自分自身
朝起きて、外に出れば、隣人と挨拶をする。「おはよう」、「おはようございます」、人によって言葉も声も色々だ。この挨拶ひとつでも、かっこいい人はかっこいいし、ダサい人はダサい。そして私も、かっこいい挨拶ができたらいいなと思う。
しかし、誰かの挨拶がかっこいいからといって、猿真似をしてかっこよくなるものではない。例えば、ドラゴンボールの悟空と木村拓哉がいたとして、「おっす、おらキムタク!」というのはヘンだし、悟空がライオンハートを歌うのもヘンだ。
結局、その人がかっこいいのは、そのかっこよさが「その人らしさ」とあいまっているから、かっこいいのだ。だから、かっこよくなるためには、猿真似ではなく、「自分らしいかっこよさ」を見つけ出し、獲得しなくてはならない。それが、最近よくいわれる「自分らしく」というやつだろう。この自分らしさというフレーズは最近乱用されているようだが、もし隣人と朝の挨拶が交わせないとして、その未熟を、「自分らしさ」だと強弁するのは、ただの居直りである。自分らしさでもなんでもない。
その点でちょっと一般論をしてみると、こうだ。自分らしさというのは、「これが自分らしい!」と自ら感じるしかないものだ。こういうものを、自律的、直覚的というが、こういう自己決定によるものはごく単純な独我論に陥る危険性がある。受験生が受験勉強を投げ出したとき、それが単なる「逃げ」なのか、新しい人生の拓けなのか、それは誰にも断定できない。だからこういうときに「これが自分らしい生き方だ」というのが、格好の逃げ口上になってしまう。さらにひどくなれば、例えば酒鬼薔薇事件のとき、その犯行文書が注目されたが、その中に「殺しはボクの持って生まれた性なのである」と記してあった。これだって「自分らしい」と言い張れてしまうのである。このときに、「人に迷惑をかけてはいけません」という常識など役に立たない。独我論というのはそういうものである。
だからここで私は、自分らしく、というのは、「自分らしいかっこよさを発見し、獲得すること」である、とした。まあこれでも、本質的に直覚に頼らざるを得ないところからは逃げ切れていないのだが、少なくとも、ただの居直りは、何も獲得していない、かっこよくないという点でダメだといえるし、逆に、例えば、泳げない少年が泳げるようになろうと努力の一夏を過ごす、といった自己克服、克己を、ごく当たり前に肯定することができる。とにかくも、逃げ回る奴に「それ、おまえ自身、かっこいいと思ってるの?」という問いかけはリアルに強力であろうし、ひねくれている奴に「彼を見てて、かっこいいと思わんのか?」と問うのも、相手の素直な直覚にうったえかけるであろう。かっこいいかどうか、という直覚は、自分らしい、という直覚よりも確かで、惑いにくいのだ。
というわけで、自分らしさとは、自分のみっともなさを甘受して居直ることではないし、克己のすばらしさを無価値とみなすニヒリズムでもない。居直りはかっこわるいし、克己は美しい。繰り返そう、私の言う自分らしさとは、一言でいえば、それぞれのかっこよさを追求する、ということだ。
だから、私は私らしいかっこよさを、追求している。
さてここで、それはどんなかっこよさで、どうやって追求するのか、と問われると、これがなかなか単純に言えないものである。例えば私は人を(特に女性を)笑わせるのが好きなので、できるかぎり会話は楽しく笑える会話にしたいと思っている。が、それは相手あってのことなので、相手がその気でないのに無理やり笑わせようとするのもヘンだし、また自分の機嫌が悪いときは私自身にその気もなくなる。
これでは結局、「その時の状況による」という、無意味な結論に落ち着いてしまう。そう、実際の現場では、すべて「状況による」としか言えないし、そうでなくては硬直してしまっていて不自然だから、それでいいのである。
普通は、この地点で、「何が自分らしくかっこいいか、どうやってそれを実現するかなんてことは、考えてどうこうなるものではない」と悟り、「自分らしさ」という呪文のフィーリングを大事にしていこうとするようだ。まったくもってそれが現実的な方法であって、ここから先は私の趣味的な方法であるのかもしれない。だが私としては、自分を研鑚するにしても、その力を注ぐ焦点を絞ったほうがいいとも思うので、ここにつらつらと書いているのである。
まず、何が自分らしくかっこいいか、に関しては、完全に直覚的である。「何が私らしくかっこいいですか?」などという質問には誰も答えられまい。これは、どんな食べ物をおいしいと思うかと同質のもので、いわば心の味蕾に期待するしかない。
ただ、それが見えないからといって、よもやマニュアル本の「モテる男・モテる女の条件」というコーナーに振り回されないことだ。参考にする程度ならいいかもしれないが。まあ、私の周りには、そういうものを本当に鵜呑みにする人がいないので、少々そういう人の実在を疑っているのだが。それより、本当に重要なのは、「期待」に流されないことだろう。親としてはこうあってもらいたいとか、恋人としてはこうあってもらいたい、そして自分としてはこうあってほしいという、「期待」に流されて、本当に自分がかっこいいと思えるものを殺してしまわないことだ。そしてさらに、何がかっこいいというイメージだけでなく、それを体現できている人を、目の当たりにすることも大事だ。これはとても威力がある。むしろ、体現できている人を目の当たりにして、あこがれることからスタートすることのほうが、実際には多いかもしれない。
