ヘヴィメタル仏教
私はヘヴィメタルが好きで、よく聴く。聴いているうちに、あるときふと気づいたのである。ヘヴィメタルこそ、まさしく仏教であると。
今は無きJudas Preistというヘヴィメタルバンドをご存知の方が、いらっしゃるだろうか。そのヴォーカルであったロブ・ハルフォードこそ、メタル・ゴッドとまで称される、ヘヴィメタルの王である。ジューダスプリーストは今はもう解散して、ロブは主にソロ活動で、金切り声を上げつづけている。彼の音域は5オクターブ半にもおよび、人ならぬ声であることは一度でも聴けばイヤというほどわかる。気になる人は、ジューダスのアルバム「ペインキラー」や「ラム・イット・ダウン」、「背徳の掟・ディフェンターオブザフェイス」を、1700円出して買ってみるといい。まあ、10分もしたら、CDは押し入れ行きになるだろう。まともな情緒をした人が聴くものではないと思うし、タワレコで「ジューダス、あります?」とか言ったりするとひかれることうけあいである。今メタルをやっている連中、好き好んでいる連中など本当に極少だし、音楽通にとっては、技術的には尊敬するし圧倒されるけど、何を表現したいのかさっぱりわからない、と笑いのネタにされているのがメタルなのである。
ヘッドホンをつけて、ヴォリュームをあげてその音楽を聴いていると、ものすごい声で、とんでもない歌詞が聞こえてくる。地獄に落ちる運命だ!街の中心に向かって突っ走れ!煮えたぎった金属は爆発寸前だ!100万本のギターがうなりをあげる!一触即発!・・・・・そんなセンテンスが私の外耳中耳内耳から脳髄まで突き抜ける。
ロブのヴォイスに浸っていると、ある意味の、呆然とした気持ちになる。なんというか、全てのことが、小さく、どうでもいいような気がしてくる。例えば、オンナのコに振られただの、仕事が不安だの、先生にテスト範囲を聞きに行くのがイヤだの、そんな瑣末なことはどうでもいいように思えてくる。なにしろ、地獄に落ちる運命だ!なのであるから。この、瑣末なことがどうでもよく思えてくるところが、仏教に相通ずるのである。
仏教の核は、煩悩からの解脱にある。仏教は世界平和のためにあるのではなく、ただ人が苦しみから抜け出て幸せになるために説かれたものである。人生というのは基本的に苦しみの連続で、その苦しみは、結局煩悩によるものだ、というのだ。煩悩のボンは、煩わせる(ワズラワセル)のワズなのである。この煩悩から完全に離脱し、彼岸に達した人こそ、悟りを開いた人、ブッダなのだ。
よく宗教は、世界平和のためにあると言われるし、またそのように思えてしまうが、それはよくできたウソである。とくに仏教は、紀元前500年から300年の話であるから、まず世界戦争などという概念は無いはずなのである。まあ、お釈迦様が生を受けた地カピラヴァストゥは隣国から武力圧力をうけ、後に侵略されているので、闘争には無関心ではなかったろうし、キリストも紀元0年の地中海沿岸で、ローマ帝国の脅威を肌で知っていたことは間違い無い。ただ、だからといって、宗教=戦争回避・世界平和と考えるのは勇み足である。とりあえず仏教とは、煩悩から離脱して人が幸せになる、ただそのための教えであったはずだ。
煩悩から離脱しろ、という仏教の教えは、なかなかアグレッシブである。
経典「スッタ・ニパータ」などを読むと、まず何の遠慮も無く、出家しなきゃ悟れねえぞ、と断言してくれる。煩悩というのは、所有と執着によるものだから、家とか家族とか仕事とか、執着すべきものをもっていてはダメだというのである。もちろんセックスもダメだし、おいしいものを食べるのもダメ、はては、愛する人をもってもダメだというのである。
普通に考えれば、そんなことをして何が幸せになるのだ、というところだ。こんな宗教に家族や恋人が入信したら、それこそ流行りのカルト宗教に入ってくれたほうがまだまし、ケーサツに訴えてやる、と思えてくる。
