恋愛偏差値アップのコラム









彼に何をしてあげられるか







あなたが女だとする。そして、好きな男がいたとしよう。
あなたは彼に、何をしてあげられるだろうか?

相手のことを好きになると、そのことだけで一杯になってしまう人がよくいる。そういう人のほうが多いかもしれない。そしてそういう人は「好き」という気持ちに掛かりっきりで、「自分が相手に何をしてあげられるか」「何をしてあげるべきか」についてまったく考えなかったりする。

僕として思うに、そういう人たちは自分の傲慢さに気付かなくてはならない。自分が彼のことを好きであるという気持ち、その気持ちのことしか考えない人は、実は自己中心的なのだ。

誰だって、人に好きになってもらえるのは嬉しい。思春期の中学生なんかは、その嬉しさだけで相手のことを好きになったりする。いわゆる「相手が自分のことを好きだから、自分も相手のことが好き」「好きになられたら自分も好きになる」というやつだ。これは恋愛心理学のコラムで書いた「好意の返報性」というやつの一番劇的なものだけど、これは考えてみればものすごく幼い気持ちだ。ちょっと冷静に考えれば、誰だってそのことは分かると思う。もっとひどい人になると、「あたしの『好き』って気持ちをあげるッ」と思っていて、それが美しいことなんだとすら思っていたりする。このことも、冷静に考えてみてほしい。あなたがある男に、「この僕の『好き』という気持ちをあげます」と面と向かって言われたらどう思うだろうか。こういうとき、キムタクみたいな人を想像してはいけない。バラの花束をもらったりとか、そういうことも勝手に想像してはいけない。どこにでもいる微妙にサエない男が、少し得意気に言っているところを想像するのだ。「この僕の『好き』という気持ちをあげます」。その時どうだろう、あなたは「はあ・・・」なんて言いながら、内心でたじろいだりするのではないだろうか。

相手のことを好きなのは、あなたの気持ちだ。それは大切な気持ちだけど、それに自己陶酔してはいけない。あなたの想う彼がいたとして、その彼に自分は何をしてあげられるか?それを考えていかなくてはならない。ここにおいて河口恭悟の「桜」の中に歌われる言葉、「ずっと そばにいるよ 君を 笑わせるから」は、人の心に響きうるのだ。そこに「君を笑わせてあげたい」という切なる気持ちがあるから。

好きという気持ちの上に成り立つ、「何かしてあげたい」という気持ち。それはやがて好きという気持ちから離れて、また損得勘定からも離れて、ついには無私の気持ちに到る。このあたりに恋愛の極意と醍醐味がある。このことは明らかに「愛」という言葉に近づいていくものだけど、僕は敢えて「愛」という言葉を使わずにいく。なぜかというと、「愛」という言葉を使うとその途端みんな何も考えなくなるからだ。(それは、なんでなんだろうな?)

僕の場合はどうだろう。僕の場合も、河口恭悟のように上品ではないにしても、相手のことを好きなら相手を笑わせたいと思う。なぜか?それは僕が好きだと思う人には、僕として笑っていてほしいからだ。例えば、美しい女の子が僕の目の前にいて、少し悲しげに俯いているとする。僕はそういうのを見ると我慢できない。美しい女の子は陰鬱さとは無縁に、溌剌として笑っているべきだ。だから僕は何とかして彼女を笑わせようとするだろう。笑わせる方法はウィットの利いたジョークでもしょうもない下ネタでも何でもいい。とにかく笑わせたいと思う。僕がそのように思う原動力、そのありかははっきりとはわからないのだが、とにかくその力だけは無闇に強い。僕はただそれに突き動かされて、彼女を笑わせようとする。そして彼女がクスッとでも笑えば、僕は「おっしゃ!」と思うだろう。そういう時、僕はハッピーになる。そのハッピーになる仕組みも原理もはっきりとは分からないのだが、とにかく僕はそういう時こそハッピーだ。ちなみにここで言うハッピーというのは、嬉しいというのより上位にある。

