明治維新が起こるとき、もともとは、旧幕府も含めた連合政権で日本を治める予定だった。
ところが、とつぜん手のひらを返して、岩倉具視が王政復古の大号令を仕掛けた。
それで日本は、律令制、平安時代の、「おひなさま」に段飾りされている世界に戻った。
鎌倉、室町、江戸、と続いてきた日本の幕府政治、軍事政権の歴史七百年は「なかったこと」にされた。
学校では、歴史の試験を課すくせに、日本の歴史を教えたがらない。
それは、歴史を教えるということは、クーデターや革命のやり方を教えるようなものだからだ。
行政がそんなことを自ら進んでするわけがない。
おれは親切なので教えてやるけれど……
クーデター、もっと悪くいって革命ということは、けっきょく手あたり次第に役人を殺す、公務員を殺す、ということに尽きる。
霞が関も、都庁も県庁も、桜田門も市役所も、国会も裁判所も、「見かけた奴は全員ぶっ殺せ」ということになる。そうすれば確実に政権は転覆する。
軍隊・自衛隊ならそのことが最も効率的に、武力的に出来てしまうので、ずっと前から、軍事力はシビリアンコントロールされなくてはならないと言われ続けているのだ。
つまり、「また 2.26 事件になるでしょ」ということ。
軍隊には階級として少将とか中将とか大将とかの「将校」がいる。この将校のことを将軍と呼び、「閣下」つきで呼ばれる。
鎌倉時代から江戸時代まで、征夷大将軍閣下が国を治めていたので、つまり、いまの日本でいえば自衛隊の幕僚長が直接国家を当地していたのだから、軍事政権ということになる。
軍服を着た人たちが、パイプ椅子に座り、襟元には階級章の星が並んでいて、国を統治しているなんて、そんなバカな国があるかと思われそうだけれど、じゃあなんでお前はアウンサンスーチーという名前だけ知っているんだ、ということになる。
時代劇で、ちょんまげ頭のハンサム・ガイが馬を走らせているシーンは、日本が軍事政権に支配されていたころのシーンだ。
鎌倉・室町のころの武士は、荒武者、暴力髭だるまで、通りすがりに女子供を斬ってガッハッハというような存在で、江戸のころからは、武士はサラリーマンになった。
江戸時代のサムライは、兵士というより城に出勤する公務員であって、だから現在でも国家からお墨付きもらった「士」の字をサムライと読む。
話をもとに戻すと、江戸時代の末期、日本は海外の経済力・軍事力に押し入られてしまい、それにどう対処するかということで、将軍側と天皇側で揉めに揉めて、ついに将軍側がギブアップとなり、「大政奉還」ということになった。
鹿児島県と、山口県と、高知県が、頼りない東京都の役人どもをぶっ殺すということになり、東京都が「じゃあもういいです」と言いだして、都庁も霞が関も明け渡し、「もう国の中枢やめました、おわり」と投げ出したということ。
このことはもともと、裏側に根回しがあり、
「これからは、東京がひとりでなんでも決めるのではなく、それぞれの県も加わっての合議制にすればいいよね」
という話になっていたのだ。その前提で、徳川慶喜も政権を放棄するという筋書きだった。
が、とつぜん、そうではないよという声が京都にあがった。
「この国は、合議制になんかならないよ。もともとこの国は誰のものよ? よくよく思い出してみろ、壇ノ浦の戦い以降、お前ら野蛮人が暴力でつけあがっただけでおじゃる」
幕府政権は、合議制に移行などせず、七百年前の律令制、平安京、おひなさまの世界に戻った。
このとつぜんの、いまでいう「超展開」に、怒らなかった殿様はいないだろう。
つい先日まで、殿様として威張っていた人、またその殿さまのもとで家臣として、常に切腹覚悟で威張っていた人に、急に、
「お疲れさんでした、じゃあ就職活動してください」
と言うことになるのだ。
軍服の襟元に星の並んだ階級章をつけて領地を統治していた殿様に、青天の霹靂、「おわり、さっさと就職活動しろハゲ」と。
わたしは、江戸時代をまったく評価しないという立場の者なので、封建制の終わりに対する肩入れはないが、それでもたとえば、島津久光が怒りのままに打ち上げた花火には胸を痛めるところがある。
あの花火は、「殿が花火を打ち上げていらっしゃった」のか、それとも、「ただの無職のおっさんが花火を打ち上げていた」のか。
おれは、封建制を信奉する者ではないけれども、もしその現場で、
「ただの無職のおっさんが花火を打ち上げている」
