No.421 来年はきっと、くっだらないエッセイでも書こう
今年も恒例の大晦日コラムだ。
なんとなく、一年の締めくくりに、書こうかなという気分になるのでいつも書いていただけなのだが、どうやらこれをけっこう楽しみにしてくれている人がいるらしく、そうして期待されてしまうと、応えないわけにもいかない。
おれも逆の立場だったら楽しみにしてしまうだろうしな。
いつもクリスマスになると、おれはあるゲーム動画を楽しみにしている。「儀式の人」という通称で有名な、アカウント名 BIG SARU という人が、メタルギアソリッドというゲームのプレイ動画をあげてくれるのだ。クリスマスをネタにして。
「儀式の人」のプレイ動画は、むかしも今も、拍手するしかないようなユーモアとアイディアにあふれている。
メタルギアシリーズをやった人にしかわからないことだが、やったことのある人なら、観ていて「ええええええええ」と、本当に声を上げてしまうような、奇想天外なネタプレイを見せてくれるのだ。
どういう人なのかは視聴者の誰も知らない。ゲーム動画のみがアップロードされるし、これまでに一度も自己PRのようなことがないからだ。
「儀式の人」は、こんにちにおいて極めて希少な、本当の作家だと思う。メタルギアプレイ作家、あるいはそれ以上の何かだ。
なぜ「儀式の人」と呼ばれるかは、まあ、気にしなくていい。
まったく敵兵から隠れるつもりのない恰好で、たいまつを持ってダンスして敵兵を待ち伏せするので、そのさまが何か狂気の儀式のように見え、それから誰ともなくそのプレイヤーを「儀式の人」と呼ぶようになった。
「儀式の人」のプレイは、「どんだけやりこんでんだよ」と、いつも呆れさせられるが、それ以上に、「このことってこんなにやりこめるのか」と、何か虚心坦懐にさせられるのだ。
どこか粛然とさえさせられる。
ここまでやれるんだな、ということと、やっていることは一般的にはバカバカしいことなのかもしれないけれど、すべてを通り越して「圧巻でしょ」と思わせる、その説得力に、冗談でなく、おれはこころが改まるのだった。
尊敬する作家の中に、大江健三郎と、儀式の人も入れてしまおうかなと思わせられる。
おれもけっきょく、根源としては、そういう奴になりたいし、そういう奴でないとダメだと思うのだ。人から評価されるというようなチャチなことではなく、「圧巻でしょ」と思わせて、それが済んだらもう立ち去ってしまうというような奴。
おれは「儀式の人」のクリスマス動画を楽しみにしているし、そうして人に楽しみにされるというのはスゲーことだと単純に知っているから、おれ自身、この大晦日コラムもけっこう人に楽しみにされているらしいということも、けっこうスゲーことだし、すばらしいことだと思っているのだ。
評価される、というのはどこか気色悪いのでおれの皮膚感覚には合わない。
楽しみにされてしまっている、ということであれば、それはいいことじゃん、それでいいじゃん、とおれは素直に思うのだった。
しかし、今年の大晦日は、きのうまで大急ぎで大型コラムを書いていたのもあり、魂を使い切っていてフラッフラだ。
いいかげん、あの分量のものを「コラム」と呼び続けることに無理があると思っている。別に無理があってもかまわないけれど。
コラムというのはふつう、あの分量のあいだに挟まれる小さな独立記事のことを言うのであって、印刷して冊子になるようなものをコラムとは呼ばないし、その一冊の中に新しい理論体系を組み立ててあるようなものを、やはりコラムとは呼ばない。
いまおれが書いているものも、コラムというよりは、本当はエッセイなのだと思う。
きょうび、「エッセイ」なんて言い方じたい、みんなで忘れてしまったけれど……
指がしんどい。タイピング専用の、リアルフォースという高級キーボードを使っているのだが、それでも大量にキーを撃ち続けていると、単純にいって指がしんどい。おれのキータッチは静かなほうなのだが、それでもしんどいものはしんどい。これは言ってみれば、指先の「長距離種目」みたいなもので、しんどいものはしんどいのだ。
おれは早打ちの訓練をしたことはないが、それでも、タイピンクのウェブサイトで計測してみると、やはりSランクが取れたりする。
そりゃあな、こんだけずっと書いてりゃな。