さっきの世界平和の話でもそうだが、このように宗教というのは、一般の道徳倫理とは真っ向から相反する部分がある。またそれは当たり前である。世間の常識と相反するからこそ宗教であり、それは宗教であることの必要条件だ。一般の道徳倫理で満足ならば、とくに宗教に到達する必要は無く、普通の世間で普通の社会の掟を守り生きる楽しみを得て暮らせばいい。それを飛び越えたところに宗教があるのだ。世情が世情なので一言入れておくが、世間の道理をはみ出たからといって、もちろんそれは宗教だとは限らない。ただの社会不適合者、果ては狂人である。
今我々の周りに見られる宗教というのは、愛がすばらしく、戦争はいけないという、「愛真理戦争忌避教」、とでも呼ぶべきものだ。これはこれで、すばらしいものであり、この実現のために人類は尽力するべきである。ただ、現実に戦争忌避を声高に叫ぶ人には付き合いづらい人がいることも確かだし、愛を唱えるわりには愛をたくさんゲットしようとしているだけの人が多数いることもあながち否定できぬ。
ついでに、その他に宗教化しているコモンセンスを挙げておこう。人にメイワクをかけなければ何をしてもいい、という無迷惑自由教、というのが流行りだし、また、楽しいこと好きなことをしなくてはならないという、「楽しみ」に無二の価値を置く「楽シミ教」も出てきて、のんびり生きる人々に強迫的な圧力をかけている。
だがこれら流行の宗教は、世間道徳と合一するところから、あるいは新進の世間道徳そのものであるというところから、宗教ではないといえる。なにをもって宗教とするかを論じていると無限に文字を食うので、とりあえずこんなの宗教じゃない、ということだけにしておく。要するに、これらは、今までの世間道徳が崩壊していく中で、マスコミのキャッチコピーやポップ音楽の歌詞が繰り返し嘯かれたということによって起こったに過ぎないと、私は考えている。オトナたちのダサい感覚に付き合わず、好きなことやってハジけようぜ、というシンプルな若者らしさが幅をきかせているだけであろう。
これだけでやめると、私がダサいみたいに思えて癪なので、後に、好きなことをやってハジける、ということと、仏教の禅とを関連して肯定することをここに書いておく、ダサいと思ってブラウザの戻るボタンを押してはならぬ。
執着を離れろ、という仏教の教えだが、これにて愛からすら離れろ、というと、愛真理教的反発から、どうしても得心がいかないのが人情である。ところが、よくよく考えて、愛に対する執着から離れる、ということは、まったくもって真理なのである。
たとえば犬を思い出してもらいたい。犬というのは、基本的にいつも楽しそうである。食い詰めていると、まま悲しそうではあるが、とりあえず飼われている犬などは、家のものが帰ってくれば、鎖を引き千切らんばかりにはしゃぐ。ところが、人間はどうか。彼氏から3日ほど電話が無かったから、デートのときもふくれっ面をしている、ということがよくある。こういうときは、相手も本人も、ただ空しい苦の中にある。ここに、愛とその執着を見ることができるのではないだろうか。ブッダのように完全離脱とはいわないが、犬のように、愛されるということの執着から離れれば、たしかに幸せに近づくのである。まあ、本当は、犬がただ幸せなバカなのかもしれないが。
このように、執着というものが、人から幸せを奪うものである。言ってみれば、戦争なども、愛する人、愛する場所、愛する神を守るために行われるものであって、愛憎の執着から人間が離脱すれば、戦争などおこらないだろう。ただし、こういいながら、私自身は甘チャンであるため、愛という煩悩から完全に離れることはできないと思っている、それを棚に上げているのだが。
さて、話は戻って、ロブ・ハルフォードのハイオクターブヴォイスを、私は聴く。怒り狂うかのようなエレキギター、重機関銃を模したようなドラム、その全てが、私を別世界にいざなうのである。普通のパンクロックの切なさやブルースのセクシーさなどとは違う、音の洪水から茫然自失の世界に、私は引きずり込まれるのだ。全てのことがどうでもよくなってくる。愛だとか仕事だとか生活だとか、そんなもん知るか、そんなファッキンな野郎は耳を引き千切ってノドの奥に突っ込んでやって、「ホレ、てめえの好きな仕事と恋愛と自己実現をしに、JRにでも乗れや」と言って。これはメタルの思想をなぞっているので暴力的に過ぎるのであるが、それくらい、日常私の心を支配しているかのようなものから、私を離脱させてくれるのだ。
