フロイトとユングのりくつ
ジグムント・フロイト、カール・グスタフ・ユングの名前はよく知られていても、それらの学説がどういうものなのかということは知られていない。もったいない。その内容は、非常に理論的に、理性的に書かれていながら、極めてショッキングで、人によってはコペルニクス的転換をおこすぐらい、人間というものの構造に深く突っ込んだものなのだ。ここでは、その内容を、理屈アレルギーをおこさないように、簡単に紹介しようと思う。
フロイトが我々に教えてくれたのは、人間の心に「無意識」の領域があるということだった。ここで、世間一般に使われている「無意識」という言葉を、一度捨てなくてはならない。一言で言うと、人間の心には、自分自身で知覚できない心の領域があるのだ。それを「無意識」とよぶのである。
例えば、最近流行っている、幼児体験という言葉がある。幼児期、とくに1歳2歳3歳のころに、親が徹底的にイジメぬけば、歪んだ子供になる、というときに、幼児体験によって人格障害になった、と言われたりする。さて、ここで考えて欲しいのだが、1歳の時の記憶を持っている人がいるだろうか。「俺はよく泣く子供だった」などと覚えているだろうか。そんなこと覚えているはずはないのだが、覚えていないなら、それが原因で人格障害になるのおかしい話だ。
これは要するに、自我の中から記憶は消えているが、自我以外の心、すなわち無意識のゾーンに記憶が移転して、ちゃんと記憶が残っているということなのである。だから、高レベルな催眠をかけたとき、幼児期の記憶を引き出すことができたりするのだ。催眠というのは、身体を起こしたまま、自我だけを眠らせる技法なのである。高いレベルの催眠では、後催眠暗示というのがあって、催眠状態で「あなたは、目を覚ますと、水を飲んで手を3回たたきます」と暗示して催眠を解くと、その通りにするというものである。このとき、「なんで水を飲んだの」と聞くと「・・・・のどが乾いていたから」と答えたりする。暗示そのものは、無意識下にあり、本人は自覚できないのだ。フロイトはこの後催眠暗示をみて、無意識の世界を確信したのである。
無意識には、幼児期の記憶がしっかり残っていて、それが人格を形成する屋台骨になっている。だから、幼児期にそれを歪められていると、後の人格形成がうまくいかない、というわけである。
そして、無意識に(無意識に、というのは、「無意識というゾーンに」、ということ)残っている記憶は、幼児期のものだけではない。自分に都合の悪い記憶が、大量に無意識に放り込まれている。
たとえば、ラーメン屋に行くか、カレー屋に行くか迷ったとしよう。そして、とりあえずラーメン屋に行った。このとき普通は、カレー屋に行きたかったことは、たいてい忘れてしまう。しかしそれは、忘れたのではなくて、無意識に放り込まれたのである。「カレー屋に行きたかった」と、ずっと記憶に残していると、精神衛生上非常によろしくない。難しく言うと、心理的に「不協和」を引き起こすものだ。だから、それを自我から追い払って、無意識に放り込むのだ。これを、抑圧、という。また、フロイト的忘却とも言う。でもたいがい抑圧という言葉の方を使うかな。
そして、この抑圧されたものは、無意識にありながら、自我のスキをついて、反乱を起こしたりする。一番多いのは、夢、である。自我は眠っちまっているから、無意識の世界のものがドバッと出てくる。だから、カレー屋の夢をみたりする。その他、無意識からの反乱として、失誤行為(失錯行為)というものもある。聞き間違い、いい間違いなどがそれで、例えば、浜崎あゆみのポスターを見て、友人が「『あゆ』っていいよなー」と言ったのに、「ラー油?」と聞き返したりする。そういう風に聞こえた、と思うだけで、本人は、ラーメン屋の事を思っていたなどという自覚はない。無意識からのメッセージとは、そういうものである。
さらに、もしその抑圧されたもの(この抑圧されたもののことを、コンプレックスという)が巨大になると、普段生活する時でも、自我がつねに無意識下にあるコンプレックスに脅かされて不安定になり、場合によっては「ちょっとヘンな人」になったりするし、場合によっては「手を洗わずにはいられない人」になったりする。そして、このコンプレックスが原因で、「常に手が痙攣する」「水を飲むといつも吐き気がする」などの症状がでたりすると、神経症、ヒステリーなどと呼ばれるようになる。
