ムン
かつて怒りに"寄った"われわれの魂
発見の端緒は、わたしが怒りを発したときだった。わたしが怒りを発したとき、誰が悪いかとかどちらが悪いかではなく、"無条件" で、それに対抗する力のはたらきが生じるのがわかった。それは反発する無言の圧力である場合もあり、あるいは断絶の距離をとるバリアのようである場合もある、あるいは局所的な認知症を起こして夢遊病化する逃避のような場合もある。わたしは予感のうちにも、こうしてわたしの怒りに対しては "無条件" でそれに対抗あるいは反発する力が出るであろうことを覚え、そのことにふと違和感を発見した。発見してみるとその違和感は巨大なものだった。わたしが古くから知る仕組みにそぐわない、それは異例のことだったからだ。
わたしの知る古くからの仕組みにおいては、人は怒られると寄ってくるものだった! 意外かもしれないがそういうものなのだ、詳しい説明は後の段を愉しみに待ってもらうとして、たとえばわたしがかつて学生のころ(とても古い話だが)「お前がちゃんとやらんとあかんところやろが!」と、酒の席とはいえ後輩を平手で打ったところ、周囲は肝を冷やしたが、打たれた当人は顔をあげてよろこびに満ちて「そのとおりです」といい、それ以来わたしに最も懐いたということがある。あるいは集団に向けて、物事の運びが陰鬱になることに対してその理由を「お前らが冷たいからやろうが!」と怒鳴りつけ、そのとたん全員が直観的に「救われた」と体験したことがあった、むろんなぜそのように体験されたのかは当人らにもわからないのだが。
このことはさかのぼればむろんわたし自身にも経験があるのだ。あるいは現在のわたし自身、そうして怒られて魂が "寄った" ことだけで救われて構築されているといっても過言ではない。小学校から中学校に上がったとき、わたしを含めあたらしいクラスメートたちは体育の授業にノロノロと向かっていると、そして見慣れぬ中学校のグラウンドにきょろきょろしていると、前方には体育のI先生が仁王立ちしており、
「お前ら何をやっとんじゃ、このボンクラが!」
とわれわれを圧倒的な気魄で怒鳴りつけた。
「もうとっくにチャイム鳴っとんぞ! お前ら小学校で何を習ってきたんじゃ!」
その怒声と眼光は、わたしがそこまでの短い生で聞いたこともなければ見たこともない、天地までとどろくような威力であったし、その単純な威力でいえば、いまこのときまでのわたしの生を振り返っても、あのI先生ほどの見事な怒号は記憶に見当たらないというほどなのだ。まだ思春期ともいえない子供でしかないわれわれは、肺腑も胃の腑も撃ち抜かれ、ひたすら恐懼するばかりだった。
そこからさらに、わたしをハッとさせ顔をあげさせたI先生の文句がこう、
「このボンクラが! おれの仕事はな! お前らみたいなボンクラを叩きなおすことなんじゃ!」
I先生の怒声も、またその強い眼差しも、われわれを貫いて身動きさせない。I先生は自身が謹厳実直ということではまるでなかったし、また、よく怒るからといってヒステリックな人ではまったくなかった。それどころか、怒りに該当しないときはわれわれをいつも冗談とユーモアで笑わせてくれる親しい先生だった。どの教師よりも職員室から遠く、生徒たちに近く、それでいてじつに教師の権威を見せつけた人だとわたしは思う。自らの人間的な弱みも抱えたまま、そんなことよりも優先することだけがI先生を怒りに爆発させる。われわれがその怒りに該当しないときというのは、つまりわれわれがその "ボンクラ" でないときなのだ。I先生はわれわれの低能を攻撃しているのではなく、ボーッとしていることでわざわいを呼び込みかねない、そのことについて天地にとどろく怒声を発した。
われわれが体育の授業中にふざけ、走り回るクラスメートと不意にガツンと衝突する。その瞬間、
「しまった」
とわれわれは即座に青ざめるように教育された。そのときは案の定、怒りの鬼と化したI先生がこちら向かってガニ股で歩んできており、時すでに遅し、後悔先に立たず、例の怒声で、
「お前、今のでもし、相手がケガしとったらどうするつもりなんじゃ!」
わたしはかつてそのようにI先生から "ボンクラ" についての教育を受けた。そして現在のくだらないわたしも、ボンクラということに関わっては引き続きI先生に受けた教育のまま――命じられたまま――なるべくボンクラはすまい! と生きている具合なのだ。かつてのI先生の怒号がわたし(たち)に向けられることがなかったら、少なくとも「ボンクラ」への警戒を抱えている現在のわたしはない。野暮な言い方に対する冷笑をすべてわたしが引き受けるという前提でいえば、I先生はたしかにわたしの恩師のひとりだ。
わたしがこうして描写するI先生のエピソードは、いま現在においては、わかるようなわからないような、一種のファンタジーとして多くの人に聞き取られる。現在(二〇二三年)の中学一年生たちはそのようではありえないだろうし、いまの中学校教諭がかつてのI先生と同じような "落雷" をすることはできないだろう。それは気構えのつもりのものやあこがれだけで真似をしようとしてはならないことだ。もしこのようなエピソードと同じようなことが現代でも起こりうるのであれば、わたしはいまここにしているような話はしていない。
