ムン
high-ムンは実績を捨てられない
どれが命であって、どれがムンであるか。区別はつけにくいものだ。リトマス試験紙のように、パッと見分けがつくものであれば話はかんたんなのだが、じっさいのところはそうではなく、ただその「ムン」という音でしか区別がつかない。「命」のほうは、触れると横隔膜が解きほぐされて広がっていくようだけれど、「ムン」のほうは、出てくると横隔膜が硬く萎縮するように感じられる。「命」はこだわりから離脱したまるで別世界での出来事のように聞こえるけれど、「ムン」はこだわりが強く人情に訴えてリアルな「事情」のように聞こえる。
わたしの友人らは、わたしの若いころのバカ話をよく聞きたがる。わたしは、同じ話を二度も三度もするのは老人じみていて好みではないので、なるべく避けようとするのだが、裏腹に、わたしの友人らはことあるごとに同じ話を聞きたがる。
「あの話めっちゃ好きなんですよ」
たしかに、優れた小説というのは何度でも読みたくなるからこそ優れた小説だ。だから小説家を気取るわたしとしては、そのように期待されたら何度でも同じ話をしなくてはならない。
たとえばわたしが学生の頃にインドを旅したとき、わたしは、デリー、ジャイプル、アーグラー、カジュラホー、バラナシ、ガヤー、ブッダガヤー、カルカッタ、と移動していった、その道中はどこもかしこもわけのわからない笑い話で満ちていたが、一方でカルカッタについては、
「サダルストリートはうつくしかった。あの朝、おれがドミトリーから出たとき、サダルストリートは光り輝いていた」
とだけ短く言う。なぜかわからないが、それが事実だったのだ。だからそのようにしか言えない。その何でもないような話を、わたしの友人らは聞きたがり、聞くたびに、
「いいんですよねえ」
「何かがいいんですよ」
と言う。
では、ここで架空のAさんを登場させるとして、
A「でもそれって、あくまで大学に行けるだけの経済的な余力があって、さらにそこから、そうした長期の海外旅行にもいける経済的余力があってのことですよね? 先立つもの、というのがいくらでもあるわけで。当時はまだ円高というのもありましたよね。いまは多くの人が貧困ですから、そういう旅行とか、そもそも大学に行けない人もたくさんいるんじゃないかなって思います。いちおうわたしは自力で、不労所得で暮らせるぐらいにまではなりましたけど」
と発言させてみたらどうだろうか。
このときのAさんに対し、横隔膜が解きほぐされるように感じる人はいないだろう。Aさんの発言の意図は不明だが、とりあえずAさんからは「ムン」っという何かの音が聞こえてきそうだ。
Aさんはこのとき、自らの発言によって一定の「ハイ/high」になっているようにも予感される。この場合はもともとが論説ではないのでいわゆる「論破」ということにはならないが、なんとなくAさんには、その「論破」と類似した興奮物質のようなものが体内に湧き出ていて、それによってハイになっていることが想像される。近年ではこの、ハイとローを取り合うせめぎあいのことを、一般に「マウント」と呼ぶようになった。
ハイになるということを、ビルの階層にたとえてみよう。
ビルの十階より二十階のほうが高く、二十階より三十階のほうが高い。当たり前だ。そして、高くなればなるほど、地面から遠くなるのも当たり前だ。
階層が高ければ高いほど、見晴らしがよく、気分がよいのも当たり前だ。まだまだ上はいるだろうけれど、比較的、上から見下されるということも少なくて済む。自分は基本的には見下す側であって、見下される側ではない。
階層が高くなるのは、いいことづくめのように思えるが、そうではないこともある。階層が高くなればなるほど、そう簡単には地面に降りられないということがあるのだ。
ビルの二階から地面階にまで下りるのは簡単なことで、
「いまさら一階も二階も同じようなもんだろ」
という気分で済むが、それが三十階から地面階まで下りるとなると、「同じようなもんだろ」というわけにはいかない。