ラーメン屋とカレー屋ならば、人格に影響を与えるような事はないだろう。が、例えば、ある少女が、毎日父親に殴られていたとしよう。そして、その隣にいる妹は、がたがた震えて怖がり、父親は妹には手を出さなかったとする。すると、大人になってから、その親から受けた虐待を抑圧している彼女は、妹が震えていて、妹は虐待を受けなかった事を真似して、「常に手が震える」というヒステリーになるかもしれない。また、映画の暴力シーンを見ると、ヘンに声を大きくして、この映画は面白くないと罵りだすかもしれない。そういう風に、コンプレックスというのは、人格に作用するのである。
また、ここでややこしいのは、抑圧してあることというのは、心理的に「思い出したらヤバい」「知覚したらヤバい」ことなので、自我にわからないように変形してから、抑圧は噴出するというところである。たとえば、夢の中に抑圧が噴出するとしても、露骨に虐待の事を反芻するのではなく、「妹の住んでいる町が地震になったけれど、妹は無傷だった。それをみて私は『いつもどおりね』と声をかけた」などという不可解な夢をみるのである。そして、本人は、父から受けた虐待の事など忘れている。もし、虐待をうけたという記憶はあっても、細かい虐待の内容が思い出せなかったり、その時の悲しかった、恐ろしかったという「感情」の部分だけが、自分の中に解決されないままに、抑圧されていたりする。
ここまでの話を、フロイトは、たった一人で展開したのだ。すごいおっさんである。結局、フロイトの説を大きくまとめると、「人間の心には無意識と呼ばれる知覚できない領域があり、その無意識下に抑圧された記憶が原因で、ヒステリーや分裂病、多重人格などが引き起こされている」ということだ。フロイト以前の精神科医は、精神病患者を診察しては、「了解不能」と烙印を押して一件落着というものだったのだが、フロイトによって、精神病の原因とその治療の光明が見えたのだ。これは、20世紀に入ってから、第一次大戦頃の話である。
さてここまでの話は、フロイトとユングに共通の「大前提」である。
この次に、当然、「では人間の無意識には、何が抑圧されているのか、なにがヒステリー、神経症の原因なのか」という概論を考えたくなる。そしてフロイトはエディプスコンプレックスに行き着くのだが、これにユングは反発(ユングはもともとフロイトの弟子分で、親交が深かった)し、フロイトと袂を分かつことになる。この後、フロイトの作ったのが「精神分析」、ユングが作ったものを「分析心理学」というふうに分類されてゆく。
フロイトは、人間が生まれてから発達していく過程において、異性の親を好きになり、同姓の親をライバルと感じる、エディプスコンプレックス(女児が父親に慕情を抱くのをエレクトラコンプレックスということもある)を提唱した。
男児は生まれてすぐに、母親と一体(もともと真に一体であったが)の状態であり、母親に無上の愛を感じている。そして、その夫である父親を、憎み、嫉視し、また、その父親に自分の男根を去勢されるのではないかという恐怖を感じるようになる。そして、結局は、母親に対する恋愛感情と、父親に対する憎しみと恐怖を抑圧し、そのコンプレックスによって人格が形成されることになる。このとき、これが正常に発達すれば、父親を超えようとする心、異性を慕う心などが、思春期を中心に育ってゆくが、それが正常に行われないと、未熟な人格のまま齢を重ねる事になる。たとえば、母親を独り占めしてきた男児は、父親によって自分の欲求が制される事がなかったので、極めてわがままになる。また、父親の存在が以上に強かった場合は、異性を愛する事に恐怖を覚えたり、罪に思ったりする。結局、人間の心に抑圧されているものは、エディプスコンプレックスを中心とする、全て「性」の抑圧である、とフロイトは考えたのだ。それゆえ、フロイト派全盛期の夢分析などは、すべてエディプスコンプレックスに帰着させられていたりする。
当時、この考え方が強く非難され、フロイト派は、この性理論を擁護する弁護会の様相を示した。そしてついに愛弟子ユングが離脱(このときフロイトはショックで倒れたという)し、ユングは独自に分析心理学として、臨床心理に携わってゆく。
ユングは、フロイトとどうしても論が衝突してしまった苦悩から、人間のタイプに関する論を発表する。まず、人間の一般的な態度として、外向型と内向型があるとした。そして、人間の心の機能には、それぞれ相反する思考と感情、感覚と直観の4機能があるとした。そして、最も発達した機能と、内外向の性格をあわせて、人間を4かける2の8つのタイプに分類したのである。