そういえば、好きな人を笑わせたいと思うのは、僕が大阪生まれの大阪育ちだからというのもあるかもしれないな。(ちょっと話が脱線する)大阪で育つ男は、小学生の頃から「人を笑わせること」について厳しい教育を受ける。これは本当の話だ。例えば、授業中に先生にあてられたとしよう。「九折君、この( )の中に入るのは?」。そのように聞いてきた時、先生とクラスメートの全員は、決して正解を求めているのではない。「どうボケるか?」ということを求めているのだ。だからあてられた生徒は、鮮やかなボケを示してみせて、みんなを笑わせなくてはならない。大阪の小学校では、そこで笑わすことのできる奴が「デキる奴」として扱われるのだ(けっこうホントの話よ、コレ)。もしそこで、しれっとして正解を言ったりサムいボケを言ったりしようものなら、次の休み時間にはクラスメートに総攻撃される。「おまえ、おもんないわ」。僕たちがどれだけその非難を恐れていたか・・・。まあとにかく、僕はそんな教育を受けてきたから、好きな人に対しては真っ先に「笑わせたい」と思うのかもしれない。

話を元に戻そう。
好きという気持ちは大切な気持ちだけど、それはあくまで自分の気持ちだから、それに陶酔ばかりしていてはいけない。それに陶酔してしまっていると、告白するときにでも、「あなたのことが好きでしょうがないの」「あなたのことしか考えられないの」「あなたのことを思うと胸がはちきれそうなの」「あなた無しでは生きていけないの」「あなたが手に入らないなら死んでしまいたい」というふうになってしまう。それが相思相愛なら劇的な結合が起こりうるかもしれないが、そうでなかったときは御粗末な結果になる。相手は「その気持ちはありがたいけど、そんなこと言われてもなぁ」という具合に思って、微妙な表情を浮かべるだろう。

好きという自分の気持ちから一歩進んで、「わたしは彼に何をしてあげられるだろう」ということを考える。その時に恋愛の感情は、神聖なものを含み始める。その時ふと気付くと、自分の意識が自分中心ではなく、相手中心に働き始めていたりする。もっと言うなら、自分と相手の境界が曖昧になっていたりする。峻別されていた自他の結合。そのような状態を、人はどうしても「愛」と呼びたくなるのかもしれない。僕はそんな言葉は野暮の極みだと思うから使わないけど。

さて、あなたは彼に、何をしてあげられるだろうか?もしあなた自身がそのように考え出したとしたら、実は「何かしてあげる」ということが、そう簡単ではないということにも気付くだろう。例えば初歩的なこととして、「親身になって彼の話を聞いてあげよう」と思ったとする。しかしそのように思った途端、それが実はかなり難しいことなのだということに気付かされるだろう。

人間は、コミュニケーションが正しく為されたときに、カタルシスを感じる。特にそのコミュニケーションが深ければ深いほど、そのカタルシスは高まる。これはおそらく他の動物にはない人間独自のもので、また人間にとって欠かせないものの一つだ。簡単に言えば、自分が大事なことを大事な気持ちで言ったときに、相手もそれを大事なこととして受け取るといったようなこと。それが正しく為されたとき、二人の間には共感が生まれて、お互いに分かり合えた、コミュニケートできたというカタルシスが生まれる。カタルシスという言葉がうさん臭ければ、すっきりする、気持ちいい、心が温かくなると言ってもいいだろう。そのようなことで人は勇気付けられ、活性化する。

しかし、そのコミュニケーションが大事なことで、それだけに「親身になって彼の話を聞いてあげる」ということも同様に大事なことだったとして、それは実のところ簡単なことではないのだ。それができるかどうかはその人の器量によるから、器量不足の場合は気持ちだけあっても実際には親身になれない。例えば端的に、あなたが18歳の高校生、彼が25歳の会社員だったとして、彼が「学生時代に戻りたいよ」と言ったとしたら、まずそれはあなたには共感的に受け取ることができない。それは理屈として明らかだろう。そのような場合は、「自分にはまだわからないけど、それが大事な話ならもっと聞かせてほしい」という態度でコミュニケーションを進め、感応的共感に向かわなくてはならないわけだけど・・・(感応的共感:何も分からない赤ん坊でも母親の喜怒哀楽を汲み取ったりする能力のこと。長くなるので詳細は割愛)。ここでセンスの無い人は、「もっと前向きにならなきゃダメだよ!」とアドバイスをしたりする。このような何の役にも立たない無神経なアドバイスほど人の心を冷やすものは無いだろう。さらにセンスの無い人は、そのような彼の心の冷えにも気付かず、「わたしは親身になって彼の話を聞いてあげている」などと思い続けたりする。