わたしはいま、なぜかつてのI先生とわたしの体験がファンタジーではなかったのかということを説明し、そのことから、或る学門への道筋を示そうとしている。現代のわれわれがぼんやりとこのような光景へのあこがれで真似事をしたとしても、ファンタジーの真似事を現実に持ち込もうとした罪で大きなわざわいを呼び込むことになるだろうということを念押ししてから話を進めたい。
わたしはこのように説明する。I先生の響き渡る怒号、その余韻の中には、
「お前ら、そんなんでどうやって生きていくつもりなんじゃ!」
「お前はこれから生きていかなあかんねんぞ!」
という怒号まで聞こえていたのだということ。
強調して書き記すならば、<<I先生はわれわれのボンクラぶりに「死ね」と言いつけたわけではない>>ということ。どないして生きていくつもりじゃ、生きていかなあかんねんぞ、そうしてこちらが生きることへ、強制というほどの肯定を怒号でぶつけてきていたというのが本当のところなのだ。そしてその怒りを受けたわれわれの魂は、I先生の怒れる魂のほうへ "寄った" 。右も左もわからないボンクラたちとはいえ、この人はわたしが "生きる" ことについて全力で触れようとしてくれている、それぐらいのことはわかる……そうしたことが繰り返し起こった。
説明のための対照として、ここで「死ね」の声の持ち主に、同じ台詞を言わせたらこうなるだろう、
「もうとっくにチャイムは鳴っているんですよ? みなさんボンクラすぎやしませんか? あなたたち、小学校でいったい何を習ってきたんですか? ハー、そんなのでみなさんどうやって生きていくんですかね、先生ふしぎです」
「学校は、あなたたちのようなボンクラを修正するための場所なんですからね。そのことがわからない人は、もう学校来なくていいと思いますよ」
現代のわれわれは、自分の声に「死ね」の周波数を含ませて、こうした嫌味を上位の立場から弱い立場のほうへねじ込むことができる。いいか、おれの話を聞いている者ども、おれはお前に死ねと言っているのじゃない、ボンクラのまま生きていくわけにいかないから、耳をふさがず聞けと言っているんだ。おれもお前も生きていかなきゃいけねーんだから。
よろしい、それでは、芝居をしてみましょう。部屋の片側を舞台に見立て、反対側を客席に見立ててよろしい。公園や駅のホームでもかまわない。平場があって、その他の何の仕掛けも要らない。
先のI先生の怒りを、舞台上のフィクションで示そうとしたときどうなるか。
「このボンクラが!」
その怒号に、右も左もわからないボンクラ生徒たちが "寄る" ……
われわれはすでにそうした光景と音声を、フィクションではなくファンタジーとしてしか示せないではないか。もっとはっきり言えば、そういう「ネタ」としてしか取り扱い・表現できないではないか。
それに比べて後者の教師、名付けるならシネ先生とでも言うべきか、このシネ先生の嫌味たっぷりな怒りあるいは不快の表明は、自分の中のちょっとしたスイッチを入れればただちにそれなりの迫力をもって演じることができるのじゃないか。
教師役のあなたはわざとらしく首をかしげて、
「もうとっくにチャイムは鳴っているんですよ? みなさんボンクラすぎやしませんか? あなたたち、小学校でいったい何を習ってきたんですか? ハー、そんなのでみなさんどうやって生きていくんですかね、先生ふしぎです」
われわれは怒りの中に、「死ねスイッチ」を入れることはできるが、「生きろスイッチ」を入れることなどはとうにできなくなっている。
この十年間で、世の中に「死ね」の周波数が濃厚に満ちたのは誰の感覚にも明らかだろう。根本的な変質が起こった。あるいは、かつてのわれわれと現在のわれわれは、<<いつのまにかまったく別のものに入れ替わってしまっている>>と言ってもよい。
十年前にわたしが予告あるいは警告した、メンヘラ文化へのリスクうんぬんは、このような思いがけない変化球となってわれわれにおいて実体化した。
怒りあるいはその他の「ダウンフォース」と呼ぶべきもの、その下向きの力とはたらきかけが、無条件で「死ね」になっている。だからこそ、人はそのはたらきかけに無条件で対抗あるいは反発する。その対抗処置じたいは正しい反応だ。だが本来は違う。本来は怒りであれ何であれ、ダウンフォースには「生きろ」という声が乗っかっていた。
わたしが若いころ後輩を「お前がちゃんとせなあかんやろが」と引っぱたいたとして、いまさら裏側を暴露すれば、わたし自身そうしてまったく同じ台詞と共に引っぱたかれたことが昔にあったのだ。そのことを自覚していたわけではないが、それがとっさに出たらしい。思い返してみるとなるほどなあとわたし自身が苦笑させられることだ。「お前(ら)がちゃんとせなあかんやろが!」と、M先輩から一同が引っぱたかれて、驚き、その続きを生きていたものだから、わたしから後輩に向けてもまったく同じようなものが出たというわけ。
怒られるのは恐いものだから、かつての後輩はわたしに対して当時のことを「もうカンベンしてくださいよ」と笑って言うだろうし、わたしもM先輩に会うことがあったら「もうカンベンしてくださいよ」と笑って言うだろう。現時点で、どこまでが生存し、どこからが死に絶えているかはわからないが、わたし自身はいまもそうしたことの続きの中を生きている。わたしは怒りと共に「生きなあかんねんぞ」と怒号のように命じられたことによっていま現在も生きているのだ。
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