恋愛偏差値アップのコラム









いやらしいオンナにならないために







一月二十一日に、第7回のパーティをやった。結果は、大成功の大盛況。参加人数は15名で、うち14名が朝までオールすることになった。みんな、元気である。元気すぎて、おじさんの僕にはついていけないぐらいだ。

まあでも、後半のダーツゲームでは、おじさんムキになって大人の実力で圧勝してやったけどね。あっはっは。

(あれは大人気なかったね。ゴメンね)

そんなわけで、参加してくれたみなさんありがとう。本当にありがとう。楽しかったです。

↓第7回パーティの模様。今回はリバース君は出なかったな。ちっ。




これからもガツンガツン開催するので、次回以降も参加ヨロシクです。

新規参加の方も、超お待ちしてます。

→次回パーティのご案内はこちら。愛と勇気でクリック。




■セクハラしたら、「いやらしくないですね」と言われた。


今回のパーティで、僕は二十歳そこそこの女の子に、「いやらしくないですね」と言われてしまった。僕は驚いた。

詳しく説明すると、こういう状況だ。

僕はパーティ発起人という立場を利用し、両腕に女の子を抱き寄せて「ハーレムぅ〜、ハーレムだあ〜」と、まあイエスキリストが見ても舌打ちしてゴートゥヘルと中指を突きたてたであろう、低俗極まりないセクハラをしていた。そうして僕が、もう死んでもいいぜと幸せに浸っていたとき、その正面に座ってカクテルを飲んでいた二十歳そこそこの女の子がこう言ったのである。

「……なんか、そうやってても、あまりいやらしくないですよね」

言われて僕は、愕然とした。このオレ様がいやらしくないだと? 最近の若いコたちは、どこまで進んでいるのだろう。僕は僕なりにエロスを開放して大ハッスルしていたつもりだったが、そのようなことでは彼女らはまったくコーフンしないようであった。

いやらしくないですねという言葉を受けて、僕に抱きかかえられていた二人の女性も、うん、うん、とそれぞれ頷いた。

そんなバカな、と僕は思ったが、どうやら彼女たちは本気で僕のワイセツ行為について、いやらしくないという印象を持っていたようである。

なぜ、こんなにいやらしいことをしてるのに、いやらしくならないんだろう? 僕はそのようなことを考え、女の子たちに意見を聞いてもみた。

彼女たちからの説明はこうだった。

「わかってやってるから、ですよ」

わかってやっているから。

僕は、なるほどと思った。「いやらしさ」というのは、「いやらしい行為」から単純に生まれるわけではないのだ。いやらしさというのは、「わかっていない」ということから生まれる。本来的には「いやらしくない」はずの行為でも、「わかっていない」といやらしい感じになる。例えば、駅前で街頭募金を集めているボランティア集団、アタクシタチ善人デスワヨ集団とか、そういうのはいやらしい空気をまとっている。

僕は彼女らの話を受けて、このようにも言ってみた。

「まあアレだね、オレは普通にスケベな奴だけど、そのことを隠そうと思わないからね。隠すと、それは単なるスケベじゃなくて、『下心』になるし……」

このことを受けて、後にある女の子が、アレはナルホドでしたよ、と言ってきてくれた。

「九折さんは、全部正直に出すから、いやらしくないんですね。下心も、全部上に出てしまってるから、もう下心じゃないっていうか、堂々としてるっていうか」

んー、これは喜んでいいのかよくわからない。目をキラキラさせてそう言われたが、どう反応していいものか困った。

なんか、僕があれじゃないか、アタマのネジが一つ二つハズれた人みたいじゃないか……

まあそれはいいとして、今回はこのことについて考えてみることにした。

「いやらしさ」について。

「いやらしさ」は、なぜ発生するか。どのように発生するか。

同じ行為でも、人によってセクハラになったりならなかったりする、それはなぜか。

女の子が、キレイなココロのままで頑張っていたとして、その中に「いやらしさ」が生まれることはありえないか。

それとも、ありえるのか。

(ところで皆さん、セクハラはしてはいけません。人間としてサイテーの行為です。僕も一応反省してます)





■デザイアについて考えてみる。


「デザイアを消化していれば、いやらしさは生まれない」
「デザイアが未消化であれば、いやらしさが生まれる」

僕は先の話を、このようにすっきりさせて考えることにしてみた。デザイアが消化されていれば、いやらしくない。デザイアが未消化だと、いやらしい。

(デザイアとは、欲望のことだ。駆り立てられるような、強い欲望。細かく知りたい人は辞書を引いてくれい)

先の話の場合なら、僕のデザイアは「女の子といちゃいちゃしたい」であった。おお、なんとわかりやすいデザイアなんだろう。まあとにかく、僕のデザイアはそのようなものであったわけだ。

僕はそのデザイアを、消化していたか?