友人と、
「年間、何文字書いたんだろうな?」
という話になり、さっきちょっと調べてみた。
だいたい二百万字ぐらいじゃない? と話していたのだが、集計してみると、なんと「ぴったり」と言っていいぐらい、二百万字だった。
ブログ記事を、この一年間で、744件書いている。それだけで百五十万字ぐらいある。
その他、「ムン」も書いて、「あなたは本人でいてください」も書いて、ウェブには公示していない小説も書いて、ちょこっとだけ別のコラムもあるから、それらを足したらちょうど199万4千字、と表示された。
だから、本当にちょうど二百万字だ。
原稿用紙にして5000枚、文庫本なら3333ページぐらい。
一日あたりだいたい5500字ぐらい書く、ということになる。原稿用紙14枚ぐらい。
おれは、生きているあいだに一億字書こう、という、何の狙いもない目標を持っているのだが、どうも思ったより一億字はキツいのかもしれない。
いや、そりゃキツいだろ。
今年書いた分量を、連続五十年間やらないと一億字にならない。
うーん、途中でもう、「あああああああああああああああ」みたいなことをしないと、一億字は無理なのかもしれない。それで一億字を達成されても、高級キーボードがかわいそうだ。
だいいち、一億字を達成したからといって、何のメリットがあるわけでもない。
それに、あれだ、あまり言いふらしたくはないのだが、何かおれがこそこそやっているワークショップとやらで、そちらのほうでもある種の「作品」を蓄積しているのだ。参加者のプライバシーがあるので非公開だけど。
そっち方面では、スタジオで動画撮影して(わざわざ一眼レフとガンマイクを使っているんだぞ)、寸劇形式で短い作品を創作する。しょーもないネタのものもあれば、いちおうちゃんとした寸劇だな、というのもある。
そっち方面では、今年どれぐらい作品を創ったのかな、疑問に思っていたら、参加者のひとりが、271個です、と報告してくれた。
ごく短い寸劇とはいえ、271作品というのはけっこうな数だ。すべてオリジナルの新作で、毎週、その場でテキトーに考えて作るのだ、前もって準備なんかしていない。半分がたは、参加者の人が提案するモチーフを受けておれがその場で作るというようにするので、前もって準備なんかしようがない。
つまりおれは、今年、二百万字を書き、271個の寸劇を創作し、ヘロヘロになって毎週のように温泉に行った、ということになる。
ワークショップ方面では、半分は身体操作で、関節の解放や、柔術や合気をやる。
そんなもの、おれは誰にも習ったことはないのだが、なんか知らんが Youtube を観たあとに公園に突っ立っていたら「なんかわかってきた」となったので、おれが教えているのだ。
なんでこんな話をしているかというと、おれは、今年はきわめて例外的に、
「2023 年は、おれは頑張った」
と言いたいのだ。
おれはこれまで自分が「頑張った」と感じたことは一度もない。
が、例外的に、この 2023 年はおれは頑張ったのじゃないかと思うのだ。
正直、これ以上はもうムリだぜ、と思えるぐらい、おれは頑張ったように思う。
何をどう頑張ってきたのかは思い出せない。
何をどう頑張ってきたのか、振り返って年末を締めくくろうと思っていたのだが、きのうまで大型コラムを大急ぎで書いていたので、その振り返るという時間も取れなかったのだ。
きのう、夜の八時ぐらいに校正をしていて、ハッと気がつくと寝落ちしてしまっていて、
「しまった、大晦日になっちゃった!」
となり、きょう現在のこのコラムに続いている。
おれの思い描いていた優雅な年末はけっきょくまったく得られなかった。
おれにしては珍しく、本当に、この 2023 年は頑張ったのじゃないかと思うのだ。
もちろん、ここで話している「何を頑張ったか」については、説明して伝えられるぶんだけであって、説明しようのないことについても、なんやかんや、とにかく頑張ったのだ。珍しいよなあ。
そりゃあな、文章を頑張って書くのではなくて、何かを頑張っているから書くべきことが見つかるのだ。文章を書く以前に、何かをやっていなきゃ書くことがねえよ。
それで、じゃあ何をやっているのかというと、それはもう放っておけや、ということになるのだった。説明なんかできないし、どうせ説明したって伝わるようなことじゃない。
