ムン
役割になりきるムン
アメリカの古いテレビドラマ「刑事コロンボ」を見ると、ピーターフォークという俳優がコロンボ警部補を演じているが、その演技力はもはや演技という領域を超えていて、誰がどう見てもそれは「コロンボ警部」にしか見えなかった。見せられているものがテレビドラマだということは理解の中に留まっているのだが、ふと気を抜くと、どこまでも「コロンボ警部がテレビドラマに出演しているんだろ?」と視えてしまうのだ。気を取り直して、そうではない、ピーターフォークという俳優が刑事コロンボを演じているのだと捉えなおそうとするのだが、どのようにその観念を強くしても、そこにそのような俳優があるような感じはまったくしなくて、ただちに観念の側が見失われていく。世代によっては誰でも知っていることだが、ピーターフォークが別の映画に出演していたとしても、誰もが彼を観た瞬間、こころの中で、
(あ、コロンボだ)
とつぶやいたはず。俳優ピーターフォークが亡くなったとき、刑事コロンボにあやかって、ロサンゼルス市警は「偉大な同僚の死を悼む」というコメントを出した。アメリカ人に彼の写真を見せてまわって調査すれば、コロンボ警部という名前の知名度は、ピーターフォークという名前の知名度をはるかに上回っているだろう。
このような「コロンボ警部」の出現はどのようにして起こったのだろうか。これを単なる俳優の「なりきり」で捉えて説明することは不可能だ。単に「なりきり」でいうなら、それらしい自己洗脳をかけることは、そうした精神傾向のある人においてはそんなにむつかしいことではないのだから、言ってしまえばそれは「誰でもできるでしょこんなの」というものになるはず。けれどもじっさい、それは誰でもできるものではなかった。それどころか、「刑事コロンボ」の出現はもう故人となったピーターフォークにしか不可能なことになっている。
当人が「なりきった」つもりになったとしても、それによって刑事コロンボが出現するわけではない。
極端な話、精神病の一種で、自分が著名人の誰々のつもりになりきるという症状はじっさいにある。当人はそう演技しているつもりではなく、本当にそのように思い込んでいるのだ。これは本来の意味での「妄想」が起こっているということになるが、それでもやはり、そこに「なりきり」を得た誰かが出現するわけではない。「なりきり」はどこまでも当人がその「つもり」というだけでしかなく、周囲がそれに同調して付き合わないかぎりは、そこにいるのはどこまでもいつもの当人だけだ。
じっさいわれわれはよく見かけるだろう、たとえば俳優Xが「織田信長」を演じたとして、いちおうその "設定" には付き合うけれども、画面の中に見ているのはやはり「演技を頑張っている俳優のXさん」だ。わたしがここで述べているのはそうではなく、画面の中にはどう見ても「演技を頑張っている俳優のピーターフォークなどはいなかった」ということなのだ。
刑事コロンボの出現は次のように説明できる。むろん、説明できたからといって、そのままそれが容易に実現可能というわけではないけれども。
生命軸における上下の関係は、下向きに「生きろ」、上向きに「命じてください」というフォースを起こす。ここで俳優ピーターフォークは、俳優としての生を上に奉じ、その捧げたぶんだけ命を享けたのだ。つまりピーターフォークの生を捧げたことでコロンボ警部の命を授かったということになる。刑事コロンボがどのように動き、どのような表情を見せるか、どのような詰め寄り方をするかは、命じられたところであって、ピーターフォーク氏の絞り出すところにない。監督やピーターフォークがイメージしたキャラクターとしてコロンボ警部が設定されたのではなく、彼らが生を捧げたぶん、その命がどこからともなく与えられたということだ。よって、われわれはそこに「生」のピーターフォーク氏を目撃することはできず、コロンボ警部の「命」だけを目撃することになる。だからそこに俳優ピーターフォークを探すということじたいが見当違いなのだ。われわれがそこに俳優ピーターフォークを見つけようとするなら、それはもう作品そのもの・ドラマそのものを観ないように遮断して、スタッフロールだけを眺めるこころもちで画面に向かうしかない。
