ムン
「計算が合わない」と感じるムン
「かわいい」場合は、評価が数千倍になったり一万倍になったりする。それは何もウェブ上だけのことではなくて、たとえば「かわいい」が達筆だったらその達筆についての評価も何倍かになる。かわいくないオバサンが達筆だったとしても「へー、すごーい」というぐらいなのに、「かわいい」が達筆だったら「すごい、こんな才能あるんだ!」「いや、彼女が努力家ってだけだよ」という踏み込んでエモーショナルな評価になる。ちょっとしたやる気のセリフを言ってみても、「すごい、カッコいい」ということになるし、たとえば就職面接で「わたしは◯◯をがんばってきました」と言えば、そのがんばってきたというのは何倍かグッと説得力とエモーションを強化されたぐあいで聞こえがちだ。それでよく「美人はトクよねえ」という言われ方をするが、こんにちでは美人にもさらに「かわいい」という要素を足したいところ。われわれはハリウッド映画に出てくる美女についても、なんとか「その素顔」というような切り口で、その女性が「かわいい」ということを見つけて、それを命だの愛だのということにすりかえて浸ろうとする。その美女が自宅で子犬をかわいがっている映像をレポートされると、われわれは映画を観る前にその女優が "名演" しているものだと前もって決めつけている。
こうして「かわいい」ということは、評価されるために何十倍も有利で、それだからこそ多くの人は、いまは男女にかかわらず自分に「かわいい」を獲得しようとしている。にもかかわらず、じっさいにその「かわいい」の有利を大きく得ている人も、思いがけないところで不満を抱えている。あるいはどこかで不満を抱えることになる。
計算が合わない、と当人は感じるのだ。そのことはあまり一般に知られていない。
たとえば 1000 の評価を得ているのであれば、自分の係る作品において、自分からは 1000 の命が現れ、1000 の愛が実現されるはずだ。「かわいい」だけに、実作はたしかにそれっぽい印象にはなる。「やっぱりプロの迫力は素人のそれとは違うよね」。
しかし、もし厳密に純粋に「作品」ということに向かって本当に魂で聞き取るならば、なぜか彼女の示した作品には彼女から 10 の命しか現れていないということが聞き取られる。そんな、計算の合わないことがあろうか。もちろん彼女自身も、自分の出演した作品、自分の手掛けた作品を、客観的な視点で見直すという機会はある。余裕をもって、しかし内心の奥深くでは、不安や傷つきやすさ、深い違和感などを抱えたまま。
出演している彼女の姿からは、やはり 10点 の命しか聞き取れなかった。このとき彼女は、点数として 10点 しか獲れなかったとは感じず、体感としては マイナス990点 になったと感じる。周囲の期待としても自分の見込みとしても自分は 1000点 は出すはずだったのだから。
彼女はその巨大なマイナススコアにとてつもなく強いストレスを覚える。何が悪かったんだろう、と考える。彼女はひきつづき、自分が獲りえたスコアは暫定で 1000点 であって、何か別のマイナス要因で――「たぶん何かに足を引っ張られて」――そのような惨憺たる実作が出来てしまったのだと考える。それはそうだろう、彼女のことをこれまで 10点 と評価した人などひとりもいないのだから。
「こういうことには初挑戦だったし」
「まだまだ勉強不足のところが否めないな」
「現場の人間関係もあるよね。息が合わないな、と思ったまま、スケジュールに追われるようにやらざるを得ないところがあったから」
「これまですっごくがんばってきたし、今回はなんかすごいやれた気がしているから、その結果、できあがったものがこんな薄っぺらい、"ペラペラ" なもののはずないよね? なんでこんなふうに見えるんだろう。でも、評価してくれている人は評価してくれているから、当事者からはよくわからないってだけなのかな」
何にしても マイナス990点 というスコアは甘受しがたい。彼女は精神的に不安定になる。彼女は「自信を失う」というとても苦しい精神状態になる。正確には、自信を失うという恐怖の穴に転落しそうになる。これからすぐ、また同じような仕事があるのに、その現場で自信がないなんてことになったら……そう考えると、彼女は夜な夜な恐怖におびやかされて、まともに眠ることもできなくなっていく。
そこで彼女は、自分のことを絶賛してくれる「ファン」たちの声をやさしくあたたかいものに感じざるをえない。
「すごい頑張っていたと思う」
「初めてのことに挑戦する、そのことじたいに感動した、元気をもらった」
「あれだけやってのけたのに、なおも勉強不足だと自分を戒めるところがすごい。人間的に謙虚なのだと思う」
彼女はふだん、1000点の自分として、他の一般的な人たちを 30点 にも満たない者たちとして下に見ており、彼女が生きようとする強さのぶん下方向には無関心な「死ね」のダウンフォースを向けているのだが、このときばかりは例外的にファンたちの存在がありがたい。ファンたちはこのとき自分にとって大切なかわいい者たちで、
