる。
ところがあなたは、お酒を飲み過ぎた日の帰り道、千鳥足が車道へふらふらとはみ出てしまい、交通事故に遭ってしまった。それで、歩けないわけではないが、激しい運動はもうできないというほどに足を傷めてしまった。あなたは病院のベッドで医者からそのように報告され、ゾッとすると同時に、
(あちゃー、何やってんだわたし。ほんと、ダッセぇ)
と嘆かわしく思った。
(うわー、マジ最悪。誰だよあの飲み会誘ったのクソが。あー、タイムマシンに乗ってあの日からやり直してー)
あなたがそう内心で愚痴っていたところ、連絡網が行き渡り、SNSでダンス教室の講師があなたの事故と損傷のぐあいを報告した。もちろんダンス講師はそのことについてあなたに了解を取って話を進めている。
いわく、
「危険運転を心の底から憎みます。Bチームでフロントを務めていた◯◯さんが交通事故に遭ってしまいました。まだ入院中で、ドクターの診断では足の神経を強く傷めており、もう激しい運動はできない見込みだそうです。まだ今後のことはわかりませんが、とにかく一刻も早い快癒を祈ります」
ありがたいことに、ダンス講師はあなたの入院費についてのカンパも申し出てくれた。
「◯◯さんの今後については、まだ続報はありません。よいニュースを祈るばかりです。つきましては、◯◯さんの復帰と励ましのために、入院費のカンパを募ります。余裕のある方は何卒ご協力ください」
そこから集まってきた金額を報告されたあなたは、
「えっマジ!?」
と声を出して驚いた。「みんな早く◯◯に復帰してほしんいだよ」と講師は言う。
講師のツイートはそれぞれにリツイートされ、付随して「ありえん、危険運転とかマジ許せんわ」というつぶやきも散見されだす。ff 外から、というツイートも混ざってきて、「わたしの父も交通事故で他界しました。加害者の方は責任を取ってくれましたが、失われたものは戻らないんですよね」という逸話が投下される。
誰かのアカウントに動画がアップロードされ、「わたしこのときの◯◯さんすっごいカッコよかって好きだった……事故で引退とかほんと悲しいので、復帰を祈っています!」。そうするとやはり ff 外からという但し書きがついて、「すごく上手で見とれてしまいました、アイドルでもやっていけそうなぐらいスタイルいいですね。ご快癒をお祈り申し上げます」と書かれる。
あなたはその動画を観て、
(あ、これ、一番ありえないぐらいエロい恰好していたときのやつだ。今見ると若いな〜)
と思っている。
一部には、そのダンス教室と関係ない部外者からも、「ご迷惑でなければ」と入院費に向けてのささやかな寄付があったそう。
あなたがSNSに、
「みんなありがとう。いろいろやらかしましたが、いちおう生きてます」
とツイートすると、そのツイートには大量のファボがつき、
「生きてた!」
「早く戻ってきてください!」
と熱烈なリプが無数についた。
あなたはふと思いつき、病室と病院食を動画で撮影する。
「今、こんなんでーす。足は正直、痛いだけで、まだまともに感覚ないです」
もう退院も近いというころ、友人たちが見舞いに来た。ひととおり「久しぶり!」といってはしゃぐものの、「それでけっきょく、足どうなん」という話になる。
「うーん……」
「みんな心配しているというか、スゲー気になっているから、ちょっと動画にして報告してやってくれん?」
「あ、それいいかも。逆にそっちのほうが割り切って話せるかも」
「じゃ、ちょっとおれスマホで撮るわ」
「うん。あ、ちょっと待って待って。ちょっと髪型とか直していい?」
あなたがあくまで見栄えを気にすることに、周囲はドッと陽気な笑い声を立てる。
ベッドに座ったままでうまく作業できないあなたに代わり、誰かが髪の毛を整えてくれる。ついでに後輩の女の子が、「わたしのでよかったら」と、少し顔にお化粧もしてくれる。
「なーんか、暗く映っちゃうな」
「ライトの加減じゃない? 誰か、◯◯ちゃんを照らしてやってよ」
「あ、じゃあわたしスマホのライトで照らします」