と言い出す家臣がいたら、おれは問答無用で切腹を申し付けただろう。
おれは封建制を一ミリも信じないが、時代の尊厳までわからないアホではない。
鎌倉、室町、江戸、七百年の武家政権のすべてが「なかったこと」にされる、こうしたことを日本語で「維新」と呼ぶ。
話の組み立てがむちゃくちゃだ。むちゃくちゃなようで、ちゃんと組み立っているからおれの話は不気味なのだけれど、かつて、インターネットが何かしらの維新をもたらすかと思えたが、急に、ネットのほうが「なかったこと」にされた。
なかったことにされた、というよりは、それはやはりもともとから「なかった」のだ。
思えば、ここまで何年間、「ネット」というやつに付き合ってきたのだろう。
誤解があってはいけないので先に言っておくと、おれがこうしてウェブ経由で書き話しを公示することを引き取るつもりはない。だから安心していい。
けっこう多くの人がおれの書き話しを楽しみにし、どこか頼っているところがあるのはよく知っているので、いきなりぷっつりやめたり消えたりはしない。
そもそも、おれはいったんやりだしことを、やめるということはしない。だから安心していい。
あなたがジジイかババアになって読むのをやめたとしても、おれのほうは書き話すをやめてはいないだろう、だから安心していいし、心配するなら自分のことを心配しろ。
堅牢じゃないのはたぶんおれではなくてあなたのほうだから。
なぜ急に、ここまでのインターネット、ウェブメディアのすべては「なかったこと」になったのか? まるで維新に討ち取られたみたいに。
そもそもが存在していなかったのだ。ネットによって一種の感染症は起こる。コンテンツやコメント群は思念機構への感染症を起こす。
が、そもそも存在はしていない。
電子書籍を一万冊保有していても、やはり、本は一冊も持っていないということになるようだ。
いちばん単純に言うと、「手渡す」ことができないものは存在していない。
電子書籍は手渡すことはできない。じゃあわれわれは何にまみえているのかというと、感染症にまみえているだけだ。
存在はしていないのだが、症状だけは起こるということ。
おれの書き話しているこの文章、このエッセイは、あなたにとって明らかに、他のウェブコンテンツとは違う感触と体験を覚えさせるはずだ。
この違いが何なのか、どこに由来するのかが、急にわかったのだ。
おれの書き話しは、書斎で書かれているのだ。
ツイッター(X)で見かけるテキスト群は、書斎で書かれたものではない。
あなたはいま、書斎で書かれたエッセイを読んでいるのだ。
あなたはいま、書斎で書かれたものを読んでいて、その書斎に「集まっている」というような状態になっている。
それで、感覚的にヘンになるのだ。いや、ヘンになっているのではなく、もともとがそういうものであって、現代のそれのほうがヘンなものとして現れたのだった。
そして現代のそれは、現れたように見えて、じつは現れていなかった。感染症があっただけだった。
かれこれ何年間、ネットというものに付き合ってきたのだろう。
ネットは、IT革命をもたらして、維新を行う側に見えたのだが、ここにきて急に逆、維新に討ち取られる側になってしまった。
ネット上のすべては「なかったこと」にされてしまうのだ。それは単に、もともと「なかったもの」が、ついに力尽きたというだけではあるけれども。
免疫が完成してしまって、ついに感染症がいっさい起こらなくなってしまった。
感染症が起こらなくなると、やはり、ネットと呼ばれるようなものはなにひとつ、
「存在していないじゃねえか」
ということになってしまうのだった。
ちょうど、ネットは今、廃藩置県の直後によくわからないで棒立ちしている殿様、みたいな状態になっている。
もう殿様ではないのだけれど、当人は、「いや殿様だろ」と思っている。
これからどうなっていくかというと、すべては忘れ去られていく。
明治時代、殿様に、国民国家とかリパブリックとか言っても、ついになにひとつわからなかっただろうし、そのなにひとつわからない中に殿様はひとり取り残されていったであろうように、ネットもいま、この後は取り残されるだけということになった。
感染症を信じた人たちはけっこう悲惨だ。
感染症を受けただけで、けっこうな障害になるのに、それをまるまる信じてしまった人は悲惨だ。
最も望ましくない、いわゆる「異世界転生」のようなものを体験することになる。
