ムン
居直るムンはピンと来ないことを威張る
じっさいのこととして、われわれは "困る" のだ。いやもちろん、何にも直面しないように、すべての日々をごまかして生きるのであれば、われわれは困りようもないのだが、そこまで自暴自棄にもならず、なんとかしてささやかでもその「命」「世界」というものに向き合ってみようとするとき、われわれはその本当に "困る" という単純な状態に陥る。それはあまりにも単純なことすぎて、次第にシリアスさも抜け落ちていってしまうほど。初めのうちは動揺するのだが、あまりにも同じことが繰り返されるので、「なんなんだこの機械的な繰り返しは」といいかげん馬鹿らしく思えてきて、もう動揺もしなくなる。困るというのは、じっさい、その「ムン」が消えないし、「かわいい」が引き取ってくれないということ。たとえばXさんを人前に立たせ、何の意味もなく、ただ右手を高く挙げてもらうということをしてみる。ただそれだけのことなのだから、ムンもへったくれもないだろう? にもかかわらず、Xはそこで右手を高く挙げるというだけのことに、なぜか「ムン」という音を立てる。あるいはムンとして「かわいい」を得意とする人であれば、その右手を高く挙げるということを「かわいい」ものとしてする。
「そういう、かわいいのは要りませんから」
と指導すると、誰でも、
「そりゃそうですよね」
と理解する。
それでもう一度トライしてみるのだが、なぜか、その右手の挙上を、その人はやはり「かわいい」ものとしてやってしまうのだ。
「そういう、かわいいのは要りませんから……」
どれだけ繰り返しても、その「かわいい」やら「ムン」やらは消えない。
わたしがXさんに、「そこに立って右手を高く挙げろ」と "命じて" いるのだが、Xさんはこれまでずっと「命」に対して「ムン」なり「かわいい」なりで対抗してきた。
だからXさんは、わたしの命によっては動かず、吾我に湧き出す「ムン」によってのみ動く。
「わたしの命じたとおりに、わたしの命じたことだけをやってください」
どれだけ単純化して指導しても、必ず、このXさんは挙動の原理を「吾我のムン」に切り替えてから動く。
わたしはこうしたことで人を責めるつもりはまったくない。馬鹿にする意図など微塵も持ち合わせていない。ただじっさいのこととして "困る" ということに、これまでいやというほど直面してきている。わたしも困っているし、Xさんも困っているのだ。Xさんだって、自分でそうしたくてそうしているわけではない。Xさんはこころの底から、わたしに命じられたままに動こうとし、命じられたことのみで動きたいと望んでいる。
<<けれども、けっきょくXさんは傷つく場所には立てない>>。
だからXさんは「我慢」の中に立ち続ける。その音がムンと鳴る。わたしが右手の挙上を命じたとき、その「命」に対してこそ、その「ムン」はいっそう甲高く鳴る。
ムンはもともと「命」に対抗するために発明されたものなのだから。
Xさんは頑張るだろう。じっさい頑張るのだ。けれどもXさんにとって頑張るというのは、これまで「ムンムンする」ということだった。
ムンはもともと命に対抗するために、代替のものとして台頭してきたものだから、そうしてムンムンするということは、<<それだけもともとは命への希求が強いということ>>でもある。コピーブランド品をたくさん買わされた人は、もともとは正規ブランド品への希求が強かったに違いないように。
Xさんは、命じられたとおりにしようとし、「命じられたとおりにする人」というイメージに全力で「なりきり」をしようとする。それでますますムンムンする。
このことの解決不能は、驚くべきことに、どこまでもさかのぼって「傷つく場所に立てない」ということに起因しているのだ。
ここにYさんがやってきて、わたしがYさんに「はい、右手を高く挙上」と命じると、Yさんは「?」という顔のまま、ただ命じられたとおりに動く。そしてなぜかうれしそうで幸せそうだ。よろこびに満ちている。かといってはしゃぐわけでもない。言われたとおりにする、ただそれだけのことに敬虔さと畏れを現している。命そのもののよろこび。生命軸における高みとの接触。
そしてYさんはなぜか、右手の挙上を命じられたことについて直後、
「ありがとうございます」
と言った。
何が「ありがとう」なのか、一般にはよくわからない。どちらかというと、指示を聞いてもらった側がありがとうと言うものじゃないのか? そう思えるのだが、なぜかそのときのYの相貌と姿には犯しがたい権威がただよっている。
