No.415 「自分の作品」に向き合って起こること
多くの人は自分の「作品」などということには無関心かつ無関係に生きている。せいぜい、趣味や習い事において陶芸をしてみたり俳句をしてみたりするが、それは余暇の愉しみのひとつに過ぎず、自己の存在を左右するほどのものとは捉えていない。
では人は作品とは無関係に、自己の存在をどのように捉えているか。もちろん個人差のあることとはいえ、強引に一般的に言うならば、自己の存在を定義している実感は、日々の仕事、というよりは業務であったり、家族、特に子供のいるご老人は、子供とさらにその子供の孫、ということが多い。
そのことをわれわれはごくありふれたことに感じているが、果たして本当のところはどうなのだろうか。日々の業務が生きる上で重要ないしは実情として必須ということはいかにもわかりやすくありうるとしても、多くの人は「もし宝くじで百億円当たったら、仕事なんかすぐにやめちゃう」と冗談口に言うことが多い。それは冗談まじりではありながらも、きっと本当にそうなるであろう本音を主成分にしているだろう。仕事ないしは業務を自己存在の定義にしているとしても、その定義たる営みに対して本音は否定的ということが潜在的にありうるということだ。
家族についてはどうだろうか。まだ若い夫婦のうちに幼子がひとりふたりいるという状態での「家族」という像がわれわれに印象深く刻まれているが、それはあたかも不動産業者が刷り込んでくる宣伝用イメージのごとくであって、実際には両親は老人になってゆくし、その子も大人になり中年になっていくだろう。統計からざっくりいって日本では「三組に一組は離婚する」と言われているが、誰でも結婚したものはなるべく離婚しないでおきたいと考えるだろうから、潜在的に破綻している夫婦、ないしはお互いに諦められている夫婦はもっと世の中に多くあると見るべきだろう。子供らも二十代になればそれぞれに居を構えて実家からは出ていくことが多いし、女性はどこかへ嫁ぐ場合も当然多い。そうして実家を出たとしても子供は子供、家族は家族だと言えるに違いないが、それでも実際の日々をどのように暮らしているかというと、高齢者はつまりテレビを観て過ごしており、若年者はスマートホンで何かを観て過ごしている。もちろん高齢者はスナックに酒を飲みにいくし、たまにゴルフをしにいくこともあるだろう、若年者はツーリングやフットサルに出かけることもあるだろう、だがいま主題として捉えているのは「何が自己存在の定義たるか」ということであって、つまりはその定義が実にあいまいではないだろうかということを指摘している。定義があいまいなまま、もし「自分の存在は何で定義されていると思いますか」というたぐいの問いを受けたなら、「やっぱり家族なのかなあ」「なんだかんだ、仕事なんだと思いますよ」という種類の答え方をするであろう、というありふれたことを指摘しているのみ。
ひとりの中年が気まぐれに盆栽に手を出してみたとして、それが自己存在の定義だと言い張るようなケースはまずない。極端ないわゆる芸術家やクリエイターが自負として言い張るそれを除いては、まずその盆栽をもって「これが "わたし" なのです」と言い張るようなことはまずない。高齢者が趣味としていわゆる社交ダンスを始めたとして、そのダンスをもって「これがわたしの存在定義」とまで言い張る人はごく少ないだろうし、通常そんな無謀な言い張りをしない人のほうが健全で好ましいものだ。
こうして考えてゆくと、つまりは、われわれは自己存在の定義、「わたし」とは何であるか、「わたし」とは本当に存在しているのか、ということについて、あいまいなまま、あるいはむしろその存在を結論としては肯定できないまま、長い時間を生きていくのではないだろうかということになる。テレビを観ながらからスマホをいじりながらか、なるべくまともな食事をこころがけながら。むろんそのことが悪に満ちているとはとうてい言えない。また、幸い経済的に裕福になって、趣味として海外旅行を頻繁にしたり、気の合う仲間たちと登山を始めたというようなこと、そのそれぞれの出先で「充実」の瞬間を愉しむことはいくらでもあるだろう。ただ、そのよろこばしいことをもってしても、われわれが充実を愉しむことと、われわれが自己存在を発見することはイコールではないだろう。突き詰めていくと、けっきょくわれわれは自己存在について単純にゼロ回答を自ら選んでいるのかもしれない。それでいいのさ、とうそぶきたくなる気持ちは誰にでもわかる。それでいいのさ、と韜晦するとおり、本当にそれでいいのかもしれない。
ただし、それで本当に当人が苦しんではいないということであればだ。
われわれは自己存在の定義を持っていない、あるいはそれを自ら投げ棄ててさえいるかもしれないとして、本当はそのことに苦しんでいるのかもしれない。苦しみは取り除かれるべき、または克服されるべきだが、その苦しみをさしあたり取り除くとして、この場合はその苦しみじたいに「向き合わない」「忘れておく」という方法が有効にはたらいてしまう。この主題じたいを「どうでもいいんだよ」と断じ、かつそのように断じることをすでに自覚より深入りした根強い習慣にしてしまえば、人はあたかもこの主題に打ち克ったようにさえ見えるかもしれない。それが真の勝利なのか否かは誰にも判定できない。本人がそれを見つけたのか、それとも見つけられないまま言い張っているだけなのかは、他の誰にもわからないことだし、多くの場合は当人にもすでにわからなくなっていることだ。
そして、こうして「どうでもよくない?」と断じ続けることが根強い習慣になったことの剛い質実に比べて、まさか自分がカルチャーセンターのごとく手をつけた一枚の水彩画や一片の手書きの詩句が権威をもってこの主題において巻き返し勝利するとはとても思えない。作品、という語に続くわれわれの根強い習慣的反応は、「芸術家でもあるまいし」だ。まったくそのとおりだと思えるし、そのように反応することがまったく健全なことだと思える。じっさい、われわれがそうした「芸術家でもあるまいし」に手をつけるとき、当然に知られた数的割合のこととして、われわれのほとんどはそれについて "精神的にムキになる" ことは容易にありえても、精神を超える何かに至ることはきわめてまれだと認めておくべきだろう。精神的にムキになるということは過程として必要なところがありうるとしても、精神的にムキになることじたいにわれわれの求める存在や豊かさはないはずだから。
われわれは自己存在の定義うんぬんについて、反射的に――きっと習慣的に――「どうでもよくない?」という応えかたをしよう。だがそれは自己の死去を直視したときにも同じのままなのだろうか。自分はもう長くないとか、そうでなくても、十年後の桜を見ることはできないかもしれない、などと考えるとき、われわれは慌てて、これまで塩漬けにしていた自己存在の定義を掘り返そうとするかもしれない。「やっぱり家族だったのかな」「子供がすべてかな」「けっきょく仕事だったかな」、そのように信じてゆける人はけっきょく幸福なのかもしれないという仮定を、われわれは誰も否定するべきではあるまい。
ただそれでも、「それがけっきょくわたしだったんだろうね」と、きっと思うであろうと空想するわれわれの習慣は、どこまでもテレビドラマ的な気楽なイメージに根拠がある。本当に直面した人、さらには直面しきった人、直面しきった「わたし」においては、そうでない哲学が湧いてくるという可能性がじゅうぶん予期される。「けっきょくわたしって何だったんだろう?」、その疑問がまるきり疑問のまま、そのときになって慌ててうろ覚えの宗教に頼りだすということだってありうるだろう。そこを取って食うような悪質な宗教業者だって世の中には潜んでいるに違いないのだ。
自己存在の定義について、わたしはそうでないものがありうるということを述べたい。自己の為した作品、あるいは「あの瞬間」というものがありうる。わたしとはけっきょく何だったのか、それについて、「あの瞬間だったな」ということがありうるということ。それは一般的に思われているような幸福の実感がみなぎる瞬間というのではなく、それが何の瞬間なのかというと、なんとも言いづらいにせよ、押し切って言うならば、それは作品の瞬間、あるいは作品性の瞬間と言うことができる。それは生死とはいっそ無関係の、魂に及ぶ瞬間、あるいは魂が現れた瞬間と言える。
わたしの知るかぎり、人は自己存在の定義について、あいまいかつ無関心にしているが、そのことによって苦しみ続けているのだ。それに向き合えばなお苦しみの直撃を免れないということを直観しているので、「どうでもよくない?」という相対化反応を習慣にしているのだが、けっきょくこの苦しみから逃げきれているわけではないということを、人はその魂において知っているものだ。このことには何の根拠も証拠も出しようがないので、わたしがここでそのように言い張るということだけを示させてもらう。
幼子が未だ何の疑問も持たないまま、画用紙にクレパスを塗りたくっていく。興じて、そのクレパスはやがて画用紙を逸脱して部屋の壁にも及ぶのだが、その破壊的な成果物を両親は叱りつけるにせよ、その子の魂の現れそれじたいを否定的に見るというようなまともな親はあるまい。そしてわれわれ自身が記憶を精密に掘り起こすならば、われわれが何の苦しみもなく完全な眠りと輝く朝を得ていたのは、ちょうどそのクレパスを振り回していた時期と同じなのだ。次第に、クレパスを振り回すだけではその絵は「上手」ではないし、作品として評価されないと自覚し始めたころ、われわれが夜眠るにもわずかな苦しみがつきまとうことになる。しだいにその苦しみは増大していって、なんだかんだ現在の大人となったわれわれがあるのだろう。
「芸術家でもあるまいし」とわれわれは言いたがる。それで幼子からクレパスを取り上げるかというとそうでもない。なぜクレパスを取り上げないかというと、「子供だから」「子供が遊んでいるだけじゃないか」という。それが遊んでいるだけということなら、なぜわれわれ大人はそのことにいちいち趣味というわざとらしさを取り付けて、カルチャーセンターに首をつっこむなどして社会通念によしみの媚びを売らなくてはならないのだろう。幼子が振り回したクレパスは画用紙をはみ出しさえして、自覚のないままにそれはその幼子の作品ではないのか。その作品が画廊で換金される評価を受けるわけではないにせよ、誰がその幼子の作品をただちに燃やすゴミの日に廃棄するだろうか。幼子に自覚はなくても彼の自己存在がその作品に現れているのはわれわれの魂において明らかなことだ。
われわれは幼子のようにはあれない。事実、幼子ではないからだし、幼子の「ふり」やその気分に浸るような愚行を思いつくべきでもない。われわれは幼子ではないし、われわれが幼子でないのは<<すでに苦しんでいるから>>だと言っていい。われわれは自発的にクレパスを手に持てなくなって以来、すでに苦しみを受け始め、それについて「それでいいのさ」と諦観を重ねるふうを続けている。このやっかいな苦しみが、直面しても克服できない上に、直面するとますますその苦しみに直撃されることによって、相対化が積み重なってゆく。そうして苦しみの直撃を回避するための隠蔽に、ひそやかな自力がはたらき続けている以上、われわれが幼子のふりをするようなことは隠蔽に隠蔽を重ねるだけの醜い行為にしかならないだろう。
「わたし」とは何であるのか。「やっぱり家族ですかね」「けっきょく仕事だったのかな」と習慣に割り込まれる前に、クレパスを振り回して眠る幼子まで含めて「わたし」とは何なのかを捉えうるように考えねばならない。われわれは実のところ自分の「作品」などというものを、けっきょくは "わざとらしく" 避けているに過ぎない。クレパスを振り回す幼子にはまったく見当たらないそのわざとらしさが、対照的にわれわれの身には充満しており、そのことじたいがすでに受けている苦しみの実体と言えるだろう。よもやこのことに "ギリギリまで言い訳を続ける" ということが、われわれにとっての自己存在の定義となってはいけない。
二種類の苦しみ
このように書き話されたものをあなたが読み手として聞き遂げようとするとき、その本心は、「タテマエはいいから、早く本当のことを話してくれ!」に尽きるだろう。読み取るにしても時間は貴重だし、建前に入念な配慮をほどこした冗長な文章は、結果的に鋭く有益な知識をあいまいに暈かしてしまうものだ。よって最大限、読み手の本心に応えることに努めて書き話してゆきたい。
われわれは二種類の苦しみを受けているのだ。ひとつは単純に生理的な苦しみ。虫歯のある人は歯が痛むだろうし、やけ食いをした人は胸やけするだろう。爪先にばい菌が入っただけでも人は大きく苦しむし、二日酔いだって程度がひどいときは深く苦しむものだ。ただそれは生理的な苦しみであって、恐れはしても、さしあたりいま取り扱おうとしている苦しみとは種類が異なる。
もうひとつの苦しみは何か。それは、恥と呼ばれるものや、罪と呼ばれるものだ。建前はなるべく省いて話を進めよう。たとえば不美人な女性は、自分が美人でないこと、自分の醜形やその姿に苦しむだろう。貧相な体躯の男は、やはり自分の姿のみすぼらしさと魅力のなさを恥じて苦しむだろう。
あなたの話がまったく面白くなかったとする。するとあなたはそのことを恥ずかしく思い、そのみじめさに苦しむ。おしゃれなドレスがあなたにまったく似合わなかったとしたら、あなたはそのダサさを恥じて苦しむ。あなたのする音楽の演奏が陳腐でつまらなかったら、あなたはそのつまらなさについて苦しむ。勉強をしても、勉強していない人に試験の点数で負けるようなら、あなたはその頭の悪さや要領の悪さに苦しむ。