離脱!執着の放棄!そういえばこれこそ仏教の極意ではないか。何物にも執着することなく、愛も切なさも友情もすべてかなぐり捨ててただ生と死の叫びをあげるメタルこそ、仏教の音的再現なのである。
執着が消え、どうでもよくなると、世界は輝きを失うだろうか。いや、とんでもない。世界は隠れていた光に満ち溢れるのだ。
人は、執着ゆえ、苦しみ、憂鬱になっている。なぜ私には恋人がいないのだろう、なぜ彼はたくさんのお金を持っているのに私はもっていないのだろう、彼女は楽しい仕事をして多くの給料を得、私はくだらないルーチンワークに従事している、私は損な人生なのか、私にはそんなに価値がないのだろうか、なぜ彼女は若く赤いワンピースを着こなすのに、私は年をとって化粧すら恥部をあおるのか、この部屋は汚くうるさい、私の苦労は誰もわかってくれない、生まれたときから目が見えなかった、片足がなかった、言い負かされた、先を越された、かなわなかった・・・・・
これらの苦しみが消え、幼児のように、毎朝の日の光をめでることができるのである。
まあ、これはキューキョク的にはそうである、ということであって、それこそお釈迦様にしかなしえない。捨てきれない執着があって、歯噛みして努力してみるなど、それが人間の切なくそそるところでもあると私は思う。しかし、この執着を捨てることで、世界が輝くということは、心のどこかで真実だと捉えておくべきなのではないか。それが物事を歪み無く進捗させ、かつ死後は極楽へいけるのではないだろうか。
いささか宗教としてのアクが強すぎる話になった。ちょっと普段の生活を考えてみて、執着が無ければ、どのようないいことがあるかを考えてみよう。
普段私は、ありとあらゆる煩悩に、身を焼かれている。例えば、学校の授業中に、「ケッ、つまんねーんだよ、この陽気だから海にドボーンといきてえぜ!」とうわの空になる。集中して勉強ができない。隣席に座るミニスカートの揺れがセクシーでしょうがない。心乱される。しゃべりにくい友達としゃべろうとすると、ヤな感じや気まずくなったらいやだなと、心のうわつきや嫌われることに対する脅えが私を襲う。好きな異性がいれば、なんとはなくお近づきになりたいところだが、駆り立てられてアガってしまっては逆効果である。煩悩に心を焼かれていなければ、もっとうまく思いの人と親交を深められるはずである。まあこれは、もともとが煩悩に片足をつっこんでいるので、まあゴマカシみたいなものだが、荒ぶる気持ちにかきたてられていないということは、特別な好意を持つ相手と仲良くなるのに不可欠ではないだろうか。いつも気になっていた明るく元気なパン屋さんのあのコにも、何に脅えることもなくアイサツを掛けることができたらすばらしい。出世に絡む陰険な上司に対しても、出世欲の執着が無ければ、媚びへつらうことは無い。名誉欲が無ければ、華の無い仕事をしていても、身を焼く悔しさに苦しまず、穏やかに職務をこなすことができる。それだけではない、ただ話し、笑うだけでも、イキイキと話し、大きくのびやかに笑うことができる。何にもとらわれず、何にも脅えることがなければ。
そうして考えると、私たちの生活は、煩悩に基づく多くの苦しみに囲まれているし、さまざまなしがらみや脅えによって、心の動きを制限されている。執着を捨てろ、というのは、命の根源を奪うようでいて、実は命をその本質に回帰させるための呼びかけなのだ。やはり古代仏教の真髄は、核心を突いている。
私にとっては、地獄に落ちろとか煮えたぎる金属が炸裂するとか、そういうジューダスプリーストの轟音こそが、命をリフレッシュする僧侶のお経というわけである。あにはからんや、ここでふと見れば、それこそジューダス「プリースト」、彼らは自ら僧侶であると名乗っているではないか。やはり、ヘヴィメタルは仏教なのだ!