これを目の当たりにすると、Xはさしあたり慟哭ぐらいしかすることがない。
慟哭されても、それはそれで困るし、慟哭しても何も解決しないし、慟哭の周波数だってムン側の周波数なので、申し訳ないが「ちょっと離れていてください」とお願いするハメになるのだが、それでもまだ、ここまでは笑える話で、総体としてはまだ希望の残る話だ。
これが次の段階、最後のムンに転じたとき、おおよそすべての希望は終わる。
われわれは非常に危険ながけっぷちに立たされているのだ。希望の中にある者でさえがけっぷちにあり、そうでない者の多くはすでに崖から転落していると考えなくてはならない。
「命」に対して「ムン」で対抗する。命じられたことに応えず、吾我のムンに変換してから挙動する。そうしたことが一般的になり、また多くの人は、そちら「ムン」を強化することによって、これまでにそれぞれなりの実績を獲得してきた。それなりの高い評価も得てきた。今まさにそのムンで活躍しているという人もとうぜん多くいるだろう。ここからけっきょくは、すべて引き返して「傷つく場所に立てるか」というところに帰結する。命とムンの分岐点。けっきょく傷つく場所に立たないんじゃないか。ここまでですでに誇れるほどの実績も高い評価も得てきている者が、今さらそんな「傷つく」というようなプリミティブな場所に立てるのだろうか。彼はこれまで一般的なこととして十分な地歩を得てきていて、それなりに「色んな人から、いちおうありがとうって言われてきているんですけど」という立場になっている。「今さらそんな、何もできない人みたいな扱いをされるのは、率直に言って腹が立つんですが」という、その言いようは一般にいってごく正当だ。
それで、
「なんか、わかるような気もするんですけど、ピンとこないですね」
ということになる。
あるいは、
「あー、なんというか、こういうの自分は無理っすね」
という感じになる。
「んー? なんだか、わかんない笑。まったく、ピンとこないです笑」
「わたしそういうの無理なんですよね」
「あー、そういうの、むかし考えていたんですけどね。なんか、飽きた笑」
ムンは慟哭する。ただし、それは傷つく場所の手前までだ。傷つく場所に踏み出そうとするとき、ムンはむしろ居直る。ムンはもともと命に対抗するために発明されたものだ。その本質が最前面に出てきて、彼の所属を完全決定する。ムンは命の上位に立って、<<命に「死ね」のダウンフォースを投げかける>>。命と世界、その聖なる霊を帯びたものに、もっとも汚らわしいものを投げつけて、その聖なるものを傷つく地獄へ叩き落とそうとする。
そうして命に対して上位に立てば、ムンは「傷つく」ということから逃れられるから。
本来、われわれが「ピンとこない」あるいは「無理です」と言う場合、多くの場合は引け目と申し訳なさを覚えてその言い方を用いるはずだ。
たとえば、自分が物理学を学びに来たところ、
「加速度と距離の関係。距離というのは速さと時間の掛け算だから、いわば面積とも言えるじゃないか? 速さをタテ軸、時間をヨコ軸に置けば四角形の面積になる。そこで、加速度の計算をするということは、速さじたいが時間に比例していくということになる。加速度がaで時間がtなら、速度はatであって、初速度をゼロとするなら、つまり速度は v = at という、これは一次方程式じゃないか。じゃあ面積といっても今度は四角形じゃない、三角形だ。三角形の面積といえば、底辺かける高さ割る2だ。この場合、底辺は時間t、高さはatじゃないか。じゃあその面積はというと、1/2at^2 だ。このことじたいは、じつは二次関数でなく一次関数の範囲で計算できるんだよ」
と説明されたとする。これでただちに「ピンとくる」という人はあまりに聡明すぎるだろう。
そこで、架空の少年Aは、
「いやいや、これだけでピンとくるほど、自分は頭良くないですよ。これ、自分にとってはすごくむつかしい話です。これをいますぐわかれというのは、ごめんなさい、僕にはちょっと無理です。これはきちんと勉強しないと」
と頭を掻くかもしれない。
一方で、架空の少女Bは、
「なんか、ぜんぜんピンとこない笑。というか、わかった、わたしやっぱりこういうの無理だわ。説明しているの見ててあー無理ーって思った笑。なんか生理的に無理。絶望的に無理。こういうの何の役に立つのかぜんぜんわかんないし、ぶっちゃけキモくてキツい笑」