そう考えると、それはまあ一応消化していただろう、という気がする。僕は女の子といちゃいちゃしたいと思ったが、そこから先のことは期待していないというか、それはそれでしんどいことなので考えていなかったし、いちゃいちゃしたいというデザイアが恥ずかしいものであるかどうかについても、確かに恥ずかしいものだ、でもオレは恥ずかしい生きものなのだからしょうがないと、そのあたりのことは消化できていたつもりでいる。

僕が思うに、そのあたりのことがある程度消化されていれば、「いやらしさ」は発生しないのではないだろうか。

今回は、このことを正として話を進めていくことにしよう。

いやらしさは、未消化のデザイアによって発生する。

デザイアを未消化にしている人は、いやらしい人になる。

いやらしい人は、自分のデザイアを消化しきれていない。例えば、「酒の席だし〜スキンシップだよ〜」という具合の言い訳がましさで、女子社員に接近してくる不潔な上司はとてもいやらしい。下心が煮えたぎっているのにそれを隠して、「○○ちゃんはどう、最近彼氏と、よろしくやっているのかなぁ〜」と、そう探りを入れてくるオトコは気持ちが悪い。

いやらしさは、未消化のデザイアによって発生する。

未消化のデザイア、それ自体がいやらしい、ということなのかもしれない。


***


デザイアというと、なんだかものすごく懐かしい言葉のような気がするが、今のところこの言葉でしか説明できないような気がする。「欲望」というと、どうしてもオトコの性欲ということに限定されてしまいそうな気がするし、「欲求」というと、今度はdesireではなくてwantやneedということに意味が近づいてしまう。

なのでここでは、ちょっと時代錯誤な感じはするけれども、敢えてデザイアという言葉で話し進めていくことにする。

デザイア。

あなたのデザイアは、はたしてどこにあって、どのようなものであって、どのような強さだろう。

さて、ここに書く文章は、一応は女性向けに書かれたものでなくてはならないし、ある程度恋愛に関係する話でなくてはならない。その意味で、僕は次のように問いかけを提出してみる。

「あなたは彼に、どのようなデザイアを持っていますか?」

この方向で考えるのは、けっこう意味があることだと僕は思う。あなたが彼に向けているデザイア。あなたが彼のことを好き、あるいは気になっている、そういうふうに感じているとして、そのあなたとして持っている「デザイア」は、具体的にどういうことになってくるだろうか。

彼と知り合いたい。彼に会いたい。話したい。仲良くなりたい。デートしたい。キスしたい。付き合いたい。抱かれたい。結婚したい。

そのそれぞれは、いずれも「デザイア」である。程度の強弱はいろいろとあるにせよ、デザイアであることには変わりがない。

あなたが彼に、何かしらのデザイアを持っているとして、留意せねばならないのはどういうことか?

それは、そのデザイアを「未消化」のままにしておくと、あなたは「いやらしい」オンナになってしまうということだ。いやらしさは、未消化のデザイアから発生する。

あなたは彼にとって、いやらしいオンナではないだろうか。

あなたは彼に向ける、デザイアを消化しきれているだろうか。


***


「彼のことが好きで、好きすぎて、逆にうまくいかないんです」

そういうふうにいう女の子は多い。一般的に、初心で純真で、想いが強い女の子が、そういうふうになるようだ。

こういう話を聞かされたときに、僕はウッと一瞬息を詰まらせてしまう。なぜか。それは、非常に言いにくいことながら、そういう女の子は彼にデザイアを向けながら、それをデザイアとは思っていない、キレイなココロのキレイなキモチと、そう思い込んでいることが多いからである。

(こういうことを書くと、すぐに女の子に嫌われてしまうんだよな。まあしょうがない。できたら、キライにならないでね)

彼のことが好きという気持ちは、果たして美しいものだろうか。それは、本当にそれ単体であるなら、美しいものなのかもしれない。でも、現実にはそう奇麗事ばかりで話は終わらない。