三十階から一階に下りるのは「凋落」だ。これまでさんざん見下していた、二十階層の人や十階層の人たちよりも下に落ち、これまで見下してきたぶんを、倍増したかたちで自分が見下されなくてはならない。これまでの見晴らしのよさも気分のよさも、すべて捨てなくては一階にまで下りられない。
あなたが「ムンビル」の三十階に住んでいたとする。あなたはその住居がなかなかに快適で、気分を良くしていた。ところが最近なってあなたは、向かいにあるビルがムンビルではなく「命ビル」らしいということを知った。あなたはその「命ビル」に転属したがっている。命ビルの、同じ三十階でなくてもいいので、その五階や十階に移り住みたいと思っている。あなたはそのことを自分でこっそり「謙虚」だとも思っている。何も命ビルの最上階に住みたいと言っているわけではない。いまのような階層でなくていい、もっと低くてもいい。どうしてもダメなら一番低い地面の階でもいい。そうしてささやかに、けれどもやはり命ビルに住みたいのだ。こんな、ムンでおっ立てたバベルの塔に住むのではなくて……あなたはそう思っている。
けれども、これはアクション映画ではないので、ムンビルの三十階から命ビルの十階にジップラインを通し、そこに滑車をかけてすべっていくというわけにはいかない。命ビルに移り住むには、そのことが可能か不可能かはわからないまま、何にせよ地面階まで下りなくてはならない。
地面階まで下りるということは、ムンビルの三十階にいるという実績と誉れをすべて捨てるということだ。
「ムンビルの三十階に栄光はない」
そう信じるからこそ、あなたは命ビルに移り住みたがっている。こんなことで階層を高くしても値打ちはないんだ。あなたはそう宣言して勇敢に、階段を駆け下りていこうとする。
けれどもそうは簡単にいかない。実績があなたを許さない。ムンの実績、ムンとしての能力があなたを許さない。
あなたは二十階層まで下りてきた。そこでその階層の住民に見つかって、
「なに? 落ちぶれてきたの?」
と笑われる。
憎たらしい、いやな顔。
あなたはその瞬間、
(よりによって、こいつに鼻で笑われる筋合いはない)
と、不快と憤りを覚える。
あなたは、先のAさんと同じ何かの興奮物質を湧かせ、
「いや、そういうことではないですけど? わたしはいちおう上の住民ですので」
と言って、二十階層の人にマウントを取る。あなたは「ハイ/high」になる。
ハイになったので、あなたは二十五階ぐらいまで戻っている。
あなたは地面にまで下りられないのだ。
あなたのこれまでのムンには、強い「こだわり」がひそんでいる。そのこだわりは、あなたのムンとしての「歴史」だと言ってもいい。
あなたはもともと、十階層に住んでいる特定の者に対して憎悪を持っていた。それでこれまで、
「こいつにだけは負けてたまるか」
ということで、ムンビルの三十階にまで到達してきたのだった。あなたの歴史。ムンビルの三十階から、そいつのことを常に見下すということが、まるであなたの人生の本質というようにこれまであなたを満たしてきた。
あなたは、やけくその思いで二十階を突破することはできても、その「いわくつき」の十階を突破することはできない。これまで、そいつを見下すために生きてきた・がんばってきたというのがあなたの人生だ。あなたはあなたの人生を否定してまで地面階に下りることはできない。
上り詰めてきたものを下っていくことは苦渋に満ちている。どんな天上人も、天上人だからこそ「下りるのはいやだ」ということで苦しむ。あなたはその苦渋を覚悟の上で、決死の思いで階段を下っていこうとするのだが、あなたにとって最大の関所は十階だ。苦渋は最もシャレにならない厭(いや)らしさであなたに迫って来、あなたの脳内はたちまち、
「なんでこんな思いをさせられなくてはならないんだ。ひたすらいやすぎる。なぜ、こんなことをしなくてはならないのか、さっぱり意味がわからない」
という思念に塗りつぶされていく。