「あ、そうそう、こんな感じ。すごい見やすくなった」
「それじゃ、いくよー」
髪型と化粧を整えられ、あなたはカメラとライトを向けられる。周囲の人は当然静かに押し黙る。あなたが何を話すものか、固唾を呑んで聞き入っている。
このときあなたは、忘れているが、もともと目立ちたがりだった。一種のスターになってちやほやされるという願望があった。
その願望はあなたにとってウソではなかった。
撮影が始まり、
「どうも、◯◯です。お騒がせしてすいません。ご心配をおかけしましたが、無事、明後日には退院です。まだしばらくは松葉杖ですけど。その後、リハビリとかになんのかな。たぶんそうなります。看護師さんが説明してくれたんだけど、正直あんま覚えてない」
あなたは普通に話しているつもりだったが、自分の知らない感情がせりあがってくる。
「足があれなんで、ダンスは正直、ちょっと無理そうというか。無理そう、というか……」
周囲はエッと思い、ますますあなたの様子に食い入る。
「あえて言うなら、ダンス、やっていたかったです。本当に、やっと、自分が打ち込めるものを見つけたのに。もっとずっとやっていきたかった。そういう言い方で、許してください。みんなのことが大好きでした。みんなと踊っているときが、わたしずっと大好きでした」
あなたは膝に掛かっている布団を両手でつかみ上げ、大きな声をあげて泣き始める。撮影者らは、
(えっ、おいどうする)
と動揺するが、
(いや、最後まで聞くしかないだろ)
と撮影は続行される。
「あの、事故なんで、わたしも不注意だったんで、誰が悪いということはないんですけれど。誰をうらむものでもないんですけど。今はただ、悲しいです。退院しても、何をしたらいいかなんてわからない。いつもどおり、スタジオに行くつもりのわたしが残っていて、わたし、どうしたらいいか」
胸が詰まってたまらなくなった一人が、
「あの、あのさ。どうなるかわかんないけど、何かの形で◯◯が一緒にやっていけるように、何か方法を考えよう。おれたちも何か方法考えるからさ。みんなもそれでいいよな?」
周囲は無言でうなずく。
撮影者は撮影を打ち切ろうとするが、あなたはその気配を察して、
「あの、すいません、お見苦しいところを。泣きわめいてしまって。今回のことは、本当にみなさんに助けられました。本当に本当に、ありがとうございます。復帰はどこまで出来るかわかりませんが、とにかく、挫けずにやっていきたいです。また、元気になったら改めて報告します。ありがとうございました」
あなたが低頭して、撮影はここで終了した。
あなたはその後、松葉杖でスタジオに挨拶もいくし、リハビリの様子を動画に撮影してアップロードもする。一連の動画は、動画サイトのひとつのチャンネルにアップロードし、
「こうしてみなさんに報告することで、自分を逃げられなくしてがんばっています!」
とあなたの笑顔が説明文に添えられている。「絶対に舞台に戻ってやる!」とサムネイルに陽気なゴシック体の文字。胸をはだけて汗ばみながら続けるリハビリの様子に、視聴者からは、「なんでそこまでやれるのか、◯◯さんの情熱を尊敬します」というコメントがつく。
一件以来、あなたのファンだという後輩群が、「◯◯さんがカッコよかったシーン詰め合わせ」という動画を編集作成した。その動画は、あなたのチャンネルにアップロードされるのみならず、他のプラットフォームにも輸出されて閲覧される。
他のプラットフォームで閲覧されると、
「エロい」
「エッッッッッ」
「F以上あるな」
「即ハボ」
と評され、
「これ誰」
「◯◯とかいう、いま Youtuber でやっている人だろ。もともとダンサーだったけど、事故で足をやられたから、そのリハビリしているって」
あなたは自分のチャンネルに、
「湯治も兼ねて、△△ちゃんと□□温泉旅行!」
という動画を上げた。
その動画について視聴者からは、
「◯◯と△△の絡み、正直尊いわぁ」
とコメントがついた。
動画説明文には、△△の個人的なチャンネルURLも貼られている。