いや、すでに、その体験の入口に至り、絶望で気が狂いそうになっている人も少なくないだろう。
おれは書斎で書いているのだ。
書斎と設定した部屋で書いているのじゃないよ。
本当に書斎があるのだ。
別に喫茶店で書き物をしてもかまわない。そのときは、その喫茶店の、そのテーブルがおれの書斎になる。
「場所」になるのだ。じっさいにやってやってもいいけれど……(最近は、喫煙できる喫茶店が減ったし、あんまり本格的な執筆をしても、ちょっと周囲に迷惑かもしれないからなあ)
あなたが仮に、SNSで文章を発信しても、何かしらの「ネタ」か、あるいは、何かを攻撃する「マジ」の運動にしかならない。
ただの書き話しにはならないし、ただのエッセイにはならない。
それは、書斎で書いていないからだ。
岡本太郎はアトリエで絵を描いていたので、あなたが趣味で書いている絵は、岡本太郎のそれとは根本的に異なるものになってしまう。
かといって、アトリエをレンタルしても、それでアトリエが得られるというわけではない。
感染症に目をつけて考える必要がある。
たとえば、おれが書斎で絵を描いたとしよう。そしておれは、その絵をAさんに手渡した。
それでAさんは、わあっと感激して、
「わたしも絵を描きたい、わたしも絵を描いてみる」
と思った。Aさんは手渡されたそのことに何かを見つけた。
いっぽうでBさんは、ネット上のコンテンツを無数に眺めているうちに、何かしらの絵を見て、その描き方のノウハウやツールも説明されていたのを受けて、
「わたしも絵を描いてみようかな」
と思うようになった。
手渡されることで何かを見つけた者と、感染症でその気になった者は性質が違う。
感染症を信じた人が気の毒なのは、気がつけば、じつは何ひとつ手渡されてはいないということだ。何ひとつ受け取ってきていない。
おれが膨大な書き話しを続けているのは、何かの「ネタ」をやっているわけではないし、何かを攻撃する「マジ」の運動をやっているわけでもない。
ただ、膨大に受け取ってきたのだ。だから膨大に、いくらでも書き話すことが尽きない。
(尽きるわけがない)
書き話す「だけ」ということが尽きないのだ。
膨大な感染症に晒されてきた人は、何かを受け取ってきたわけではないので、じっさいには何をすることもできない。
存在しない感染症を、さらに撒き散らすことしかできない。
そうした事実を、すでにわれわれはネット上でいくらでも目撃できるし、確かめることもできるだろう。
Cさんの正論がバズる。
それに反論するDさんの怪論が、怪しからん人たちにバズる。
そのどちらも、書斎で書かれたものではない。
感染症だけが進行し、症状だけが重くなり、じっさいにはますます何もできなくなっていく。
そこまでの意味を含めてインフルエンサーと呼ぶのであれば、まさにインフルエンサーなのかもしれない。
感染だけをもたらす、純粋インフルエンスだ。
Cが正しいと思う、といっても、感染症としてはDにも同時に感染しているので、もはやどちらが正しいというようなことでもない。
ただただ、CにもDにも感染しました、ということしかわれわれには残らない。
そして自分のできることは、やはり、自分もネット上で感染を広げよう、ということだけになる。
それでさまざまな「まとめ記事」みたいなもののコメント欄は、ただの感染爆発会場になっている。
どれも書斎で書かれたものではないのだ。
それならまだテレビのほうがマシだ。テレビには一定の評価すべきものがあったし、いまも評価すべきものは残っている。
単純にいって、NHKのニュースは存在している。
テレビのよくなかったところは、そのニュースに、コメンテーターなどをくっつけたところだ。
コメンテーターをくっつけることで、ニュースを娯楽番組に転じることができ、つまりワイドショーなるものが生み出されたのだが、これがけっきょく自らの価値を損なうものになった。
ニュースはニュースをアナウンスするだけでよい。
もし、自分から発信したいことがあるなら、自分自身がニュースになるしかない。
自分の発言や発信が、ニュースとして報道されるようになればそれで済む話だ。
ジャーナリストの池上彰さんから、
「この本を書きました」
と一冊の本を手渡されたとき、それを受け取らないアホはいないと思うし、もしそんなアホがいたら、そんな奴はマウナロア火山の噴火口に放り投げるべきだと思う。
CさんとDさんはあなたに何を手渡すだろうか?