生を捧げてしまったピーターフォーク氏は、生を失って「死ぬ」だろうか。もちろん生きものとしては加齢や病気によって死んでしまうが、生命軸においては死の項目はないので、生命軸において彼は死なない。生命軸に所属する者は誰ひとり死ぬことがない。じっさい、<<コロンボ警部は死んでいない>>ではないか? コロンボ警部は永遠に命を持っていよう。荒っぽい言い方をするなら、有限の生を永遠の命に「両替」できるなら、誰だってその永遠の口座のほうへ両替を望むのじゃないか。そしてどうせなら、なるべく大量の生を、大量の命に両替したいものだから、われわれは好きこのんで早死にしようとはしない。なるべく長生きして、可能なかぎり大量の両替をしてやろうと考えるだろう。ひたすら長時間生きるだけで何の両替もしない生というのをわれわれは最期までよろこびはしない。両替できたら永遠の命になるけれど、両替しなければ時間と共に「生」の残高は目減りしてゆき、けっきょくは残高が尽きて生の終わりを迎えるのだから。
こんにち、たとえばアニメの声優は、ファンたちにとって「中の人」と呼ばれる存在で、その「中の人」の人気は、アニメ本体をそっちのけにするほどのもののようだ。声優の側もそうして、「中の人」という立場を礎にし、そこから当人じたいがアイドル的な人気を博していくということが、むしろ自己の成功と指向しているように思う。
そのことの是非については、わたしは門外漢として、ただ旧来は明らかにそうではなかったということを記憶から想いだせる。たとえば大山のぶ代さんはかつてドラえもんの「中の人」とは呼ばれなかった。そうではなく、大山のぶ代さんがバラエティ番組に出て一声を発したとき、その声について「ドラえもんだ!」と驚いたものだった。つまり、「大山のぶ代さんの中にドラえもんがいる」と体験されたのであって、ドラえもんの中に大山のぶ代がいるというふうには体験されなかった。大山のぶ代さんが「ドラえもんの声を出している」のではなくて、大山のぶ代さんから「ドラえもんの声が出ている」と体験された。ドラえもんという実在があって、その "依り代(よりしろ)" を大山のぶ代さんが担っているのだというふうにしか見えなかった。
大山のぶ代さんが一声発したときに「ドラえもんだ!」と思わない人はいなかったぶん、ドラえもんの声を聞いたときに「大山のぶ代だ!」と思う人はひとりもいなかった。それは刑事コロンボを観たときに「ピーターフォークだ!」と思う人はひとりもいなかったことと同じ現象だ。だからこれも「なりきり」というようなたぐいではなく、その声にドラえもんの「命」を享けていたとしか言えない。ドラえもんの「中の人」が大山のぶ代なのではなくて、大山のぶ代の「中の命」がドラえもんだった。
現代においてわれわれは生死軸に所属しているので、自分の「役」について命を享けるということはない。生死軸のどこを探しても命はない。そしてこの「役」というのは、必ずしも演劇であてがわれる配役ということに限らず、それぞれがこの世界で本来あてがわれるべき「役」あるいは「役割」というのにも当てはまる。子に対して母は母の役割、父は父の役割、児童に対して教師は教師の役割、男に対して女性の役割、女性に対して男は男の役割を果たすにしても、その役割に「命」が与えられない。だからわれわれはじっさいの生活にもその「なりきり」を用いている。そのなりきりは、精神の傾向によっては、妄想じみて思い込まれることもあると先に指摘したとおり。
たとえばあなたがホテルマンとして就職したとして、あなたはやがてホテルマンとしての命を享けることになるだろうか。そうあれば無上の価値があって何よりだが、現在のわれわれはそういうことのムードにいない。それよりはじっさいのところ、ただ業務に慣れていって、就業中はホテルマンに「なりきる」ということ、それで日々をやりくりしていくことになるという可能性のほうが高いと想像されるのではないだろうか。なぜそのような「なりきり」をしなくてはいけないのかと訊かれれば、「それが生業なんだからしょうがないでしょ」「そうして働かないと生きていけないでしょ」「だから我慢してやっているんだよ、誰だってそうでしょ」と答えることが大いにありえそうだ。
生死軸においては、生がただ頂点なので、無条件で裕福に生きていけるのであれば、それ以上の高みはない。我慢して「なりきり」をやるのも、ただ生きていくためであって、できることならこんなことすぐにでもやめてしまいたい。「お金があったらすぐやめますよこんな仕事」。
だから現代では誰もが、不労所得と一攫千金だけを求めており、自分が何をやるかということには本質的な興味を持っていない。たとえば現在、お笑い芸人として成り上がろうとする人は、人を笑わせることに命を見い出しているわけではない。ただ、その職種が自分にとって最大の「生」の高みへの可能性を含んでいるから、そのジャンルを採用してがんばっているというだけだ。もし途中でもっと別の、もっとおいしくて自分に向いているものが見つかれば、彼は何のためらいもなくそちらに「乗り換え」をするだろう。人を笑わせるというようなことに彼はさして興味はないのだ。彼には何の命もなく、ただ自己の生をなるべく高みへ持ちあげたいという衝動しかない。