これらのことは生理的な苦しみではないはずだ。では何の苦しみなのかというと、「祝福を受けていない」ということの苦しみだと言っていい。あなたの魂が神の祝福を受けているなら、あなたの風貌は何かしらうつくしく愛されるものであるはずだし、あなたの声は、あなたの姿は、あなたのことばは、あなたの奏でるものは、あなたを飾るものは、それぞれ特有の光輝を発するはずだ。にもかかわらず、そういったことがまったく見当たらないということは、「魂が神の祝福を受けていないのだ」ということと直観される。そうしたまだるっこしい知識がない人でさえそのように直観する。そして魂が神の祝福を受けていないということじたいで苦しむ。加えて、そうして祝福を受けていないというみじめさ、あわれさが開示され、そのことが蔑視を受けることも加わって、公然とした苦しみも増すということだ。あなたがヘタクソなダンスをすべての知り合いの前で披露したら、あなたはそれを恥に満ちた黒歴史として苦しむだろう。
(西洋・聖書世界ではそれを恥というより罪の観念で捉えるようだが本稿では深く追究しない)
あなたが幼子のうちに振り回していたクレパスが、そのままダヴィンチのごとく神の園を描き出すようなら、あなたはそのクレパスを現在まで手放さなかっただろう。あなたはそうではなかったので、どこかでクレパスを手放したということになる。子供のうち、一度も自分がマンガ家になりたいと思わなかった人のほうが少ないだろうし、誰でも一度は自分で小説を書いてみたい・書いてみようと考えたことがあるものだ。しかしあなたの手元にはけっきょくあなた自身の作品として堂々と読ませてよいマンガや小説はない。それはなぜかというと、それを手掛けた時点で直面したからだ、
「神の祝福を受けていない」
いささか大仰な言い方に聞こえるかもしれないが、けっきょくそういうことになる。あなたの書こうとしたマンガは画力としてみじめで、発想として陳腐だった。つまり恥ずかしいものだった。あなたの書こうとした小説も同じ、文章力として恥ずかしいもので、またモチーフとしても恥ずかしいものだった。ここで、根性のある人やマニアックな人は、画力なり文章力なりを向上させるための閉鎖的な努力を続けるかもしれないが、そうして技術力が上がったとしても、そこに神の祝福などというものがあるかどうかといったら別だ。
あたかも神の祝福を受けたような少年は、少年のころからうつくしい声で唄い、それも少年のうちに留まらず、生涯にわたって特別な歌い手でありつづける。それに比べると、自分の手掛けるものは、努力の痕跡が見栄えよく評価を受けたとしても、正視してしまうとやはりむなしくて恥ずかしいものだ。「そんなこと言っていたら話が始まらないんだけど!」。そのとおり、それでも人は進むしかないにせよ、だからといって目を背けたことで話が始まるという単純さでもありえない。
ほとんどの女性は、よほど酔っ払いでもしないかぎり、振り切って投げキッスなんかできないものだろうし、男性も同様、よほど酔っ払いでもしないかぎり、振り切って愛の台詞なんか言えないものだろう。そして酔っぱらって振り切ったとしても、そのことが振り切ったなりの栄光や美を具えるかというと、そう甘いことでもないのだ。けっきょく、周囲はヤレヤレと見逃してくれるが、つまりはただの醜態ということになる。この醜態をごまかすためにはどうすればよいか。高価な美貌で目くらましをかけるか、高価な身分で目くらましをかけるしかない。美人なら投げキッスは様になるかもしれないし、金持ちの男性が高級な車と腕時計で自らを飾るなら、愛の台詞というのも幻惑のまま押し通るかもしれない。
われわれはこのように、神の祝福を受けていないということで、魂において苦しむのだ。それは恥の苦しみであり、罪の苦しみと言ってもよい。気の強い醜女が「ぶっちゃけさあ」と、汚い言いようを汚い声でする。それは、そうして汚らしく振る舞うことのほうが、自分の恥を露出させずにいて、苦しみを受けずに済むからだ。ぶっちゃけさあと百度言うことで彼女は何も傷つかないが、愛のことばを一度言おうとするだけでその魂は深く恥・罪において傷つくだろう。
冒頭に、われわれはふつう、自分の作品などというものに、無関心かつ無関係に生きていると述べた。なぜわれわれは作品うんぬんに無関係で生きようと選んでいるのか、それは本当にそのことに無関心なのではなく、そのほうが魂が傷つかずに済むからだ。痛みを受けずに済むし、恥と罪において苦しまずに済む。いや、その苦しみは地中でずっと変わらずあるにしても、その苦しみにさしあたり直面せずに済む。女性を口説かねば女性にフラれることはないし、色っぽい服を着なければ「似合わない」ということも起こらないというわけだ。
もし自分が神の祝福を受けたがごとく、何もかもに恥ではなく栄光を現すようなら、誰も幼子のうちからクレパスは捨てないだろうし、投げキッスをためらいはしないだろうし、愛のことばが日常のことになるだろう。高価な装いは見栄えに足しになるにせよ、質素な装いでさえ栄光は衰えないのだから、目くらましのための外装に執着する必要もなくなる。けれどもそうではないのだ。そうではない、ということじたいの苦しみの中をわれわれは生きている。その苦しみはあまりにものっぴきならないものなので、それに直撃されないための習慣を得て暮らしている。
それは実にありふれたことで、かつ当然のこととして、けれどもやはりこう言うことになる、「そんなこと言っていたら話が始まらないんだけど!」。そのとおり、そんなことをいつまでも言い続けていたら話は始まらない。話が始まらないままやがて生の時間の終わりを迎えるだろう。そのときになって急遽、わたしとは何だったのかという話を始めようとしても、いささか泥縄が過ぎるというものだ。
まともに話を始めるために、その場しのぎを超えた考え方を持とう。あなたは幼児のころから、自分の絵を示したかったし、自分の声、自分の姿、自分の愛のことば、自分のキス、自分の小説、その自己存在たる栄光を示したかった。ここから引き下がることは、あなたの日常ではあれども、あなたの真実というわけではどうやらないようだった。いまさら日常を失うことは合理的でないが、かといって真実を失うのもやはり合理的ではない。
あなたが真実としては示したい・証したい自己存在の栄光について、すべてのジャンルを言っていてはキリがないので、それらすべてはあなたの作品ないしは作品性ということで括っておきたい。あなたの自己存在があなたの作品(性)と紐づけられる以上、あなたが作品うんぬんに無関心・無関係を装って生きているのはありていに言ってただのウソなのだ。自己存在の曖昧模糊、さらには自己存在の否定にさえついて、「それでいいんだよ」と魂の底から言っているような人はいない。「それでいいんだよ」などと言いながら、<<本当はそれが自分のことばとして自己存在の栄光を示してほしいと願っている>>というのが、それらの発言の真相だ。
自信を失うリスク
たとえばここに五十五歳の男性がいたとする。仕事を早期退職して、悠々自適の資産を持っているものとしよう。彼には妻もあり、子もあり、いずれは孫も得られそうな見込み。若いころはスキーやゴルフといった趣味も人並み以上にたしなんできたし、学生のころは部活動で活躍もした。児童のころから人気者の部類だっただろう。順風満帆でトラブルのない半生以上を過ごしてきたが、ここで彼がとつぜん、老境の愉しみとして小説を書きたいと考えたとする。彼はこれまでに、そうした芸術活動はしたことがないが……
彼は優秀な男だ。彼はその優秀さにおいて、まず国語力には問題がないし、理路整然と、正しく意味のとおる文章が書けるだろう。それをどのようにして小説という形式に近づけてゆくか。そのことについても、彼は優秀だし、この時点で意欲があるから、そのことについてのノウハウ本や、小説作法についての書籍から勉強もするだろう。そういったスクールがあれば通うかもしれないし、過去のさまざまな文学作品を参考に読んでみたり、あるいはライトノベルのようなものも参考までに読んでみたりするかもしれない。
彼はそうして、実作には悪戦苦闘しながらも、ついに彼の書いた一本の小説を完成させるかもしれない。とうぜん、それを知人には読ませるだろうし、気恥ずかしさを覚えながらも、彼は自分の妻や自分の娘にもそれを読ませるかもしれない。彼が謙遜な人柄であれば、それは自分の小説を「読んでもらう」という趣きかもしれない。
いずれにせよ、この時点ですべてのことは平和裡に過ぎてゆく。これから老境を迎えようというひとりの男性が、半生の体験をもとに小説を書くというのはごくまっとうで文化的な営みに違いない。
けれども、もし彼がここで、さらに「いや、本当の小説が書きたいのだ」とまで言い出すようであれば、平和のムードは一変する。彼の書いた小説は、いかにもシロウトが書いた読みづらさと、それを許容しようとするほほえましさの中で受け取られるに違いないが、もし彼がそのことについて「それらはすべてお約束の、お付き合いの、お遊戯ということじゃないか」と言い出すならば、それはすべてそのとおりだと肯うよりない。彼はシロウトくささを脱するために、いわゆる筆力のようなものを修練し、時間はかかるにしても、やがてぱっと見にはプロまがいの荘重たる文面を構築するようになるかもしれない。ただしそれでも、それがプロのレベルにあるといって、われわれはそれを「本当の小説」と認めるわけではないし、そのように体験するのでもない。じっさいわれわれは書店にあるすべてのプロの小説を魂に及ぶものとして認めるわけではまったくないのだから。
ここで何が起こってくるか。もしわたしにどこまでも響く大声があるなら、わたしはここでその大声を使うだろう。ここで人は<<自信を失う>>のだ。それも、想定しているよりもはるかに巨きな。
彼は<<とてつもない規模の自信の喪失>>に陥ると言ってよい。
なぜ自信を失うのか。注意しなくてはならないのは、ここで彼が失う自信は、「小説って意外にむつかしいな」「自分には小説なんて無理なのかな」ということに留まらないということだ。そんなことの自信など初めからたいしてあるわけではないのだから失ってもどうということはない。
そうではなく、彼は次第に、向き合うほどにこう思えてくるのだ。
「学生時代の、青春の思い出と、会社員として格闘してきたさまざまなシーンを、作中にこめたはずだった。それがどうにも面白くはならず、小説としてはくどくて無様にしかならないというのは、おれが体験してきたことは実は面白くなかったということなのか? そうは思いたくないし、そうは思えないのだが」
「おれが書いているものは、どうしてこう、力んでばかりいて読みづらく、それでいて肝腎なことは伝わってこないのだろう。ひょっとして、おれがこれまで口頭で人に話していたのも同じように、力んでばかりいて伝わってこない、ひとりよがりのしつこいおしゃべりに過ぎなかったのか? 後輩や部下たちに説教もしてきたけれども、あれらもひょっとして、まともには人に伝わりようのない、うっとうしいばかりのものだったのか」
「おれが書いた小説のラブシーンの、なんと陳腐なことだろう。これは単純な筆力の問題なのか? それとも、このまるで汚らしい中年が空想したような場面描写から醸し出されている臭気が、他ならぬおれ自身からずっと噴き出しているということなのか。女性たちが気を遣うか、あるいは力関係において、そのようにおれには言わずにきただけであって……そういえば、娘はある時期からおれをこころなしか避けるようになったが、それはおれの性的に汚らしい臭気を受けてのことじゃなかったのか」
「おれはこれから旧友たちの会合に出るが、そこでするおれの会話は、またマイクを通してするスピーチは、本当にまともで気分のよいものなのか? そんな当たり前のことに、まるで自信がなくなってきた。これまで当たり前の自信を持っているつもりでいたが、その自信はすべてウソで、おれの一方的な、ひとりよがりの思い込みだったのかもしれないのだから。おれの昔話のタイミングや、織り込むジョークは、本当に人を笑わせているのだろうか。お追従(ついしょう)をさせているだけじゃないのか。おれ自身、そうしたお追従を嫌ってきたし、そうしたものが嫌いだと公言してきたが、実はおれ自身がそうして周囲にお追従してもらわないと成り立たないという、あわれなピエロなんじゃないか」
「おれは部下たちに、命がけで仕事しろ、魂をこめて仕事しろと言ってきた。自分のこととして向き合え、逃げるなと説教してきた。おれ自身そのように生きてきたつもりだったが、果たしてどうなのだ。おれは実際、いま目の前にしている自分の小説の、その無様な出来栄えから逃げ出したく思っている。おれがここ数十年、威張って説教してきたものは何だったのだ?」
「『そんなことないですよ』と、気楽におれに言うな! お前らがおれに向けている評価は、本当の評価というわけではないじゃないか。どうでもいいものに対する社交辞令を言っているだけだろう。おれはいま、自分から出てくるものが陳腐で無様でつまらないということに、おれなりに向き合っているんだ。なぜそのとおり、陳腐で無様でつまらないですよと言ってくれないんだ」
このようにして、彼は何もかもについての自信を失うと言ってよい。小説執筆に関わっての自信などまったくどうでもよいことだ。そうではなく、<<これまでのすべての自信>>をとつぜん一挙に失い、そのことは過去のことなのだから、<<今さらやり直しも利かない>>、という事実に向き合わされる。これが二十歳の青年であれば、せいぜい、思い返して十数年の記憶と自信しかないけれども、五十五歳ということなら話はまったく別だ。おおよそのことは自分のこととして成果が確定してしまっている。二十歳の青年ならば、ここで「そうではない自分」の生を新たに構築していくことはできるかもしれないが、五十五歳では今さらどうしようもないという向きが強すぎる。
「なぜ小説のひとつもまともに書けない。何も名作を書こうとしているのじゃない、まともな、ただまともな小説をひとつ書き残そうというだけなのだ」
