ムン
ムンは言いたがり、黙り、敵対する
もともとムンはどこから発生したか。生命軸が見当たらないことから発生した。接続すべき命を発見することができず、継承するというほど素直にもなれず腰を低くもできず、また継承させてくれる環境は時代と共に根絶やしにされていった。命が見当たらないのであれば生命軸には所属しようがない。となると、自分は生死軸に所属するしかないが、かといって毎日「死に向かっています」ということでわれわれは意気揚々と生きていくことはできない。それで生死軸を逆転させて、上方に生、下方に死とし、「生に向かっています」ということで前向きに生きていこうとする。構造上の、いささかの違和感を押し隠したまま。それでもムンと笑って。この構造上の逆転している違和感を押し隠すことじたいが「我慢」の本質なのだった。
ムン者は、生死軸者であって「我慢」の力を用いている者だが、だからといって彼らが自分たちについて「命はないです」と傲然と言い放つということはない。彼らの自負や性分においてもそのような負け筋めいたことは言わないし、単純にいって命とは何なのかということの知識じたいが彼らにはない。彼らにはないということは、われわれにはないということだ。
ムン者は自分たちの上方にも命があると言い張るのがふつうだ。このことが、じつにわれわれを混乱させる。ムン者の上方に設定されているのは本当は「生」だが、生も命もほとんどの場合で区別がついていないので、「生きているって実感、その高まりが、つまり命でしょ」というような粗雑な言い方でこの筋違いは押し通ってしまう。
われわれが体験的にそのムンおよびムン者を知るのは、むしろその「命」にアプローチするときだ。「命」にアプローチするとき、最も赤裸々に「ムン」が露出する。命にアプローチする……たとえば作品の命、物語の命、芸術の命、音楽の命、場所の命、思い出の命。恋あいの命、青春の命。表面的な恋愛経験を多数重ねたからといって恋あいの命が得られるわけではないということはほとんどの人が知っていることだし、十代のうちに運動部に入ったからといって、またクラスメートと文化祭に参加して夕暮れに性的接触の気分になったからといって、それで青春の命が得られるわけでもない。
命のあるなしについて。そこまで大規模なものでなくても、ちょっとしたひとつの話でも、そこに命があったりなかったりする。先の段で示した◯◯岬への旅でさえ命を持つのに対し、大きくアピールした世界一周の旅でも命を持たないことがありうる。そうしたことに最もムンが露出するので、その露出の傾向と性質について述べておきたい。
命へのアプローチにかかわって、ムンはまず<<言いたがる>>という性質を示す。
「この映画のこの部分、この演出は、じつに構造化されていて……」
「あっ、わたしも思った! そこ何かありますよね」
「歴史的に見て、こうして国家転覆が企図されるとき、首謀者たちはまず大義名分として……」
「あっそれわかります。こういうとき、だいたいそうなりますよね」
「お吸い物は、スープではないから、この具材を……」
「あ! なんかそれです、スープとは違うんですよね、お吸い物って」
ムンはそのときの自分の高まりが、命に接続しているものだと思っているから、ムンムンに高潮して、ときにはほとんど歯止めが利かないというほどに、その命につながるところを「われこそが」という調子で言いたがるという反応を示す。
もともと人の魂は、本当はそれほどに命たる自分を求めているということの表れかもしれない。人の話の命を奪ってでも、それを自分の命としたがる。
次にムンは<<黙る>>。
「お吸い物ってスープと違うの?」
「はい。え? 違いますよね」
「うん、それってどう違うの」
「えー? お吸い物っていうのは、日本の料理だし、スープって、外国の言い方だから。でもそれだけじゃなくって、うーん?」
「国家転覆を企むとき、その首謀者は大義名分をどうするの」
「それは……国家転覆とか、そういうときって、大義名分が要るってことですよね」
「大義名分とは何だろう」
「なんというか、自分たちが正しいんだ、これこれこういう理由で、ってやつです」
「その正しさはどう担保される?」