藤井聡太が「頑張った」として、われわれが目撃できるのは「対局」で頑張ったところだけだ。そしてその対局で頑張れるということは、その背後に、もっと大量の「頑張った」があるのだろう。そちらは説明できないし、していられない。
もちろん、そこは説明しなくても、まともな大人なら「そりゃあな」と察しがつくでしょというところだ。
そこの察しが、どれぐらいの確からしさでついているかということが、人それぞれの大人ぶりの、尺度なのだと思う。
珍しくまともなことを言ってしまった。
古い映像の中で、古いアメリカ人のマジシャンが、観客に向けてニコニコしながら手品をしているのを見ると、おれなんかは青ざめてゾッとしてしまう。
どれだけ練習してきているかが察せられるからだ。
それはもう、練習というようなことではないのかもしれない。ずっとそのことの中を生きていて、しかもそのことにシビアだからこそ、いっそ客前では本当にリラックスしてニコニコしているのだ。
客がキャーキャーよろこんで、笑ったり驚いたり、自然体で過ごしているのを見ると、それに反比例しておれは恐怖するのだった。「どんだけやりこんでんだよ」と……
あ、初めの話に戻ってしまった。
おれは 2023 年は、まったく例外的に「頑張った」。
おれ頑張ったよなあ、と、じつは二週間ぐらい前から、友人らにはなんとなく吹聴してまわっている。
大晦日コラムにもそのことを書こうと、前もって思っていたのだ。
それが今日になって、なんでか知らないが、どこへともなく消えかかりつつあるのだけれど。
なんで消えるんだよ、書くことなくなるじゃん、ということで、消えてしまう前にあわてていま書いているのだった。
なぜ消えるのだろう。それはひとつには、きのうまでを詰めすぎて、もう今日がヘロヘロになっているからというのもあると思うが、もうひとつ、やはり大晦日だからなのだと思う。
大晦日というのは、ヘンな一日だ。どうしても今年を振り返って総括をしたくなるのに、気持ちはいつのまにか来年に先立ってしまっている。
いまこの瞬間、今年の一年間がいちばん大切なはずなのに、それが消えていってしまう……
このことによく似た感触の現象に、おれはこころあたりがある。
ずっと前、おれが大学生だったころ、おれはアホ合唱団の指揮者をしていた。
それで、最後の演奏会が終わったあと、翌日の反省会をもってその部活動は卒団となるのだが、演奏会が終わった直後から、おれはすでにおれの手から、そのとき無理やり掴んでいた指揮者の能力が溶け出していくのを感じていた。
そのときのおれに、指揮者の才能があったことは疑いない。自慢したいわけじゃない、ただ事実なのでもういちいち弁解しなくてもいいだろう。あの厳しい指揮法の専門家S先生でさえ、「思ったよりサマになっている」と、そのことはしぶしぶ認めたんだから……
が、それにしても、何の音楽の素養もない、ヘ音記号も読めないおれが、一年間でそんな高みに到達するということにはいかにも無理があったのだ。無理やりおれはそこに到達していた。そして強引にそれを掴んでいた。おれは当時、アコースティックギターの演奏を脳内でオーケストラに変えていくことができる、というような状態にあった。アルコールで大脳をバグらせて、違法改造のオーバークロックみたいになっていたのだ。
それが、最後の演奏会までやり抜いて、もう細胞が「やりきった」ということを知っていたのだろう、そのときから急速に、おれの無理やり掴んでいた超能力のようなそれは流出していくのがわかった。それが溶け出していくというのがなぜか直接の感覚でわかったのだ。
おれはそのとき、
(おいおい、これはまずい、せめて明日まではもってくれよ)
と真剣に焦ったほどだ。反省会でもいちおう、振り返って儀式的な演奏はするんだから。
じっさい、その翌日の反省会では、おれの指揮者ぶりは「ぎりぎり」もったという感じだった。
ちょっと大仰な話になるけれど、その溶出していく感覚、消えていってしまうという現象は、何かを本当に「ものにする」ということにおいて、むしろ正しいプロセスなのだと経験から思う。
学生時代、おれの指揮者としての超能力は、演奏会の直後からもう溶出しはじめたのだけれど、それですっかり失われてしまうかというとそうではない。