「けれどもどうしても、その "まとも" なものが現れてこない。何もかもがわざとらしく、何もかもがニセモノくさくしかならない」
「おれのこれまでは、実は全部ニセモノの、ウソっぱちだったということなのか」
なぜ彼の書いた小説は、彼の知能を正しく反映していながらも、実体として陳腐で、小説としては無様なのだろうか。こういう場合、半分がたは、単に彼が小説やら芸術やらについてほとんど道筋を歩んではおらず、文学的な仕掛けや芸術の現象についてまったく開眼はしていないということによる。だからその意味ではやはり、「芸術家でもあるまいし」という相対化の呼びかけが有為にはたらく。
けれども、彼がもし、ある意味では不幸なほど真摯にこのことに向き合うなら、残念ながら残りの半分、あるいは半分以上は、彼の自信喪失が「正しい」という向きを彼に伝えてしまう。彼が一般的・社会的に優秀かつ充実した幸福な人物であることは誰の目にも疑問がなく、そのことだけで彼は一般的・社会的に称賛を受けてよい人と言えるのだが、それが自己存在の定義に及んではどうかというと、残念なことに、彼自身がいま目撃している彼自身の小説が彼に教えているところがあなどれず正しいということになる。いわゆる人生経験が、もし充実していたとしても陳腐ということがあったとしても、彼にとってそれはまったく恥ではないということをわたしは断言したいが、それにしてもけっきょくこのことはわたしがどう思うかではなく彼がどう思うかなのだ。彼は自分の生きてきたすべてに、一般的価値を認めながらも、同時に「つまんねー」と言いつけなくてはならない。自分の描いた主人公とそのすべてのシーンに対して、まるで自分自身の半生に突きつけるように、「けっきょく何が言いたいのかわからない」「気分に浸っているだけでうっとうしいよ」「こんな珍しくもない話、別に誰も聞きたくないよ」と言いつけなくてはならない。まして昼夜、そうして言いつけられることが半ば以上「正しい」という理知に、彼は苦しめられるだろう。
このことを他人事として捉えるぶんには、気楽に「いいことじゃないか」「素敵なことだよ」とさえ言いうるかもしれない。ここまで一般的には十分以上の充実した人生を送ってきて、なお「そうじゃないんだ」「自己存在の定義を得るのはこれからなんだ」「真に生きるのはむしろこれからなのかもしれない」と、光り輝くような言いようを見い出せるかもしれない。ただしそれはあくまで他人事としてだ。当人としてはそう生易しい話ではない。これまで生きてきたぶんの、すべての自負とすべての支え、すべての自信をいきなり半分以上――あるいはほぼ全てを――なぎ倒されて失うというのは、精神を重篤に失調させるに十分な威力だ。
ふと彼は、途中で行方不明になったかつての級友のことを思い出したりする。野球部で活躍して甲子園出場への立役者となった彼は、その後は一流の企業に勤めたはずが、あるとき衝動的に脱サラし、新しく知り合った人たちと起業するも、かごぬけ詐欺のようにして逃げられて失敗する。その後も彼を支えようとした人たちはいたはずだが、やさぐれた彼はそうした助力にも感情的に唾を吐くようで、酒に逃避してアルコール中毒になり、やがて暴力から犯罪に手を染めて、二度目の立件によって収監された。そのときには薬物にも手を出していてすっかり中毒者だったらしい。その話を風聞で知ったときには「どうしてあいつがそんなことに」と首をかしげたものだったが、いまになって「少しわかる気がする」と感じる。「自分が何をやっているか、何をやっていいか、わからなくなって、どうしようもなくなったんだろうな、おれはたぶんそこまでにはならないけれど、そうなってもおかしくない、そういうことってあるんだと思うよ」と彼は考えるようになった。
多くの詩人や文学者、またその他の芸術家が、自死を含めてその生涯を短くすることが多いということは一般によく知られていることだ。なぜそのように生を縮めるかというと、一般には漠然と「神経をやられるんでしょうね」というぐらいに思われているが、その実際の典型例のひとつは、こうして自信のことごとくを奪われるということによって起こる。これは危険なことなのだ。一般のわれわれが直面しないよう塩漬けにして地中に埋めている苦しみを、掘り出して直面するということは、安易には勇敢でロマンチックなことに思えるけれど、実際にはこうした直接の危険を伴う。
自信を失うというのはそれぐらい苦しいことだ。ある一定の規模からは、とてもじゃないが向き合えないものだし、向き合ったとしてもその後にどのように立っていたらよいかまったくわからないものだ。それこそかつての宗教者や求道者のように、正しく堅牢な学門を背後の支えに得ている者であれば、そのような大規模な自信喪失の中でもなお立って歩きだすことができようが、そうでない限り、何の支えもない単独個人がこのことの直撃に向き合えるものではない。本当に、母音のひとつでも自分の口から出すのは震えるほど厭(いや)だということにさえ実際になりうる。本当に自信を失うとそういうものだ。
自信を失うということは、「祝福を受けていないと認める」ということだ。祝福を受けていないということが視えてしまうということ、あるいは祝福を受けていないということ<<ばかり>>が視えてしまうということだ。われわれは誰も、祝福がどうこうなどという大仰なことはふだん考えていない。しかし考えていなくてもそうなのだ。われわれは自覚がなくてもそうした魂の直観を常に得ているし、そうした魂の直観はわれわれの日々にひしめいている。ただ、その直観にそのまま直撃されることにはリスクがあるので、そのことを漠然としたこころ・思い・感想に転換して過ごしている。
われわれはなるべく日常を平和に、安穏として暮らしているが、その安穏は自分に一定の自信があることに基づいている。そしてその自信は、ほとんどの場合、自分の作品に関わって得たものではなく、おおよそ一般的・社会的な価値観に照らし合わせて得てきたものだ。「学生のころはけっこう頑張ったからなあ」「社会人としてけっこうやってきたつもりだよ」、スポーツもしてきたし恋愛もしてきた、仕事でも活躍してきたし、生活してゆけるだけの土台も獲得してきた。やけに異性にモテる時期もあったし、逆にストイックに過ごした時期もあった。それから夫として妻として、頑張ってきたし、父として母としても頑張ってきた。ただそれが、果たして本当に自己存在の定義になるうるのかどうか。それが自己存在の定義になりうるかどうかについては、われわれはそれをあいまいにして生きる習慣を根付かせている。それをあいまいにしているということはつまり、それだけではきっと自己存在の定義にはならないだろうということを先に見越している、あるいは前もって知っているということでもあるのだろう。
もし人が無防備に、いきなり「本当の作品を」などと言い出すと、それら習慣に根付いている安定の装置をいきなり引っこ抜くような大転換になる。大転換と言っても、それは急にすべての自信を失うというショックと恐慌でしかない。しかもそこで失った自信はもう本質的には戻ってこないものだ。失った自信以上の学門が得られるならそれに越したことはないだろうが、必ずしもそうした報いが与えられるとも限らないので、このことには本来かなりの慎重さを要するのだった。よってどこまでも、「芸術家でもあるまいし」という言いようは、われわれの実生活において有益かつ必須の安全装置と言える。
自信に「帰る」という反応
われわれの目に赤外線や紫外線は視えない。視えないものはどうしようもない。またわれわれの耳に超音波は聞こえない。聞こえないものはどうしようもない。
目の前にひとつのバッグが置いてあったとして、そのバッグが見た目にも高価なものか安価なものか、実のところよくわからないという人が少なからずいる。少なからずというか、多くの人はそういう実情の中を生きている。目利きがないとも言うし、センスがないとも言う。「この季節に、このスカートの上には、何を合わせればいいかしら」、そう訊かれても、さっぱりわからないという人もいる。わからないものはどうしようもない。「これとこれを合わせるのはおしゃれでしょ」と言われても、それが視えないのであれば、視えないものはどうしようもない。
この高校の吹奏楽部はヘタクソでしょ。そう言われても、そうは聞こえないし、よくわからないという人は多いし、「いまの外角低めはよく打った、むつかしい球だった」と言われても、よくわからない人はよくわからない。◯◯という映画は芸術的で感動的だったと言われても、それがよくわからないという人もいる。この数式はうつくしいと言われてもわからないし、この俳句はうつくしいと言われてもわからない。あちらのスピーカーよりこちらのスピーカーのほうが音が良いと言われてもわからないことがあるし、こちらのワインのほうがヴィンテージが当たり年だとか、この真鯛は旬で天然ものだとか、この人のギターはまるで泣いているようだとか、そんなことはさっぱりわからないということもある。ピカソやセザンヌのどこが名画なのかさっぱりわからないということもあるし、カラヤンやバーンスタインの指揮がどのように優れているのかまったくわからないということもあるだろう。
視えないものはどうしようもないし、聞こえないものはどうしようもない。
そしてわれわれは、そのどうしようもないもの、どうしても「わからない」ものに対して自信をなくす。自信を失うのは、先に述べた通りつらいことだ。その苦しみには耐えていられないので、人はおのずと「自信に帰る」という挙動をする。自信のあるものへ帰る。それは数秒のうちに起こることもあるし、数日のうちに起こることもあれば、数年のうちに起こることもある。
自分の「作品」などというものは、その「わからない」ものの最右翼だ。筆頭であり、極北であると言っていい。陶芸で茶碗を焼いたとして、せいぜいそれがヘタクソというのはわかりえても、一個で数万円もする茶碗のそれのどこが作品として「佳(よ)い」のかはよくわからない。100円均一のものとそこまで差があるのか。たとえ上手でない絵でも、確かに「佳い」絵というのはあるのかもしれないが、何をどうしたら佳い絵になるのかはまったく見当もつかない。同じ小説を書くなら面白い小説を書きたいものだが、何をどうしたら小説が面白くなるのか、その手掛かりはまったくない。書く前は面白い小説の idea や予感があると思えても、実際に書き始めると必ずそうではないということに直面させられてしまう。
作品に関わって、人は自信をなくす。作品に関わらなくてもそうだが、ここでは特に作品に関わってのことを強調しよう。自信をなくすといって、単にそれに関わる自信をなくすだけに留まらないということは、先の段で述べたとおり。何もかも、自分のこれまですべてについての自信まで失ってしまいそうだ。それは極めて危機的なことだから、人は自分の自信があるところへ帰る。先の段で五十五歳の男性が小説を書こうとして苦しみにさらされる描写をしたが、この人のところに職場復帰の話が持ちかけられれば、彼はいかにもそちらに帰っていこうとする。彼はその職場で何をしたらよいか、すでにほとんどすべてのことを知っているし、すべてのことが視えるし、すべてのことが聞こえて、自信があるからだ。
面白いことに、と言うと気が引けるが、それでもやはり面白いことに、この「自信に帰る」という反応と挙動は、よくよく点検しながら観察してみると、まるで台本に決められていることのように、機械的に発生する。生真面目にとさえ言いたくなるほど、このことはきっちり、法則どおりに起こるのだ。人は特に自分の作品に関わっては、自信をなくすという危機に晒される。そして自信に帰ろうとする。このことは、よくよくそのように点検してみると、まるでわれわれはこのことを繰り返すために生きているのではないかと思えるほどに、厳密にパターンとして繰り返されている。
自信に帰るということは、言い換えるならば、「自分が通用したこころあたりのあるやり方・感覚に帰る」ということだ。たとえばある女性が、ここで何かの冊子のデザインを決めなくてはならない・創作しなくてはならないとする。ところがやり始めると、何が「佳い」デザインなのか、さっぱりわからなくなってくる。自分でデザインしたものがヘタクソということはなんとなくわかる。それで、これまでにある優れたデザインの見本を参考に眺めてみるのだが、そのデザインの何が優れているのかが視えないので、視えないものはどうしようもなく、彼女の手掛けるデザインはヘタクソなままだ。彼女は自信をなくしてゆき、危機に晒される。
この女性は、ずっと若いころ、甘え上手という向きがあった。八方美人なところもあり、それで周囲に妬まれたり、疎ましがられたりすることもあったけれども、「それってけっきょくわたしが甘えるの上手だからでしょ」と居直って強気なところもあったほどだった。すると唐突に彼女は、ここで同僚や上司、あるいは取引先に対して、不自然なほど「甘える女」というような反応と挙動を起こし始める。彼女には、自分の作品やデザインといったことがまったくわからないのだが、甘えるということ、それを上手にやるということについてはわかるのだ。彼女はそのことについて自信がある。こうして彼女は、まるでプログラムにそうしなさいと書き込まれているかのように、自分の自信のあるところに帰る。それで、提出を迫られているデザインに関して訊かれると、「え〜? それが、わっかんないんですよ。えへへ」というように、本来その場では適切でない物言いや挙動が出るのだ。それでもなおも提出物を迫られると、彼女は堂々と「泣き出す」ということさえする。そのことも含めて彼女はかつて甘え上手というやり口に自信があったのだから、どのように泣き出せば自分の責任が強く言われないかについてよく知っている。そしてしばしば、この彼女の素っ頓狂なやり口は、その場しのぎにせよそのときの現場で通用する。やれやれ、と子供じみた評価を受けながらではあるが。