CさんとDさんがあなたに何かを手渡すとしたら、それはどちらともただの怪文書になるだろう。
何度も言うが、それは書斎で書かれていないのだ。
怪文書にしかならないに決まっている。
あなたが絶望的に苦しいとき、わけもわからず死にたくなるとき、あなたはたぶん単に、ありもしない感染症世界に取り込まれているのだ。
おれが自宅の台所で、適当に黒砂糖を加熱して、練り上げた黒飴をあなたにやろう。
その黒飴を手渡された瞬間、あなたはすぅーっと、自分を苦しめていた何かから急激に解放される。
<<場所で作られたものを手渡されたから>>だ。
自分がいつのまにか信じ込んでいた感染症世界とは異なるものを手渡されて、ああ、とあなたは目を覚ますのだ。
別に飴玉でなくても、おれが文房具屋で買った消しゴムでも同じことが起こる。
そもそもこう考えなくてはいけない。
あなたに出来ることが少なすぎ、おれに出来ることが多すぎやしないか?
たいてい、あなたよりおれのほうが年上だが、
「それにしてもなあ、いくらなんでもなあ、出来ることの質量が違いすぎる、なんでこんなに違いすぎるんだ」
そう考えないといいかげんおかしい。
おれの書き話しは、組み立てがめちゃくちゃだ。
あなたならもっと、ちゃんとプロットを立ててから慎重に書くだろう。
にもかかわらず、あなたの書く文章のほうがちりぢりで、何を言いたいのか意味不明になる。
おれは書斎で書いているのだ。そして、文章などというのは、わざわざ組み立てなくても勝手に組み立つものだ。
そうか、といって、真似をしてもそうはならないけどね。
書斎で書けば勝手に組み立つものだ。
ただ、あなたの感染症はたいていひどいので、あなたが書斎で書いたとしても、あなたは感染症のあまり、むしろ書斎を破壊するほうにみずからをはたらかせてしまう。
感染症がなければ、どれだけヘッタクソでも、書斎で書いたかぎりは文章は勝手に組み立つ。
「場所」で、「手渡し」ができるものを作れば、それはちゃんとしたものになるのだ。ヘッタクソでもちゃんとしたものにはなる。
ここで、正当かつシビアに言うならば、「場所で作られ、手渡されたもの」に向けて、「感染症で増長したもの」で対抗できると考えたあなたの甘さがいささか悪い。
あなたがいま、中高生とか思春期とかの若さなら、さすがに無理もないことだけれど、そうでない大人の場合、このことにはこころあたりがあるはずだ。
本当には対抗できるはずがない、のに、増長した気分で、自分にも出来るはず、と思ったようなことがあったはず。
ネット感染症は時代の疫病だと思うけれど、それにつけこまれて増長を起こしたのは、われわれひとりひとりの罪業だろう。
感染症の中に答えを探すな。
すべての単純な問題は、おれがこうして、書斎で書き話し、あなたに手渡せるものをこしらえて示しているのに、それに対抗しようとするあなたが、感染症しか持っていないという場合に尽きる。
おれは発想がリベラル派なので、その手渡しできるものうんぬんを、あなたに課すとか、あなたに問うとかいうことはしない。そんなことはおれの発想にはない。
ただ、あなたが混乱し続け、苦しみ続けるのであれば、現象の根幹がアナウンスされるべきだろう。
もしおれがあなたに、この書き話しを印刷して冊子にし、手渡したら、あなたはよろこぶ反面、それが手渡されたということからプレッシャーも受け続けるだろう。
本当は、そんなプレッシャーなんか感じなくてもいいのだが、あなたの内にある野心と誇りがあなたを焦らせずにいないから、じっさいにはプレッシャーであなたがつぶされてしまう。