例えば、そういう女の子であっても、次のように話を進めれば、彼女には彼女のデザイアがある、それもギラギラとしてあると、そのことが明らかになってくるのである。

「あなたが彼に向けているデザイアは、どんなものになるかな?」
「彼のことが、好きなんです。好き、というデザイアだと思います」
「彼のことが好きで、彼のこと、どうしたいの」
「付き合いたいです」
「付き合えれば、それで満足?」
「はい」
「付き合ってさえいれば、浮気されてもOK?」
「……え、それはイヤです」
「付き合っていれば、彼があなたのこと、大して好きでなくてもいい?」
「……え、それは悲しいです」
「じゃあ、付き合いたいということだけじゃなく、付き合って、彼に自分のことを本気で好きになってもらいたい、そして他の誰にも気持ちを向けないでほしい、ということ?」
「……そういう、ことだと思います」
「一言で言えば、彼のことを『自分のモノにしたい』ということ?」
「……そういうことに、なるんでしょうか。あの、わたしは彼と、普通に付き合いたいんです」
「相思相愛になりたい、そして付き合いたいということ?」
「そうです、それです。相思相愛です」
「自分が彼のことを思うのと、同じぐらい強く、彼に自分のことを思ってほしいということ?」
「……はい、そうだと思います」
「それはつまり、彼の愛が欲しい、ということかな」
「はい、そうです。そうなれれば、うれしいです」
「そして、その愛が、他の人にいかないで欲しいと」
「そうです」

いわゆる純真な女の子、初心な女の子と僕が会話すれば、きっとこのような進行になるに違いない。

さてここで、この会話例を観察してみて、デザイアについての誤解、ミスアンダスタンドがあったのがわかるだろうか。

冒頭、彼女として、彼女自身理解していた彼へのデザイアは、「好きというデザイア」ということであった。でもそれは、話の後半で、彼女自身によって否定されている。(まあそもそも、好きというのはステイトであってデザイアではないけど)

彼女が欲しているのは、彼の愛であり、その独占なのだ。彼が自分のことを好きになるということ、そして付き合うということ、彼の気持ちが他の者へ向かわないということ、それは聞こえのいい恋愛用語で語られているが、突き詰めるところ、彼女の欲しているのは彼の愛であり、その独占である。

だから、彼女として彼に向けているデザイアは、「好き」ということなどでは全然無いのだ。「彼の愛を得ること、それを独占すること」、それが彼女の本当のデザイアだ。

愛を得たい。それを独占したい。人を好きになったとき、誰だってそういうものだろう。だから僕は、そのデザイアのあり方が、低俗だとは決して思わない。僕だって人を好きになればそうなるわけだし、僕たちはこの切実なデザイアによって、恋愛の物語を紡いでいくのだ。

ただ僕は、この切実なデザイア、「相手の愛を得たい、それを独占したい」という、いっそ生々しくさえあるデザイアについて、ごまかすことはするなよと言いたい。それをごまかしているうちは、それを消化できるようには絶対にならないのだから。

彼のことが好きだから、彼の愛が得たい。それを独占したい。これは、初心で純真な女の子ほど、強く持っているデザイアなんじゃないかな。初心で純真な女の子ほど、その生々しさから、それを自分の中でごまかしてしまうということでもあるけど、それはやはり、ごまかすと、いやらしくなってくるものではある……

消化されていないデザイアは、いやらしさを生じてくる。その意味で、初心で純真な女の子でも、いやらしいオンナにはなりうるのだ。むしろ、初心で純真な女の子ほど、そういういやらしさを持ってしまいやすいと、そう思っていたほうがいいかもしれない。

キレイなココロのキレイなキモチ、自分の気持ちについてそう思い込んでいるオンナは、実際のこととしてタチが悪いものだ。

「ごめんね、僕は○○さんに、そういう気持ちになれないから」

そうやって断られると、キレイなココロのそのオンナは、はぁ、そうですか、わかりました、と俯いて答える。そして泣き出す。内心では、「傷ついた」と思う。

そういうとき、相手のオトコとしては、なんとも居心地が悪いものだ。とてつもなくひどいことをしているような気分になる。そして、「他に好きな人とかって、いるんですか」と尋ねられて、「う、そういうわけじゃないんだけどな、でもはっきりそう言うのは言いにくい……」と言葉に詰まらされたりする。

そんなこんなで、「ごめんね」と、ふと気づけば告白された側がやけに謝罪しているような構図になる。そして、言いたいことは言い尽くしたと、女の子は去っていく。対話のやり残しがないか、彼の側に気持ち悪い部分が残らなかったかと、そういうことにまで配慮する余裕は無い。オトコはそこに一人ぽつねんと取り残されて、「傷つけちゃったのかなぁ?」と、後味の悪い後ろめたさを感じる。