「それが正しいっていうのは、けっきょく誰も言えないことですよね。だから、たぶんそこは、それぞれが言いたいことを言っているだけなんじゃないですかね。歴史の必然ってやつで。わからないですけど。勝者が歴史を決めるって言いますよね、本当にそういうもんなんだなーって思います」
「あの映画のあの部分が、どうだって」
「あの部分が、こう、なんというか、全体に対して効いているじゃないですか。ここすっごいこだわって撮っているなあって! 見ていてわかりますよね?」
ムンは、自分がムンムン昂る先が命につながっているような気がしているけれど、じっさいにその命たるを示そうとすると、命にはつながっておらず迷走が示される。その迷走で、ひとつひとつの命は死んでいったような感じになる。
その死の感触と、ひとつごとに恥をかく自分がいやで、ムンは次第に黙るようになっていく。ただし黙ってはいても、先の「言いたがる」が消えたわけではないので、ムンは黙ったまま言いたがる気配を継続し、ますますその様子は体にムンムン現れてくる。
次にムンは<<敵対する>>。
ムンは命について、誰よりも第一人者のように言いたがっているが、それがじっさいにはうまくいかないので黙っている。黙っているが言いたがっているので、これはつまりフラストレーション(挫折)になる。このフラストレーションが急速にストレスになってゆき、苛立ち、憤怒、敵意、やけくそなどが湧いてくる。
この耐えがたいフラストレーションはどのようにすれば消去できるだろうか。至急の処置が必要なところだ。
フラストレーション発生の処置をするならつまり、その発生源を絶てばよい。それで、命などというものがつぶされてしまえばいいという発想になる。
誰だって生きているし、生きているだけですよね。それがいちばん大事で、それ以外にないと思うんですけど? ハーつまんない。ハー楽しい。最近わたし楽しいんですよね。お吸い物とスープの違い? そんなのありますかね、ちょっとそれ、わからないです笑。なんかそういうことにオタクみたいな芸能人とかっていますよね、おじいさん系のタレントで。国家転覆に大義名分? なんですかそれ、右翼っぽくて笑える、というか引きます。そっち系の人なんですか? ハーわかんない。というかそういうのってわたしたちが生きていくのに関係ないですよね? ただのしんどい話なんじゃないですか笑。あの映画のあの部分のどうこう……なんか、映画ってそんなややこしい見方します? フツーに楽しく観たらいいんじゃないですか? わたし映画って楽しく観るものだと思います。うふ。ハッピーエンドの映画っていいですよね。あ、そんなんじゃなくて、もっと胸糞なやつのほうが好きですか? 頭のいい人ってそういうところありますよね。すごい穿った見方する、みたいな。
さらに言えば、ここから<<ここぞとばかり>>という現象が出てくる。ここぞとばかり、生、生、生、命とは無関係な生の側面にすべてを振り切ろうとするはたらきが起こってくる。
「弟さんがいらっしゃるんですか? へえー、いまおいくつなんですか。どちらにお住まいで、弟さんはどちらにお勤めなんですか。もう結婚はされているんですか? 大学を出てからそちらに就職されて……じゃあ、進学費用でご両親は大変でしたよね。いまは賃貸に住まれているんですか? じゃあご家業のほうは弟さんが継ぐかもしれない、と。でもそういうのって長男が継がないと周りの目が厳しかったりするんじゃないですか? 周囲はそういうことに割と理解があったりするんですかね。あ、あるいは弟さんのほうが、これまでのお客さんにウケがよかったとか。以前の交際相手とは、結婚という話にはならなかったんですか? それって向こうはどういう感情で別れたんですかね。その、もとの彼女さんがやっていることって、お金にはなるんですか? その彼女さんはご両親からの仕送りで、つまり、自分で身を立てるというつもりではなくて、半分趣味でやっているってことなんですかね? 言い方は悪いですけど。あ、ところで、最近は電気代が高くなっちゃって、大変ですよねー。少しでも安いところに変えようと思っているんですれど、面倒くさいですよね。