彼女には冊子デザインの才能やセンスはないのだろうか。才能とまで大げさなことでなくても、まともなものを作り上げるだけの器量を持ち合わせいないのだろうか。その才能や器量が問われる以前に、実際にはこのように、彼女は「自信に帰る」ということを繰り返すので、彼女はそもそも才能や器量という可能性に向き合うことじたいが出来ないのだ。そのことに取り組む場所に立つことがそもそも出来ないと言ってよい。
多くの場合、人はこのようにして、そもそも自分の可能性に対するトライアルじたいに向き合えないのだ。わからないものがやがてわかるようになるか、視えなかったものがいつか視えだすか、そうした可能性への挑戦そのものが、継続できないというよりは開始できない。
人は可能性に向かうより、はるかに大多数のこととして「自信に帰る」のだ。人によってその「自信」はさまざまだが、その自信のいくつかの種類を列記しておくことは、ここで明瞭な理解を得るのに扶(たす)けになるだろう。
ある男性は、新興のアイドルが「かわいい」という感覚に自信があった。またある男性は、ギャンブルで熱くなるという感覚に自信があった。またある女性は、スナック菓子の「おいしい」という感覚に自信があった。またある女性は、自分がムッとすることで自分の扱いに気を遣ってもらえるということに自信があった。またある男性は、つっけんどんにすることで上位に立てるということに自信があった。またある男性は、茶化すということに自信があった。またある女性は、スポーツ根性論に持ち込むことに自信があった。またある女性は、とぼけてすべてを他人に丸投げすることに自信があった。またある男性は、冷淡に振る舞うことで自分は傷つかないということに自信があった。またある男性は、サブカルとミーハー気質で歓心を買うことに自信があった。またある女性は、陰気で弱気なふうを振る舞うことでかばってもらえることに自信があった。またある女性は、エキセントリックな差別感情に自信があった。またある女性は、おぼこいふうに振る舞うことで責任を課されないということに自信があった。またある男性は、善人ムードにすることで漠然と好感を得られるということに自信があった。またある男性は、オラつくふうにすることで強い人物と印象づけることに自信があった。またある女性は、他人を批判・批評することで知能が高いイメージを作ることに自信があった。またある男性は、協調性を言い出して鋭意を鈍らせることに自信があった。またある女性は、肉親の情を激情に膨らませることに自信があった。またある男性は、特殊化した性的嗜好とその興奮に自信があった。またある女性は、自分を悲劇に浸らせることに自信があった。またある女性は、うらみという感情に自信があった。
われわれの日常的な生の実体を、いっそ「作品(性)の危機から逃避するために、自信に帰り続ける」と大胆に定義することで、このことはいっそう捉えやすくなる。われわれはふだん「作品(性)」なんてことはまったく考えずに暮らしているが、考えていなくてもこうした仕組みがはたらき続けているのだ。
ここに一組の、交際している男女がいたとする。双方とも若く、やがては結婚する心づもりはあるが、お互いにそれは未だ決定事項ではない。男は現在求職中で、女のほうは今年になってはたらき始めたばかりだ。男は手元のスマートフォンでソーシャル・ゲームをしている。女はファッション誌のページをめくりながら、
「あー、マジいまの職場向いてない。もう辞めよっかな」
と言った。
そして男に向けて、
「あんたさ、けっきょくこれからどうするの」
と訊いた。
男はそれに対して、んー、と生返事をした。
男はソーシャルゲームをしながら、
「いまちょっと、母親があれだからね」
と言った。
男はふと、小さなため息をついて、母親のことを考えた。もともとは意気軒高な母だったが、齢のせいだろう、骨がもろくなったらしく、今年になって二回目の骨折をした。
ギプス姿で療養している、気丈な母のことを思うと、男はわずかに目頭が熱くなった。
(誰にとっても母親は大事だろ、自分を育ててくれた人なんだから)
と彼は思う。
彼と彼女はその夜、いつもどおりに性交した。いくつかの電動器具を使い、男は女に汚らしい語を投げかけて責めた。それに対して、女はもだえるようだった。
このようなことがあったとして、それぞれに、実は印象やムードとはまったく異なる、「自信に帰る」という現象がはたらき続けていると、観察すると面白い。面白いというのも語弊があるが、このようなことは学門として、知性において面白いと捉えてかかるのが、健全かつまっとうな勇気の湧いてくるやり方ではなかろうか。
この例において、女性は物憂げで気だるい印象を醸している。彼女の物言いはやさぐれていて強気だ。男の側はとっぽい感じで、頼りなく、内心で母親思いあるいはマザコンの気を持っている。二人は若い男女として互いに性愛を向けあい、またむさぼりあっているのだろうか。
そのような印象で捉えることには、平成の時代に流行した都会的退廃ロマンス主義への憧憬と残滓が窺われるが、もうそのテのレディースコミックが流行らないであろうことのように、現実のわれわれにこうしたムードの恋愛がもたらされることはもうないだろう。実際に現代のこうしたシーンにありうる二人を包んでいるのは恋愛という力ではない。
女は自分が何をしたらよいのかわからないのだ。自分の仕事への向き合いようが、作品性に及ぶということはないと自覚的にも感じられているし、このまま交際相手と結婚したとしても、また子供を産んだとしても、それが自分の生涯の作品性にはならないだろうということも予感している。じゃあどうすればいいかといって、彼女には何をどうしたらよいかまったくわからないのだ。そこまで本意ではない業務を、生きていくためになるべくライトにこなし、別にイヤではないという理由で男と結婚し、けっきょく若いうちがいいからといって子供を作ったとしても、それらが自己存在の定義にはならないだろうということはすでに予感されている。自己存在の定義のために何をどうしたらいいのかさっぱりわからない。このことを、直面的に考えれば考えるほど、致命的な自信喪失が待っているだろうと直観されているところだ。
彼女はただ、<<やさぐれて強気なふうで物を言えば、現実的で強そうと思ってもらえる>>ということに自信があるにすぎない。過剰に髪の毛の色にこだわって見せたり、ささいなことにいら立ってみせたり、とんがって化粧をしている姿を見せれば、「強い」と思ってもらえる。女性誌のファッション表示がそれぞれ何を狙っているものかが感覚として直接わかる。ただそれらのことに心当たりと自信があるのみ。だから彼女はそのようにしている。自信に帰っているだけなのだ。
男のほうは、やはり自分が就職の先で作品性に及ぶとはまったく感じられておらず、また彼女と結婚することや、家庭を持つことに作品性が生じうるとも感じていない。だからどうすればいいかといって、何をどうすればいいかはさっぱりわからない。ただ、自分が何をどうやっても作品性を得ないということが、直面すればとてつもない苦しみだろうということだけが魂の底に予感されているのみ。何もかもの自信を失うわけにはいかない。そこで彼は、スマートフォン画面の映像と音響が、フリック操作ごとに派手にきらめいて爆ぜ、女の子の絵柄が煽情的に示されるなどする、その刺激に素直に洗脳されていくことが単純に「楽しい」ということには自信があった。
彼はそれを、自覚的には「楽しいからやっている」つもりだし、「個人の趣味なんだから別にいいだろ、誰に迷惑かけるわけでもなし」と思っている。けれども真相はそうではないようだ。彼は、そうした刺激物が楽しいという感覚に自信があるから、そこに帰り続けているにすぎない。
彼はまた、子供のころに帰りたいという郷愁に合わせて、そこにいつもあった母親の姿に慕情を起こすということ、それにグッとくるという感覚に自信があった。彼はそうして自信に帰り続けている。自分がこれから先、作品性と呼んでもよし、自己存在の定義と呼んでもよし、そうした魂のことへ進んでゆくということが「まったくわからない」――視えないものはしょうがない――ので、機械的に自信に帰るということを繰り返している。
彼はまた、これまでの心当たりとして、淫猥さに性的嗜好をエキサイトさせるという、その味わいについて自信がある。だからそのようにして彼女と性交する。それもやはり彼女と交合したいというよりは、ただ機械的に自信に帰るということが繰り返されているのみ。対する彼女のほうは、彼の性的嗜好に適合しているというのではなく、男の性的嗜好による被害者の気分に浸り、被虐的な感情を高めるということに自信があった。彼女もやはりそうして自身に帰るということを機械的に繰り返している。
「作品(性)」が自己存在の定義たりうると――仮説――するとき、われわれのうちに真に自分の作品ということに無関心なものはいない。無関係な者も存在しえない。それでもわれわれは、常識的には作品うんぬんに無関係な中を生きているものだが、その日常は、<<巨大な自信喪失を免れるための安全装置がはたらき続けた結果として生み出されているもの>>と言える。加えてその自信喪失を逃れるための手段として、「自信に帰る」という機能もはたらき続けているということ。
彼女はファッション誌が観たくてページをめくっているのではないし、彼はソーシャルゲームがしたくて指をフリック操作しているのではない。二人はセックスがしたくてセックスしているのではない。ただ巨大な自信喪失とその苦しみを恐れて、自信に帰るということを繰り返しているだけなのだ。このことはあまりにも機械的に、生真面目にといってよいほどパターン化して起こるので、あたかも見ようによっては、われわれの生の実体はほとんど、この「自信に帰る」ということの果てしない繰り返しなのではないかと言いたくなるほどなのだ。もちろんそのことに、妥当性を見い出したとして、よろこばしさまで見い出すわけにはいかないけれども。
不毛実感への執着
われわれは自分の作品などというものに無関心かつ無関係に生きている。趣味で粘土をこねることや日曜大工をすることはあっても、それはあくまで娯楽や趣味の範疇に収められており、そこにいちいち「この作品がわたしであり、自己存在の定義を証している」というような大げさな思いや魂は封入しない。
また、誰でも休日に美術館を覗いてみるようなことはあるとしても、それも趣味や娯楽のバリエーションのひとつにすぎない。ピカソの絵を眺めてみて、そこにある美術性やはたらきかけというようなもの――そんなものがあるのかないのか知らないが――について何かしらの感想を覚えてみる。そうして感想を覚えてみるというじたいを単純な愉しみにしている。もしそれをジャンルの類型に当てはめてゆくなら、それはむしろ観光旅行に近いものと言えよう。歴史的に価値があるらしい建物を旅先で見上げたとして、それが何になるというわけではないかもしれないが、一定の感想を覚える。それじたいが愉しみだ。そのことはごくありふれたわれわれの愉しみであって、健気に生きようとするわれわれにおいて決して悪しざまに言われるべきではない。ただそれでも、岡本太郎のように「ピカソの絵画によって新しい方向へ押し出された」というような切迫したものはそこにはないということだ。
あるいは「本の虫」と呼ばれるタイプの人が世の中には少数ながらいて、中には本当にずっと本を読み続けることだけで余暇のすべてを使っているというような人もいる。こうした人も多くはいっそ完全な趣味というべきスタイルで本を読み続けているのであり、読書を愉しみはしても文体と作中から全身全霊への干渉を受けているのではまったくない。たとえば大江健三郎がウィリアムブレイクから生全体への大きな影響づけを受けたというようなことが「本の虫」において起こるわけではない。
われわれは通常そのようにして、いっそ「断固として」という気配さえ察するほど、作品ということの本質を自ら遠ざけている。「芸術家でもあるまいし」という言い方には、芸術家と呼ばれたこれまでの人々への揶揄がいくぶんか含まれているだろう。そうした安全装置を習慣に仕込んでおかなければ、われわれの目の前にもヌッと「自分の作品」という問題は突き出てきかねないのだ。何しろ誰の手元にも紙とペンぐらいはあり、誰でも唄ったり踊ったりできるだけの肉体や声を持っている。
作品というのは本質がよくわからないものだ。それはまるで、人がいつのまにか生きていて、いつかは強制的に死なされるということのようにわからない。人が「どのようにして」生まれてきているのかは科学として誰でも概要を知りうるけれども、「なぜ」生まれてきているのかは誰にも知りようがない。なぜ死んでいくのかもわかりようがないし、死んだあとどうなるということもわかりようがない。宗教のすべても、概要を知ることは簡単だが、それが本当なのか虚言の集大成なのかは誰にもわからないことだ。
あなたがフランク・シナトラの音源をスピーカーに再生すれば、その声はただちに「佳い声」だと聞こえてくるに違いないが、何をもってそれが「佳い声」なのかはあなたには永遠にわからない。永遠にわからないくせにただちに「佳い声」として聞こえてきてしまう。オシロスコープで音の波形を精緻に知ることは可能だろうし、倍音の鳴りぐあいや、その音の揺らぎを計測することは可能だろう。けれどもそれらのすべてをもってしても、けっきょくそれが「佳い声」だということの説明にはならない。このわけのわからないことにおいて、ひょっとしたらあなた自身からも「佳い声」が出てくるかもしれないが、逆にいかなる努力をしても「佳い声」は出てこないかもしれない。「佳い声」にあこがれるとしても、正体のわからないものにどう努力しろというのだ?