「わたしはじっさい、こういうファンの人たちに支えられているって本当に思います」
と本心から言う。彼女は引き続き 1000点 の命の人で、ファンたちは彼女によって「元気をもらっています」と言い、彼女もまたファンたちの生の声を聞いているから頑張れるというように感じる。ただしファンたちのうち鈍感な者が、本当の芸術エンターテイメントを撮りうる人の名前を出して、
「◯◯監督の映画に出たらいいのに! 向こうもあなたのことを知ったらオファー出しますよ」
とでも言いだせば、それについてはたちまち切り替わりを見せて「死ね」のガスを噴出する。彼女にとって本当の命あるものは、彼女に自信を失わせる不安材料なのだ。
自信を失うということは、人にとって耐えがたい苦痛だ。しかもそれが自覚 1000点 から 10点 への転落では、とてもじゃないが受容できない。彼女はもうそこまで若いわけではなく、思春期のようにすべてを一から捉えなおすというほどの余裕はない。
こうして彼女の内部は分裂する。片側では、自分は 1000点 の命の人に違いないという自信および、それを裏打ちするファンたちの声。もう片側では、自分は 10点 しか出せない、マイナス990点 のパフォーマンスを人前にさらしてしまう恥ずかしい者なのではないかという不安。それぞれに分裂する。ここではわかりやすく女優業のような例を採っているが、そうした職業に限定されず、これはわれわれの生きるすべてのことに当てはまる。すべての「かわいい」にあてはまるし、すべての「ムン」に当てはまるのだ。内部に分裂が起き、片側は「誇り高く安堵したわたし」がある一方で、もう片側には「容赦なく傷つくわたし」が用意されている。このような分岐路において、人は我慢・吾我の驕慢の道へ入っていくよりなくなるというのは以前の段で示したとおりだ。引き続きわかりやすさのため、「かわいい」を例にしてその典型的なムンの現象を追跡していこう。
現代において「かわいい」は本当にちやほやされているのだ。数十倍、数百倍、ときには一万倍も高く評価を受ける。ところが、肝腎なことにかかわると、なぜかいつも自分はみじめな思いをさせられる。SNSなどで何かについて意見を言うと、そのことは数万の「いいね」に追い風を受けて評価されるのだ。けれども、人々が未来に触れて本当に命のあるやりとりをするとき、そこで自分が意見の声を発すると、その声はものの見事に周波数が違う。自分の声がいかにそこにあった命をシラけさせるか、それは体験した自分が一番ゾッとするほどなのだ。
命のある思い出、命のある表現。命を帯びて本当に人をゲラゲラ笑わせること。命を帯びた友人、命を帯びた歴史、命を帯びた場所、命を帯びた姿、命を帯びた声。命を帯びた作品、命を帯びた「あのとき」のこと。そうした本当のものに包囲されたとき、自分の周波数がそれとはまったく合わないということを繰り返し体験させられる。なぜ? 彼女としては計算が合わないのだ。本当の命を帯びたやりとりが現れるとき、そういうときこそ待ちに待った「わたしの出番」ではないのか。わたしはそこで権威を示すために、これまで安っぽくちやほやされることにもニッコリ笑って我慢を続けてきたのではないのか。
「計算が合わない」
そうしたことが繰り返される。
次第に彼女も自覚していかざるをえないところ、たとえば彼女が内心では「どうでもいい」と思っている映画に対して、ほんのり涙ぐんて見せて「感動しました、本当に泣ける映画ですね」と言ってみれば、そのことはやはり高く評価される。映画ではなくて彼女が高く評価される。「ヒロインの◯◯が△△するところ、あそこの演出へのこだわりが、観るものを惹きつけていますよね。ヒロインの心理描写がすごくよく表現されていてすごいと思います」。彼女がそうコメントすれば、「そういうのをちゃんと見抜けるあなたがすごいよ、やっぱ根本的にセンスあるんだ」という一般コメントがわんさか湧く。彼女は自分がかつて目論んだように、あるいは夢見たように、若くから文化人寄りの人物として評価される身になった。この夢の実現と実力にいったい何の暗雲があろう。
ところが彼女は内心でこう思っている。本当の文化の命を帯びた者を目前にして、本当の命を帯びた映画の話をさせられるのはいやだ、かんべんしてくれと。「風と共に去りぬ」はどうだったか、それについてコメントを求められて、自分の寒々しいコメントが虚空へ霧散していく、あのキツい時間と体験は本当にかんべんしてくれ。あれ本当に傷つくから! わたしの意見やコメントは、誰もが「……」という感じで聞き流し、「なかったこと」「聞かなかったこと」にして、文化の命を帯びた者同士で、わたしにはわからない周波数で共鳴しあうのをやめてくれ。わたしの胸はこんなに大きいし、わたしの若い脚はこんなに美肌で生き生きしているのよ? この股間がほんのり開かれることに惹かれない人はいないし、その力を超える人なんて存在していないでしょう? われわれは生きるか死ぬかの存在で、命がどうこうなんてたわごとを見せつけられるのは気分が悪いわ。