その溶出から十年かけて、つまり十年後、おれは当時に何を掴んでいたのか、こんどははっきりと確かめながら、それを手にすることができたのだ。
おれはそのことをよく、次のように説明する。
二十五歳までに奇蹟を体験しろ。
そのときは奇蹟だった。
三十五歳までにそれを自分の「当然」にしろ。
あのときは奇蹟だったが、十年後には、それはもう「当たり前だろ」になっているべきなのだ。
そしておそらく、四十五歳になったら、それを二十五歳の誰かに分配できるようになっていなくてはならないのだ。
ふたたび、次の二十五歳が奇蹟を体験できるように、それを分配できる大人になっていなくてはならない。
そこまでいって、きっと、人はそのことを本当に「ものにする」ことができたのだと思う。
その途中で、一度「消えていってしまう」ように体験されるのは、プロセスとしては正しいことだ。
そのあと自分がそれを掴みなおせないと、それは本当に消えたまま、失われてしまうけれどね。
別にそれが失われてしまうのは、それはそれでかまわないのかもしれない。あのときのことはあのときのこと、いまはいま、ということでもよいのかもしれない。
が、それでは、年を取ってから「やること」がなくなってしまう。
二十五歳で、奇蹟を体験できないなら、二十五歳の「やること」がない。
三十五歳で、かつての奇蹟を「当たり前だろ」にできないなら、三十五歳の「やること」がない。
四十五歳で、これまでの「当たり前だろ」を、若い人に奇蹟として分配できないなら、四十五歳で「やること」がない。
おれはこの 2023 年は、めずらしく自分で「頑張った」と言い張っているのだが、それは少なくとも「やること」があったということだ。
うーん、そんなこと言うと、「やること」はじつはいくらでもありすぎて、これだけ頑張ったのに、やりきれなかったことは無数に残ってしまった。かといって、サボっていたわけではない。むしろ、もしいまからタイムマシンに乗って一年前に戻ったら、もういちど 2023 年をここまで頑張るのは無理だ。何かうまく説明できないが(もう溶出が始まってしまってるので)、とにかく、何か空前絶後の一年間だった、ということだけが確信として残っている。
まさかおれが、こんなに自分のことを「頑張った」なんて言い張るときが来るなんてな。
ワークショップ方面で言うと、たとえばこんなことがあった。ある小柄な女性が、いつもどおり夜勤で職場に行ったところ、何をトチ狂ったのか知らないが、見知らぬジジイが同僚の女性に馬乗りになっていて、その顔面を殴りつけていた。武器は持っていないが、暴行によって少なからず流血沙汰になっている。(個人情報にかかわるので、詳細は控える)
とりあえず、とんでもない状況で、非日常の、暴力の状況だ。ふつうなら凍り付くか、「キャー!」というところだろう。暴行犯はジジイだが、ジジイといってもそこまで高齢者ではない、そこそこ体力とガタイのあるジジイだ。
彼女がエッと思って現場を注視すると、ジジイは彼女のほうを向きなおり、その目線が合った。
そして驚いたことに、目が合ったとき、彼女はその暴行犯に怯むことがなかったのだ。彼女は穏やかなまま近づき、「まあまあ、まあまあ」となだめにかかった。
「むしろそのとき、そいつのほうが怯んだ、というのがわかったんですよね」
というのが彼女自身の談だ。
そして彼女は、「まあまあ、まあまあ」と、なだめるようにしながら、何をどうやったのかは彼女自身も覚えていないのだが、気づいたときには彼女はその暴行犯の腕を取り、床に組み伏せていたそうだ。もちろんジジイは暴れるはずだが、彼女はおれのところで身体操作その他をそれなりに叩きこまれている。
すると、ジジイは動けず、組み伏せられながら、むしろ彼女のその力強さを称賛さえしたというのだ。
そんなとんでもないことがあった。
こうしたことは、さすがにおれもあるていど自慢していいと思うのだが、さしあたりおれが教えていることはマジで機能しているのだ。しかも当人が自覚できない次元で。