生命軸においてはそうではない。生命軸においては命が唯一の高みだから、笑いに命を享けたお笑い芸人は、自分の成り上がりに衝動を覚えるのではなく、ただ目の前の人に対して笑わせようとする衝動を覚える。笑いの命が彼の唯一の高みだから。
彼はむしろ、自覚としては「大金持ちになってやる」という野心でお笑いの舞台に立ったのに、舞台で目の前のお客さんと対峙したとき、何かがむらむらして、
「よし、こいつらをなんとか笑わせてやろう」
ということに火がついてしまう。そのときにはけっきょく、大金持ちになるだのなんだのという野心を彼はすっかり忘れてしまっていて、別の汗をだらだら掻いているのだ。
彼がやがて人気者になっていって、いわゆる成り上がりを得たとしても、彼はけっきょく、その立場やお金のゆとりから、
「じゃあこんどは、こういうやり方で人を笑わせることができるじゃないか」
ということを考えてしまう。そうして考え始めるとけっきょく夢中になっていって、人気のない新人や若手が力尽きていくのを置き去りに、彼だけがずっと夜中まで新しい idea を形成しつづけていく。
もし政治家が、国・自治体を治めることに命を見い出す人たちであるなら、その国は最上の状態にあると言えよう。だが権力は腐敗するもので、なかなかそのようなうつくしい状態は恒久的には望みようもない。また警察官の多くが、警察官たること・治安を維持することに命を見い出しているならば、われわれにとって世の中はとてもありがたい状態だと言えよう。あるいは自衛官のほとんどが国を守ることに命を見い出してくれているならば、われわれの国は称えるべき安寧の中にあるのであって、そのことについてはわたしは現在も「そのとおりにあるのだ」と言っておきたい。医者が患者の治癒と健康に命を見い出してくれているなら、われわれは仁の中を生かしてもらっており、料理人が料理および、人に安全かつ旨いものを食べさせるのだということに命を見い出してくれているなら、われわれはじつに文化的な空間の中を生きさせてもらっていると言える。
彼らは真面目ぶった理想像をイメージしてそれを自分で模しているのではなく、本当に己の生をその命に捧げているのだ。彼らは命の人たちであって、彼らは死なない。もし永遠の命という概念を仮想するなら、誰でも永遠の命は彼らのような人々に与えられるものだと考えるだろう。
生死軸に「命」はないので、生死軸に所属する者は、どこまでいっても「なりきり」に尽きるしかない。「なりきり」といって、何になりきるのか。なりきるためには、これになりきるというようなイメージが必要だ。そのイメージは、生きているものではないので偶像と呼ばれる。偶像をイメージに持ち、それを崇拝して、「これになりきろう」とする。生死軸においてはそうして役をこなそうとするのだ。それはフィクション上の配役をこなそうとするときもそうだし、ノンフィクション上での役割を果たそうとするときも同じだ。
「なりきり」をしなかったときの無様さはどれほどだろう。仮にあなたがフィクション上で「ロミオとジュリエット」を舞台に立ってやるにせよ、ノンフィクション上で教師をやって教壇に立つにせよ、それならばその役に「なりきり」をしなければあまりにも無様だ。あなたはロミオ役であれジュリエット役であれ、それをネタとして茶化す以外の方法としては、無理やりにでもそれに「なりきる」という方法しか持ちえないのではないか。「なりきり」もできずにロミオ役としてジュリエットの名を叫べば、観衆らは容赦のない失笑をあなたに向け、すべてのレビューはウェブ上であなたに遠回しに「死ね」という嘲笑と罵倒を向けるだろう。「なりきり」をせずに教職として教壇に立ったとしたら、児童らはすかさずあなたが無様で隙だらけであることを見抜いてきて、反抗的な態度であなたを嘲弄し、あなたに恥を掻かせて笑い、あなたに死にそうな思いをさせるだろう。
一所懸命という四字熟語があるが、「命」がないのであれば「懸命」ということはできない。霊魂がないなら全身全霊ということもできないだろう。身体の性質として、体を鍛えて「全力」ということしかできないはずだ。全力で何をするといって、全力でその「なりきり」をするしかない。どこまでいっても、あなたは生きものとしてはロミオではないしジュリエットでもないのだから、できることといえば「なりきり」しかない。