とまあ私は思っているわけである。だが、これにほだされて、CDを買ったりすることはお勧めしない。波長の合わない人が無理やり聴いても、ただの金属音のカタマリである。人には人にあった、離脱にいたるメディアがあるであろう。
離脱にいたる、という点から、同じことを別の角度で考えた人もいる。
西田幾多郎、という人をご存知だろうか。明治時代の哲学者、古来から日本にあった東洋哲学観と、論理構造からなる西洋哲学を融合させた、いわゆる「西田哲学」の創始者である。有名な著書は「善の研究」などで、日本で初めての哲学書とも言われている。お年を召した方なら、だいたい知っているはず。時代によっては有名人である。
「善の研究」によると、善とは、個人がよく個人であること、である。主格相没し純粋体験を実現することである。
なんのことやらわからないが、平易な言葉で、西田に枕元に立たれることを覚悟で極限まで要約すれば、次のような意味である。
「自分」があって「世界」があって、主観的客観的などと言うが、そういうのは、あくまでアタマで考えてるときであって、それより前には、純粋経験と呼ぶべき、主観も客観もない、ただ経験を経験することそのもの、純粋経験があるはずである。その「純粋経験」をキメる(ドラッグ用語の「キメる」)のが、善である。
何かに集中してブツッときて、主観とか客観とかなくなってるとき、それがサイコーに善なのである。例えば、ある歌手が、コンサートの最後に、何かが憑依したかのように無心になって、マイクをもって高らかに歌い上げたとする。サイコーのときである。無心になっているとき、主観だとか客観だとか、そんなのは寝言でしかない。この状態が善である。このとき、高らかに響く歌手の声は、もちろんその歌手という個人の声である。その人の声帯があり、体があり、思想があり、心があり、歌詞があって、それらを無心に放出しているのである。このとき、「うまく歌おう」と思ったりすると、それは「客観的にうまく聞こえるように歌おう」としているのであって、ある客観的な「うまさ」を追及しているのである。このときは無心ではなく、歌手の純粋な「個人」がおかされている。これは善ではない。
一応言っておくと、「ヘタでもいいから一生懸命」とか、そういう陳腐な話を、西田はしているのでは決してない。何も考えることなく声帯と呼吸機構が運動するまで鍛錬し、歌詞を思い出さずとも勝手に口が動くまで繰り返し歌い、その上に、個人の完全開放があるということである。極めた、という一言で言ってもいいかもしれない。この状態をもって善とするのが、西田の善である。
西田は、座禅の達人であり、ブツッとくるとか無心であるとか極めるとか、そういうことに真実を見出していた。それでいながら、それを西洋哲学と矛盾無く説明する言葉に四苦八苦したようである。因みに、四苦八苦というのは仏教用語で、メインになる四苦「生老病死」に、「五陰盛苦。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦」を足して八苦とするものである。
また、西田について興味のある人は岩波から西田の「善の研究」、その他シリーズが出ているのでどうぞ。ただし、本気の哲学なので、そういうのがダメな人は、3ページで読む気が失せて終了することうけあいである。私も読んだには読んだが、途中から無理やり読んだ。ここで書いたのは、善という部分についてだけ、卑近な拡大解釈をしてある。原本は、もっと学として厳密である、イヤんなるほど厳密である。私の書きようがアホっぽいだけで、西田は決してアホなことを書いたわけではないとここで言っておく。
