ムン
慟哭するムン
ムンとは我慢のことだ。そして現代は生死軸の時代で、われわれの存在じたいを「我慢」だと自己紹介してよいような状況がある。われわれの存在は生命ではなかったのか、われわれの存在は我慢なのか……そんなことを本当に受容して平然としていられる者はいない。受刑者たちが長年、塀の中で懲役暮らしをしてゆくのにも平然としていられるのは、逆に完全に塀に囲われているからだ。もしその塀の一部が堂々と繰り抜かれてあって、その向こうには賑やかなシャバの街がずっと見えているとしたら。昼休みにも全力で駆ければ、看守たちを置き去りにしてあの街の向こうへ消えてゆけそうだ。そのような状態であれば受刑者たちはずっとその塀の穴に向けて思いを馳せて煩悶しつづけることになる。ムンは我慢を平然と自己そのものと受容しているふうに見えるが、それは状況のなせる見せかけであって、生命への入口を目の前に見せられればまったくそのように泰然自若を決め込んでいることはできなくなる。それどころか、もしその入口を見せられたのに、その入口の向こうへは行けないのだとなると慟哭し、その慟哭は数年にわたることさえある。
短い動画を投稿するSNSで、高校生の女の子たちが、流行に乗っかって「遊ぶ」あるいは「はしゃぐ」という言い分で、けっきょくのところアイドルふうのパフォーマンスを示し、いわゆる「ファボ」がどれだけ稼げるものかというスリルに興じることがある。彼女らは直接の感覚として、いま世の中を支配している生死軸から、自分たちの「若い」「体」「かわいい」が最強格に強いということに気づいていて、その強さの実験に踏み出してみるということをしていると言える。彼女らはあくまで遊びと言い張り、純粋さ・無邪気さ・平和さ・そしてどこか一所懸命なところを示してなるべく多くのファボを稼ごうとするが、それはむろんそうしたものが「かわいい」と評価されるということをしたたかに知った上での、デザインされたパフォーマンスではあるわけだ。あくまで若気の至りからの遊びという言い分にしてはいるものの、そこでバズることで自分の権威や権勢を拡大したいという企図もあるし、そのことがもしあまりにもうまくいくようなら、どこかで収益化に切り替えて、何なら「そっち方面でやっていく」ということも可能かもしれないという夢想もいくらかは膨らませていよう。ただ彼女らは馬鹿ではないので、そうしたものがたいていは夢想でしかなく、やはり若いうちにはしゃいで遊んだこととして霧散していくだけだろうということも知っているのだ。せいぜい、目立つようになって、上等な男子と交際できる可能性は高くなるだろう、それだけでもすごいプラスではあるけれど……と、そうした思考まで含めた、やはりスリルを伴う遊びだと言えば、まったくそのとおりだということでこの話は妥当に収まるだろう。
ただ彼女らが真に「一所懸命」なのかどうかについては疑義が残る。「懸命」という熟語には命の字が組み込まれているが、彼女らは本当に「命」への入口を見い出し、そこに踏み入るということを得ているだろうか。彼女らが、現在の世の中を支配する軸において最強格といっていいほど強いとして、強いということはそれだけで彼女らの勝利や成功を示してはいない。「強い」というのはただ「有利」なだけだ。じゅうぶんに有利であるはずが、ついに勝利や成功には至らなかったというケースはいくらでもあるし、むしろ現在の支配軸において有利ということは、本質的には彼女らを命から遠ざけることにはたらく可能性もある。
古臭く、大真面目に考えるならば、純粋かつ無邪気にはしゃぐように見える彼女らは、じつは真に懸命になるものを見つけられずに、もがいているのだとも言えるのかもしれない。はしゃぐ彼女ら、しかも大量のファボをこともなげに稼ぐ彼女らは、表面的には「無敵」の時期と立場にいるように見えるが、それが命を見い出すことのない青春であるなら、一度限りの青春ということがのしかかり、彼女らは自分たちでも気づかないどこかで慟哭しながら生きているということもありうる。