彼女はこれまで他人の例としては致命的なシーンを見てきている。意見を求められて、それっぽいことを言ってみた誰かが、その発言の空虚さについて、
「いや……なんつーか、話ズレているし、何言っているかわからないし。というかあなた、いまわれわれが何について話しているか根本的にわかっていないでしょ? わかんないなら無理に入ってこないでよ。たぶんあなたって根本的にこういうことの経験も感動もないんでしょ、そういうのってバレるしごまかせないから。わざわざ恥を掻きに入ってこないでよね。あなたはいつもどおり、そのへんでかわいらしくニッコリ笑っていなさいよ」
と、致命的なことを言われるのを見たことがある。また、それは致命的なことでありながら、周囲からは「そう言われて当然だよ」という認識で見下され、さらには笑われて当然という意味での冷笑もこうむったのだ。他ならぬ彼女自身、そのときにその冷笑をひらめかせた周囲の一人だった。自分はそういうふうに「どんずべり」したことはないし、自分にセンスがないとか、根本的にズレているとか、そういう致命的なことを言われたことはない。言われる由もない、言われる筋もない。ましてそれで人に見下げられて笑われるなんて、彼女は、
「もし自分がそういうのだったら、わたし耐えられない、っていうかもう自分で死ぬと思う笑」
と笑ってきた側だった。
自分はそうしたみじめな存在とは対極の、一般から見上げられるほどの 1000点 の人だ。それが今さら、いつぞや見たみじめな彼のように、致命的なことを言われて冷笑を受けて、晒し者になって醜くあわれな表情をさらせというのか。そんなことが受容できようはずがない。そんなことは、彼女が現代のポップスやアニメ・マンガから想定している「傷つく」ということのレベルにない。
彼女は破格のムンをする。これまでにない大音量のムンを鳴らす。
「いや、だからさあ。ハー、なんつーか、たぶんわたしの言っていること、わかってもらえないと思うんですけど」
何もかもを、誰も彼もを、下に見られるほどの高さへ行くしかない。我慢スコアを膨大に付与するしかない。事実、わたしのことをちやほやする人はこれまでにたくさんいた。他の人って、いうほどそんなにちやほやされてきていないんじゃない? それってつまり、わたしのほうが上ってことだから。まあ、わかんない人には何を言ってもわかんないよね。根本的に頭の出来が違うというか、人間としての出来が違うからしょうがないんだと思う。脳が何かに支配されている人にわたしが取り合ってもしょうがない笑。
ここに百人のムンがいたとする。この百人はぜんいんが自らで我慢スコアを付与している。よって、彼らの現わそうとする命や愛は、どこまでいっても計算が合わないことになる。仮に、百人の中で一人だけがムンで、他の人がそうでなかったなら、そのひとりだけのムンはいかにもおかしいと見え、計算が合わないというよりは「あなた自身が何かを誤解しているのだと思うよ」と周囲の声は満ちようが、百人が百人ともムンなら、相互が打算的にちやほやしあい、誰がムンだとは言われなくなるだろう。あるいは、百人うちの誰かが、他の誰かを「命がない」と罵倒したとして、その罵倒する当人も命がないのだから説得力にかけ、そのやりとりはただの炎上ショーになる。そうして互いにちやほやしたり、互いにショーじみて罵倒しあうことの中、それぞれのムンは自分についてだけ、
「おかしい、計算が合わない」
と不満を覚えている。
ぜんいんがそうなので、現代、ムンが流行し、「かわいい」が大流行し、それらのやり方で大成功を収めている人たちがたくさんいたとしても、その成功ぶりとは裏腹に、内面では「計算が合わない」ということで不安と不満が交錯している。計算上、自分がスーパースターならスーパースターの命が発揮されなくてはおかしいだろう? それがまさか、一介のみじめな "しょぼくれ" と同程度、センスがなくて何もわかっていないかわいそうな人と同列というようなことが認められようはずがない。
「わたしがトンチンカンってことはないので笑」
ムンは自分の意見が通らず、自分の意見が自分でもなんとなく支離滅裂に思え、自分の意見が的外れでヒステリックで、自分のやることが自分のための言い訳に満ちているということ、本当に命がとびかう場面では冷笑の対象になること、それらすべてのことに、
「おかしい、計算が合わない」
と思い、不満でいながら、ずっとその真相に傷つくことに怯えている。そしてそのように「傷つくことに向かえない」ということにおいては、見下すところの一介の "しょぼくれ" と同程度なので、計算は合わないどころかやはりきっちり合っているのだ。ムンはそのしょぼくれと比較して、ムンの音量が大きいだけだ。
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