ヴォイス・トレーニングのコーチは科学的に発声のメカニズムをあなたに教え、またそのトレーニング方法を教えるだろう。それで声は音として大きく響き出力されるようになったとしても、それがやはり「佳い声」かどうかはまったく別のことだ。事実、そのヴォイス・トレーナーの声は、発声の理論と技術において正しく、その正しさは周囲を圧するほどであるけれども、その声をスピーカーにかけて聴きたいかというと、そういう「佳い声」ではないということを、そのレッスンの生徒たちでさえ知っている。その先生は優れたヴォイス・トレーナーかもしれないけれども、魂に及ぶシンガーではない。そうして考えると、当のフランク・シナトラはヴォイス・トレーニングの成れの果てに「佳い声」になったわけでもあるまい、ということにも思いがゆく。そうなると、「佳い声」とはどこから生じているのか、次第に「祝福を受けているのだろうか」という神秘主義的な発想にも、こころが傾いていくところがある……
わからないことに向き合わされると、人は自信を失う。目の前のことについての自信のみならず、これまですべてのことについてまで自信を失う。「これまでの自分のすべては、ぜんぶニセモノだったのじゃないか?」。そうした呼びかけが、何割かは知らないが一部は正しかろうという理知が自分をおびやかしてくる。何の支えもなくこのことに直面し続けるようでは、打ちのめされ続けて、もはやまともに生きていくことさえできなくなる。だから直面しないような習慣や発想を何かしら持ち続けてわれわれは日常を過ごしてゆくことになる。
あなたに漫才のネタ、漫才の脚本を書いてもらうとしよう。舞台上で二人が五分間ていどのやりとりをして聴衆を爆発的な笑いにいざなう。現代のわれわれ日本人なら誰だって見慣れた光景だ。その脚本をあなたに書いてもらうとする、もちろん名作を仕上げろというようなことではない。ごくありふれた脚本でかまわない、くだらない漫才ていどのことだ。そのための資料なら Youtube で無数に見つかるだろう。
あなたは持病で、膝が痛かったとする。歩けないほどではないが、階段の上り下りは少し苦しいという具合だ。座っていてもほのかにジンジンと痛む。季節のせいなのか体調のせいなのか、その持病は定期的にあなたの身体に現れるものだとしよう。ちょうど今このとき、あなたの膝は少し痛むが、そのことじたいはあなたにとってすでによく慣れたものだ。
見慣れた光景として、舞台に立つ二人の漫才師はすぐにイメージできる。二人が出てきて「はいどーも、◯◯です」「よろしくお願いします」。時間も五分間とごく短いものだ、どこまでも漫才の「ネタ」なのだから、壮大な叙事詩が必要なわけではない。気を楽にして……
にも関わらず、もしあなたが本当にこのことに手をつけるなら、数分も経たないうちに「あれ?」と頓挫の感触を覚えるだろう。見慣れた定番のもの、そのイメージがすぐに湧くとしても、そのことはただちに作品の創出が進みゆくということを約束はしない。イメージは湧く、しかしイメージのとおり脚本を書き進めようとすると、あまりにも学芸会のような幼稚なものになっていってしまう。それを書き進めることに熱中しているあいだ、当人は盲目でいられるかもしれないが、ふと冷静になったとき、「こんなもので誰が笑うわけあるか」と当人でさえ気づいてしまう。「陳腐すぎ、しかも幼稚すぎだろ」。そこに現れてくるのは、漫才脚本の不出来というよりまるで自分の恥という感情的なものだ。
それで一本目はボツになり、新しく二本目に取り掛かる。二本目は少し出来がマシに思えたので、それを煮詰めて清書する具合で、三本目として完成させようとする。ところが三本目として煮詰めてみると「やっぱり面白くない、というかよく見たら意味不明だわ」というふうに気づいてしまった。それでここまでのものを廃棄して四本目に取り掛かる。四本目はますます行方不明で意味のわからないものになってしまった。気を取り直して五本目に取り掛かる。こうして六本目、七本目とあなたが取り組んでいけるかというと、実際にはそのころにはヨレヨレになっているだろう。疲れ果てて「よくわからなくなっちゃった」という気がしてくる。草案がボツになるごと、その一本ごとに、あなたは自分の「恥」が露出するというダメージを受けているのでもあるのだ。
それでひと眠りして、起床すればふたたび脚本の創作に向かう。目覚めるやいなや「よーし」、そのとき、「笑い」を追究する気概のままペンを握りしめているかというと……常人にそんな根性はない。また根性があったとしてもまともなものが出てくるというわけでもない。その脚本の創作で大会に出るとか、それでメシを食っているとかいうことなら、モチベーションが外部にあるのでしぶしぶでもその作業に戻るだろうが、純粋に作品として取り掛かるならモチベーションがなくて頓挫したままになるだろう。
三日坊主という言い方があるが、こと作品に関しては三日も続くようなら相当な意地っ張りであって、ふつうの人は三時間も持たないものだ。プロになれば一定の「パターン」からその脚本をデザインすることが出来るようになるが、それは作業であって創作ではないので、その作業じたいによろこびはなく、ますます外部にモチベーションを設定する必要がある。そして、外部モチベーションから生じたそれはどんどん「作品」ではなくなってゆき、その作業に長けた当人はどんどん「業者」「業界人」になってゆく。それは作品ではないゆえに、彼の自己存在の定義にはなってくれず、彼は人前では漫才師として明るく楽しげに振る舞うものの、その内面は暗くさびしさに覆われて苦しんでいる。「おれって何なんだろうな」。彼はやがて自己存在の定義を求めて投機に手を出して失敗した。彼は金持ちになれば自己存在の定義が祝福されるのじゃないかという夢想をしたのだ。その夢想さえ叶えてはもらえなかったが。
彼がそのさびしさから唐突に自死したとしたら、周囲の人たちは思いがけなさに心底おどろくだろう。「あんなに明るく楽しそうな人だったのに」。
あなたに漫才の脚本を書いてもらう。あなたの「作品」を、ささやかだが世に問うということになるだろう。漫才は何によって「面白い」のか、その本質はまったくよくわからない。緊張と緩和という理論があるし、起承転結という理論もある。序破急という言い方もするし、ユーモアやウイットという捉え方もある。ボケとツッコミという語はすでに誰でも知っているだろう。あるいは虚実皮膜論まで取り込んでもよいかもしれない。けれども、そのどれを紙面にこすりつけたところで、実作としての脚本が面白くなるわけではない。面白さの「概念」が面白い「物」をもたらすわけではない。
このとき、あなたは膝の痛みが気になり始める。「ちょっと待って、今日は膝が悪いわ、あいたたた」。あなたがそうして膝の痛みを主張しだすことはまったくウソではない。実際に膝が痛いものはしょうがない、何かしらの手当てをして、膝そのものは静養させるべきだ。
ところがこのとき、膝の痛みはあなたにとって「わかる」のだ。絶え間なく実感が与えられる。「あいたたた」。あなたはその症状に慣れっこのはずが、このときは、「あーもう、膝が痛すぎるわ」、やけにその痛みがあなたに強い主張を呼び掛けてくる。痛みにイライラし、反面、どこかその痛みを愛好しているような、ヒステリックな様相がわかりやすく浮き出てくる。すごく厭(いや)そうでいながら、やけに嬉しそうでもあり、甲高い調子はねじ曲がった自信の恢復とその振り回しさえ感じさせる。「ちょっと待って、マジ、膝痛くて超集中できないんですけど。ウケる! マジやばい」。
あなたにとって、自分の作品、この場合は漫才が「面白い」ということ、その本質はわからないものだ。それに対照して、膝の痛みはあなたにとってあまりにもよくわかるものだ。わからないものはあなたの自信を失わせる。あなたは自信に帰ろうという反応と挙動を起こす。あなたは、膝が痛いという実感には無上の自信を持っている。だって「膝が痛いんだもの」。漫才が面白いということはわからないが、膝が痛いという実感は熱弁したいほどにわかる。あなたが膝の痛みを自分の主題にするかぎり、あなたは自信を失わなくて済む。だからしだいに、どう持ちかけても、あなたは自分の作品については答えず、何に対しても「膝の痛み」を答えてくるようになる。
膝の痛みに注目し続けることは有益だろうか。膝の痛みは手当てしてそれじたいを静養させるべきではあるが、その痛みに注目し続けることは不毛に違いない。その不毛さはほかならぬその当人が一番よく知っているのだ。だから当人はこれまで、その症状には慣れっこで、「無理に階段を上り下りしたりしなければ大丈夫」と、その痛みには注目せずにきた。もしこの当人がいま、他人事としてテレビ番組で誰かが漫才をするのを眺めて聞いているだけなら、「膝が痛い」ということにこんな執着というほどの自己注目はしなかっただろう。
自信を失うリスクに対しては、機械的に「自信に帰る」という挙動が起こる。この挙動の先は、もはや「自信があれば何でもよい」という具合であって、それだけにこの挙動はその背後にある衝迫が切実なのだということがうかがえる。自信に帰るといって、その自信がいかに不毛な実感であったとしても、当人はその不毛な実感に執着するごとくに帰り続けるということを選ぶ。さらにはその不毛な実感が、事実に基づかず、虚妄や妄想に基づいているものだとしても、その実感に執着することのほうを選ぶのだ。「こんなの妄想だとわかっていますけど! それでもしょうがないんです」。
自分の作品(性)、あるいは、作品性に及んで向き合わされるある種の学門に対して、この「不毛実感への執着」も、点検してみると機械的に起こっている。ここは割り切って、「面白いな」と捉えてよいほどに、このことは生真面目に起こるのだ。
多くの人にこころあたりのあることとしては、いよいよ試験勉強をしなくてはならないと、学門の書籍を机の上に置くとき、嘆息と共にふと、「部屋の中が散らかっている」という、ふだんは気にもしないけれどもわかりやすい実感があなたに取りつくということがある。これは本当は、実感があなたに取りついているのではなく、<<あなたが実感に取りついている>>のだ。作品と学門にかかわって、自信を失うリスクを回避するための安全装置がはたらいている。何であれば、あなたの取りつける実感が見当たらない場合は、あなたが自らその実感を探し始め、わざとらしくそれを見つけるという手続きさえするのだ。「あー、むかし母親に言われたこと思い出してめっちゃムカついてきた」。
さまざまな事情をいったん脇に置き、この現象をただ靜坐観察するなら、この現象それじたいは透けて見えるように起こるので面白い。あなたがもしこのことに純粋な知的好奇心を覚えて自分自身に実験を行うなら、ただちに「本当だ!」という発見のよろこびを鮮やかにするだろう。この現象は、気づかれないから見落とされているだけであって、何ら隠蔽がされているわけではないのだ。本当にここに説明しているとおりのことが白昼堂々に行われる。
作品(性)と学門に向かおうとしたとき、そのとたん、グラリと自分の自信の根底が揺らいでいるのがわかる。どうぞ観察してみて! その根底が揺らいだ瞬間、危険だ、リスクがある、怖い、ということへの防御感覚が走っている。そしてその直後、あなたの表情は変わっており、「はあ、やれやれ」と、何とはない攻撃的な溜息と、攻撃的な声の調子が生じている。その攻撃的な調子は、あなたにとってここりあたりのあるものなのだ。かつてのあなたがそれで通用したという、記憶と自信がある。あなたはそんなガキみたいなやり口は卒業したつもりでいたのに、このときになって瞬間的にそのことへ立ち帰るわけだ。漠然と偉そうな、傲慢なマインドが自分の内部で立ち上がる。刹那的な、さまざまなことを小馬鹿にするような調子。上から目線を冷淡に向けている、架空の勝者の気配。それでいて表面的には、「自分にはちょっと無理かな」と謙遜のふうを貼り付けもし、立ち回りからの利益も損ねないでいる打算。<<そんなやりくりをしていても不毛だとわかってはいるが>>、その不毛実感に執着が起こり、当人の意思ではそれを除去できない。