このようにユングは、人間の自己、というものについて造詣を深めてゆく。自己とは何なのか、どこにあるのか、という哲学に近い問いを、心理学的に解明しようとしたのである。
ユングは、タイプにもとづいて分類された人格の正反対の人格が、無意識下に抑圧されるのだと考えた。そして、その抑圧された方の人格を、「シャドー」と呼んだ。そして、自己というのは、その自我とシャドーの統合した中心点にあるとし、そこにたどり着く事が、人間の究極の目的である「自己実現」であるとした。(ここでは書ききれないので省いているのだが、ユングは、「自我があり、個人の無意識があり、それよりもさらに深い部分には普遍的無意識というものがあり、その無意識は時空を越えて、過去と、また別の人間の心ともつながっている」とした。テレパシーや予知、後知などの超心理学現象はこれによって起こるという。ユング自身は、無意識の世界をのぞくうちに分裂病に近い精神状態に陥り、何度も予知夢や超心理現象を体験している。本当は、それら自我と無意識、普遍的無意識まで含めたものの中心に自己があるとユングは言っている。)
抑圧されたコンプレックスによって、神経症が起こるというだけでなく、抑圧された様々なもの、抑圧されたウラの人格「シャドー」を統合する事によって、人間は自己実現に至る、というのがユングの理論の骨子である。
さらにユングは、普遍的無意識の存在を確信し、その中に「原型」があるとした。どんな生活圏、文化圏の人々であっても、人は生まれもってその原型を心の奥底にもつので、それに起因する心的体験をするし、その原型にもとづいた原型イメージの夢をだれもが見るのだという。原型とは、グレートマザー、老賢者、アニマ、アニムス、タナトス、などである。正直に言うと、はっきり覚えとらんわ。
ユングの理論を大雑把に言うと、「人間の心は、原型に見られるような普遍的無意識と、抑圧、シャドーに見られる個人的無意識と、自我との、3つのゾーンによって構成されており、その中心にある自己に向かっていくものだ」ということである。その真中に向かっていく象徴を、ユング自身がマンダラ(マントラとも)の図形として夢に見ているし、いわゆる「神」という存在も、この象徴であるという。
とまあ、フロイトとユングの話でした。あーしんど。
本当はA4の紙数枚に書けるような内容ではないし、時代や出展などには興味がないので、そのへんかなりテキトーである。これを資料に使ったりしないように。フロイトの「精神分析入門」の上下巻(全書14巻の1巻2巻)、河合隼雄の「ユング心理学入門」あたりに、これらのことは全部載っています。ユングの原著は難しすぎて意味がわからんのでお勧めできません。
なんでこんなことを長々と書いたのか、何が言いたいのかというと、いわゆるヘンな人、イタい人というのは、ちゃんとそうなる理由があるのだと言いたいのです。要するに、無意識に隠しているコンプレックス(コンプレックス=劣等感というのは誤訳です。劣等感コンプレックス、というのはあるし、優越感コンプレックスというのがあってもおかしくない)が、人格の足をひっぱっているということです。もちろん本人は自覚なし。そのコンプレックスの内容を自覚すれば、しばらくはダメージでへこみますが、イタさからは開放されるというわけです。少しずつ、自己実現に向かっていきます。まあ、言うだけなら簡単ですけどね。
結局、自分で自分の心のことはわからんのです。だから、人の言う事はちょっと耳を傾けた方がいい。とくに、人格に深みを感じる年食った連中の意見とかはね。そして、結婚式だの成人式だの葬式だの、そういった儀式、イニシエーションも、普遍的無意識に接触する儀式だから、あながち無意味ともいいきれないので、ちゃんとやろう。もう一歩踏み込めば、コンプレックスの影響が身体にくることもあるし、意外に病気がきっかけで自己実現に向かう事もあるし、また古くから武道などで心技体と言われるように、心と身体は分離できない一体のものです。心と身体を分離して考える方法は、近代医学を生んだけれども、自分自身についてとらえる時は、やめたほうがいい。心と身体の全体性を心の端にとどめておくと、ちょっといい。さらにヤバいところまで踏み込めば、普遍的無意識というやつは、偶然、共時性などをつかさどるもので、因果律をこえた部分で作用してくる事もある。水漏れしていた洗濯機を修理した日に、子供のおねしょが直ったとか、噂をすれば影が差すとか、合理的に説明不能な「偶然」が、「起こりやすい」性質がこの世の中にはある「ように感じられる」のです。これを合理的に説明しようとしたり、理論的に利用しようとしたりするのは大きな矛盾で、ただのカルトです。ですけど、虫の知らせとか、縁起かつぎとか、そういうのも、完全無視するのはよくない。