と瘴気を発するかもしれない。
もし厳密に「物理学を学びにきた」という前提を採るなら、少女Bの態度は不当だ。そしてわれわれはいまここで、「我慢」をしているのは少年Aと少女Bのどちらかということを、確信を持って言い当てることができるだろう。「我慢」をしているのは少女Bのほうだ。その瘴気というのもムンのガスだろう。少年Aのほうは何ら「我慢」はしていないし、何らムンとはしていない。
(少年Aはこのとき「何をしている」だろうか、考えてみてくれ、解答はすぐ後に示す)
むろん、ここで少女Bが、そもそも物理学を学びに来たわけではなく、一方的にそこに置かれただけであれば、彼女がそれをピンとこないだの何だのと、好きに捉えるのは彼女の自由だ。好きに「言う」のは公共の福祉としてどうかと思うが、内面で好きに捉えるのはすべての人格に認められた基本的人権だろう。
だがそんなことより、ここではムンが「居直る」という現象を見ている。物理学という学門の命と出会おうとしたが、それはそんなに簡単なことではなく、命に出会えなかった少女Bは、ただちに「ムン」で対抗した。のみならず、彼女は居直って、ムンで命を踏みにじり、汚物をぶつけて学門の命を傷つけて地獄に落とそうとした。彼女は物理学に対して「死んでほしい」と笑った。彼女がファッション雑誌を読んでいるときにマハトマ・ガンジーの話は「無理」だろうし、彼女がソーシャル・ゲームに耽っているときにボブ・ディランの歌声は「ピンとこない」だろう。彼女が「かわいい」インフルエンサーの踊る動画を観ているときに、吉田松陰の話を聞かされても、彼女は「は? キモ」としか思わないだろう。
彼女にとっては命の人の何もかもが「無理」だし「ピンとこない」のだ。ただし、<<彼女が「傷つく」場所から遠いときはそうでもない気がしている>>。彼女は自分が傷つく場所から遠いときは、勉強もしてみたいと思っているし、聖なるものはあると思っているし、本当に感動することはあると思っていて、また本当の恋愛や青春というようなものにもあこがれを持っている。すべて、彼女が傷つく場所から遠いときに限られるが。
先ほどのクイズの回答を示す。同じ物理学の説明を聞いて、ピンとこなかった、さしあたり理解は無理だった少年Aは、そのとき何をしていたのか。そのとき彼は "傷ついて" いたのだ。物理学の初歩は、初歩のくせに自分にとっては関門と思えるほど手ごわかった。スイスイ理解できるような容易なものではなく、また、スイスイ理解できるような天才的な知能の持ち主では自分はなかった。彼はその傷つく場所に立ち、傷つくということを選んだ。「我慢」で手当てするということを選ばなかった。彼の心境を描写するなら単純に「とほほ」の三文字で済む。だがそのとき彼は、若い時間の、若い季節の中におり、窓から吹き込む若い風になぶられている。黒板に書かれた単純な作図に、tやらvやらが添えられている。すべてのものが彼を呼んでいるように視えているのだが、彼は若いのでそのことに気づかない。気づかないままただ呼ばれている。彼がこれから勉強するにせよ、聖なるものに出くわすにせよ、本当に感動することがあるにせよ、本当の恋愛や青春というものに出くわすにせよ、彼はそのすべてに傷つきながら生きていくのだろうなという予感に満ちている。彼自身、そうして傷ついて生きていこうということをすでに無自覚に決定しているのだ。
人は本心からムンを愛しているわけではない。自分からムンとした音と気配が出ることについては、もともと違和感を持ち続けているものだ。けれどそれらもすべて、「傷つく」場所から遠いときだけ。自分が「傷つく」場所に立たされる瞬間、あるいはその直前の手前、あいまいにしていたすべては投げ出されて本性をあらわし、自分はすっかりムンの使途だということを明らかにする。どれだけ命の側を信奉しようとし、またそのように言い張り、ムンの側を汚物のように言おうとしていても、自分が「傷つく」場所に置かれそうになった瞬間、すべての手のひらを返し、すべての馬脚をあらわして、唐突な、それでいてけっきょくはその予定だった、「居直り」を起こす。そして、その「命」とやらに汚物をぶつけてその権威を否定し、地獄に叩き落とそうとする。その「命」とやらが傷つけばいいのだ、それだけで自分は傷つかずに済む。
