ムン
余談3 アイドルのアイドルたるゆえん
アニメ「推しの子」の第一話では、偶像崇拝を「してしまう」ということが赤裸々に描かれていた。そのことについては包み隠すところがない描写がされていて、作り手の側の、偽りない真の体験が開示されているのだろうという、むきだしの説得力があった。アイドルの「かわいい」が作り物のニセモノだと知ってはいるのに、なぜかそれを崇拝してしまうのだということ、それによってしか元気がもらえないのだということが、本当にあるがままというふうに描かれていた。
なぜ偽物と知っているのに、矛盾して崇拝してしまうのだろう。その矛盾に対する違和感や恐怖が奥底で叫ばれているのだが、そのことは取り扱いきれないようで隠蔽される。隠蔽するために、突如そこで関係する登場人物らを「ネタです」「キャラです」と描写することに切り替えて、そこに聞こえていた問いかけをみずからで雲散霧消させてしまう。それは卑怯なやり方・破綻している切り替えであるには違いないだろうけれど、そうした切り替えが起こってしまうのだということまで含めて、それらはすべて実情の赤裸々な自白表現なのだと思う。自分の中で何かがムンとなって、脳みそが問いかけを「茶化す」ということが止まらないのだろう。向き合うということじたいができないということまで含めての悲鳴が聞こえる。そのことをわたしは勝手に受け取め、勝手に応じて、その悲鳴が何の悲鳴であるのかを解き明かしてゆきたい。またその悲鳴は「かわいい」「アイドル」とどう関係しているのかについても率直に解き明かしてゆきたい。
単純に考えて、アイドルに必要な要素とは何だろうか。ひとつには、顔が美麗であることが望ましい。肌がうつくしく、髪がつややかであることが望ましい。性的に魅力があるほうが望ましい。明るく元気いっぱいでいるか、そうでなければ何か「オーラがある」というほうが望ましい。現在はグループアイドルのほうが盛んだから、チームメイトと仲良く親しいというほうが望ましい。衣装は派手で、動きは大胆、声も目立っているほうが望ましい。年齢は若いほうが望ましい。全体の印象はキラキラしていたほうが望ましいし、じっさいのところ大きなお金が動いているほうが望ましい。キメるところでキメるのが望ましいし、勝利の中に立っているのが望ましい。
これらの要素をハリウッド女優が具えている場合、なぜかハリウッド女優はわれわれの言うところの「アイドル」にはならない。オートクチュールの下着をつけてキャットウォークで新作をアピールするスーパーモデルにおいても同様だ。なぜハリウッド女優やスーパーモデルの彼女らは「アイドル」にはならないのかというと、やはりダウンフォースの問題だ。ハリウッド女優やスーパーモデルは、一般の人々に対して上位者のようにふるまう。ファンたちが「アイドル」に求めているのはそれではない。ファンたちがアイドルに求めているのは、それらの要素を具えた者が自分の下風に立ってくれることなのだ。だから「アイドル」は、制服姿も含めて全体のふるまいと印象を「まだ子供なんです」というふうにしていく。大人としてファンたちの前に屹立してしまってはそれはアイドルではないわけだ。アイドルがそうして彼らの下風に立ってくれるからこそ、彼らはふだん受けているダウンフォースの脅威から一時的に逃れられる。それで彼らにとっては、アイドルコンテンツに視聴覚を取り囲まれているうちは、自分のいる場所が一種のヘイヴンのように感じられるのだ。
「アイドル」が大人として彼らの前に屹立してしまっては、彼らのヘイヴンは終わってしまう。「アイドル」が、ふてぶてしくハードリカーを飲み、煙草を吸って、高級な腕時計を吟味して愉しみ、たくましい男性と性的交際をしているようでは、彼女らは大人であってアイドルではない。それではファンたちはヘイヴンを失い、いつも受けているダウンフォースの脅威に無防備にさらされるわけで、そうした破壊行為はファンたちにとって「裏切り」と感じられる。彼らは自分たちの避難所・ヘイヴンに投資してきたのであって、このような破壊を行うならこれまでの投資を返還しろ、と請求したくなる。そうした業態と消費者のありようが、是なのか非なのかはわからないが、是非はともかくとして仕組みとしてはそうなっているものだ。