そんなわけで、「親身になって彼の話を聞いてあげる」などという初歩的なことですら、結局は器量のあるなしに制限されるから、そう簡単にできるわけではないのだ。「彼にしてあげたいこと」「してあげるべきこと」なんて、他にも無数にあるだろう。そしてそれらは何一つとして容易ではない。だから僕たちはそのような時、自分の器量の小ささを知ることにもなる。「何かしてあげたい」という気持ち、「何かしてあげなくちゃ」という気持ちがあり、それでいて「でも、ほんとに何かしてあげられるかどうかもわからない」という気持ちが生まれてくる。このとき、人は健気で謙虚になる。

僕として思うに、僕たちが好きな人に向けていく気持ちは、このような気持ちが一番正しいのじゃないか。「何もできないのかもしれないけど、それでも何かしてあげたい」という気持ち。僕は今回の話の結論として、このことを示しておきたい。僕たちはみんな小物だから、何かしてあげられますというほど偉い存在ではない。それでも僕たちは、好きな人には何かをしてあげたいと思う。僕たちは本質的に、それをせずにはいられないのだ。それはまったく小物として涙ぐましい態度なんだけど、それでもそれは、僕たちが少しでも正しい恋愛をするために、少しでもそれを上手く豊かなものにしていくために、そしてわずかでも神聖な気持ちに到るために、唯一の方法なのじゃないか。僕としてはそのように確信できる。何しろこのいいかげんな僕という男ですら、その気持ちに支えられたときには、自分でステキだと思える恋愛ができたりするのだから。(小我がのさばって台無しになることもしょっちゅうだけどね、もちろん)

さて僕は、僕の好きな人に、何をしてあげられるだろうか。僕としては、彼女を笑わせたい。彼女のあごがおかしくなるまで笑わせたい。彼女の言葉を真から受け止めたい。彼女が話しつかれて寝てしまうまで、彼女の言葉を引き出して受け止めたい。彼女の名前を呼びたい。彼女のキレイなところを見つけて褒めたい。彼女の視線を漏らさずに受け止めたい。彼女においしいものを食べさせたい。彼女においしいスコッチを飲ませたい。彼女のいいところを彼女に教えたい。彼女に美しい海を見せたい。彼女を励ましたい。彼女に自信を持たせたい。彼女の夢に協力したい。彼女にいい音楽を聴かせたい。彼女の似合う色を見つけたい。肌を重ねるときは、彼女を思い切り気持ちよくさせたい。彼女によって僕自身が勇気付けられているということを教えたい。

・・・まあ、思っていることの一割も実現できないけど、それは僕が小物だからしょうがない。少しずつ、実現できるように頑張っていくしかないだろうな。さて、あなたの場合はどうでしょうか。あなたは彼に、何をしてあげたいと思いますか。

「いつも笑顔で名前を呼んであげたい」
「いい声してるね、って言ってあげたい」
「疲れた手のひらを揉んであげたい」
「成功すると思うよ、と励ましてあげたい」
「あなたといると楽しいと、態度で示してあげたい」
「疲れて帰ってきたら、全身で慰めてあげたい」

あなたがそのように考え始めたなら、あなたは大事な一歩を踏み出したことになると思います。「してあげたい」と思ったことが実際にできるかどうか、それは器量によりますが、世の中の女性の大半は僕より器量があるものです。きっとあなたも、僕より器量がある人だと思います。だからあなたがあなたの想う人にしてあげられること、それは僕よりもたくさんあるはずです。だからあなたは彼を、たくさん愛してあげてください。(ち、結局使っちまったよ。)







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