ムン
「かわいい」と「ファン」は相互幻想によって成り立っている
ファンたちがアイドルを「推し」と呼ぶのは、ファンたちがアイドルを下方に見ていることの現れに他ならない。他に若くうつくしい、目立った女性なら、彼のクラスメートにもいるだろうし、彼の最寄りの都心部にもいると思うが、その彼女らは彼らに対して下方には立ってくれないので、彼らの側が「死ね」のダウンフォースを向けられるリスクがある。リスクがあるというよりは確実にそうなるだろう。彼らがそうして日常的には下位の者として扱われるとして、彼ら自身がその地位をよしとして受容したわけではない。彼らはそのような扱いを受けることに我慢をしていて、我慢スコアの付与で自分の地位を上位に巻き返している。そうして、土台のほとんどが我慢スコアだったにせよ、彼らは自らを上位者として、下位に「かわいい」を探している。かわいくないものに対してはいつもどおり、現代の「死ね」の風を吹き降ろすとして、例外的に「かわいい」があれば、それに対しては「死ね」とは思わない。ここに起こる奇妙な満足感を指して「推し」と呼び、現代のわれわれはその「推し」から「元気をもらえる」ということを、日常にありふれたものとした。いまやその「元気をもらえる」というのは、われわれにとって不可欠の活力ともなってきているのだった。
いっぽうで、「かわいい」を代表するアイドルのほうも、じつのところ自分を下位の存在だなどと思っていない。彼女らはただの若い女性であって、むしろ一般の人よりも野心的な人たちでもあろうから、一般よりもずっと上昇志向が強く、何が好きかといえば「金持ちのイケメン」のほうがはっきりと好きだろう。野心的な彼女らが、本心からアイドル・オタクの彼らに向けて愛のほほえみやセクシーな嬌態を向けるということはありえない。
彼女らにとって、上位者とは思えない様相の男性ファンたちからジロジロ眺められるのは不快かつ屈辱でしかありえないはずだし、ゆがんだ欲望を体内に溜め込んだプロデューサーに媚びなくてはならない自分を認めるのも苦痛でたまらないだろう。ただ彼女らは、その耐えがたい不快と屈辱、その苦痛を「我慢」することで、自分の「かわいい」が極点を超えて発生するということにどこかで気づいた。彼女らの場合、その我慢スコアが直接の「かわいい」となって、彼女らに自信を与えたといえよう。
彼女らの「かわいい」はそうして、天然に付与されたものではなく、作られたかわいいであり、我慢から生じている「ムンかわいい」だ。そんなこと、当人らにとってはどうでもいいことだろう。ただ彼女らはライバルとの「かわいい合戦」で後れを取りたくないという一心に違いない。
ここで奇妙なことが見つかる。ファンたちは、自分の下方に「かわいい」アイドルを見つけているのに、当のアイドルのほうは、そんな下方には存在していないということだ。彼女らは、アイドルとして人に「元気を出させる」存在たるを自負しているだろうが、彼女らに対して上から目線で何かを言ってくるものに対して元気を出させたいとは思っていない。ファンたちが自分の下方にある「かわいい」ものだけが好きであるように、アイドルの彼女もまた、自分の下方にある「かわいい」ものだけが好きだ。だから彼女が「元気を出させる」という対象にしているのは、たとえば、
「◯◯ちゃんが生きがいです!」
とウェブ上にコメントを書いている誰かに対してのみ。
そしてそれは、彼女にとって架空の、作られた幻想の「かわいいファン」なのだ。
ファンが下方に架空の「かわいい」を見つけているように、アイドルも下方に架空の「かわいい」を見つけている。
本当はどちらの下方にも「誰もいない」のだ。会場には誰もいないという舞台の上で彼女ははしゃぎ、また舞台には誰もいないという会場の席でファンははしゃいでいる。
この、相互の不存在、相互の無関係ということが、思いがけずこの両者の関係を結果的に相利共生にしている。
ただしこの相利共生を成り立たせている、幻想を破壊してはだめだ。幻想を破壊する者は、ただちにもとの生死軸のとおり、一方的なダウンフォースを向けられる。
ひとつには、ファンがアイドルに対し、上位のものとして接触しようとすること。
「◯◯ちゃんには、ボクがいないとダメなんです、ボクが守ってやらないと」
と言い出すストーカーはむろんだめだし、
「ダンス中、ひとりだけターンのタイミングが合ってなくない?」
「芸能界で生き残っていくのに、もう料理キャラは供給過多なんじゃない?」
と口出ししてくるようなものもだめだ。
アイドルは、ファンがずっと下方にある「かわいい」ものだという幻想でその活動をしているのだから、急に「そうではないよ」と言い出すのは禁忌となる。まともな事務所なら、スタッフがその粘着をただちに「剥がし」にかかるだろう。
彼女にとってこの男はファンでも何でもないので、楽屋では全力で「死ね」が言われる。
同様に、アイドルが金持ちイケメンの誰かと交際するのもだめだ。それが発覚した途端、やはり元のファンから全力で「死ねブス」が言われる。
このときの「死ねブス」は、思いがけず本心であって、うそいつわりないダウンフォースだ。「かわいい」は下方にのみ発生するので、アイドルが下方でなくなった瞬間、もうかわいくなくなる。かわいくないならブスだ。だからまったく真実味を帯びて、彼らは「死ねブス」を全力で言う。
某日に、その金持ちイケメンとの交際が発覚したとして、彼女の風貌はその前日と何ら変わっていないのだが、じっさいに彼女は彼らにとって「ブス」になるのだ。まったく、「かわいい」は下方にだけ存在し、彼女がその下方から逸脱した瞬間ブスになるということ、その原理に比べたら顔面がどうとかはどうでもいいのだということを如実に示している。このことについては元のファンたちの言いようにどうしようもない説得力がある、
「顔面が整っているスケベボディというだけなら、他にいくらでもいるわ、うぬぼれんなブス」
アイドルとファンの関係、また、敷衍して「かわいい」とそれが「好き」という関係は、相互が存在していないということによって成り立っている。この両者が近づき、両者の実態が接触してしまうと、むしろこの「かわいい」と「好き」の関係は壊れてしまう。「かわいい」は下方にだけ発生し、アイドルはその位置にのみ発生するのだが、その位置に「金持ちイケメン」のような強者を接続してはならない。金持ちイケメンはファンたちにとって幻想の対象ではないから。そのとき、圧力のかかった強化ガラスの端に致命的なくさびを撃ち込んだときのように、全面にわたって幻想が砕け散ってしまう。
アイドルから出発して、途中から本性をあらわし、むしろ命のものになりおおせたという例も、極少だが存在する。代表的にはビートルズなどがそれだ。ビートルズはもともとアイドル・バンドとして売り出されたそうだが、途中からそれはアイドルでも何でもない、世界と歴史を代表するミュージック・バンドになった。
そうした極少の例でないかぎり、アイドルとファンの関係は、相互が相互にとって「存在しない」ということでのみ成り立つ。ファン側はファン側の幻想、アイドル側はアイドル側の幻想に向き合っており、その相互幻想が、奇妙に相互に「元気をもらえる」ということを成り立たせている。
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