彼女自身、なぜ怯まなかったのか、なぜ相手が怯んだのか、なぜ相手が怯んだのがわかったのか、いつのまにどうやって組み伏せたのか、自分でわからないそうだが、そうしたことはまったくそういうものだと思う。日常のことではないのだ、日常の中で想定したことや努力したことというのは非日常では機能しない。
彼女はどちらかというと、おれが教えている身体操作については優等生ではなく、「わからない、ぐぬぬ」といつもくやしがっている側なのだが、その当人の自覚とは異なり、おれが教えていることはちゃんと彼女の魂と肉体へ届いているのだ。
小柄な女性が、ひとりで、暴行ジジイを無傷で組み伏せたというようなことは、それだけ聞いたらまるで武勇伝のように聞こえる。が、じっさいにはそうはならない。
ここから先は、彼女の談ではなくおれが知っていることだが、そのとき彼女が何をどのようにしてその暴漢を組み伏せたかは、彼女にもよくわからないし、彼女の周りの人にもよくわからないのだ。周りの人たちにとっても、その現場の出来事は「よくわからなかった」という捉えられ方になっている。だからこの件で周囲が彼女の武勇伝を称えるということは残念ながらない。
そういうものなのだ。そういう非日常での「ホンマモン」は、
「あれ? いま、何がどうなって、こうなったの」
「さっきまで暴れていなかったっけ? 何がどうなったの」
というふうにしか認識されない。
どうやって組み伏せるか、どうやって組み伏せたか、認識できないからこそ、そのジジイも抵抗できずにそのまま組み伏せられてしまったのだ。認識できるものなら膂力で暴れて振り払ったに決まっている。
何もされていないし、何も起こらなかったように感じられるから、お互いに「あれ?」というままで、気がつくともう組み伏せられていたのだ。だから周りの人からも「何も起こっていない」というように見える。
だから残念ながら武勇伝は残らず、事件として記憶されるのはそこでケガをしてしまった同僚のことだけだ。でもそれでいいじゃないか、それ以上の凶悪事件にはならずに鎮圧できてしまったのだから。
彼女が「どうやって組み伏せたかわからない、まったく覚えていない」というのは、もうその現場ですぐに溶出が起こったということ。その場で消えていったということ。
何かを本当に「ものにする」というプロセスはそういうものなのだ。
今年は、本当に、おれは頑張ったと、珍しく威張ってもいいんじゃないかという気がする。
以前に話していた、某女性も、本当に司法書士に合格したしね。
なんともすごい一年間だった。おれの文学の師、大江健三郎が死去し、おれの生命の師、ムツゴロウこと畑正憲さんが死去し、おれのしゃべりの師、上岡龍太郎さんが死去した。おれの師匠の巨大なところがいきなり他界するという衝撃の一年だった。特に大江健三郎とムツゴロウさんは、おれの青年期から壮年期を根本的に決定さえしたおれの先生だった。もちろんだからといって喪に服すというような気分はまったくない。どちらもそんな陳腐なことを発想する人ではなかったわけだし。
ただ、大江健三郎が死んだとき、ムツゴロウさんが死んだとき、おれはどうしていたか、
「おれは頑張っていた」
とたまたま言えるめぐり合わせになったことを、ありがたく思っている。
生き返ってくれてもいいけどね。
いまさら生き返るまでもないような人たちとは重々わかっているけれど。
***
大晦日の無礼講として、投げやりに言い放つけれど、やっぱりロシアとウクライナなんか戦争しないほうがよかった。イスラエルとパレスチナ(ガザ)も戦争しないほうがよかった。ジャニーズもジャニーズのままがよかった。いろいろ事情があるのは知っている。おれは戦争反対と言っているのではなく、いろいろな事情も含めて、その事情ごと「ないほうがよかったね」と言っているのだ。このド年末に、話なんてそれで充分だろう。
ふだんのおれの書き話しは、警鐘に満ちている。それはもう、警鐘のヘヴィメタルと言ってよいほど、警鐘を鳴らしまくっている。ツーバスでガンガン警鐘を打ち鳴らすわけだ。ボコボコボコボコ。
なぜ警鐘を鳴らしまくっているかというと、そのほうが少しでも役に立つだろ、と思うからだ。何の役にも立たないものを人は読まない。それってけっこう大事なことだと思うぜ。自分が生きるのをやめていない人は、何かしらの形で役に立つものを読むものだ。役に立つものなら読むものだ。自分が生きるのをやめてしまった人は、もうグズグズのマンガ・アニメしか摂取しないかもしれないけれど。
