ムン
生命軸の報酬
わたしは男性なので、女性に対してはとりあえず笑わせようという発想をする。わたしは以前から、
「モテるとかモテないとか、フラれるとか成就するとか、そんなことはどうでもいいの。相手を笑わせたら成功、笑わせられなかったらおれの負けだ、それだけだ」
「女に好かれるとか、そんなしょーもないことに興味持つなや。おれは目の前の女を笑わせるだけ、それで目の前の女がおれのことを好きになろうが嫌いになろうが、そんなことに興味持ったことねえよ」
という言い方をしている。それもずっと前から、かれこれ二十年以上前からそんな言い方をしている。
「自分が女に好かれていたとしても、それはどうでもいいことだし、自分が女に嫌われていたとしても、それはますますどうでもいいことじゃないか? そんなどうでもいいことに関心を一ミリも持つな」
わたしが男性として女性を笑わせるためには、わたし自身が安物であるほうがいい。安物で「なんだコイツ」とおかしく思える奴であったほうが、笑わせることには有利だ。重厚なものはなくていいし、向こうから見て「コイツ」には大切なものなどないほうがいい。
そうしてわたしが自分を安物扱いすると、素直にそれを受け取った女性からは、たしかにそのとおり安物扱いされるし、それよりは、相応に恰好をつけた男性のほうに女性はなびいていくかもしれないけれども、それでまったくかまわないだろうと、特に若いころのわたしはいつからか屈託もなくそう思うようになっていた。
わたしは、結果的に女性になびいてもらうために女性を笑わせているのではない。女性がなびくだのなびかないだの、そんなどうでもいいことにわたしが関心を持つと思うかね。わたしは男性なので第一に女性を笑わせようとするが、そのことに対する成果や報酬は必要としていない。報酬をもらおうという算段はわずかもない。なぜなら、報酬はもうすでにもらっているからだ。すでにもらっている報酬をふいにして、女性がなびくだの、女性に好かれるだの、そんなどうでもよいことを引き換えに頂戴するというような発想は一ミリも持たない。
わたしはすでに報酬をもらっているので他に報酬を期待する必要がない。
わたしは男性として、女性に対しては第一に笑わせろという命令を受けている。どこから受けた命令なのかはよくわからない。世界から受けた命令かもしれないし、あるいはわたし自身の主体性から求めて受けた命令なのかもしれない。わたしはその命令にしたがっているのみ、他のことは正直よくわかっていないし、わかる必要もない。
その命令にしたがって、命令どおりのことを果たせたときは、わたしは安物らしく素直にガッツポーズをしている。なぜか? わたしはその命令どおりのことを果たしたことによって、「命」そのものを報酬として得ているからだ。命のとおりにしたからそのとおりのことができて、そのとおりのことを果たしたから命をもらえた。命は時間軸上にあるわけではなく、また生死軸の上にもない、永遠の、死なない命だ。これ以上のものはないし、命は命というだけでぜったいの無上のよろこびがある。おれにとっては目の前の女を笑わせるのが命なのであって、まさかわたしが女性に好かれるだのどうだので、いちいち生き死にのような気分を味わっているわけがないではないか。
生命軸の者は、万事についてそういう考え方、あるいはそれ以上の、どうしようもないそういう体験の仕方をすると思うが、「我慢」に対抗して解決する方法はこの生命軸そのものだと示すしかない。
わたしが新幹線のグリーン席に座っているとき、普通指定席は存在していないし、わたしが普通指定席に座っているとき、グリーン席は存在していない。わたしが高級外車に乗っているときは国産大衆車は存在せず、国産大衆車に乗っているときは高級外車は存在していない。
わたしは命の席に座り、命の自動車に乗り、命のホテルに泊まっている。命の自転車に乗っており、わたしにとってはわたしの命の自転車以外はすべて手の込んだ単なる鉄塊にすぎない。わたしはわたしの命の一日を生きるよりなく、わたしの命がない「高級な一日」など存在するものだろうか。美男美女のセレブリティが高級リゾートでキスしていようが、そんなところにわたしの命はなく、わたしの命は、彼らと同時刻にわたしが食べた冷凍ピラフのほうにある。それでいったいわたしに何の「我慢」のしようがあるだろう。わたしの命のキュウリが 10 本だろうが 11 本だろうが、命には個数がないので増えもしないし減りもしない。わたしの上位にあるのはわたしの命だけであって、わたしはその上位から命を果たすために生きろと命じられている。わたしの下位にあるものはわたしから同じように生きろと命じられているはずだ。