じっさい、彼女らにファボ稼ぎをやめさせたとして、代わりに彼女らに何をさせたらいいというのだ? もし彼女らが内心の奥深くでそうしたやけくそじみた感情を持っているのだとすると、彼女らを純粋で無邪気だと見立てるのは、単にわれわれの視力が浅く不見識だということになる。彼女らの、拡散用の動画はレタッチ加工を含めてよく仕上がっているとしても、収録されていない日常の時間においては、彼女らは友人らと「マジうざくない?」「死んでほしい、ってか死ね」というような言いようを、下向きに発していても違和感がないように思えるのだ。彼女らは純粋で無邪気で平和で一所懸命なのか、それとも奥底には慟哭がありうると穿つべきなのか……
ある男性が、若いうち、友人らと共に世界一周の旅に出たとする。その旅の動機は、自分たちの青春時代をたしかなものとして刻むこと、そのために何かひとつ、困難かつ大きなことを為し遂げたいということだった。そのことにはタフな冒険がふさわしいと思われた。それが、なるべくヒッチハイクをアテにした世界一周の旅という形になったのは、かつてそうした企画のテレビ番組を観たことがあり、そこで映像越しに見たものに――あるいは思い描いたものに――あこがれを覚えたからだ。また、以前に観たロード・ムービーからあこがれに近いイメージを得たということもあったかもしれないし、昔の男たちの語る冒険譚を耳で聞いたり本で読んだりして、自分もそうした語り草を持っている男になりたいという望みがあったからかもしれない。
彼が友人らと、旅の支度を整えて、いよいよその旅程に踏み出すというときには、やはり相応の胸の高まりがあった。それはもうムンムンあって、彼らを上気させ、その声がどこかひっくり返っているのも無理はないというところだった。「あらためて、けっこうヤバくない?」「ワンチャン、途中で死ぬとか殺されるまである」「それな」「でももう、マジで行くしかないっしょ」。彼らが集って勇ましく拳を突き上げている写真、そのように撮影された画像は、SNSにアップロードされるとただちに多くのファボがつき、見ず知らずの人たちからも「いってらっしゃい、道中楽しみにしてます!」と励ましのコメントが書かれた。「楽しそうで嫉妬するわ、マジで青春だ!」。もしこれが若い女性たちの企画したことであったら、彼女らが「かわいい」場合、旅費相応を超えた額のクラウドファンディングさえ達成したかもしれない。
われわれは安易に、こうした彼らに青春の命、世界の命、友誼の命がもたらされることをイメージする。そうしたかけがえのないものがもたらされるという願望が審査もなく通っていくのだが、彼らがそこで青春や世界を得るか、友誼をたしかめあうかはイメージとはまったく別のことだ。期待はされるだろうが予定までされてはおかしいことだ。じっさいにどうなるかを前もってわかっている青春や旅など、マンガやテレビドラマを除いては存在しないのだから。
彼らは初日、上海のホテルにチェックインし、宿泊する部屋のベッドに寝転んでスマートフォンを操作する。ホテルには当然じゅうぶんな通信速度の Wi-Fi 回線が入っている。
「いやはや、着いたわ」
「あー、エアコンまじありがたい、生き返るわ」
「とりあえずシャワー浴びるわ、自分が汗臭くて死にそう」
「あ、コンセント先に使っていい? おれもう充電ないわ」
企画した旅が始まったとはいえ、彼がスマートフォンで操作するアプリケーションや、ウェブ上で閲覧するページは、いつもどおりであって特に変わりはないわけだ。そうして考えれば、上海であれどこであれ、寝ているベッドのシーツやスプリングの具合に特に変わりがあるわけではない。
彼は同じく寝転んでようやくの休憩に馴染み始めた友人らに向けて、
「あ、とりあえず写真撮ろうぜ」
と呼びかける。
「そうっすね」
すでにホテルのガウンに着替えている一名がいて、彼について一同は笑い、
「あのさ、いちおう、旅していますって恰好にしてくれよ」
彼はすでにシャワーを浴びてシャンプーで髪を洗ってすっきりしたところだったので、その様相はまるでいつもの風呂上りというふうだったのだ。