ムンの本性はここに現れ、ここでこの人はムンであると最後の定義が為される。ここまでくれば、ついにすべては単純な話、<<自分が傷つかないために、命を身代わりに傷つける>>というだけだ。少女Bは、これまでの物理学者のすべてを汚物入れに放り込めば、自分が傷つかずに済むわけだろう。われわれはそうしたことをそのときは平気でやるし、そのときは「それが正義でしょ」と声高に言うのがムンだ。
学門やら、聖なるものうんぬん、感動、恋あい、青春、そうしたものを汚物入れに投げ込むという人を探すのに、いまわれわれはそんなに苦労するだろうか。そうした命のものを大切にしているというのはウソだ、それがウソだというのは、われわれが「傷つく」場所に立たされそうになったときに急遽あきらかになる。自分が学門の命から遠く、聖なるものの命から遠く、感動、恋あい、青春、そうしたものの命から遠いとき、われわれは自分が傷つかないようにすべてのそれらを汚物入れに放り込む。「だってさあ」とそのときは正義を高らかに言う。それがムンだ。汚物入れに放り込まれたすべての命は深く傷つくが、そのぶん自分は傷つかずに済んでへっちゃらだし、ムンの本音を言えば、
「わたしに傷つけって言うの!? そんなのぜったい無理だし、何言われてもピンとこない、とにかくわたしじゃない命が勝手に傷つけばいいんです、わたし知りません! なんでわたしがその命とかいうもののせいで傷つかなくちゃいけないわけ? 命だか何だか知りませんが、率直に言って死ねとしか思いません!」
というところなのだ。
こうして完全なムンができあがる。
ムンの本性とは何だろうか。ムンの本性はけっきょく、「命が傷ついていることを知らない」ということに尽きる。ムンは<<命が傷ついているということ、命がこれまで傷ついてきたということを信じない>>のだ。
ムンは自分が傷つくことを完全に拒絶してきた。傷つくということには「我慢」の手当てをして対処してきた。当人がそれだから、命の側が手当てもなしにそのまま傷つき、ずっと傷ついているということが信じられない。信じようがないのかもしれない。少女Bは少年Aが堂々とそこで傷ついているということを知らないし、そのように信じることもできない。
少女Bが別の場所にいて、自分としては傷つく場所から遠ければ、テレビ番組を観ている視聴者のような安全な気分で、「少年Aは堂々と傷ついて、勇敢だよ」と言えるかもしれないが、自分が同じ場所に立たされそうになったとき、すべての偽装は吹き飛んでムンの本性が出る。
説明をいったん中止して、わたしからの話をしよう。命が傷ついていることを知れ。それだけですべて済むことだ。あなたがこれまで避けようとしてきたすべてのものについて、命が身代わりになって傷ついてきたのだ。そのことを知れば、あなたも今さら自分が傷つくというようなことに「なあんだ」と思うようになる。たとえ震えながらでもあっても。そういう勇気を当然とした魂を得る。これまでに先に傷ついてきてくれた命があるのだし、これまでに命が傷ついてきた量に比べれば、あなたがこれから引き受ける量などまったくたいしたものではない。あなたがそのていどで震えるあなたであったとしてもだ。
傷つく場所に立つとき、「あの人と同じ場所に立てた」と思うようになる。「あの人」というのは、人によって誰のことかわからないし、特定の「誰」ということではないのかもしれないが、とにかく命の人だ。「あの人」と同じ場所に立てたと思うようになり、その場所に立ったとたん、世界が現れて、自分が世界によって護られているということを知るようになる。あの人と同じ世界に自分は立っていて、あの人がそうであったように、自分もこの世界に護られている、「あの人と同じ世界にいて、同じ世界に護られている」と、その傷つく場所をむしろ栄光に思うようになる。あの人が先におらずに、自分が単独でこの場所に立って切り拓くということはきっと不可能だったろうけれど、ただ「あの人と同じ場所なんだ」ということであれば、それだけで急に話は「やれる」という思いに満ちる。そしてむしろ、その場所に立たず、あの人と同じ場所に立たず、あの人と同じ世界に護られずに、自力で生き死にのバトルだけ繰り広げてけっきょく死ぬということのほうが、どれだけ無謀で勝ち目がないかと思うようになる。あの人と同じ場所に立たずに、ただ生死をやりくりしてどうなる。どれだけリアリストふうに、「生きるか死ぬかよね」と昂って言い放ってみたとしても、けっきょく衰弱して死ぬんじゃないか。それよりは、あの人と同じ場所に立ち、あの人と同じ世界に護られるほうがどれだけ理知的で安らぎを得るか、あなたは自然にそう考えて自然に笑うようになっている。