当人の意思では除去できないそれは、学門によって除去されるべきだ。つまり、あなたはこのことを観察によって自ら「本当だ!」と発見してやる必要がある。こうして発見される問題は、問題として小さくないにせよ、そのことの深刻さの前に、まず発見したことへの面白みが勝つだろう。人のこころは本当にそういう作業を瞬間的にしているのだ。そうなれば、あなたはこのことからの脱却はそう容易ではなくても、わけのわからないままに仕組みに取り込まれていくということはなくなる。明らかに大きな落ち着きを得て自分自身を引き受けることができるようになる。
作品(性)と学門に向かおうとするとき、不毛実感への執着が起こる。このとき不毛実感が、ときに当人から見てさえいくらなんでも荒唐無稽な、脈絡のない実感へのワープだと自覚されていても、それでもなお不毛実感への執着へ実体は移行するのだから面白い。
作品をやろうと向き合った瞬間、「粘膜がさびしくてもうどうしようもないんです」と唐突に言い出す。作品をやろうと向き合った瞬間、「きらいな人のこと思い出してしょうがない」と唐突に言い出す。作品をやろうと向き合った瞬間、「将来が真っ暗でどうしようもないです」と唐突に言い出す。「現実がキツいんですよねけっきょく」「ドツいたろか、という気がしてしゃーない」「もうこの国はダメでしょ」「月曜から上司が戻ってくるんですよ、ブルーでしょうがない」「てへへ、いやあ無理です、キャラが違うんで」「つい年齢のこと考えちゃって」「いまはたぶん婚活のことしか考えられないんですよ」「子供がいるから、うん、子供のことで精一杯なんだろうな」「このキャラクターがかわいい」「自信がなくて、ずっと、バカにされながら生きてきたようなところがあります」「いま刺激系のお菓子がどうしても食べたいです」「もっとフツーに生きていけたら十分っていうか」「けっきょく子供のころに言われたことにウンザリしているのかな」「わかった、ネイルの色が気に入っていなくて、テンション下がっています」「ここ狭すぎて、こういうとこ苦手なんです」「隣の家の物音がうるさすぎて」「ちょっといま、眠気とめまいがひどくて」「さっきのお香の匂いで酔ったっぽくて」「あー、ちょうど、こういう季節ってわたしダメなんですよね」「先週ある人に会ってからずっと調子崩してるっぽくて」「わかった、けっきょく褒められて伸びるタイプなんです」「ヘンなマンガ読んだからか、なんかやる気なくなっちゃって」「マジいま彼のことしか考えらんない」「……(先週受けた乱暴とセックスを思い出している)」「いまは違うっていう、波動みたいなの感じるんすよね」。
ぜひ、すべての思考をがらりと一変してほしい。これらすべて不毛実感への執着は、ただ一点、自信を失うことへのリスクから生じている安全装置のはたらきにすぎない。ひとつの自分の作品に向かうのに、われわれは数千の不毛実感を言い張るというほどなのだ。それぐらい、われわれは魂において、作品(性)と学門に対してはリスクを鋭敏に感じとっており、本来は慎重さを要するということになる。
不毛実感への執着が起こる。そのことは、拒絶しなくてもよいが、知っておく必要がある。知っておかなければ、何が自分の真実か見失うからだ。買ってきたスマートフォンのカバーの色が、思っていたほどイメージと合わなくて、イライラしてしまい、何も手につかないというのは、きっと誰にとっても真実ではない。
何が真実かというと、そんないかにも無理のある不毛実感にさえ執着しなくてはならないほど、自分の魂にとって自分の作品(性)や学門というのは最大事なのだということだろう。あなたの魂があなたの作品に向かって子羊のごとく怯えることを、わたしは決して馬鹿にしない。
セレモニーに託している
わからないものに向き合うと自信を失う。わかるものに向き合うと自信が恢復する。スポーツ選手はフィールドに立てば自信が恢復するだろうし、学者は数式の証明をすれば自信が恢復するだろう。この逆をやらせればいかに自信を失っていくかが誰の目にもよくわかる。スポーツ選手に数式の証明をさせ、学者をスポーツのフィールドに立たせれば、それぞれの所在なさはいかほどか。肩身が狭くなり、不安で居心地が悪く、みるみる自信を失ってゆき、ある種の苦しみの中にたたずみ続けることになるだろう。中華料理を振る舞うふとっちょ母さんに新興ファッション・ブランドの批評をさせるのは酷だし、モナコに住むファッション・モデルに今年の稲作の出来を語らせるのも酷だ。視えないものはどうしようもないし、聞こえないものはどうしようもない。
わからないものに向き合わされると人は自信をなくす。
ではわれわれは「わからないもの」に対してどうしているのだろう。まったくの無力だから、完全に放置、ずっと放ったらかしているのか。そのとおりと言えばそのとおりかもしれない。けれども一部、なんとかしなければならないところは、なんとかしてそれがわかった「ふう」にしようとする目論見を、われわれは文化の中に持っている。
その文化を「セレモニー」という。
わからないものといって、われわれは初めすべてのことが未体験なのだから、初体験においてはすべてがわからないものにならざるを得ない。中でも、それを外部から眺めることに意味がなく、当人が体験することでしかわかりようがないものについてはそうだ、初め誰でも未体験のまま、それがわからないもののまま、そこに飛び込んでいくしかない。
その代表的なものが「死」となる。われわれは誰も、未だ死んだことがないので、死というものがどのようなものかわかりようがない。生きている側から眺めた死についてはいくらでも感想を持ち得うるが、死んだ側からの体験としての死はわかりようがない。一部には臨死体験を語ってくれる人もあるが、それはそれで興味深いにせよ、彼はまだ死んでいないので、その臨死体験が死そのものに重ねてよいものかは生者の誰にもわからない。
死はそのように、誰にとってもわかりようがないものなので、典型的に人はそれをセレモニーという文化でわかったふりにすり替えようとする。死者を何かしらあるべき黄泉の国へ往生したものとし、祭壇に祀って、意味があるのかどうかはよく知らない文言や勤行を唱えたりする。むろん文言の唱えているところの意味はわかるのだが、それを亡骸(なきがら)の前で唱えることに意味があるのかどうかは誰にもわからない。その後、亡骸は焼かれたり埋められたりするが、いずれにせよ文化的な様式を伴う。その様式の出どころは、何かしらの宗教の教えに基づいている「らしい」というふうに信じられており、正直なところそれ以上は誰も突っ込んで考えはしない。そうしてわれわれは、よくわからない「セレモニー」を通して、そのセレモニーに対する知ったかぶりを介し、死に対する知ったかぶりを獲得するというような仕組みだ。これはいかんともしがたいことなので責められたものではあるまい。どのようにしても生者が前もって死を知ることはできないのだから、個々人がでたらめに思いついた死の定義を言い張るよりは、社会通念上の文化としてセレモニーの様式を括り付けておくほうがいかにも健全で無難というところだ。
葬儀というものが必ずしも要るわけではないということは誰でも冷淡な理性において知ってはいる。だがよくわからないものをよくわからないままに放置しておくというのはわれわれの自信を不安にさせるのだ。そこで、僧侶なり神父なりを呼びつければ、その僧侶なり神父なりは死を「よくわかっているのだろう」とアテにすることで、その自信を安定させることができる。
もし自信を安定させたまま葬儀をなくそうとするならば、セレモニーに代わる権威が誰か必要だろう、「葬儀なんかしなくていい」と、この人が言ったからそうに違いないのだ、わたしにはわからないけれど……そのように取り扱えるのならば、死に関してセレモニーは必要なくなる。
結婚というのも典型的にそう。もし結婚というのを、制度上の婚姻ということに定めるならば、結婚というのは役所に届け出をすればそれだけで済むことになる。またこの届け出は代理人が提出することも可能だ。そして婚姻を結ぶ二人は、これまでに会ったことのない二人でもかまわないし、この先も会うことのない二人でもかまわない。見ず知らずの誰かふたりが、代理人の届け出によって結婚する。制度上ふたりは夫婦となるが、この夫婦は見ず知らずのまま、その先もずっと会うことはないということが現実に可能だということだ。何かしらの戸籍操作のために、実際にそのようなことが行われることも一部にはあるだろう。
そうして考えると、結婚というのも、実はわれわれにとってよくわからないものだ。婚姻届けを出した翌日から、法制度上は立場が生じているにせよ、全身全霊に何か違いが生じているわけではない。あるいは婚姻届けを出したはずが、何かの手違いで受理されていなかったというケースもありうるだろう。その手違いに気づかなかった一年間は、ふたりは夫婦でなかったということなのか。あるいは世の中には、自分の飼っているウサギと結婚すると言いだしたり、自分の愛玩している人形と結婚すると言い出す人もいるだろう。むろんそのことを役所は受け付けまい、法制度上にそのような条項はないのだから受理できない。だが世界中のすべての教会がノーとは言わないかもしれないので、どこかの神父や牧師が「いいですよ」と言い出す可能性もある。そうすることで、人はウサギや人形を伴侶にすることもできるのか。
よくわからないものなので、われわれはよくわからないセレモニーをするのだ。よくわからないものを<<セレモニーに託している>>と言ってよい。あなたが子供のころ、法制度上は、義務教育を受ける(受けさせる)義務があったとして、◯◯小学校の児童に「なる」というのはどういうことなのか。△△中学校の生徒に「なる」というのはどういうことなのか。単に教育を受ければいいだけではないのか? しかし実際には、母校といって、その学校は子供にとって母なるほどの何かでなければならないとされている。小中学校が母校、高校や大学も母校だが、そのあいだに挟まる予備校はなぜか母校ではない。だから予備校には入学式がない。小中学校、高校や大学には入学式がある。
予備校で受験対策の講義を受けるということはわかりやすいことだが、それとは異なり、それぞれの母なる学校に入るということはよくわからない成分を含んでいる。
そうした「わからないもの」に対しては、われわれはセレモニーをあてて、それがわかったもののふりをしようとするのだ。
だから、人が死んだというときには葬儀というセレモニーがあるが、人が生まれたというときには誕生式というセレモニーはない。死は生者にとってわからないものだが、生はわかるものだからだ。きっと人が生まれてきたときにある感情はよくわかる「こんにちは、いらっしゃい」というものであって、それがよくわかる感情である場合には自信がむしろ恢復するのでセレモニーは要らない。結婚するときはセレモニーがあるが離婚するときに離婚式はしない。もともと独身・単身であったものに帰るだけなので、離婚後のことがわからないという人はいないからだ。
あなたが女性だったとしたら、あなたがハリウッド女優になったところを空想してもらいたい。誰でも願望的空想のうち、自分がハリウッド女優だったらということをわずかにも考えたことがないという人のほうが少ないはずだ。あなたにごく自然に、「自分はハリウッド女優だ」という空想をしてほしい。そうすることで面白いことが見えてくる。
あなたの空想したそれ、女優として歩いている姿の第一は、カンヌ映画祭などのイメージで、やはりセレモニーを歩いている姿、セレモニーの壇上に立っている姿ではなかっただろうか?