「えー、まあそうだけど、この汗まみれのやつもう一回着るのキツいっす、せっかくシャワー浴びたのに」
「じゃあもう一回シャワー浴びれ笑」
彼らは「一日目」と題して、自分たちが上海のホテルに投宿したことをSNSで報告した。
出発時のそれよりは半分以下になったけれども、やはりファボはついて、知らない誰かからの励ましのコメントは、
「くぅ〜、いいですねえ、うらやましい! 友人たちと、今しかできない旅を楽しんできてください!」
と胸を高まらせているようだった。
その胸の高まりは、ひょっとしたら、上海にいた彼ら自身よりイメージにおいて上回っていたかもしれない。
SNSのインターフェイスをフリックしながら、
「すげー、秒でコメントつくわ」
「なんかめっちゃ注目してもらっているよね、正直アガるわ」
彼はふと、居並ぶSNSのタイムラインに、いつもの「推し」のアイドルの新着動画がアップロードされているのを見つけた。探偵役に挑戦です! というタイトルがついているが、動画のサムネイルに表示されているのは彼女の下着姿だ。いちおう頭には、たしかに探偵という記号のような帽子がかぶせられているし、ふだんはかけない眼鏡をかけている。誘惑してくるような表情は、下着姿とよく合っていて、探偵がどうこうというキャラクターとは無関係のようだが……
彼は再生ボタンを押した。彼はベッドに寝転んだまま動画を視聴した。
(腹筋がうっすら割れてて、マジエロいな)
誰かが窓の下を見て、
「あ、あそこ、ファミリーマートあるわ」
と言った。
この後の予定といえば、とりあえず食事をしに出かけるのが楽しみだった。
このような旅が続いたとして、彼が帰国してきたとき、たくましくなって青竹を割ったようなつきぬけぶりの男が凱旋のように帰ってくるかと思いきや、そうでもないということがじっさいによくある。壮大な旅から帰ってきたはずが、まるで一泊二日の出張先から帰社してきましたというように、
「お疲れさまでした、無事戻りました」
と、こちらを拍子抜けさせるような調子で現れるのだ。玄関に荷物をおろしてフウと一息つきながら、その視線は斜め下を向いていて、口は半開きになっている。疲れているのか、あるいは何か厭(いや)なことでもあったのかと、こちらをためらわせることさえある。それで、こちらがややムードを誇張しながら、旅について「どうだった」と訊くと、彼は「そうですね、いや、よかったですよ」と恬淡と言う。
それからずっと後になっても彼は、若いころに友人らと世界一周の旅に行った、ということはよく口に出して言うのだが、その旅路のどこで何がかあったかというようなことについては、特に言わない。同道した仲間たちとの友誼についても言わない。いっぽう、時事に関わって外国のニュースが映像ともどもテレビに流れると、「あーこれって、◯◯国の文化では見え方が違っていて」と、当地を経験した者の口調で説明を示すという向きになるのだが、じっさいに彼が◯◯国を体験したのは二日間だけ、しかもそのほとんどの時間は国道を長距離バスで移動していただけだったりもする。バスの車内で自分も友人らもずっと寝ていたし、その国の誰かと何かを語り合うということはなかった。
彼の、旅の話はここまで。
そのような、彼のしてきた体験とはまったく無関係の場所、無関係のタイミングで、彼は別の誰かのことを目撃する。
そのとき、時刻と光景はすでに夕闇の趣きを見せ、東の空は藍色で、西の空は赤紫色が粘っているのだが、そうしてまるで東西の空が佇立しているような大気の下、ある者が T-shirt 姿で地面に座ったまま、
「あのさあ、◯◯岬ってよく名前聞くじゃん」
と言い出している。
するとこの男は、周囲の者たちに何かしら信頼されているらしく、周囲の友人らは彼の言い出すことに "寄って" いくようなのだ。周囲は男が言うことにウンウンとうなずいている。
「もうこんな時間なんだけど、今からクルマ転がして、その◯◯岬ってとこ行ってみん? 何があるというわけでもないし、たぶん何もないんだとは思うんだけど」
男がそういうと、別の男が、