さっきの歌手の話でもそうであるが、無心に遊ぶ子供、雑念の無い犬、あるがままのフーテンの寅さんなど、ハンパな自我が入っていない人を、圧倒的にステキと感じる、そういう事実を我々は知っている。泣くしか知らぬ子供の泣き声は、人の心の一番切ない部分を刺激するし、自我が芽生えて、泣くことでトクをしようとする心の作用が見えた泣き声はムカつく、そういうものであろう。
私自身にも、ブツッときた経験はある。私が大学の合唱団で指揮者をしていたとき、最後のコンサートで、私は棒を振りながら、無我という状態を体験した。
説明すると、長くなるがこうである。
私のステージの前の第三ステージに、客演の先生、プロが指揮をするステージがあり、私はそのときには歌い手として舞台に立っていた。私は先生の棒に合わせて歌いながら、「さすが先生だなぁ、あの左手のあおり方なんか、イケてるよな」と感動していた。集中力がないようだが、まあ部員は50人いるので、それぐらいの雑念が入っても大丈夫である。中には歌詞をろくすっぽ覚えていないやつもいるぐらいだ。
この日のこの15分の演奏のために、大の男50人が何ヶ月も練習し、私は前に立ってあれこれと口うるさく指導し、週に一度は指揮法のレッスンに通い、瑣末なことでも部員ともめ、挫折し、励ましあい、紆余曲折してきたのである。万感の思いに近いものを、まだ幕の閉じた舞台裏で感じていた。そして、この日はゼッタイに失敗しない自信があった。私自身の指揮もそうだし、歌い手も本番の瞬発力を持っている連中であることは信じていた。
さて幕が開き、私は入場の後、客席に一礼して、棒を振り始めた。いつもよりテンションの高い声で、歌が始まった。
そして、それが何曲かつづき、演奏が佳境に入り出したときである。私はあまりに集中力が高まったのか、何の自覚もなく突如、私の左手が、勝手に動き出したのだ。自分でも、あれっ、と思った。そしてそれは、ついさっきのステージで見た、先生の左手のあおり方、そのものだったのだ!私はびっくりして、自分の左手をチラッと自分でみたことをはっきり覚えている。その後も、何も考えていないのに、私の左手、ついには両手さえ、勝手に動いた。私の中に流れている音楽のままに、主観も客観もなく、勝手に動いたのである。
ステージ終了後、私は客席に頭を下げ、拍手を頂いた。幕がしまって、私が汗をぬぐっていると、興奮冷めやらぬ中で、歌い手の一人が尋ねてきた。「おつかれさま!最後のステージ、演奏、どうだった!?」歌い手は、ただ一生懸命歌っているため、意外と、演奏全体の出来はわからないものなのである。私は、答えようとして、もうひとつ驚いた。つい1分前の演奏の内容を、まったく覚えていないのである。いくつかの断片的な音と映像は脳裏に残っているのに、演奏の出来がどうとか、どこで失敗したかとか、そういうことは全く覚えていなかった。
とりあえず、まあまあ、よかったよ、とのれんに腕押しな回答をし、きょとんとした彼をほうっておいて、私は首を傾げていた。さっきの演奏を思い出そうとしたが、やはりまったく記憶に残っていなかった。
この自分の経験から考えても、その瞬間は、主観とか客観とかいう眠たいものはなかったし、そこに明確な「自分」がいたのかどうかも怪しくなる。何しろ、手は勝手に動いたし、私の記憶はないのだから。無我の状態に、「私」もクソもない。そう、私の思惟は吹っ飛んで、ただ私の中に積もっていた鍛錬や素質や経験や思いなどが、勝手にコトを為したのだ。ある意味、不純物の混じらぬ、真の私という個の発現だったのだ。