という、そんな言い方も警鐘に満ちているわけだ。
少しでも役に立つように書く。そのことは、誤りではないけれど、いっぽうでなぜか、来年はくっだらないエッセイでも書きたいなあと思っている。なぜかというと、おれは警鐘を鳴らしながら、さまざまなことに否定的だけれど、意外に悲観的ではないからだ。たとえば、若い男女は、自分を韓国っぽくメイクしたからといって、うつくしくなるわけではないし、充実するわけでもない。「いいね」の数は増えるかもしれないけれど、それはじつに意味のないことだ。そのことには警鐘をいちおう鳴らしたほうがいいんじゃねえの、と年寄りくさいことを思う。
別に韓国のことをバカにして言っているわけではない。そりゃ韓国の若い人だって、まともな人は、メイクどうこうでうつくしくはならないし充実はしないだろということを、当然のこととして知っているだろう。
そしてそんなことは、Z世代やら何やら言われるけれど、若い人も知っているのだ。自分をアイドル風味にしたら幅を利かせられるようになるし、スケベダンスであざとくすれば「いいね」を稼いであるていど不労所得につないでいける、そういうことも知っているけれど、いっぽうで、そうしたことはじつに意味がないということも、若い人たちは知っている。そのことを知らない人は、世代ではなくてただのアホの人だ。年齢は関係ない。年寄りでも思春期でも同じだ、ただアホな人だけがそのことに「意味ないよね」ということを知らない。
若い女の子はたしかに、アホの前ではじつにアホみたいになり、たしかに自分を韓国ふうにすることにしか知能がはたらいていないように見えるが、おれの前では案外そうでもないのだ。コーヒー買ってこい、とおれが言いつけたら、うろしそうにぴゅーっと買いに行く。そのとき自分に何が起こっているかについてはまったく自覚がなく、その意味では経験不足的にアホっぽく見えるのだが、それは成熟していないというだけであって、魂・肉体的な反応としてはアホではない。生後半年で走り回るだけのレトリバー犬のことをアホとはいわない。ドッグランがあれば走り、ボールを投げられたら走り、周囲の何もかもが「楽しいのではないか」と見えているだけだ。うーんそうして聞くとちょっとアホな気もしてきたけど。
未成熟というのは、OSのファイアウォールがはたらいていないということで、とにかく何でもかんでもに入り込まれるというだけだ。アニメの決めゼリフ、みたいなものもすぐに真に受けるけれど、いっぽうで、「真面目にパタパタ働いている姿がすごくきれいでかわいいからずっとそういうあなたでいてくれ」と言われたら、「えっ本当ですか」と言って、素直に真面目にパタパタ働き続けるというところもある。おっかないおばさんが血眼になって「男女差別は核兵器ダメです!」と言えば「そうですよね」と真に受けるし、まともな男が「女らしくしておれを気分よくさせておいてくれ」と言えば「そうですよね」とそれも真に受ける。ニセ実業家が安ディスコで「ウェーイ」と言えば洗脳されたみたいにウェーイと応じるし、おれが唐突に「日本の歴史」を話しだしたら洗脳されたみたいにまっすぐな目でそれを聞いている。「七百年の時を超えて王政復古し、幕府が出現する以前の帝(みかど)の世界、つまり平安時代に戻ったんだ」
だから、さまざまな風潮や文化傾向について、おれはダメなもんはダメだと思うし、超ダメですオワっていますと一方的に言うけれど、そうして否定的であるいっぽう、悲観的なのかというと、直接の人に対してあまり悲観的ではないのだった。若い女の子が「戦争反対!」とババアに仕込まれるのは超ダメでオワっていると思うが、逆に「宗教的寛容さがない」とまともな人に仕込まれたら、それは超きらめいていてイイと思うのだ。