そうなると、いやらしいオンナ、まあいやらしいとまではいかなくても、彼にとっては気の重くなるオンナになるわけだ。

たまにその後、オトコによって傷つけられたのだと、まるで自分が被害者であるように周囲に宣伝し始めたりするオンナもいるね。

さらに、その女の子のサポーターたちが、「ひどくな〜い?」と集団でクレームを提出してきたりすることもある。

(くわばら、くわばら)

ええと、初心で純真な女の子たちへ。ここまで、ひどい調子で話を進めてきて申し訳ない。中には、今まさしく彼に告白しようとしていて、そのことに思いつめている、まったく余裕のない人もいたかもしれない。そういう人にとっては、デザイアがどうこうと、そんなことを考える余力はないだろうし、告白するということだけで自分が崩壊寸前という状態だったかもしれず、僕の話は冷たく嘲笑的に聞こえたに違いない。

でも僕は、あなたを応援してるつもりなのです。

キレイなココロのキレイなキモチと、その認識のままで告白すると、たいていロクなことになりません。

やっぱりあなたは、あなたのデザイアを、自分自身で消化しておくべきです。

「あなたの愛がほしい、それを独占したい」

そう思って堂々としているオンナのほうが、絶対にいいオンナだから。


***


あなたが彼にとっていやらしいオンナにならないためには、まずあなた自身、自分のデザイア、彼に向けているデザイアについて、はっきりと自分で確認する作業が必要になる。「好き」とか「恋」とか「胸キュン」とか、そういう考え方も間違っているわけではないのだけれど、デザイアということの視点から言えば正確ではない。あなたが彼のことを好きだとして、あなたは何かに駆り立てられている、その駆り立てられる気持ちは、どのような状態を欲していて、どのような状態になれば満たされるのか、そのことを考えなくてはならない。

このデザイアということについて考えることで、それぞれ個人の恋愛の物語、その個性というか性質の違いが明らかになる。人はそれぞれ人を好きになる、そのことは誰でも同じだけど、それぞれがそこに持つデザイアは一人一人違うからだ。

例えば、AさんBさんCさんが、それぞれXさんに恋、Xさんに片想いをしていたとして、それぞれのデザイアはそれぞれ個別である。

A「長い間彼氏がいなく、オンナとしての自信を喪失している。自信を喪失している状態は寂しい状態なので、彼氏が欲しい。彼氏を持って、普通の恋人生活がしたい。そして、彼氏にしたいと思えるオトコは、今のところXさんしかいない」

B「元彼と別れて、寂しい気分に沈んでいたときに、Xさんにやさしくしてもらった。彼のことが頭から離れない。彼のことばかり考えているのに実際には彼に接触できていないという状態は苦しい。だからまず、この苦しい状態をなんとかしたい。彼と話したい」

C「能力が高く、夢を持っていきいきと活動しているXさんを見て、自分は彼に憧れる。自分は大して能力もないし、目指すべき夢もないけど、彼はそうではない。だから、彼が夢を実現していく、その中で一番近い、一番大事なオンナとして、彼のそばにいたい」

このように、三人のデザイアの性質や成り立ちが、それぞれ全然違う場合がある。というより、デザイアというのはたいてい人によってそれぞれ違うものだろう。同じであるほうがおかしい。

三人の恋は、同じくXさんに対する恋ではあるのだが、デザイアはそれぞれ異なっている。デザイアが異なっているということは、キモチの本質はそれぞれ異なっているということだ。Aさんは、突き詰めるところ自分としていいオトコと思えるオトコが現れれば、その相手はべつにXさんでなくてもいいのかもしれない。Bさんは、Xさんのことが好きというよりは、まずはXさんとの対話を欲している、それがないと先に進めない、足踏みが苦しいというのが本音のところだろう。Cさんも、何かしらの才能に自分で気づき、自分自身を開花させることに情熱が向いてしまったら、Xさんのことは忘れてしまうのかもしれない。

僕たちの想いの核は、デザイアにある。そして、そのデザイアが異なるということは、そもそも本質が異なるということなのだ。

そしてこのような場合でも、外見的に見ると、一括りに「恋」「片想い」というようにしか見えないわけである。

「恋」ということを話題にアレコレ考えると話がまとまらないのはこのことが原因だ。外見上は同じ「恋」であっても、その核にあるデザイアはそれぞれ違う。すなわち本質がそれぞれ違う。僕たちがそれぞれの「恋」について考えるならば、本当は、その「恋」にまつわるデザイア、そのことについて考えなくてはならないのだ。そうでないと、話は方向性を持たない。

僕は、恋について考えるとき、デザイアについて考えるのが大事だと思う。そこを見ないままにするというのは、本質をみないままにするということだ。

さて、繰り返して問いかける。

あなたは彼に、どのようなデザイアを持っているだろう?

