ムン
ムンチャカの法則
「命」があるかどうかが問われる局面に、ムンが現れる。「命」があるかどうかが問われる局面とはつまり、生死には無関係な局面だ。芸術は生きものの生死には関係がないし、恋あいというのも生死には関係がない。青春も生死には関係がない。なんでもないジョークや、浦島太郎や桃太郎の話、映画のワンシーンや音楽が演奏されること、五七五で花鳥風月が詠まれることなども、生きものの生死に関係がない。食べ物を飾り切りしたり華やかに盛り付けたりすることは、栄養摂取とは無関係だから生きものの生死には関係がないし、舞台上でロミオとジュリエットがどうなろうが、そのフィクションの話はわれわれの生死に関係がない。漫才師がどれだけ人を笑わせても、それは娯楽産業ということ以上に生死に関わりはないはずだ。
生死に関係がないにもかかわらず、そこには上手だったりヘタだったり、素敵だったり寒々しかったりが現れてくる。そしてなぜか、そのことについてヘタだったり寒々しかったりすると、どことなくそれが「致命的」なことに感じられるのだ。「ダサい」ということはそれだけで致命的に感じる。理由もわからないまま。
そこで、その致命性に抵抗するものとして「ムン」の力を立ち上げて来る。致命的だったとしても、「命」はムンで代替できるのだった。
そこで「ムン」の力を立ち上がらせてくるにして、じっさいにはもうひとつのはたらきが付随してくるということを述べておきたい。この付随してくるはたらきまで把握しておくことで、われわれの知識はぐっと実践的なものになるだろう。
「ムン」が立ち上がるにして、そのじっさいの場面では「茶化す」というスタイルが、一種の便利なものとして付随してくるのだ。いかなる局面も茶化してしまえば、そこで命うんぬんを問われることはなくなる。命うんぬんといって、それは生死にかかわりがないのだからいくらでも茶化すことができるじゃないか? 茶化すことで、命がどうこうという局面はノー・ゲームになり、自分は致命性のシーンに立たなくて済むことになる。一安心だ。これはうまい手だ。命をムンで代替するといっても、毎回そのような、パワフルな代替品をあてがうこともない。毎回そんなことをしていたら疲れてしまうだろう? そこで、ムンに付随してくる、いわばリセットボタンのようなもの、それを押してノー・ゲームにしてしまう方法は、われわれにとって次第に使い慣れた、便利な常套手段のひとつとなる。
われわれは、誰かがもたらしてくれた命の場所・命のシーンに対しても、それを破壊してキャンセルするということ、「茶化す」ということを割と平然とやる。だってそれは生死に関係ないんだろう、というような調子で。そんな、何の足しにもならない、あいまいで根拠の不確かなことは、人それぞれということでその場ごとに茶化してもかまわないじゃないか、そういう個人の権利があるはずだ。もっと生死にかかわってシリアスなことなら受けて立つけれど、なんでもないジョークや五七五、あるいはロミオとジュリエット、漫才じみたものやフィクションの映画にかかわるようなこと、そんなことがいったい何だというのだ。
「はは、まあ、こういうことはちょっとね! なんだろうねこの空気」
ムンの裏側にはこうして「茶化す」ということが付随している。命がどうこうという局面で、ムンがいまいち決まりそうにないというときは、ただちに茶化すという方法に切り替える。そちら方面の人々にとっては常套手段だ。このことは、実験してみると機械的に検出されるから、学門としてはそのことを面白がるほどでよいだろう。
人は「ムン」とするのだ。それが決まるときはそれでよいが、それが決まらないときは恥ずかしいから「茶化す」ということをする。茶化すのをやめたらどうなる? ムンとするしかない。ムンとしたらどうなる、それがうまく決まればいいが、そうでないときは恥をかく。恥をかきそうな予感を覚えたら茶化すということに切り替える。茶化すような局面じゃないなと思いとどまり、茶化すのをやめようとする。すると、やはり自分はムンとするが、それがいまいち決まらないので、やっぱり茶化すということに引き返す。
我慢には「ムン」という音が鳴ることに引き当てれば、茶化すことには「チャカ」という音が鳴るようだ。「ムン」と「チャカ」が交互に入れ替わる。しくじったムンを取り消すにはチャカしかないし、節操のないチャカを引き取れば、やはりムンが出てくるほかない。この機械的に検出される往復の現象は、いかにも法則じみているので「ムンチャカの法則」あるいは「チャカムンの法則」と呼んでいい。
肝腎なところで茶化すべきではないのだが、茶化すということをやめると、ムンの人はただ自分が「マジ」になる様子を感じ取る。そして、この人にとってのマジというのは大半の場合、どうしてもただの吾我の驕慢であって、その音がムンと鳴るのだ。そこで、そんなマジでムンっとしないでくださいよと言われて、それもそうだなということになると、ステータスはチャカに入れ替わる。かといって、茶化すことも場違いに思えて、往復が繰り返されていく、ムン、チャカ、ムン、チャカ、ムン、チャカ……
精神や人間関係にかかわって、「ムン」があまりにも強すぎ、何かを破壊してトラブルまで生み出しそうだというとき、そのステータスをチャカに切り替えるのは妥当ですぐれた方法だ。だがそれによってムンが解決・消失したわけではまったくない。チャカはムンの裏面でしかない。
われわれのじっさいとしては、大半の時間をムンというよりチャカの時間として過ごさねばならないようだ。ムンの時間は我慢パワーが露骨に出ている時間であってそれなりにしんどくもある。そのしんどさよりは、無為でけだるいチャカの時間のほうがマシだということが体力や気力の実情としてある。ムンに対してチャカはノー・ゲームをもたらすものだから、少なくともムンのように下方に「死ね」が噴出することは避けられる。下方に向けて「死ね」を発し続けるムンよりは、むなしいだけのチャカのほうがマシ、という局面が実情として多くある。われわれはそうしてこのチャカムンを、賢明なこととしても、またやむをえないこととしても、無自覚のまま運用している。
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