そこからあなたはポーンと、エレベーターに乗り換えたここちで、気がつくといつもの三十階、自分の部屋に戻っている。
そのときの快適さ、居心地のよさ、見晴らしのよさ、気分のよさといったら。
「これがわたしの身分だもんね。自分でがんばって、自分で獲得したもの。誰に対しても後ろめたいところはない」
あなたの歴史。あなたはかつて、深く傷つけられたのだ。かつてのあなたは、深く傷つけられる場所に立たされていて、そのことが耐えがたく、とてもじゃないが受容することはできず、あなたはムンビルの上層階へと上り詰めていった。誰も自分のことを守ってくれなかった。自分で自分を守るしかなかった。だから我慢によってムンビルの上層階へ進んでいった。
そうして、かつて自分が傷つけられる場所にあったこと、そこから自力で脱出したのだということが、あなたの「こだわり」になっている。
何がどうなって、わざわざその悪夢のような「傷つけられる場所」へふたたび下っていかねばならないというのか。馬鹿げている。
三十階の自室にいるときは、「それでもなんとかして、命ビルに転属しないといけないんだよね」と思っているのだが、それは自室にいるときだからであって、階段を下りていく最中にはやはり、
「馬鹿げている。こんなことに意味はない」
という思念が脳内を支配していく。
数字のあてはめをわかりやすくするために、架空に年齢をあてがっていくが、数字の調整のため、年齢としては妥当でない話をする。
あなたは五歳のときに、「ブスだ」と言われて馬鹿にされたとしよう。また、十歳のときに、男子に暴力を振るわれていじめられたとする。十五歳のときに、貧乏と言われて馬鹿にされた。二十歳のときに、センスがないと言われて馬鹿にされた。二十五歳のときに、さびしそうでかわいそうと言われて馬鹿にされた。
あなたはブスだと馬鹿にされたことに対し、勉強して成績をよくし、クラスで一番の成績になって、馬鹿にしてきた人たちを「見返してやる」ことに成功した。暴力を振るわれたことに対して、法律や手続きに詳しくなり、相手の弱みにつけこむことを覚えて「やりこめる」ということを覚えた。貧乏と馬鹿にされたことに対し、努力して資格をとり、高給をもらえる職業につくことで見返してやった。センスがないと馬鹿にされたことに対し、文化活動で表彰されることで見返してやった。さびしそうでかわいそうと馬鹿にされたことについて、著名人にコネをつけてパーティに参加するようになり、それをSNSで発信し、自分が「影響力のある人」になることで見返してやった。
そうして三十歳になると、もうそんな簡単には馬鹿にされない人になった。あなたはそうして生きてきて、そうして優秀になっていった。このことはあなたの「歴史」と言えるだろうし、何しろ優秀になっていって力をつけていったのだから、悪く言われる要素はないように思える。
逆でも同じだ。成績が悪いということで馬鹿にされた人が、かわいくなって見返すことに成功する。立ち回りがわからなくて馬鹿にされた人は、膂力・暴力を味方につけてやりこめる。給料が少ないといって馬鹿にされた人は、投資や財テクのたぐいで成功して見返そうとする。文化的なかかわりがないと馬鹿にされた人はセンスをとがらせて見返そうとし、影響力がないと馬鹿にされた人は、「幸せな家庭」で反撃してやりこめようとする。
どちらにせよ、そうして上り詰めていった、強くなっていった、優秀になっていった、そしてついに馬鹿にされなくなった自分を、いまさら三十階から地面階まで下ろすことなどそうそうできない。実績があなたを許さない。二十五階、二十階、十五階、十階、五階、それぞれに強いこだわりと怨恨の歴史が染みついている階層を突破して、地面階までたどり着くというのはまるで不可能じみているのだ。
いっそ、
「誰かムンビルを爆破してくれんかな」
という心境に、誰でもなるだろう。
いっそ認知症にでもなれば、これらすべての認識は粉砕されてどこかへ消えて行ってしまうのかもしれない。