△△もダンス関連の動画を上げているが、△△が某日アップロードした動画のサムネイルには、それとは異なる尺と画額が示されている。
サムネイルには、視聴者にわかりやすいようにと、それそれに色彩と角度をつけたゴシック体で、
「突然ですが」「わたし、性的虐待を受けて育ってきました」「最悪……」「親ガチャはマジである」
と書かれていた。
数週間後、◯◯と△△は「コラボ」の動画をアップロードする。
サムネイルには、やはりゴシック体で、視聴者に内容がわかりやすいように、
「告発します」「芸能界だけじゃない」「女としては避けられないよね……」
と書かれていた。
***
設定上、ダンスを「かじっていた」あなたは、そこに「大切なもの」を見つけていたわけではなかったはずだった。にも関わらず、足を傷めて以来、どこからかあなたはそこに大切なものが「あった」ということにすり替わっている。そして十中八九、このときのあなたは、過去そこに大切なものが「なかった」ということを忘れているし、そのことをまともに思い出すことができない。
大切なものが「ある」として、その実物を示して活動することは、きわめてタフで困難を極める。「大切なもの」を、なんとなく感じることは誰にとってもありうることだとしても、それに触れるということは急にむつかしくなり、それを掴むということはさらにむつかしくなる、さらには、掴んだそれを形にして示すということは破格に困難だ。
大切なものが「あった」として、それを奪われた被害者として活動することは容易だ。たとえば一枚の絵を描いたとして、そこに「大切なもの」をあらわすというのは、とてつもなく困難で、けっきょくは自分のすべてを投げ込んだ生涯のワークになってしまう。
一枚の絵画が、戦争の巻き添えで焼かれたり、震災の津波で押し流された場合、「もうあの絵は、戻ってこないんです」と嘆くことは、生涯のすべてを投げ込まなくても成り立つ。
だからわたしは、何らの被害者でもない者として話すことを選びたい。道義においてではなく、より単純な、もっと困難なことに取り組みましょうよという意志において。実際わたしは何の被害者でもない。わたしは大切なものが過去に「あった」という不確かなことに拠ってものを言うのではなく、いついかなるときも、いまこのときのわたしが「大切なもの」を持っている・掴んでいるのだという厚かましい自負において話すことを最低限の矜持としたい。
もしあなたが、あえてアミヨを自ら始めたいというなら話は簡単だし、同様にアミヨを始めた者・アミヨをやっている者を見つけるのも簡単だ。
1「徒党」を組み
2「かわいい」を置き
3「被害者」とする
わたしは万事の被害者を軽視しているつもりはない。そうではなく、こうして大切なものが「あった」という論法を利用することで、無制限に被害者が湧き続け、本来の被害者まで薄められてないがしろにされるということを当然に非難しておきたい。
ともあれ、ネット世論とアミヨ、現代を支配した不毛革命の始まりはこのように説明される。そしてこの実物はわれわれの周りにいくらでも見つかるものだ。あるいはよくよく見ると、この実物しかほとんど見つからないという向きさえある。
ひとつひとつが露骨なアミヨでなかったとしても、その手前、偽装された姿として、「徒党意識」を持っており、「かわいい意識」を持っており、「被害者意識」を持っているということがある。実際にはほとんどが、この "偽装されたアミヨ" の形でわれわれの周囲を取り巻いている。
「大切なもの」が根絶やしにされたあげく、その中で自ら「大切なもの」を掴み、それを示し続けるなど、日常の領域ではまったく不可能なことだからだ。だから誰もが潜在的に準アミヨとして活動している。準アミヨといっても、その挙動原理はアミヨそのものとまったく変わらず、その表れが露骨ではないというだけでしかない。
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