「いいっすね、いきましょう」
と、鼻息で笑いながら、すでに腰を浮かせている。
別の誰かは、
「ぜったいそんなとこ、何もありませんよ」
と言いながら、その同道に加わることじたいを無性に楽しみにしているようだ。
別の誰かは、よくわからないけれどヤッターという形に両手をあげている。
男が、若いひとりの女性に向けて、
「お前も来るでしょ」
と呼びかけると、呼びかけられた女性は、
「え! わたしも連れて行ってもらえるんですか?」
と驚いて、素直に気色ばんだ。
彼らはのそのそと立ち上がって、誰かの父親から譲り受けたらしい中古車に向かい、じつに小さな、どうでもいいような旅路へ踏み出していく。
「晩飯をどうするかだよな」
「こういう場合、ぜったい道中にいいところありますよ。わけわからんぐらいおいしいところが」
「たしかにな」
旅に向かって歩みはじめる男たちの姿を観たとき、なぜか、いつか観たロード・ムービーの景色がそこに重なるように見える。なぜ? ◯◯岬まで自動車ならせいぜい一時間半、まったくどうでもいいような、見分も造詣も深まりようのない道のりにすぎない。それをいちいち旅と呼ぶのは過分なはずだが、彼らがいま踏み出していこうとしているその先には、確実というほどの旅の予感がひしめいている。小石を踏みつけてゴム底がじゃりじゃりなる足音さえ際やかに、旅を飾るように聞こえ、ふと、なんだこれはと疑いたくなるような古代の風が一行のあいだを吹き抜けていく。
彼は、自分がかつて友人らとした世界一周の旅を想起して、男に、
「旅っていいですよね」
と呼びかけた。それはとてもムンとした調子の声で、周波数が噛み合わない。その噛み合わなさを押しつぶそうとするかのように、ムンとした笑顔が生じて彼の面に貼りついた。
言われた側の男は、
「うん、まあ、そうっすね」
とだけ、彼のほうを見ずに答えた。男の側には、まったくムンとした様子はない。
男の旅にあわただしく同道する友人らにおいても、どこにもムンとした様子はなかった。
すでに日も暮れているのに、今さら、文化としても景勝地としても値打ちは見当たらない◯◯岬に向かう。せいぜい展望台や、みやげ物屋ぐらいはあるだろうが、すでに閉店しているだろうという、初めから閑散とした旅。そのようなことに吾我の驕慢はありえないが、そうした自我の高揚とは異なる何か、男を中心とした一行には、見慣れぬ世界にいくらでも向かおうとする命があった。まるで何かからの不意の命令を受けて、男は◯◯岬に行ってみるという様子で、その男からの命令がまた、周囲にも分配されているようなのだ。そうなってしまえばいつのまにか、すでに◯◯岬の側から「来い」と呼びかけられているような錯覚を、冷え始めた東の空から感じる……何はともあれ今夜は、この藍色の空の下、そこへ行くことが命題なのだという確信が魂の中枢を捉えている。
ムンの慟哭は、自分はこの命の旅の車には乗れないということ、乗せてもらえないということに生じる。もし無理やり乗り込んだとしても、自分は車内でずっと、無言でさえ噛み合わない別の周波数を発し続け、命の旅を阻害し、否定し、侮辱しつづけるユニットになるだろうということ。むろんそのような破壊的なことを、彼がしたいわけではない。したいわけではなくても、彼の「ムン」は止まらないのだ。彼は自動的にそのような破壊的なことをし続けるしかない。
もしこの命の旅の車中に、彼が居座りつづければ何が起こるだろう。彼はどのような体験をするのだろうか。それは、命に向かって生きる人たちがうらやましい、ということだけに留まらない。
生死軸が順転する。生に向かって上昇するように思い込んでいたが、そのことはやはりウソだ。
男とその一行は、いま命に向かってリフトフォースのさなかにいる。上から何かダウンフォースたる命令を受け、下から生を奉じることで応えようとしている。
自分もリフトフォースのさなかにいる。
自分のリフトフォースは……
彼はすっとんきょうな声で、
「生きているっていいですねえ、生きているって実感しますねえ!」