エッセイというのは、基本的に悪趣味で、気持ちの悪いものだ。近所のおばさんが料理エッセイを書き、近所のおじさんが盆栽エッセイを書いたら、基本的に気持ち悪いだろう。おれは以前、鉄オタ兼カメラおたくのおじさんが書いたであろう、自費出版のエッセイ本を買ったのだが、なぜそれを買ったかというと、路線にかかわる情報が本当によく詰め込まれていたからだ。じっさいに自分で何度も足を運び、蓄積した風景と情報を詰め込んでエッセイにしたのだろう。電車の走行音が聞こえてきそうなほどだった。それは本当の値打ちがあるものだからおれは金額を見ずに買った。ただ、そうしたエッセイが気持ち悪くないかというと、気持ち悪いのはどだい気持ち悪いのだ。けれども、そこはまあ愛してしまえというつもりで、おれはそのエッセイを買い、そのエッセイをしばらく愛読した。どうせ書いた当人と会うわけでもないのだし。
エッセイというのは気持ち悪いのだ。しかし、それはどこかの時点で愛によって受容されるかもしれない気持ち悪さだ。そうではない、受容できない気持ち悪さがあるとすると、それは何か。それはエッセイを読んで「うっとり」する、エッセイ好きの読み手のほうの気持ち悪さだ。たとえば、モナコで買い物に明け暮れているおばさんのエッセイがあったとして、そちらはまだしも、それを読んでうっとりしているおばさんのほうは気持ち悪さとして愛せない。
なぜいまさらエッセイの話をしているか? それは、エッセイは気持ち悪いものだというその一点が、むしろわれわれの実体と課題によく当てはまっているように思えるからだ。エッセイは気持ち悪いものだが、どこかの時点でその気持ち悪さも込みで愛してもらえることがある。それと同じように、じつはわれわれも一人ひとり、どだい気持ち悪いものなのじゃないか。それでも、どこかの時点で気持ち悪さも込みで愛してもらえることがある。
われわれは、自分の気持ち悪さも込みで、愛してもらうしかないんじゃないか。
奇妙な言い方をすると、ここ数十年で、われわれは案外「エッセイから逃げてきた」のじゃないかとも思えるのだった。
いま、ツイッター(X)上で、さまざまなエピソード、言っては悪いが胸糞体験エピソードが拡散されていたり、また、言っては悪いが、どうやら作り話らしいウソ体験エピソードなどが拡散されている。最近はショートマンガふうに表示されていることが多いようだ。ツイッター(X)をまともに使っていないので知ったかぶりで言うかぎりになるけれど。
また、ショート動画や vlog みたいなものも含めて、やれディズニーランドに行きましたとか、流行のショートダンスを踊ってみましたとか、友達と卒業旅行ですとか、流行りの◯◯を食べに来ましたとか、そういうものがとにかくアップロードされている。かわいい女子高生の映像などか添えられているとスケベなおじさんたちがいいねいいねをプッシュしてくれる(気持ち悪りィな)。
じつはこうしたもののすべては、もともと、すべて「エッセイ」で示されるべきものだったのではないかと思うのだ。胸糞体験エピソード、ウソ体験エピソード(エッセイにウソ話を書くべきではないけれど)、ディズニーランドに行ったことや、友達と踊ってはしゃいだこと、卒業旅行、流行の◯◯を食べに行ったこと、それらはすべてもともとはエッセイとして書かれ、エッセイとして語られることじゃなかったのか。
エッセイというのはどだい気持ち悪いものだ。だから、特に若い人から順に、自分が気持ち悪い人になってしまうことを避けて、ショートマンガとショート動画になっていったのだろうが、本来それは避けるものではなく、気持ち悪いならその気持ち悪さごと、どこかで愛してもらう必要があるものだった。
ただしそれは簡単なことではない。エッセイは気持ち悪いものだが、自らその気持ち悪さを含んでエッセイの文体を得ないと、エッセイから自分自身までを愛してもらえるということは起こらない。エッセイというのはその意味で、自分の気持ち悪さに直面する営為になるのだと思う。
だから穿った見方をすると、現代のSNSおよび画像・動画のムーブメントというのは、<<エッセイから気持ち悪さを排除した表現方法>>として広まっていったものなのじゃないかと思う。食材をアク抜きしてから食べてもらうように、自分から気持ち悪さをアク抜きして視聴してもらうというツールを得たということ。
そしてそれによって、現代の若い人は(中年以降はもうええやろ)、アク抜きツールは便利だけれど、気持ち悪さ込みのじっさいの自分を愛してもらえない、というジレンマに陥っているのではないかと思う。ツール上ではアク抜きするように気持ち悪さを消すことができるのだが、じっさいの自分自身からそれをアク抜きすることはできないから。