そして、このことも繰り返しておきます。

未消化のデザイアが、いやらしさを生む。





■ライブドア事件より、そこに渦巻く嫉妬こそ異常のように思える。


ええと、デザイアということについて考えるのに、ちょっと恋愛のことから横道に逸れます。考えたくもないけど、どうも言わずにいると気持ち悪い、そういうことが僕の中にあるので。

本題と違うけど、ちょっとガマンして聞いてみてほしい。

ライブドア事件があった。堀江氏はまだ容疑者でしかなく受刑者ではない、すなわちまだ犯罪者ではないのだけれども、そんなことは考慮もせず、マスコミは今まで持ち上げてきた堀江氏を叩きまくっている。マスコミの過熱ぶりは、普通の良識で普通に判断しても、普通にひどい。ひどすぎる。なんというか、品性が無い。

僕たちが世間話をする中でも、堀江氏は叩かれまくっている。そして、それもけっこう、内容的にひどすぎることが多い。そしてそこにも、品性は見当たらないことが多い。

僕たちには品性がないのだろうか。

もちろん僕は、堀江氏の弁護をするつもりもなければ擁護をするつもりもまったくない。今後について応援するつもりもない。かといって、そこまで熱烈に非難する動機も無い。彼が法を犯したなら、司法によって裁かれ、刑罰を科される。それだけのことだ。それ以外に、何が必要だろう? それ以外に何か懲罰を加えたら、その国はもう法治国家ではない。魔女狩り村だ。

はっきり言わせてもらうけど、マスコミならびに僕たちの世間話が堀江氏を糾弾している、その動機は「嫉妬」でしかない。嫉妬以外の何物でもない。彼が逮捕されたことで、マスコミも世間も、大喜びで法と正義の仮面をかぶって糾弾を始めたが、所詮その中身、その動機の本質は嫉妬である。

なぜそう断言できるか?

それは子供でもわかる話だ。罪の重さで言うなら、例えば殺人犯のほうがはるかに罪は重いのに、僕たちは、殺人犯のことなどすぐに忘れるではないか。いかにおぞましい殺人犯でも、そこまで熱烈に非難しつづけたりしない。それは僕たちが、殺人犯に嫉妬心を持っていないからだ。

僕たちは、かつて堀江氏が時代の寵児として祭り上げられ、文化英雄とさえなりつつあったこと、そして実際のこととして若くして富裕層としての生活をしていたこと、企業のトップとして輝いて仕事をしていたこと、そのことの全てに嫉妬していた。そしてそれを隠していた。

そして、今その堀江氏が失墜して、僕たちはその嫉妬心を開放しただけのことだ。そこに品性や羞恥心は持ち込まれなかった。嫉妬というのは怖い、ときにはルサンチマンとして大きな思想になり、革命への力と集約したりすることもあるのだ。僕たちは嫉妬心を野放しにしてはいけない。放置された嫉妬心は、やがて育ちきって、手の付けられない悪魔の精神と化す。

さてでは、なぜ僕たちは、堀江氏にそのような嫉妬心を持つようになったのか。そのことを考えると、僕としては議論を俟たず、このように思われてくる。

「僕たちのデザイアが、ひたすらマネーに向かっているからだ」

僕たちが生きているこの国の、この時代において、デザイアは圧倒的にマネーに向かっている。そう考えると、いろんなことが一本の糸で繋がってくる。

時代に関わらず、マネーはいつでもデザイアの対象だっただろう。しかし、今この時代のマネーに対するデザイアの強度は、過去のそれと比較できるものではない。もっと露骨で、もっと切実で、もっと余裕の無いものだ。

セレブ。オレオレ詐欺。デイトレーダー。アフェリエイト。援助交際。ライブドア事件。

これらのことは、極端なマネーデザイア、ということで説明がつく。念のために言っておくが、僕は別に、セレブを夢見ている人や、デイトレーディングやアフェリエイトで稼いでいる人を、けしからんと否定しているのではない。ただ、過去にはなかったものであり、マネーデザイアによって急激に発達したものだということを言いたいだけだ。

ライブドア事件について、石原慎太郎は次のようなコメントをした。

「ライブドア一社の事件で、これだけ全体の株価が下がるっていうのは、やっぱり日本の社会は異常だよ。誰も彼も、一攫千金ばかり狙ってるんだな」

僕は石原氏のコメントが、まったく正しいと思う。今の日本、そのマネーデザイアは異常だ。こんな状態が続いたら、国ごと滅んでもおかしくない。

いや、本当に、これから滅ぶということなのだろうか?