というようなことを、無理に言いだそうとするかもしれない。
彼のリフトフォース、上昇する方向は「生」なのだと、彼は言い張ろうとする。
ところがどうしてもごまかせないことがある。男とその一行が、いま命に向かって生きていることは明らか。それに対して、自分は何に向かって生きているのか。生に向かって生きているという言い方はどうしてもおかしい。なぜすでに生きているものが、生に向かうというような意味不明のことを言わなくてはならないのか。仮に、死んでいる者が生に向かうというのならばまだ話はわかるが、生きている者が生に向かうというのは意味がわからない。
生きている者が向かうのは……
彼は、自分が死に向かっていることを体験する。男とその一行は命に向かっているが、自分は彼らと同じ行先に向かっていない。
自分は死に向かっているのだ。
自分は何に対して「我慢」をしてきたのか。「我慢」で何に対抗しようとしてきたのか。
順生死軸を我慢して逆生死軸にひっくり返している。
「我慢」によって、自分が死に向かっているという真相に対抗しているのだ。生きものとして、生まれつき死に向かっているという一方的な摂理に対して、「いいえ、わたしは上昇している」と言い張ること、また他に対して「そっちが死ね」と言い張ること、それをもって対抗とし、その対抗のことを我慢と呼んでいる。
彼としては、ちゃっかり、しれっと、命の旅に向かっているその車中にもぐりこみ、同じ所属を得ている者なのだという幻想にしがみつくことが赦されて、その雁首を彼らと共にあつかましく並べていたい。どうか自分についてだけ、その「ムン」としている証拠が明らかなまま寛恕されたい。我慢の徒であること、生死軸の者であることが、明らかだったとしても、見ないでいてもらえるようにしてもらいたい。ぼくはここにいていいですよね? わたしってここの一員ですよね? そのことから突き落とされれば、その先には果てしない慟哭が待っている。命への旅から弾き出され、そこには死に向かうだけの男が孤独に残されるのだから。
誰でもが命への旅に同道できるわけではない。そのことについてムンの者は、「そりゃそうですよね」と、他人事のうちは賢明で理性的にいられる。だがそれは塀に区切られた受刑者の理性でしかない。目の前に命への旅が、栄光の列車として停車したとき、自分だけそれには乗れないらしいとなれば慟哭する。誰でも乗れそうなあけすけの列車に見えるだけに慟哭する。自分だけ駅のホームに取り残され、その孤独に押しつぶされて振り向いたとき、そこには「ムン」の顔ぶれが無数にほほえんでいてあなたを待ち受けている。彼らが純粋で無邪気だとか、平和で善意に満ちているとかいうのはウソなのだとわかる。「命に向かえないだけじゃないか!」。強烈なムンの群れ。そこにあるのは、死へ向かうことへの我慢だけなのだと知っていても、けっきょくはそれに吸い込まれていくしかなくなる……
われわれはこうしたことを、あのときから十年後のものとして、学門として捉えていこうということなのだ。学門として割り切って捉えるのは、それだけ本気で勝利を目指そうということ。甘い顔を見せられるところではないけれど、学門があなたに背を向けることはない。あなたが学門に背を向けることはあっても、学門の側があなたに背を向けることは決してない。
覚えやすさのために、いささかの揶揄のはたらきもこめて、よく知られた名画にあてこすり、このことは「ムンの叫び」とでも呼んでおこう。いつも美術館に展示されている、よく知られたパターンのようなものであれば、それについて毎回われわれが怯え続けるというわけでもあるまい? 今回の話はつまり、命の旅とその同道を求めるとうぜんのすべての人々について、ごく冷静なひとこと、「あなたは『ムン』ってしているじゃないか」が建設的な解決になるよう、その仕組みの全貌について解き明かそうという企てなのだ。
「ムンが止まらないです」
「だろうな、そりゃ見たらわかるよ」
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