というわけで、なにが自分らしくかっこいいか、という直覚は、期待などの圧力を振り払えば、自分のうちから涌き出てくるものである、と考える。そして、そのうちに「これだ!」と思える人に出会える、そういうものである。
何がかっこいいかをつかめたら、次には、それをいかにして自分が追求して、実現するかだ。そして先に述べたように、ここが「状況によるし」という結論に陥ってしまいがちな部分である。
例えば、「力まずに、それでいて必死にがんばる」のがかっこいい、と思っているうちに、浜崎あゆみがかっこいい、これだ、と思うようになったとする。しかし、普通は、浜崎あゆみのように造形が美しくもなければ、歌唱力やセンスもない、ということが問題になるし、翌朝にセクハラ上司とミーティングがあると思った瞬間に、うんざりして、「状況がちがいすぎる」とご破算になったりする。
そうならないためには、もっと芯から、「力まずに、それでいて必死にがんばる」というその心を、理解しなくてはならない。「力まずに、それでいて必死にがんばる」その姿は、あくまで姿であって、心ではない。心が表現された形として、その姿になっているのである。
かっこよさを追求するなら、その「心」を追求しなくてはならない。なぜ力まないのか、それでいてなぜそんなに必死にがんばれるのか。それは、そうなるだけの物の感じかたや考えかた、その根本的な精神によるものだろう。その心の発現例として、その状況におけるその「姿」があるにすぎない。その姿は、状況によってさまざまである。しかし、その心というものは状況に流されるものではない。すがたかたちで制限を受けるものでもない。
往々にして我々は、かっこいい「姿」にあこがれて、真似しようとするが、状況がその実現を許さず、また別の「自分らしさ」があるのではないかと模索し、同じことを繰り返してしまう。そうならないために、かっこいい姿を追求するのでなく、かっこいい姿を生み出すその根本的な精神、心のあり方、それを追求しなくてはならないのである。
他の例も考えてみよう。例えば、剣豪が真剣を突きつけられても明鏡止水、まったく動じないその姿を、かっこいいと思ったとする。ところが、自分は授業中に名指しで回答を求められただけで動揺してしまう。これを状況が違うといって終わらせるのではなく、なぜ真剣を突きつけられても動じないのか、ということを追求しなくてはならない。痛みや死は怖くないのか、では生きるということはどういうことだととらえていたのか、そして自分が怖がっているものはなにか、彼らが死をも恐れない一方で、自分が授業中に何におびえているのか、ということにまで至らねばならない。
先ほどの人を笑わせるということでも、例えば島田伸介はなぜ番組に素人が出てきても笑わせることができるのか、その心にある愉快さや、おもしろい発想とはなんなのか、それを追求しなくてはならない。
こう考えると、自分らしく、ということと、自分を超えること、克己ということが、実は二律背反でなく、表裏一体になっているのがわかる。自分がかっこいいと感じる姿、その姿を裏打ちしている心の様相を手に入れるためには、今の自分の心の様相を破壊し、超越しなくてはならないのだ。自分らしくあるためには自分を超えなくてはならないのだ。
結局、真の自分になるためには、かっこよさの根底に流れる精神を体得することである、というのが私の今回の主張である。ふと思えば、これはいわゆる、「道」というものかもしれない。書を通してその根底にある精神を体得したとき、美しい文字が書けるようになる、これは書道とよばれる。先に上げた剣豪の話も、いわゆる武道のうちの剣道の話である。書や武に託して、真の己に到達すること、小さき己を超え、根底に流れる精神を体得即ち悟りに至ること、「道」と呼ばれるもの、それを結論と重ねていいであろう。
やや話が大げさになったので、改めて、簡単にまとめておこう。
・自分らしさとは、自分らしいかっこよさを発見、獲得すること。自分を甘受する居直りではない。
・自分らしいかっこよさとは直覚するもの。期待などの圧力を捨て去って、自らに湧き出てくるもの。
・かっこよさを獲得するとは、結局、根底に流れる精神を体得すること。姿を追いかけることではない。
・真に自分らしさに到達するためには、精神の様相を変えること、すなわち自己を超越することが必要になる。
・これらは古くから、「道」と呼ばれた。
というわけで、おしまい。偉そうなことを書いてしまった。まあ、そのために自分のページを開設しているのだから、「偉そう道」を追求するしかないのかもしれない。
さあ、かっこよくなろう。
[自分自身/了]