いまSNSで告発ショートマンガを書いている人がエッセイを書いたらぼちぼちキモいだろうと予想がつくように、スケベダンスを踊っている女子高生も、エッセイを書いたら夢見がちの語彙なしポエムになってぼちぼちキモいだろうということは予想がつく。そしてその予想がつくのと同程度に、やはりその告発マンガの書き手も、スケベダンスの女子高生も、本人の実物は気持ち悪いのじゃないかと思うのだ。だから、彼ら・彼女らが「どだい気持ち悪いエッセイ」に回帰したら、それはたしかに気持ち悪いものになるだろうけれど、その気持ち悪さは本人の実物の気持ち悪さと齟齬がなく、その点では混乱が解決して救済されると思うのだ。
われわれは長いこと、この「自分がどだい気持ち悪い」ということから逃げてきてしまったのではないか。
あるていど古い世代なら知っているところ、いまのウェブサイトより、むかしの手造りの「ホームページ」のほうが、何か本当の意味で面白くて好きだった、という記憶がないだろうか。それぞれが手打ちの html や「ホームページビルダー」で構築した「ホームページ」は、見づらくてガタガタで、要らない演出がついており、そのコンテンツもバラバラで、何が言いたいのかわからず、そもそも何かを言う立場もなく、それでいて何か独特の主張と個性が強くにじみ出ていた。いまさらになってあれは何だったかというと、あれは「エッセイの気持ち悪さ」だったのだとおれは思う。いちおうおれは、当代最高の文学者として、あれはエッセイの気持ち悪さだったんだよと断言しておこう。
なぜあのかつての「ホームページ」は、ああも独特で気持ち悪かったのか。それは、われわれが誰も彼も、それなりに気持ち悪いからだ。それがそのまま露出して「ホームぺージ」になったのだ。それなりに気持ち悪いに決まっている。
けれどもどこかで、それを気持ち悪さごと愛してしまうというところもあった。だから、その気持ち悪いページが更新されなくなったり、いつのまにか 404 になってしまっていたとき、われわれはさびしく感じ、それどころかどこか傷つき、何かを失ったようにさえ感じたはずだ。
来年はきっと、くっだらないエッセイでも書こうと思う。エッセイはどだい気持ち悪いものだ。それは自分が気持ち悪いからだが、気持ち悪い自分でも平気で表示していくというのは、特殊な勇気と経験が要る、じつにおれが担うところの役割だろう?
そして、あなたには言えないことかもしれないが、おれには堂々と言えることがある、それは、
「気持ち悪さも含めて、おれのことが大好きだろ?」
ということだ。そうしたものを、いまさら復興していかないといけない。それこそ、少しでも何かの役に立つだろう。
気持ち悪さも込みで愛されることもあれば、愛されることは決してない気持ち悪さというのもある。その違いは何か? それは先ほど述べたように、こうだ、「エッセイにうっとりする側の気持ち悪さは愛されることがない」ということだ。つまり、ニコニコ動画や Youtube の「コメント」から、われわれは「愛されることのない気持ち悪さ」のほうを養ってしまっている。エッセイの気持ち悪さは愛される可能性があっても、エッセイ読者のうっとりコメント欄が愛されることはないのだ、そちらはずっと単に気持ち悪いままだ。
それで、コメント欄で育ってきてしまった人が、いざ自分のエッセイを示そうとすると、アク抜きツールを挟んでそれをするしかなく、それで現代のコンテンツ環境の様相ができあがっていったということになる。だから現代のコンテンツは、愉しめるし消費できるけれど役には立たない。誰も彼もが気持ち悪くない「ふり」をしている、というものになる。あったら楽しむけれど消えても誰も悲しまない。それがあなたですと言われるのはあまりにかわいそうなことだ。
おれは、来年はきっと、くっだらないエッセイでも書こうと思う。あなたにいきなりのエッセイ回帰はきびしいだろうけれど、おれの場合は簡単なことだ。おれの場合は気持ち悪さより愛が二百万倍勝つんだよ。
というわけで、199万4千字に、この大晦日コラムを足して、200万8千字になった。ちょうど二百万字だ。
みなさまよいお年を、そして来年もよろしく。
[来年はきっと、くっだらないエッセイでも書こう/了]