傷つくといっても、ほとんどは「とほほ」の三文字で済むようなことでしかない。まさかそれを避けるために、傷ついた命をさらに傷つけてことごとく汚物入れの中に放り込むというのか。そんなブッとんだまねがよくできるな。自分が傷つくことだけ針小棒大、大山鳴動して鼠一匹、自分が1傷つくのが百億の騒動で、そのために命を百億傷つけることは、あなたにとっては1の騒動でしかないということか。そういうことなのだろうな。本当の本当に、これまで命が傷ついてきているということを知らないのだろう。
いまわたしが話していることを、あなた自身がとうぜん同じように、あなたの話としてゆきますように。
説明を再開する。ムンとは何であるのか、命とは何であるのか。そのことは最大まで単純化すると、
・命は傷ついている
・ムンは我慢している
と言える。
それで、ここまで入念な説明を経てきてもなお、あなたがじっさいに直面する矛盾と閉塞はきっと、
「傷ついたとして、それを "我慢しない" というのが意味わからないです」
という文脈で現れてくるだろう。
どうしたってムンが出てくるのだ。ムンを隠すぐらいしかできなくて、けれども隠すといっても、そのムンという音はもちろん周囲のすべての人に聞き取られている。自分の内部にも響き渡っている。
命が傷ついていることを知れと言っても、そのときのあなたからは、
「わたしも傷ついています!」
という反撃が湧いてきてしまう。
唯一の違いだけ覚えておくべきだ。そのとき命はムンとしていないが、あなたはムンとしているということ。
あなたはむしろ、命がムンとしていないがために、命は傷ついていないと誤解している。
その誤解が消えるとき、つまりあなたが、命が傷ついているということを知ったとき、このムンにかかわる騒動は終わる。
「あなたは傷つくままにいたから、こうも静かだったのですね」
命はこれまでに一度もあなたに死ねなんて言わなかったのに、あなたはどこかで「死にたい」と思ってきた、その誤解の謎が消える。
あなたに死ねと言いつけてきたのは、あなたの所属する軸だ。あなたの所属軸の翻訳だ。つまりあなた自身の声があなたに「死ね」と聞こえていたのであって、命の側はあなたに死ねなんて一度も言っていない。命の側はずっとあなたに「生きろ」と言い、あなたの死ねの声を消し飛ばそうと懸命だった。
偶像を崇拝してそれを模し、「かわいい」なんて作らなくても、命はずっとあなたに「かわいい」と言い、「生きろ」と言い続けてきた。
命があなたに死ねと言いつけたことは一度もなく、むしろあなたが命に向けて、これまで「死ね」と言いそうになって、それをずっとこらえてきた。しばしば汚物をぶつけることはやめられず、その中でもどうしてか、それに向けて「死ね」と言ってはならないという最後の直観が、あなたをぎりぎりがけっぷちに留めてきた。
もう崖から落ちてしまった人も多い。
臨床心理学者のユングは子供のころ、神の大便(糞尿)が天空から降り注ぎ、地上の大聖堂をこなごなに打ち砕くという夢を見た。そのことになぞらえていえば、あなたはむしろ、命から汚物を投げつけられるほうが、一瞬「ありがとうございます」と言いたくなるという、魂の直観を持っているではないか。なぜ汚物を下されてあなたは「ありがとうございます」と言い出しかねないのか。それはその瞬間、あなたがムンから解き放たれるからだ。汚物を下されるというような露骨なときにだけ、吾我の驕慢がスッと消失するからだ。我慢スコアで膨張したあなたが消えて、ふと、世界に護られているようなあなたを一瞬体験するからだ。もちろんそのとき、あなたは自分に与えられた命の汚物を、まったく汚物だなんて思ってはいないわけだけれど。そのときの千載一遇の「ありがとうございます」をあなたは取り逃してはいけない。
あなたが恐れるべきことは、いまはすんなり読めているこの話が、いつかの先、読み返しても、
「ぜんぜんピンとこない笑。というか、こういうの無理。途中で飽きる」
と体験されることなのだ。居直るムンはピンとこないことを威張る。そうして居直ったムンが最後のムンだ。ムンはもともと命に対抗するために発明されたもので、その最終目標は当然ながら、「命」を下方に置いて「死ね」と言いつけることにある。そのことを為し遂げたとき、彼は完全なムンになったと定義される。
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