わたしの自我はわたしがサッカー選手になることを空想するだろうか。自我の性質はそのようなものかもしれないが、わたしはそもそも自我を使わない。我慢・吾我の驕慢をする機会がないのだから、自我を使う機会じたいがないじゃないか。わたしの自我はヒマそうに川べりに座り込んで居眠りをつづけている。じっさい、たとえば自我と高級な腕時計に自信のある人は、わたしの前に来てそれを存分に見せびらかしてみればいい。吾我の驕慢と共に見せびらかしてみよ、そのときその人はわたしの前で、えもいわれぬ、わけのわからない体験をするだろう。生命に向けてムンで対抗しようとしたとき、そのどうしようもない崩落の感じが体験される。彼の財産がわたしの一万倍もあり、そのすべてを服飾に乗せてきているのに、なぜか彼のほうがその姿がみすぼらしかったとしたら、彼としては何かが崩落していくように感じられて当然だろう。
わたしが気に掛けているのは、たとえばここで例として話したように、目の前の女性を笑わせることができるかどうかというようなことだけだ。じつのところ、わたしには目の前の女性を笑わせる能力などない。わたしの自我にそんな機能もなければ、そんなことができるという自負もない。だからわたしがそのことを果たせるとしたら、それはわたしの力ではなく他の何かの力だ。そのときかぎりのたまたまと言ってもいい。わたしは常に手ぶらで、徒手空拳で、わたしが持ち運んでいる自慢の武器など何もない。だから、目の前の女性を笑わせるだの何だの、昨日はそのことが出来たとしても、今日はそのことができるかどうかはわからない。五分前にそれができたとしても、いまこのときはわからない。すべてはわたしが命に生を奉じていることだけで成り立っているので、わたしがそれを見失えば、わたしは何一つまともなことは為せなくなるだろう。すべてがそのときかぎりであって、わたしの中に蓄積による保証は何ひとつない。蓄積といえば逆方向の、自我でどうこうするという発想はさすがに川べりに座り込むうちに引退したということぐらいだ、そんなことを今さらやらないだろうというほうの蓄積はそれなりにある。その蓄積が、他の何かの力を毎回「たまたま」強く引っ張り出してくるということについては、いいかげん逃げ回っていないで認めようとは思う。それは命の力であってわたしの力ではないので、わたしが偉そうに説明することにいつも筋違いを覚えてはいるのだけれど。
わたしは命のあるやなしやだけを気に掛けている。気に掛けているというのも半ばウソで、気に掛けるという行為でさえそれなりにムンとするわけだから、じっさいにはそのようなこともしていない。ただ支配されているだけだ。命およびそれが命じられているということに支配されているだけで、正直なところ何をどうやっているのかはわたし自身にもわからない。いまこうしているときも、わたしの書き話すものに命がなければならないということを、わたしが知っているだけで、わたしが書き話すものの命は、わたしからひねり出されているのではなく、わたしの上位のどこかから命じられているだけ、それにわたしの指先が支配されているだけだ。命じられたものに応えてはいるのだろうが、それらをいちいち観測したり確かめたりはしていられない。わたしの考えることなどせいぜい、万が一この命の下されることが途絶えたとしたら、そのときはふたたび祈り求めるしかないのだろうなということぐらいだ。それだって、いつ途絶えるのかは知らないし、なぜ祈り求めたら再び与えられるのかは知らない。いつ、どこから、どんな形で与えられるのかは知らない。わたしの知っていることは、この命令に支配されていること、この命じたいが報酬であって、このほかに報酬はあり得ないし必要もないということだ。わたしは死ぬわけにはいかない、生死の問題でなく、命じられたすべてのことが済むまでは最大限に生を奉じなくてはならないので、そのときまで生きなくてはならない、すべて奉じたので休みなさいという命令が下るときまでは。
少年よ、おれはお前に、そのオンボロ自転車に乗れと命じよう。
まさかお前は、高級自転車のクソ同級生のささやきかけのほうを聞き遂げるつもりなのか。
いとこのおさがりに乗れと言っているのではない。寝ぼけるな、それはもうお前を運ぶために与えられた、ほかならぬお前の自転車だ。
おれはお前に「我慢しなさい」などと言わない、一度も言わないし永遠に言わない。
お前がその同級生と違う自転車に乗るのは、お前の命がその同級生の命とは異なるからだ。
お前の命はお前の命だ、お前の命として与えられるものにのみ従え。
同級生の命と自分の命を比較することはない、お前の命はこの宇宙にお前かぎりにしか与えられていないのだから、他の誰かと比較するということはできない。
お前だけの命だ。お前のことをお前自身しか知らないということのように、お前の命はお前だけの命だ。
お前がお前の自転車で走るなら、お前はお前の世界を走ることができる。
世界を走ることができないなら、たとえ一億円する自転車であってもゴミじゃないか。
お前はお前の命として与えられたものにのみ従え。そして、同級生の彼も、彼に与えられた命に従う者なら、彼のことを友人としなさい。
そうでない場合は、彼のことは忘れなさい。どうせ時間と共に忘れることになるから。
彼が彼の自転車で走る、お前がお前の自転車で走る、そのことを二人ともが栄光のように言い合えるなら、ずっとそのような友人でありうるように、お互いの命を励まし合いなさい。
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