毎月の通信費ってどれぐらいになってます? あとポイントカードってどこの使ってますか? わたし最近Xマートに行ったんですけど……あ、Xマート行ったことあります? わたし税金関係とかちゃんとしていない人って、大人として認められないんですよね。いつまでも子供でいたい人なんだなーって、すごい冷めて距離を感じる笑。だってそれって大事なことですよね? あと、わたしも人のこと言えないですけど、もうちょっとやせたほうが健康にいいんじゃないですか? いまって年齢おいくつでしたっけ。わたしこれから生きていくのに、本格的に何か資格とか取ろうと思っているんですけど、何か資格とかって持っていたりします? わたし最近ダイエット食にハマっているんですけど、いまのコンビニのダイエット食ってすごいんですよ、ぜひおすすめです」
モネの絵には光景の体験がある。絵画を観たはずが、その記憶が残らないので、モネの絵には絵画の体験がないとさえ言いたくなる。だから美術館で困惑する。美術館にいけばふつう絵画を鑑賞するものだが、モネが飾られているとそこのカンバスだけ美術館に穴があいて向こう側に光景が広がっている。もちろんカンバスの大きさ以上の光景はないのだが、そのサイズの中にあってはおかしい光景がそこにある。そのカンバスの中で、えんえん光景の中にたたずんでいられるような感じだ。わたしは友人に芸術論としてこう話した、
「もしおれがモネに話すことがあったとしたら、お前はおかしい、と全力で言いたい。ふつう、カンバスに油絵具を置き重ねていったとして、あんなふうにはならねえんだよ。おかしいんだよ。ある意味テメーは絵画がわかっていないんじゃないのかとさえ言いたくなる。光景という "現象" を絵の具で創るなや、すごすぎておっかねえんだよ。おれは以前、本当の超一流の、日本料理をカウンター席で食ったことがあるんだけれど、そのときも『んなアホな』と思った。席から崩れ落ちそうになった。その料理人は、季節を大切にする人だったんだが、ふつう季節の料理というと、料理の中に季節を感じるってもんだろ。そうじゃないんだ、不気味なんだよ、料理を食っているはずなのに季節を食っているみたいになるんだ。料理はどこへ行ったんだって。季節感じゃなくて季節そのものを食わされるんだ。そんなのもう、メシとか食事とかの次元じゃねえだろ。フツーに怖かったよ。食材を使って季節を作るってどういうことだよ。だからおれは言いたいんだ、菜の花やら鱧(はも)やらをどう置いたって、こんなことにはふつうならんって。おかしいって。それと同じように、モネもおかしい、絵の具をどう置いたってふつうあんなことにはならねえんだよ、絵画って領域から逸脱してしまってんだ」
生命軸と生死軸は、極端に示せばこのように分離している。絵画にも料理にも命があり、それは命につながって現れているという一点のみですばらしい。すばらしいという語さえ正しくは当てはまらず、そこにあるのは評価ではない、ただの命そのものの歓喜だ。この歓喜は、そもそも評価など必要としない。
命につながったものは、さらにはその極限までいけば、もはやジャンルさえ見失われて、そこで体験するのは命そのものというほどにもなるだろう。おいしいですねとか上手ですねとかではなく、
「お前なあ」
と言いたくなる。
ムンはこのことの現れに、「ムン」をもって対抗する。ムンを持って言いたがり、それがうまくいかないと、恥をかかされたとしてムンと黙り込んで不快を表明する。次に、ムンは命を攻撃しはじめる。そして「ここぞとばかり」に、命とは無関係な生、生、生、の大洪水をしかけてくる。その大洪水で命を押し流すことができたらムンの勝利だ。この勝利に向かって「ムン」は果てしなく加速し、止まらなくなっていく。
ムンはもともと、ここで命に対して勝利するために作り出された。
ムンはこのように、言いたがり、黙り、敵対するという性質がある。「ここぞとばかりに」という性質もある。
命はその逆だ、命は聞きたがり、語り、寄るという性質がある。いつでも、いかなるときでも、という性質もある。
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