それで、なぜその「ヘイヴン」は、美麗な顔や性的な肢体、大胆な声やダンスなどで作られるのだろうか。地上で模擬的に作り出されたヘイヴンといえば、たとえば日本では平等院鳳凰堂などがそれにあたるが、平等院鳳凰堂に性的な肢体はないし、大胆なダンスもない。平等院鳳凰堂を「かわいい」とはさすがに言わない。いくらなんでもそのヘイヴンとここで話しているヘイヴンはものが違いすぎる。
なぜここで話しているところの「ヘイヴン」は、美麗な顔、性的な肢体、大胆な声やダンス、「かわいい」で形成されるのか。
このことは、「弱点」をキーワードにして考えていくとわかる。われわれは生死軸のダウンフォースの中、傷つく場所に勇敢に立つということができず、そのおびやかしにいちいちの我慢スコアで対抗してきているのだった。その我慢のときにムンという音が鳴るということ。そしてその「おびやかし」「傷つくということ」は、きわだって "弱点にかかわって" 生じるということに注目しよう。背の高い男に「ちび」と言い放っても、言われた側はおびやかされないし傷つくこともない。そこに彼の弱点はないからだ。人はそれぞれの弱点においてこそ、大きくおびやかされ、深く傷つくということが起こる。
人の弱点はどこにあるだろうか。人それぞれとはいえ、一般的に性的なことは誰でも大きな弱点になりやすい。たとえば、下半身を露出して自慰行為をしているところ、それをもし知人に見られたら、そのとき多くの人はそのことを「大ピンチ」と感じるだろう。まして性的な自己を未だ確立できていない人の場合、その「大ピンチ」にしどろもどろの言い訳さえしようと取り乱すだろう。そのような場面においての言い訳など成り立つわけがないのだけれども、それ以上の動揺がその弱点にかかわって起こる。ここを見られたら終わり、ここを突かれたら終わり。だから隠しきり、守り切っていかなくてはならない。人は誰しもそうした弱点の負担を抱えながら生きている。
性的なことはそうして多くの人にとって大きな弱点としてある。それで、その弱点に対応するかたちで、「アイドル」の要素が決定してくる。
ここで性的な自己の未確立を弱点にしている男がいたとすると、彼に対しては、性的な魅力をあきらかにしている女性がアイドルたりうる。性的な魅力をあきらかにしている女性が、あえて彼の下風に立つ。彼女が下風に立つのであれば、彼はその大きな弱点におびやかしを受けなくて済む。彼はその弱点について解放される。大きな弱点について解放された彼は、そのことをヘイヴンのように体験する。
彼は未だ性的な自己も経験も自信も確立できていないので、きれいな言いようをすると彼は「うぶ」なのだが、この彼の未熟におびやかしをかけないように、アイドルの彼女は彼よりも増して「うぶ」でなくてはならないわけだ。ただし「うぶ」といって、性的に魅力を持っていない女性が「うぶ」ということではだめだ。性的な魅力としては平均よりずっと高いものを持っている彼女が、あえて「うぶ」で、性的に彼の下風に立つということでなくてはならない。
いささか面倒くささが目立つところではあるが、この仕組みは正しく見抜いていなくてはならない。
「弱点」がキーワードで、彼はその弱点において際立って、日常的に強者からダウンフォースを受けている。彼の弱点が性的に未確立の自己である場合、彼は日常的に「性的強者」からダウンフォースを受けている。このダウンフォースよりも勝る権威としてヘイヴンを成り立たせようとする場合、アイドルの彼女はその日常的な性的強者を上回るほどの性的強者であるほうが望ましいのだ。日常的な性的強者Aよりも、アイドルBのほうがなお性的強者である。そのアイドルBが自分の下風に立つということは、そのときの自分の立ち位置は性的強者Aなどものともしないほど高みにあるということになり、彼はこれまで受けてきたダウンフォースのすべてを吹き払うことができる。