(僕は難民になりたくない)


***


僕たちのデザイアが、極端にマネーに向かっているということ。このことについて僕なりに説明するなら、次のような説明になるだろうか。

―――僕たちは、価値観を失った。あるいは、その形成をし損ねた。僕たちは、自分の人生を考える上で、確固たる価値観を持っていない。何のために生きるのか、何を目指して生きるのか、何に命を燃やすのか、そのことに回答できない。

このことを、まず話の前提とすることにしよう。この前提の正当性については、誰でもある程度頷いてしまうところがあると思うので、正当性についての挙証はしない。

価値観が無いと、どうなるか。価値観が無いということは、自分として最上の価値とするものが無いということだ。これは不安な状態である。生きていく上で、何に向かっていけばいいかわからないし、人生を充足させるにも、何を手に入れていけばいいのかわからない。

この不安から逃れるために、今僕たちはマネーを求めている。なぜか? それは、マネーには「交換価値」があるからだ。これはアダム・スミスの国富論からの剽窃になるが、マネーには交換価値があり、交換価値しかない。これは当たり前のことだろう、マネーは何かに交換しない限り、紙切れとしての価値しかないのだ。マネーには、例えば一万円札を千枚集めればポルシェの新車と交換できるという交換価値があり、またそのような交換価値しかないのである。

僕たちは、価値観を失い、そのことの不安から、いざというときには欲しくなった価値と交換できるように、交換価値としてのマネーを得て、それを貯めこもうとしているのだ。具体的に、何と交換したいという、そのことの目処は持たないまま。

このことは、実際に簡単に観察できる。例えば友人に、こう尋ねてみるといい。これは、けっこう面白い問いかけだ。

「あなたの人生を満足させるためには、マネーは総額でいくら必要か?」

僕は、このことに答えられた人を今までに見たことが無い。誰も、そういうことを試算しようとしないのだ。生命保険の営業マンなら、仕事として似たような試算をするが、それでも生の充足とか人生の満足とか、そういうことをベースに試算することはない。

誰も彼も、自分がどこにたどり着いたら満足するのか、そのことがわからないのだ。だから、必要マネー総額の試算ができないし、「お金は多ければ多いほうがいい」としか考えない。結果、漠然と、しかし執拗に、マネーを求め続けている。

かつては、そういう人を、金の亡者と呼んだりもしたものだけれど……

国民全員が、ひたすら交換価値とその貯蓄だけを求めたら、国は滅ぶ。当たり前だ。価値を生産する者がいなければ、交換するにも交換するものがない。マネーは本当に紙クズになるのだ。マネーが紙クズになることは本当にある。日本もかつて、ハイパーインフレーションを経験している。たかだか六十年ぐらい前のことだが、みんなもう忘れてしまったのだろうか? 国が返しようのない借金を抱えている今、かつてと同じように、預金封鎖が再び起こっても、まったく不思議は無いと僕は思うのだけれど。

話がズレた。元に戻そう。

僕たちのデザイアは、極端にマネーへと向かっている。価値観が無いので、それはもうしょうがないのかもしれない。さしあたり、交換価値を貯めていくしか、不安から逃れる方法は無い。

でも、そのマネーデザイアは、不安から生じているという不健全なものだからか、世の中を色々とうさんくさくした。

マネーのためなら、お年寄りの孫に対する愛情と寂しさという、人として最も切ない部分にすらつけこんでやろうと、オレオレ詐欺は生まれた。玉の輿や金持ち、そういう言葉のいかがわしさから目をそむけるために、セレブという言葉は生まれた。

その情勢の中で、異様な能力と異様な意思の強さを持った青年が、ライブドア事件を起こしたのだ。

僕たちが堀江氏に向けている嫉妬は、僕たちの中に巣食うマネーデザイアの転嫁である。僕たちは所詮、99%、マネーを手に入れることはできない。マネーというのはそういう性質のものだったはずだ。株のトレーディングなどを見れば典型的に明らかだが、株はどこまでいってもゼロサムのものなので(ゼロサムという言葉の意味がわからない人は株に手を出さないほうがいい)、99人の人が損をして、一人が例外的に得をするということでしかないのだ。