自分がハリウッド女優だったらということを空想したとき、カメラの前でロミオとジュリエットを演じているところを想像するという人はほとんどいない。なぜだろう、ハリウッド女優といえばまさにそうしたことをする仕事なのに。
そして言わずもがな、カメラの前でロミオとジュリエットを演じるというだけなら、即日、いまこのときにも、あなた自身の意思によってそれは可能なのだ。いまや誰の手にも動画撮影ができる高性能な端末がある。
だがあなたがスマートフォンのレンズの前で、ロミオに焦がれるジュリエットを演じるとなると、途端にあなたは自信をなくし、不安になっていくだろう。恥と罪が露出する予感が走り、ただちにあなたは自信に帰ろうとする。このようなとき安全装置のはたらきは実に電光石火のごとくだ。
漫才の脚本を書くということが、イメージとしてはわかりやすいのに、実際に手掛けるとさっぱりわからないものだということと同様に、ロミオとジュリエットを演じるというのも、イメージとしてはわかりやすいのに、実際に今からこの場でやるとなると、やはりさっぱりわからないものだ。
わからないものに対してはどうする。われわれは、それを<<セレモニーに託す>>ということをする。だからあなたは空想上で、ロミオとジュリエットを "すでに熱演した女優" として、セレモニーの会場を歩いているのだ。セレモニーの壇上で万雷の拍手と無数のカメラのフラッシュを受けている。あなたはそのセレモニー会場なら、自信を最上に恢復して歩くことができる。
恋愛が不得手な人ほど、恋愛についての空想は脳内で「セレモニー的」になっているはずだ。料理が不得手な人ほど、自分が料理上手になったところの空想は、立派なエプロンやシェフ帽をかぶっている姿であるはずだ。踊るのが苦手な人ほど、華麗なダンスを見せつける空想は必ずしかるべきセレモニー会場で思い描かれているし、セックスが苦手な人ほど、それに先だって「セレモニー的なムードが大切なの」と言う。あなたは学校の宿題として課された作文については、何を書いたかほとんど記憶がないが、卒業文集などセレモニーに添えられるものとして書いた作文には、何を書いたかについてほんのりとした記憶があるはず。ほとんどの人はクリスマスに教会でミサ曲が奏でられることに対して荘厳で宗教的だという感動を覚え、自室で煙草を吸いながらエックハルトの説教集を睨みつけていることに対しては荘厳で宗教的だという感動は覚えない。
われわれは、<<セレモニーに救済を頼んでいる>>のだ。われわれは、わからないものに対しては自信をなくす。とてつもなく大規模に自信をなくす……その破滅的な脅威にさらされて、それでもなおわからないものについていくらかやりこなしていかねばならないとなると、その破滅的な脅威から守ってくれるよう、セレモニーに救済を頼むのだ。よくわからないものについて、やはりよくわからないセレモニーのイメージを貼り付け、それをわかったものとして通過しようとする。そのセレモニーについても「セレモニーじたいがよくわからないじゃないか」と言われるところ、けっきょく「だってそれっぽいじゃない!」という一点で押し通ろうとする。これも安全装置のひとつに違いないが、やはり安全装置のはたらきを知らないままでいると、その安全装置の支配に取り込まれて真実を見失っていくということになろう。
われわれは自分の作品(性)や、それに係わっての学門などに、ふつう無関心かつ無関係に生きている。それでは自己存在の定義が得られないではないか、と言われると、なんとなくそんな気もするが、それにしても「それでいいんだよ」と、へっちゃらな調子でいる。そのへっちゃらな調子には、どことなく強気な、勝利者めいて言い放つような気配も含まれている。自信を確保する手段をすでに持っているというような響きがある。
なぜわれわれがそうしてこのことに「へっちゃら」なのかについては、その背後に、なんだかんだ<<セレモニーが自己存在の定義になってくれるだろう>>という期待があるのだ。最も安易な走馬灯をイメージしてみるとわかりやすい。子供のころ、親に連れられていった七五三や、緊張して気張っていた入学式、みんなでさびしがった卒業式。高校のときは吹奏楽の全国コンクールにも出場できた。成人式には祖母が立派なコートを買ってくれた。やがて大学を出て社会人になって、出会った人と結婚して、子供が生まれたらみんなで正装して写真館で家族写真を撮った。母と父の葬儀に喪主を務め、その後はしぶる子供たちをちゃんと墓参りに連れて行った。まもなく自分自身が葬儀の当事者になるだろう。「わたしはそのように生きてきて、そのように存在していたなあ」。このようにわれわれは、いざとなると自己存在の定義をセレモニーに頼るところがある。その意味では、やはり本心から自己存在の定義を放棄しているわけではない。
だが、残念かつ当然のこととして、セレモニーの様式それじたいに、自己存在の定義たりうる自分の作品性が含まれているわけではない。単に飾り立てたミサに救世主の力が降臨するわけではないように、人生の折々をばっちりのセレモニーで包囲することで自己存在が得られるわけではない。では自己存在とは何かといえば、それは「わからないもの」なのだ。われわれの自信を根底からヘシ折りにくる。それは向き合うほど、あたかもわれわれが、根本的に自信など持ってはいけないのだと教えてくるかのごとくだ。かといって不安におびやかされて行方不明になっているさまが、自己存在の定義へ接近している様子だとも言いがたいのは明らかであって……
われわれの文化にあるセレモニーの一切を、根こそぎ否定する必要はどこにもなかろう。そして、それを正しく見るならば、そうしたセレモニーに向けては、周囲の友人や年長者が、どうかその当事者に自己存在が与えられますようにという、切実な祈念を込めているのだと捉えることができよう。あなたの祖父母があなたの卒業式のためにといって、高価な振袖を仕立ててくれたことがあったかもしれない。そこには決して否定されるべきでない、魂からの愛情が込められているだろう。孫娘が、わたしたちの知らないような、わたしたちでは届かなかったような存在のところまで、どうか導かれてゆきますように。そう祈りを込めたセレモニーへの餞(はなむけ)であれば、その祈りじたいはセレモニーの範疇を超えて存在している。その祈りじたいはあなたの祖父母の存在を証していると言ってよいし、あなたはその祖父母の尊厳を永遠に守り続けてよいだろう。
単純で安易なセレモニー救済への依存には警戒が要る。繰り返すように、人は自信を失うとき切実に苦しみを受ける。塩漬けにしていた苦しみに一気に直面させられて、とてもじゃないが耐えられないという状態に陥る。自信に帰りたい。自信に帰りたいところだが、その自信に帰るアテもなくなったとき、人は思いがけずセレモニーに救済を頼むという性質を顕(あきら)かにする。
たとえばある女性が、これまでは常に、自信に帰るということで、内心をどこか高飛車にして生きてきたとしよう。そうした日常が繰り返されてきたが、ふと鏡を見たとき、自分がもう若くないということに直面して恐怖が走る。自分はこの鏡に映っているものを受け容れようと思う。いや、いまはまだぎりぎり若いと言いえるとして、五年後だ、五年後にはもう完全にそうではなくなるのだ。このままわたしはどうなるのだろう? 若さゆえの高飛車だったあの自信にはもう帰れないと思うし、帰るべきではないと思う。ここが分水嶺だと思うけれど、このまま、自己存在の定義が得られないで、ただ年老いていくとわたしはどうなるのか。
そうしたとき、彼女の脳内には思いがけず、セレモニーのイメージが沸き上がる。祖母の葬式が思い出される。祖母は最後まで、「◯◯ちゃんがお嫁に行くところが見たかったわぁ」と言っていた。
そのことを思い出すと目頭が熱くなってきた。
「どこかに向かわなきゃ」
彼女はイメージした。自分の向かうところを。自覚はないが、自信の恢復するところへ自分は向かおうとする。ふと、自分の友人は海外で起業して、それをうらやましいと思ったりもしたが、自分がそのことを模倣するようなことはどう考えても現実的でない。そのようなことはイメージが湧かない。
模索するイメージの中で、彼女はぎりぎり若いうちに、ダイエットも成功して、純白のウェディングドレスを着てヴァージンロードを歩いていた。式場には両親がいて弟がいる。柄にもなく涙ぐんでいる。自分は祖母のことを思い出して微笑んでいる。自分の隣には、まだ顔はわからないけれど、正装して背の高い、頼りがいのあるやさしい男性がいる。わたしは彼と見つめあうだろう。
「やっぱり結婚だわ。結婚がしたい」
わたしはいまここでこの女性の結婚願望を攻撃しているのではない。そうではなく、彼女が取りついたのは結婚ではなくセレモニーだということを指摘している。そして、なぜセレモニーに取りつくかというと、それが自己存在の定義を与えてくれるはずだという誤った期待が湧いているからだ。
彼女はいまになって、「やっぱり子供のころからの夢だったから。女の子として」と言い張るかもしれない。わたしはそれについて直接の否定はしないにせよ、一拍を挟んだ確実な否定として、
「いいえ、あなたの夢は、あなた自身の作品(性)にあるはずです」
と言い続けよう。
なぜならその彼女は、それから願望どおりそうした婚姻のセレモニーを経ることができたとしても、必ず同じことを言いだすからだ。
「結婚はしたんですけれど、けっきょく夫婦って何なのかよくわからないです。一緒にいる意味あるのかな。子供が出来たら、いろいろ忙しくなって、また違うかもなって思うんですけど」
彼女がやがて子供の入学式にきれいなママとして参列するのが夢だと言い出すようなら、やはりわたしは同じことを言い続ける。
「いいえ、あなたの夢は、あなた自身の作品(性)にあるはずです」
もしさらにわかりやすく言うなら、
「セレモニーのムードがあなたの存在を定義はしてくれないよ、ムードにだまされるのはもう十分だろ」
人は自分の作品(性)と学門に背を向け、セレモニーに空想依存することで救済を期待する。セレモニー・アイテムを入手し、セレモニーに駆け付ける、というようなことを空想する。その空想が現実に果たされたとき、自分は自己存在の定義を得ているのじゃないかと思い描いているのだ。実際にはそうならないにしても、その空想がもたらしてくる期待の感じはその当事者において大きなものだ。
セックス・アンド・ザ・シティという、アメリカのテレビシリーズおよび映画がある。そのシリーズに印象づけられるところのヴィジョンとしては、たとえばみじめな掃除婦の女がいて、彼女は自己存在の定義が得られないでいる。彼女の目からは、周囲のきらびやかな女性たちが、華やかなパーティ・セレモニー会場に歩いていく姿は、実に自己存在を得ている祝福された女性たちだと差別的に見えるのだ。それでも彼女は健気に生きようとする。
この彼女に、金持ちが気を利かせて、高価なドレスと露骨なブランド物のバッグおよび靴をプレゼントする。それを受けて、彼女は泣き崩れんばかりに歓喜するというシーンが起こる。「これでパーティに行けるわね」と金持ちが言う、彼女は泣きながらウンウンとうなずく。あくまでイメージだが、当作では実にそういう断固とした女性性の表現が為される(※映画しか観ていないので知ったかぶりですいません)。
わたしはそれを、女性に対するひどい侮辱だと感じている。わたしは女性を、「アイテムとセレモニーで架空の自己存在にすがることしかできない者ども」とは思っていない。当作について一般的な批評はどうなのかよく知らないが、いまでいう猛烈な炎上が起こらないのが不思議でならない。もちろん例によって、わたしが一般的な考え方からとっくに脱落しているというだけかもしれないけれども。
むしろ女性の側が、このことについて、怯えた目でこう言うことがある、
「いいえ、そのとおり、セレモニー・アイテムを与えられて、セレモニー会場のムードに受容され、それによって自己存在が祝福されるという……そうしたイメージだけがわたしの願望のすべてなのです。それ以外の発想は正直なところわずかも持てないのです」
あえて映画に重ねて言うならばこうなる。宮崎駿監督の「魔女の宅急便」では、少女キキが、パン屋のオソノさんに励まされて、黒のワンピース、洗いざらしの普段着のままパーティ会場に向かう。少女キキはそのパーティ会場でやはり憂き目にあうのだが、セックス・アンド・ザ・シティが表示する女性性に帰順するということは、つまりこの少女キキの側の世界と袂(たもと)を分かつということだ。
もしわたしが、対抗して「魔女の宅急便」の側へ帰順して言うならばこうなるだろう。当作をよく観た人にしか伝わらないにせよ、少女キキの側と袂を分かつのであれば、あなたは絵も描けなくなるし、パンも焼けなくなるし、空を飛ぶこともできなくなるだろう。つまり自分の作品(性)から生涯撤退することになるだろう。その後も永遠にセレモニーがあなたの自己存在を祝福してくれるならばよいが、そうした空想に取りつく人は、平たく言ってそのセレモニーの内情を知らない。本当にはそこに踏み入ったことがないので、そのセレモニーの内部には、印象どおりの祝福がひしめいていると空想しているのだと思われる。