そのあなたの焦りとプレッシャーは、あなたの中枢が、まだ感染症に支配され切ってはいないということを示している。
あなたは、書斎があって、書き話し、文章を手渡せるものにするというようなことに、引き続きあこがれと尊厳を覚えているのだ。
単純にいって、自分も本当はそういうものでありたいと望んでいるし、そうでない自分のことをみじめで情けなく思っているところがある。
手渡せるものがない自分は哀しいのだ。
おもしろネタコンテンツの URL をシェアすることしかできない自分というのは、本当は哀しいのだ。
そして哀しみのあまり、何かを攻撃する「マジ」の運動家になるのはもっと哀しいと感じている。
もしあなたが女性で、日本社会とすべての男性はクソ、という攻撃をする「マジ」の運動家になったとして、そんなところのあなたに、ふとおれが、
「こういうの似合うんじゃないかと思って」
と、しょーもない簪(かんざし)の一本でも手渡ししたら、そのときあなたはもうわけがわからなくなって粉々にクラッシュしてしまう。
そんなクラッシュの仕方はかわいそうだ。
あなたも島津久光のように怒りの花火を打ち上げるかもしれないが、それについてはやはり、おれは素直に胸の痛みを覚える。
最後にとてもすてきな、まともな話をしておいてやろう。
中高生ぐらいの若い人も、ビビらずに素直に聞いてくれたらいい。
ネットのすべてが急に「なかったこと」にされて、びっくりではあるけれど、まあ王政復古のたぐいだと思いたまえ。場所と手渡し復古の大号令だ。
もともとただの感染症でしかなかったものは、もともと「なかったこと」にされて当然だ。
そして、人は「集まる」のだ。何のために「集まる」のか。
手渡しされるために集まるのだ。手渡しされるために、何かしらの場所に集まる。
そうして集まった人たちのところには熱風が吹く。
おれはいま、そういう単純な話をしているのだが、このことは、すごく若い人にとってはむしろ、斬新な話かもしれない。
そして、すごく若くはない人たちにとっては、「知っています」という気分の、でも本当はすでに失ってしまったことの話だから、やはり斬新な話として聞けるほうがよいかもしれないな、と思う。
書斎で書かれたものを手渡しされるというだけで、あなたはもう何か、砕け散ってしまいそうに感じるところがあるかもしれない。
そのわけのわからないプレッシャーに対し、あなたは逃げ込む先を持っている。
感染症世界だ。
感染症世界に取り込まれているとき、あなたの膝が震えることはない。
あなたの膝が震えることがないということは、やはりそこには、もともと何の存在もないということだ。
便宜上、感染症世界と呼んでいるけれど、本当にはそんなところに世界はないので、本当にただの感染症だ。
現代は、中世と違ってペストに苦しまなくてよいと思っていたけれど、ちゃんと別の形態の感染症が課されるらしい。
そんなところに逃げ込んでもあなたが護られるわけではない。
とても意地悪な仕組みで、存在していないあなたが護られるにすぎない。
いまここに手渡されたものは、あなたを不思議がらせるだろうけれど、もともとは不思議でも何でもないのだ。
感染症が解けたら何の不思議も見つからなくなる。
すべてのことに膝が震えてしょうがない、あなたの当たり前の青春があるだけだ。
急にネットのすべてが「なかったこと」にされて、おれだってちょっとドギマギしたが、その朝の目覚めは、格別でサイコーだった。
それでは、また。
[とつぜん世界がやってきてウェブコンテンツは「なかったもの」にされてしまった/了]