彼はアイドルBの上位者気分を味わうことで、日常的に性的強者Aから受けるダウンフォースに対しても、
「あんなのけっきょく、狭い地元の、地味な女どもに、デカい面しているってだけだろ?」
と対抗できるヘイヴンを持つようになる。
性的なことが人の弱点になりやすいが、他のことも大いに弱点になる。これらの弱点を単純に列挙するだけで、われわれが「アイドル」にどのようなヘイヴンを見い出しているかが浮き彫りになってこよう。
・性的に自信を確立していないのが弱点だ
・ぞんぶんにお金はなく、みすぼらしいのが弱点だ
・勝利に縁遠いのが弱点だ
・本当に打ち解けた友人がいないのが弱点だ
・大胆にうごけず、もぞもぞ話してしまうのが弱点だ
・顔がぶさいくなのが弱点だ
・肌や髪がくすんでいるのが弱点だ
・何をしてもまぬけで迫力がないのが弱点だ
・元気がなくて弱そうなのが弱点だ
・きれいな服が似合わないのが弱点だ
・この年齢でこのレベルというのが弱点だ
・キメるところでキメられないのが弱点だ
これらすべての弱点について、深く傷つきそうになり、精神的な防衛をしなくてはならなくなっている者をイメージするなら、そこには率直なところわれわれがイメージする「アイドルオタク」のようなものができあがる。そしていまやこの性向はそうした「オタク」に限ったものではないということは、これまでに説明してきているとおり。
この列挙された弱点に、それぞれ対極する強者を設定してみる。
・性的に魅力があるのが強みだ
・お金が使われて、キラキラしているのが強みだ
・勝利の中に立っているのが強みだ
・本当に打ち解けた友人がいるのが強みだ
・大胆に動き、目立って話せるのが強みだ
・顔がかわいいのが強みだ
・肌や髪がつややかなのが強みだ
・何をしてもオーラがあるのが強みだ
・エネルギーにあふれて何にもくじけないのが強みだ
・きれいな服が映えるのが強みだ
・まだこの年齢なのにもうこのレベルというのが強みだ
・キメるところでキメられるのが強みだ
こうして弱点の対極に強みを並べ、この強者をあえて弱者の下風に立たせるなら、そこにはいかにもわれわれが現在知っている「アイドル」という像が浮かび上がってくる。
ここで言う「弱点」というのは、安易な言い方でいうならいわゆる「コンプレックス」と捉えてもよい。
(※コンプレックスは「劣等感」ではありません。抑圧下の構造体のことを指します)
よって、ここでアイドルのアイドルたるゆえんはついに、
<<コンプレックスの補填として下風に立つ>>
ことにあるのだということになる。
コンプレックスが未解決ということは、一般的に彼はいわゆる「大人になれない人」ということになる。それでも、世間的なことはそれなりにこなしていけるようになるだろうが、人格・精神の根幹が、どこか「ちゃんとした人」になれない。大人ぶっているというだけで中身はコドモだ。冷淡ぶったり、リアリズムぶったり、ニヒリズムぶったりするが、体の「老い」がそのことに貫録ふうの雰囲気を増加させていくだけで、その身に一個の人たる権威は現れてこない。コンプレックスを残したままなので、どのように糊塗したとしても、いちいちのことで彼の内面はヒステリックに挙動する。
生死軸のダウンフォースが猛烈なものになった現在、人は傷つく場所にはとうてい立てなくなり、コンプレックスの解決に向かうなどということは何やら不可能じみたものになった。もし自分の魂が、そうしてもはや一歩も進めないというのなら、われわれはいったい何のために苦労して生きているのか。
そこに燦然と、
「そんなことないんじゃない? 一緒に、がんばろ」
と、絵に描いたような「かわいい」ものが現れる。
彼の抱えているコンプレックス、その弱点群の、まったく正反対のものが舞台上に展開される。