マネーが手に入らない99人は、そのデザイアを内心で腐らせている。ライブドア事件で噴出した、この時代の悪臭というべきものは、99人のマネーデザイアが、腐敗して放っている悪臭である。

ああ、なんだか疲れてくるな。僕はあまりこういう話が好きではないのだ。なぜ僕が、こんな話をしなくてはいけないのだろう。偉い知識人や政治家、あるいは学校の先生が、このことをちゃんと話せばいいのにと思う。

まあでも、誰も言う気配が無いのでしょうがない。僭越ながら、僕が申し上げることにする。

誰かがこのことを言い出さないと、ホントにみんな、いつか気が狂ってしまうんじゃないかと僕は思うんだけど……

―――みんな、デザイアを持とうぜ。

―――いつか何かに交換する、マネーに対するデザイアじゃなくて、もっとはっきりしたデザイア、それ自体に価値のあるデザイアをだ。

―――はっきりしたデザイアを持てないと、あなたは無限にマネーが欲しくなってしまう。それは、気が狂うということだ。

―――あなたのデザイアはなんだ? それだけで、あなたを満たす、満たしきる、そういうデザイアは? あなたはそれ以外の、何のために生きるというのか?

僕たちは、このことを常に考えて生きていかなくてはならないようだ。自分のデザイアについて。自分を満たし、満たしきるものについて。

それを見つけられないと、僕たちは永遠に満たされない。永遠に乾き続けるだろう。

僕はそうはなりたくない。あなたはどうだろうか。

(オレのデザイア……出版社の費用で、ニューヨークのホテルに一ヶ月カンヅメになりたい)

(我ながらヘンなデザイアだ。オレはまったくバカである。まあでも、こんなバカなことを言えるやつはそうそういまい。オレはバカであり、さらに強力なバカを目指しているところだ)

(ところで、何度か勧められたが、オレは株のデイトレーディングとかをやらない。だから、もう勧めてこないように。オレは、ゼロサムゲームでマネーを得ようと思わない。オレはそこまで自分を諦めていないのだ。オレは自分が、交換価値のやりくりをする人間だと思いたくない。価値を創造できる人間だと信じたいのだ)





■愛されオンナは、デザイアを笑って認めて堂々としている。


さて、話を元に戻そう。

恋愛の話。恋愛にまつわるデザイアの話。あなたがオンナとして、オトコに、彼に、どういうデザイアを持つかという話。

デザイアを持たないオンナはつまらない。そんな人間がいるのかどうか知らないけど、もしいたとしたらつまらない。廃人だ。

だからあなたも、デザイアを持っていたらいいと思う。そしてそれを、消化できていればいいと思う。

デザイアを消化していないと、あなたはいやらしくなる。

でも、デザイアを消化できていれば、あなたは愛されるのだ。


***


さて、実際のこととして、あなたのオンナとしてのデザイア、オトコに対するデザイア、それをどう理解し、消化していけばいいだろう。そのことについて考える。

まず僕があなたに、こう尋ねたら、あなたはどう答えるだろうか? あなたに彼氏がいないという前提で、考えてみてほしい。

「あなたは、オトコが欲しいですか?」

この問いかけに答えるのに、一秒でも迷ったら要注意だ。こんなもの、健康なオンナであれば、返答はYesに決まっている。「そんなのYesに決まってるじゃん。だからこそ、今コレ読んでるんだし」と、そう言って笑えるのが正常だろう。

あなたの回答は、どうだっただろうか。人それぞれ、今いる状況は違うだろうけど、状況に関わらず「オトコ欲しい」と堂々と笑えるオンナは、そうでないオンナよりかわいい。そして愛されやすい。

もしこの時点で回答に迷った場合は、改めて自己観察してみることをオススメする。何によって、その迷いが発生したのか? 「オトコ欲しいとかって思うの、何かミジメな感じがする」とか「オトコ欲しいけどオトコとうまくやっていける自信が無い」とか「そもそもオトコが欲しいのかどうか自分でもよく分からない」とか、そういうところが発見されたなら、それはすなわちあなたのデザイアが未消化だということだ。そこを未消化のままオトコにアプローチすると、あなたは損をするだろう。未消化のデザイアはいやらしさを生む。例えば、ステキなオトコと出会ったとき、彼女はいるんですかと尋ねる、その尋ね方と尋ねる雰囲気ががいやらしくなるということだ。