ごくまっとうな、つまらない、当然のことを申し上げておきたい。われわれの文化にあるセレモニーという様式を、根こそぎ否定する必要はまったくない。ただし、<<自己存在の定義を得た者がセレモニーに参じるのは良しとして、セレモニーに参じた者が自己存在の定義を得るという幻想はただの濫吹(らんすい)だ>>。自己存在の定義を得るということを安く見るな。あなた自身はただ日常の気分でブー垂れているだけのつもりであっても、あなたの物の言いようは思いがけない高度な尊厳を侮辱していることにもなりかねないのだ。現代、そうした濫吹の徒が百鬼夜行のごとく跳梁跋扈しているとしても、あなたがそれに野合してよいということにはならない。
あなたは自分がハリウッド女優になることを空想したとき、セレモニー会場に立っている自分を空想した。そのとき当然、セレモニー服を着て、セレモニー靴を履き、セレモニー装飾を身に着けていただろう。それは自己存在の定義が得られない人が結婚式願望に取りつくのとまったく同じ現象だ。そして結婚式願望に取りついている人が伴侶と愛し合って永遠の国へゆこうとすることなど本当には視えていないように、映画業界のセレモニーに願望の視点がいくようでは、映画作品をもって人々が何を示そうとしているかは本当には視えていないことになる。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、その授賞式に呼ばれたところ、「先約があるから」と言い放ってまるでその招待をゴミ箱行きに扱ったのは、真に自己存在の定義を得ている者からセレモニーがどのように視えているかということの鮮烈な現われだ。
あなたの、自分の作品への無関心、あるいはそのことへの絶望は、<<必ず>>、セレモニーへの関心、およびセレモニーへの期待に裏返る。
あなたが自分の作品(性)から自己存在の定義を得ることを諦めたら、あなたはセレモニー・アイテムを求め、それによってセレモニーに接近し、セレモニーから自己存在を与えてもらおうと期待するだろうが……つまりあなたがセレモニー・アイテムとしてシャネルのドレスを買ったとしても、それは「あなたの服」にはならない。「シャネルの服」のままだ。そしてシャネルの服に包まれたあなたが、そのまま「シャネルの女」になることを期待しているのだろうが、知っているだろう? そんなことにはならないのだ。<<あなたがマネキンのごとく自己存在を可能性ごとゼロにしてただの概念の棒切れになるなら別だが>>、そうでないかぎりセレモニーのムードがあなたに自己存在を与えるふうなのはすべてまやかしだし、その棒切れもシャネルが燃え尽きたときに一緒に灰燼に帰すのみ。何も残らないのだ、何も残らないものを自己存在などと呼ばないだろう。あなたの出た母校に値打ちがつくのはよいが、母校を出たあなたに値打ちがつくというのは愚かな幻想だ。
自己存在に "先立つ" ものはない
今回は作品について、また作品性について、またそれに係わる学門について話した。それも、どのように自分の作品を手掛けるかではなく、それを手掛けようとしたときに、いかに単純で機械的な反応が起こるかということに焦点をおいて書き話した。あえて深淵に踏み込むことはせず、本当に「単純にこうなるよ」ということだけを示した。このことに前向きな読み手においては、きっと自分自身で実験と点検をしてみて、いくつものことに「本当だ」という驚きを、よろこびと共に得ることになるだろう。そうした安全装置のはたらきと、自分の作品ということから受けている脅威について知ったところで、われわれがそれじたいで一歩も進んだことにはならないかもしれないが、すでに仕掛けを知っているお化け屋敷のように、次からはずっと陽気にその一歩を踏み出してゆけるのではないか、そのように企んで書き話した次第。
われわれは自分の「作品」などというものに、無関心かつ無関係で、要するに自分の作品うんぬんということに真っ向から否定的なのだが、それは本当には何を否定しているのだろう。自分の作品うんぬんを言い出せば、とてつもない規模の自信喪失がリスクとしてありえて、それゆえに「芸術家でもあるまいし」とのたまいだすということは、すでにパターンとして飽和しているとして、一方では「何もそこまで否定しなくていいだろう」と単純になだめたくなる気分も存在する。いちいち趣味だの娯楽だのと社会通念との折り合いをつける必要などなく、一枚の画用紙を好き勝手に自分の作品にしてよさそうなものだが、どうしてもわれわれの手は実作に及んでは入念きわまる躊躇をする。そこまでしてなぜ「自分の作品」を否定するのだろう。そこまでくると、いよいよ自己存在そのものを自ら全力で否定しようとしているのかというあべこべさえ仄見えてくる。けっきょくのところわれわれは根源的にこのことが「怖い」のかもしれない。よくわからない巨大な宇宙に、よくわからないちっぽけな「わたし」が単体で存在しているということに恐怖がある。誰でも友人や家族がいると思うが、それをもって「わたし」の単体性が否定できるわけではない。あなたの頭の中に思い浮かべたスペードのエースを、他の誰が読み取れるわけでもないのだから、「あなた」という自己存在はやはり単体で存在している。そしてこういったすべてが "何なのか" はわからないまま、われわれは放置されているのだ。自分ひとりが夜空のすべての星を見上げたとき、それを畏れるというのはきっと正常な魂のはたらきだろう。
自己存在というわからないものについて踏み入ったとき、すでにその一合目、あるいはもう登山口から、人々がパニックとヒステリーを起こすことについては、わたし個人としては率直に慣れ親しんでいる。あるいは愚痴っぽくは、飽き飽きしているとも言えよう。意地悪を言っているのではなくて、実情としてキリがないと痛感しているところだ。そして必ず「放っておいてください」という強い攻撃の調子と、「与えてもらうしか進む方法はありません」という希(こいねが)いの調子が、矛盾をものともせずぶつけられてくる。わたしもいちいちそのことに不平を言う気はなくなった。わたしは慈善をするつもりはまったくないが、ただ不平等・不公平なことはしようと思う。不平等・不公平なことをするという一点において、わたしが義理のない騒動の矢面に立つということも、あるていどはあってかまわないだろうと思うのだ。ていどを超すと、さすがにちょっとギブアップさせてくれということにもなるにせよ。
自分の作品うんぬんに係わって起こってくる、機械的で生真面目な、安全装置のはたらきについてはここで話しきった。ではその向こう側、自分の作品うんぬんが「すんなり」いく場合はどのようなのだということ、そちら側にはどういう装置がはたらくのかということになると、これについては、もうそれじたいのノウハウなど話しようがないということになる。学門としてはこれまでにいくつも示してきたつもりだが、けっきょくその学門から二次的に「あなたの」作品が生じてくるということはない。だからあなたの期待して構えているそのキャッチャー・ミットは残念ながら元のところにしまってほしい。「あなたの」作品がすんなり出てくるノウハウ、そんな便利なものがあれば即日でもあなたの手元に発送してやろうというところだ、残念ながらそんな便利なものはない。
そんな便利なものは、わたしの手元にはないが、あなたの手元にはもともとあるのだ。あなたの手元にあるものを、こちらからわざわざ送りつけるとすれば、それはただのニセモノを送りつけることになるだろう。
あなたの自己存在があなたの手元にないわけがない。
「あなたの作品」が、あなた以外のどこかから舞い込んでくるわけがない。
せいぜいわたしからあなたに与えうる考え方は、あなたに手鏡を与えるようなことでしかない。手鏡にはあなたの存在が映っていようが、あなたの存在をわたしがあなたに与えたわけではない。その上で申し上げるが、誰にとっても<<自己存在に先立つものはない>>のだ。すべての始まり、あるいはすべての始まりより先に「わたし」という自己存在がある。このことを冷静に捉えることで、あなたは自分の取り組みのうち、不毛な部分を大きく省略できるだろう。
先立つものがないということは、つまり、あなたの作品は誰に聞くこともできないということだ。
一部、わたしが親しい誰かに、その人の作品を教えることもあるが、それはけっきょくその当人からわたしが聞き取っているにすぎず、わたしの側からその人の作品が出てきているわけではない。
わたしの側から出てきているならそれはわたしの作品じゃないか。
あなたが自覚している、自己、「わたし」という感覚が問題だ。先に言ったように、学門があるとしても、その学門から二次的に作品が出てくるのだとしたら、その自己存在の証たる作品に先立って学門が存在しているということになる。それはここで示した自己存在についての言い分に適合しない。自己存在に先立つものはないと述べているのだから。
何がどうなっているかというと、われわれが一般に思っている「わたし」というのは三次的なのだ。
たとえばこのように考えてみる。あなたがドミソの和音を聞いたとする。長調だから明るい和音だ。そこには何かしらの感想が起こる。コードが進行していけばその感想はもっと複雑化していくだろう。
ドミソの和音を聞いた「あと」、いわばその和音の刺激を受けた「あと」に、ここでいうあなたが生じていることになる。このときの感想を言う「あなた」には、先だってそのドミソの和音があるじゃないかということだ。そうではなく、自己存在たる「わたし」というのは、すべてに先立ってあるということ。自己存在が一次的存在だとすると、ドミソの和音が二次的存在、それを受けての感想は三次的存在ということになる。あるいは、すべてに先立つ自己存在は、いっそ0次的存在と言ってもよいのかもしれないか……
とにかくせいぜい言いうることは、ここで示した三次的な「わたし」が、ドミソの感想をいじくりまわしても、自分の作品ということにはアプローチできないということだ。自分の作品が生じるためには、すべてに先立って「わたし」があり、その「わたし」からドミソが起こるということでなくてはならない。この場合、ドミソはどこから生じたかといって、それに先立ったのは「わたし」しかないのだから、それをもって「わたしの作品」ということになる。なぜか人の魂は、このことをやがて視分けるし聞き分けるのだ。
これ以上のことを言っても、とてもじゃないが学門として使用もできないし参考にもできない。その一次的ないし0次的な「わたし」は、もはや誰というのでもなく普遍的に存在しているということになるが、それはそのとおりだとして、そのことを正面に据えた学門の書き話しはまったくもって一般には意味不明になる。だからここまでだろう。あなたの作品はあなたの自我からは出てこないということだ。あなたの自我は<<すべての刺激に服従させられる側>>であって、そんなものが作品を担う主体性になりうるわけがない。
もっとも現代においては、作品とは言えない刺激物が作品と言い張られて流通してはいるけれども。あなたがそれに与するというなら逆に話は早い。しかし、あなたが本心としてはそうでないからこそ、この長ったらしいわたしの話をあなたは最後まで読み遂げようとしているのだろう。
わたしは何の刺激にもよらず、一次的なわたしから書き話しているが、それによって三次的なあなたに刺激を供給しようとしているのではない。やはり一次的なあなたに呼び掛けようとしている。ここに書き話した文章も、一般的にはわたしの「作品」だろうが、あなたがここで体験しているとおり、わたしの作品というのはここにおいて「無い」のだ。ここにあってあなたが体験しているのは「わたし」であって「作品」なんて二次的なものではないだろう? 仮にあなたがわたしの「作品」からどのような刺激を受けたかと第三者に訊かれたとしたら、「どのような刺激……」ということにはあなたはきわめて回答しづらいはずだ。わたしはあなたに刺激など与えていないのだから。刺激が三次的なあなた(自我)を肥大させるのだとすれば、どうしてわたしがそのような余計なことに寄与しようか。
自分の作品というのは、何も巨大なものでなくてよい。人が、自分の死ぬ間際にさえ、ちょこっとしたジョークを思いつき、それをそのとおりに実行する。わたしはそのことに栄光の拍手を贈りたい。それがその人の自己存在の証明でなくて、他の何だと言うのだろうか? わたしはそうした人の経るセレモニーにも正当な尊厳を向けようとは思うが、それにしてもけっきょく、その人の存在は、
「最後まで素敵なジョークをかましていったなあ」
ということで証されると思うのだ。それはわたしがふざけた奴だからかもしれないが、一次的なわたしがそのふざけた奴を担っているのだからもういかんともしがたい。
ごらんのとおり、ということにしておこう。
あなたがあなたの作品と、自己存在という、わけのわからないものへ導かれてゆきますように。
[「自分の作品」に向き合って起こること/了]