すべての演出が、彼の思念を吹き飛ばしていき、彼は自分の観ているものが何なのかよくわからなくなる。
ただ、キラキラしている。
セクシーで、かわいくて、大胆で、つややかだ。
彼は、
「これだ、これなんだよ!」
と励まされて興奮する。
彼は手続き上、コンプレックスを解決したわけではないはずだが、このときなぜかコンプレックスがどこかへいってしまっている。
彼はいつのまにか拳を握り、胸が熱くなり、汗をかいて、腹の中で、
「うおおおお」
と叫んでいた。
それほど彼は "元気をもらった" 。
ステージの終わり、彼が拍手をしないことがありえようか。
こうして彼は偶像崇拝をする。偶像を模した彼女の「かわいい」を崇拝する。
これまで解除は不可能と思えてきた彼の重荷を、壇上から一息で軽くしてくれたのだから、彼は彼女のことをやはり天使か救世主のように体験する。
彼はハリウッド女優を「応援」はしないし、スーパーモデルも「応援」しない。アイドルに対しては「応援」する。自分は彼女を「推す」と考える。
アイドルは、強みをもった強者なのに、彼の下風に立ってくれるからだ。
彼は自分をアイドルの上位に立たせて、下位の彼女を「応援」する。
彼は自分の見立てた救世主さえ、自分の下風に置くのだから、そのヘイヴンはやはり命の位置が入れ替わっている。
逆生命軸だ。
ここで悲鳴があがっている。
魂が天国(ヘイヴン)を拒絶することはできない。万歳! しかし、何かこのヘイヴンは違う気がする。違和感がある。それでも逆らうことはできない。ここはヘイヴンなのだから。どれだけ逃れようとしても、天国を拒絶できる魂などありはしないのだから、そんなの無駄な抵抗ではないか。わたしはこの崇拝から逃れられない。そういう悲鳴があがっている。
コンプレックスを解決できず、コドモのままでいる彼は、自己愛・自己中心性・自己万能感によって、命を踏んづけて「ぼくの生」を至高のものとした。
そのことへ、決定的な踏み出しをさせるために、いま「アイドル」「かわいい」というのが大きな役割を果たしているということだ。
アイドルに限らず、近年に流行のマンガもアニメも、その他のメディアも、すべてこれで成り立っていると見てよい。
むしろ、そのようにひとまず断じてしまうことが、あなたの前方を切り拓くのではないかとわたしは思う。
いま、何もかもがそうした「コドモ」に向けたものではないか?
それらのメディアに触れるとき、
「コンプレックスがどこかへ行ってしまう」
ということに気づけ。
それで、コンプレックスの重荷がどこかへいき、そのぶん、
「癒された、元気をもらった」
と言っている。
それで、
「応援します!」
というここちになっている、そのことに気づけ。
そう知った上で、魂を一時的にサボらせるだけというなら、そのことは深く罰されはしないだろう。
現代の、吹きすさぶ生死軸のダウンフォースの中、コンプレックスを解決する、そのために傷つく場所に立つというようなことは、絶望的に不可能じみて感じられる。この絶望的な魂の課題に対し、
「そんなことしなくていいんだよ?」
と、突如あなたをヘイヴンに案内する「かわいい」ものがやってくる。
そのときその案内人は、必ずあなたの下風に入り込んでいる。
下風に立ってくれるその「かわいい」ものは、あなたを安らがせるかもしれないが、よくよく考えろ。
その案内人は、本当に「やさしい人」か。
何かのイラストイメージを模しているだけの人じゃないのか。
あなたはあなたの弱みに負けてはならない。
弱者は、強者よりも強くないが、弱者が命の道に入れないというわけではないし、強者の側が命の道に入ると決まっているわけでもない。
誰にとっても困難なことではあるが、もし命の道に入れたとしたら、そのとき誰でも自分が弱者だったことを肯定するだろう。「わたしは弱い者でさいわいだった」と。
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