同じように、例えばあなたとして狙っているオトコ、気になっているオトコがいたとして、次のように問いかけられたとするとどうだろう。

「彼と、親しくなりたいですか?」

これについては、誰でもYesと即答するだろうか。でもその時に、笑ってYesと言えるか、堂々とYesと言えるか、そのことが問題だ。笑えない場合、堂々とできない場合、あなたはそのデザイアに未消化なところを残している。この未消化が残っていると、やはりあなたは現場で損をするだろう。彼にメルアドを教えてもらおうとするとき、あなたは笑って堂々とそれをお願いできないし、それでも無理やりお願いすると、「あのう……」とくぐもった感じになってしまうのだ。

あるいは、こんな問いかけもあるかもしれない。

「あなたは、キレイになりたいですか? そして、カッコイイ人と恋仲になりたいですか?」

これも、当たり前にYesの返答になるはずなのだが、これについてもやはり、笑って堂々とYesと言えない人はいる。しかも、けっこう多い。キレイになりたいというデザイア、カッコイイ人と恋仲になりたいというデザイアは、普通オンナにとってかなり強いデザイアであるはずだか、このデザイアを消化できていない人はけっこういるのだ。そういう人はたいてい、「キレイになりたいけど素質が無いと自分で思う」とか「カッコイイ人と釣り合わないんじゃないかと思う」とか、様々な理由からウーンと縮みこんでしまったりする。

別に、今現在がどうであるとか、そんなことはデザイアには関係が無い。そんなことを先回りして考えなくていいし、先回りして考えると余計に消化が滞っていやらしさが発生してしまう。

自分のデザイアを考えるときは、もっとシンプルでいい。自分にはそのデザイアがあるか? そのことを、笑って認められるか? ただそう考え進めるのが正しい手続きである。

「このオンナといちゃいちゃしたいですか?」

例えば僕がそう問いかけられたら、僕は考える。

僕にはそのデザイアがあるか?

―――Yes。

そのことを、笑って堂々と認められるか?

―――Yes。

それだけでいい。それだけで、自分のデザイアと、その消化については十分確認できる。

そして、デザイアが少々ハレンチなものであっても、消化さえされていれば、いやらしさが発生することはない。

だから僕は、女の子二人を抱き寄せてそれに浸っていても、二十歳そこそこの女の子「いやらしくないですね」と言われたのだ。

(注・いやらしいとは思われなくても、フツーに呆れられることはあります。節度は節度として、大事にしましょうね。オレが言うことじゃないけど)

さて、同じ論法を繰り返しても芸が無いので、具体的な問いかけについてはここまでにする。後は同じ手法で、あなたがあなた自身に問いかければいい。

あなたがあなた自身に、

「わたしのデザイアは何?」

と問いかける。

そして、それを笑って堂々と認められるまで、そのデザイアを自分の中に消化する。

僕が今回話したのは、ただそれだけのことだ。

また、僕が人より、どこかでいくらか吹っ切れている部分があったとしても、それもただそれだけのことだろう。

僕は自分のデザイアを、自分の中に消化しているだけなのだ。


***


あなたはこれからも恋をするだろうし、それに悩みもすると思う。その悩みについて、僕に相談してくる人もいるだろうし、友人に相談する人もいるだろう。自分でとことん考えて結論を出す、そういう人ももちろんいると思う。

そういうとき、どうせ最後には突き当たることだから、考えておくといいと思う。

僕なら真っ先に、このことを問いかけるだろうな。

「あなたのデザイアは?」

これ以外に、実のところ、僕たちが考えるべきことなど無いのだけどね。

僕は自分としてもデザイアの強い人間だと思う。いや、ここでは敢えて、デザイアの「豊かな」人間ということにしておこうか。

僕はデザイアの豊かな人間だ。そして、オンナについても、デザイアの豊かなオンナが好きだ。デザイアが豊かで、それを消化できているオンナはかわいい。そういうオンナは、いつも笑って、堂々としている。

僕はそういうオンナを好きになるし、そういうオンナを抱きたいと思う。

それは、どんなオトコだって、そう思うと思うけどね。

僕はそういうステキな女に、笑って、堂々と、こう言うのだ。

「お前は本当にかわいい、オレはお前を抱きたい」

そしてオンナは、笑って堂々と、僕の誘いを断るのである。

で、「ありがとう、素直で率直だね、そういうのって嬉しいよ」とか、そういうわけわかんないことを、妙にかわいく言いやがったりするのである。

それが僕には、少し嬉しかったり……

(えー、おしまいにしよう。オレはわけがわからなくなってきた)





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