自分で自覚できる自我だけに頼って世界を見、生きていくのではなくて、その自我を少し閉じた時にぼんやりと入ってくる感覚に、焦点をあわせることも必要だと思うのです。
たとえば、外交的で、思考能力のすぐれたバリバリサラリーマンがいたとします。仕事に夢中なまま、50歳になったとします。あるとき、急激に身体を悪くして、入院するのです。そして、病院のベッドで一人たたずんでいるとき、すとーんと、「俺は今まで、何をやってきたのかな」という感覚がやってくるのです。今まで、自分の知らないウラの世界があるとは聞かされていなかったので、今までの自分が、全くの無価値に思えてきたりして、うつ病になったりします。この中高年のうつ病のケースは、さいきん特に増えてきています。そしてここから立ち直っていくと、いつの間にか好きな音楽を持つようになったり、仕事もせずに駅前をうろついている若者を否定的に見なくなったり、話の合わなかった息子と話ができるようになったりします。その上で、なんだかんだいって、ああやってこうやって生きてきたんだな、と自分を振り返る事ができれば、新たに自己実現を為した、ということができるわけです。で、この例みたいに上手くいけばいいけど、そうは行かない場合もあるし、この例の人、病気以前は、有能な人だったけど、少々近所迷惑な存在、だったかもしれません。ウラを知らずに、自分が、唯一の正しい道を行っていると確信されて頑張られると、ちょっと周りの人は困ってしまうものですよね。そうならないためにも、たまにその強靭な自我を閉じて、ウラの存在を味わってみるのもいいと思うのです。
少し話を広げて、国とか時代とかの単位で見ますと、これまでは、近代的思想の核である「個の確立」が叫ばれてきて、自我が強靭なのがいいとされてきました。しかし、この思想はそもそも西洋からの輸入品で、一方で日本人は「それだけじゃないんじゃないの」という鋭敏な感覚をしたたかに保ちつづけて、完全に消化していない部分もあります。言っている事と本音で思っている事が分裂して、気持ち悪く、時代が閉塞感に包まれているようです。
西洋では、古くからそれでやっていますから、やはり洗練されているし、なにより巨大なキリスト教というものがあって、精神のバランスをとっています。それらの背景を無視して、経済成長に合わせて「個の確立」「個人主義」「自由」などを輸入したものだから、バランスを失っているのです。例えば、赤ちゃんを産んだ夫婦が、二人とも「なーんか、育てるのめんどくさいよな」「愛情とか別に湧かないし」と思ったとします。そのとき、あなたなら、その夫婦をどう思い、どう言ってやりますか。やはりそこで、キリストなしに説得するのは難しいのです。
ここでこの夫婦が間違っているのは、そもそも正常な情緒を持っているとは思えませんが、何より、自分の知覚する「めんどくさい」という感覚だけが、自分の心の全てだと思っているところです。心の中には、いくつもの相反する感情が生まれるのです。「かわいい」「けどちょっとこわい」「めんどくさい」「でもそれはかわいそう」など、生まれては葛藤し、抑圧されていくのです。その上で、「めんどくさい、けど、きっとそれだけが自分の心じゃない、結局、自分の心、本音はよくわからない、よくわからないから、世間で言われているように、あるいはキリストが、お釈迦様が言うように、命を大事に、育てよう」と考える事、自分が自分の事を知らないのだ、という基本態度が必要だったと思うのです。今まで無神経に「個人主義」を推奨してきた結果、自我が全てであるという思い込み、自己無謬感、ひいては唯我独尊的感覚が真実と錯覚する人が増え、「やりたかったからやった」という猟奇的犯罪が起こっているのです。
フロイトうんぬんの話からやけに飛躍しました。あーしんど。これはかなり疲れた。とにかく、自分の心に自分で知覚できない部分がある、というだけで、こーんなにいろんな事が起こるわけです。人間のことを考えるときに、無意識、自我、というファクターは超重要です。それゆえに、その辺の事を知らねばならない。せめて勉強はしなくてはならない。とくに、本当にこの国が無宗教でやっていくつもりならね。
[フロイトとユングのりくつ/了]