あるいはずっと昔に、あなたは命ビルの三階に住んでいたかもしれない。そのときのあなたは、命ビルの三階の景色に胸を打たれながら、さらにがんばって命ビルの五階にまでたどり着きたいと、素直に熱意を持っていた。
けれどもあるときあなたは、ムンビルの住民たちにこぞって馬鹿にされた。
「なんか、レベル低いですよね? ごめんなさい、わたしたち、ずっと前からもう十階に住んでいるので、あなたの話を聞いているとどうしても笑ってしまって」
あなたはこの嘲弄にカッとなった。彼らのムンとした気配と、そのいやらしい表情は、まるで呪いのようにあなたに突き刺さり、あなたの血を憎悪と嫌悪に沸き立たせた。
あなたは直観的に、自分がムンビルに転属すれば、数年後には十五階か二十階ぐらいまでいく、と思った。
いったん本気になってそのことに取り組めば、ぜったいに負ける気がしない。
本当の上層にまで行くのは無理かもしれないけれど、少なくとも、あいつらごときにはぜったいに負けない自信がある。
あなたはムンビルに転属することを決めた。
命ビルの三階まで進んでいた、その実績と栄光は捨て去られ、あなたはムンビルに転属し、たしかにたちまち十五階、二十階へと進んでいった。
そうして、かつて自分を馬鹿にした連中を見返してやることに成功した。
そのときのあなたは、体内にマウントの興奮物質を湧かせ、当人としては「スカッとした」と言っているが、体は重い。
かつての、素直な熱意を持っていたあなたはもういない。
ずっと昔の、命ビルの三階にいたときのことを思い出そうとすると、脳内にザザッとノイズが掛かり、記憶は視えなくなって、何かが無性に不快になる。
そこからふたたび、地面階まで下りていくことなど、いったいどうして出来ようか。
生命軸への転属を望むとして、その実現の困難は、生命軸が得られないということにあるのではないのだ。
獲得するのが困難なのではなく、手放すことが困難なのだ。
生死軸での実績、自分の high-ムンたる実績が手放せない。
優秀なら優秀で、「かわいい」なら「かわいい」で、自力で獲得してきた、そのhigh-ムンの実績が手放せない。
high-ムンとなって "乗り越えて" きたのだ。そうするしかなかったのだ。誰も助けてくれず、自分を自力で救済してきた。それが自分の歴史だった。
その high-ムンがどうしてふたたび傷つく場所に立てよう。
「サダルストリートはうつくしかった。あの朝、おれがドミトリーから出たとき、サダルストリートは光り輝いていた」
「でもそれって、あくまで大学に行けるだけの経済的な余力があって、さらにそこから、そうした長期の海外旅行にもいける経済的余力があってのことですよね?」
だからわたしは、すべてに対してへりくだり、すべてのことをフィクションで話す。ムンといっても、わたしが下ならば問題ないだろう。わたしが下ならばわたしからダウンフォースを受けることはないのだから。そしてフィクションで話すかぎりは、しょせんフィクションとして見下され、やはりその話からダウンフォースを受けることはないだろう。だから問題ない。いつもそうしていれば、わたしは誰に対してもいさかいの空気を起こさずに済む。
それで、わたしはわたしの話をすることについて、いくらでもへりくだって平気だ。なぜか知らないが、わたしはそのことにすっかり慣れている。もうずっと前からだ。"地べた" に貼り付くことなど、いまさらなんでもない、ずっと前から慣れっこのことだ。
そのことは、かつてのわたしが、たいして高くもない階層から地べたの階層まで下りたことがあるという、その経験があることを反映している。
幾度となく繰り返してきたことだ、何をいまさら……
地べたのわたしを、誰かが踏むにせよ踏まないにせよ。
地べたには慣れているし、むしろいまでも、高層階は尻の据わりが悪くて困っている。わたしは何度でも地べたに立って話そう。サダルストリートはうつくしかった。
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