現代においてはいわば、その「なりきり」に向けて、我慢の極点を超えたときに、人はそのことのプロになると言ってよい。我慢の極点を超えたとき、必然「ムン」の音が強烈に鳴る。何もかもを我慢して「なりきり」を選ぶ。政治家も有権者の前では憂国の市民代表という「なりきり」をする。ただしその強烈な我慢の苦しみについては、「相応のギャランティをぜったいにもらいます」という灼熱の決意がみなぎる。「この我慢をしなきゃ生きていけないというのですから、この我慢をしたぶん豊かに生きていけるという、じっさいの報酬をいただきます。それ以外に、この我慢にかかわって、あなたがたを許すことは決してないでしょう」。
与えられた役、獲得した役割があるのであれば、その役割に「なりきり」をするということでよい。ただ、どちらにせよ我慢の極点を超えさせられ、その我慢の果てで「生をください」が認められるという仕組みは同じわけだ。どうせなら我慢のしがいがある役割で我慢をしたいが、具体的にそのような役割は見当たらないというとき、
「わたしの役割は『かわいい』です。わたしはかわいいものが好きだし、得意なので」
という発想もとうぜん湧く。
だから言ってみれば、<<政治家もアイドルも同じ音が鳴っている>>わけだ。どちらも我慢の極点を越えて「なりきり」を振る舞い、内心で「そのぶんの報酬はぜったいにもらいます」と決意している。内心で、下方に向けては「死ね」という大声を発している。政治家やアイドルに限らず、生死軸で生きていく者は全員そうなる。「なりきり」をしないと無様で、四方から「死ね」の嘲笑を受ける。だから我慢の極点を超えるまで「なりきり」をやる。友人という役にも我慢して「なりきり」をするし、陽気で気さくな人、社会人としてちゃんとしている人、他人にやさしい人、男、女、伴侶、家族、どうせやるなら「なりきり」までやらないと馬鹿にされて損だ。生を乞うために、役割になりきること、役割をロールと呼ぶならば、やはりそのロールを「プレイ」すること、そのプレイも「なりきり」までやらなければどうせ生かしてもらえないのだから、遊びでない以上は「なりきり」までやれ。
あるいは、自分がギリギリ生きていけるだけの資金状況にあるなら、自室に引きこもって、遠くからすべての「なりきり」どもを下に見て、内心とウェブで「死ね」とつぶやき続けるのもひとつの方法かもしれないが……
これは生死軸に所属する以上、どうしても行き着かざるをえない必然的な仕組みで、どのようにも回避の仕方はない。
命がないかぎりすべては「生きるための我慢」でしかありえないのだから。
もしその我慢からオリようとするなら、嘲笑を覚悟の上で自死を選ぶしかない。そのような、実行をしてしまった人はいまここにいないはずだが、そのような発想を持ったことがある人は少なくないはずだ。
わたしはそのような悲しい選択を、選択肢ごと不要にするために、このような長大な書き話しをしている。
生死軸において、人は我慢をするほど「偉く」なっていく。我慢は「吾我の驕慢」なのだから当然だ。我慢の極点を超えたとき、そのムンという音と共に、吾我は無限というほどに膨張して、「誰よりもわたしが一番偉いんですけど?」という調子になる。吾我の、一種の全能感のようなものにまで至る。この全能感は幼児のうちにあるものだから、そのとき「自分は子供のように純粋」とも思い込むというオマケつきだ。そうしてますますムンに命は聞こえなくなり、生命軸の存在などはるかに遠ざかっていくのだけれど、それでも仕組みが変わるわけではない。見失うというだけで、仕組みそのものはずっと変わらない。自分の役・自分の役割に、命を見い出してそれを高みにしている人はじっさいにいる。ムンはそのことに恭順せず、ムンはむしろその命に対抗するために発明されたものだけれど、それでも矛盾してあなたが「命の人は存在する」と言い張ることは、あなたがその気にさえなれば可能だ。
このことも考えていてほしい。あなたが誰かに「バカタレ!」と怒鳴られ、叱られたとして、あなたは本当に「死にたい」と思う必要があるだろうか?
さきほど、お笑い芸人といってもいろいろあって、けっきょく裕福に生きたいだけの人がいる一方、けっきょくは生を笑いに捧げてしまう人、「それがあなたの命なんですね」という人もいると説明した。そうして生を命に捧げてしまう人が、あなたのボンクラぶりに「バカタレ!」と怒鳴りつけたとして、その人はあなたに「死ね」と言っているだろうか。
命のビンタは、ときに勢いがすさまじくておっかないかもしれないけれど、あなたがその勢いに愚かな「ムン」で対抗しないなら、あなたには別のものが聞こえるはず。そのときあなたはきっと、そこに聞こえてくるものを、一言で「やさしい」と表現するだろう。
←前へ 次へ→