これが、西田のいう善の、私の経験からの一例のつもり、である。西田曰く善とは、個人がよく個人であること、主格相没し純粋経験を実現すること、なるほどさもありなんである。
哲学の世界では、学として厳密でなくてはならないが、むーほーのじーぺーではそんな足枷は無い。だから、「無我は善である」と、大胆に言いきっても、差し支えないであろう。本題であった私にとってのヘヴィメタルも、私を無我に引きずり込んでくれるメディアなのである。その無我の状態、主観や客観からの離脱、煩雑な思いから離れ彼岸に至ること、という点から、古代仏教の教えに通底している、と私は考える。
無我に至るものが善であるならば、そのメディアがなんであってもかまわない。例えば、スポーツがそうだ。グラブをはめて向かい合い、コンマ一秒でパンチが行き交う中では、無我にならねば勝機は無い。100メーター走が始まる前のモーリス・グリーン選手も、常軌を逸した表情をしていたが、極限までコンセントレーションが高まっていたのであろう。ワールドカップでセンタリングを受けた選手が、ただ昂ぶって周りが見えなくなるのでは二流、集中力が高まって、逆に自分の動悸や闘争心から解き放たれ、まわりがスローモーションのようによく見えてこそ、スーパープレイができるのである。
以前に、上岡龍太郎であったか、関西のお笑いの古株が言っていたことがある。漫才で、一方が一方をたたく。そしてたたき返す。これだけでも、「間(マ)」が動物的な間であれば、笑いは起こるというのである。子猫がじゃれあうように、思惟が介在する間もなく、たたかれたらたたきかえす。それだけで人にうったえかけるというのだ。
この「間」は、動物のしつけのおいても重要だとされる。犬をしつけるのに、「じゃあ叱ろう」と考えて叱ったのでは、犬は何に対して叱られているかわからない。「こらっ」と思う間もなく、「こらっ」と言っていなくてはならない。あるいは、自我発達未満の幼子をしつけることも、同じなのかもしれない。
これら、こんな些細なことにも、無我であれば善、という構造を看て取ることができる。
無我に至ろうとする試みで、もっともそれを直視しているのは禅であろう。西田幾多郎は、禅の達人であった。毎日朝夕の打禅打坐を、何十年と、欠かすことはなかった。禅は、なにもしらずハタからみると、ただ寝ているだけに見えるが、けっして眠っているわけではない。むしろ集中力が高まって、かつ静まっている状態なのである。
座禅についてすこし書くとしよう。禅では、公案というものを用いることがよくある。考えてもつかみ所のない問題を、禅を組みながら、考えつづけるのである。これは、雑念を振り払うために、むしろ念を集中するためのものを用意するという方法である。例えば有名なのが、「手を打ち鳴らしてみなさい。・・・・・いま鳴ったのは、どちらの手か」という問題である。このことを、ずっと考える。その中で、意識は世界に近づいていくのだ。そのほか、座禅とはただ座っていればいいのではなく、大事なのは呼吸である。深く呼吸し、一定のリズムで、丹田に気を送り込むつもりで鼻から吸い口から吐く。西田にいたっては、「呼吸するのも一つの快楽なり」と言っている。また、禅を、座した姿勢に限定せず、むしろアクロバットな体位を用いることで効果を求めたものが、古代インドから伝わるヨガである。私自身も、インドでヨガのレッスンを幾度か受けたが、その方法は禅に酷似していた。東洋的な悟りの真髄は、何千年といきたえることなく伝わっているのである。
最近では楽しいこと好きなことをしなくてはならないという、「楽しみ」に無二の価値を置く楽シミ教も出てきている、と先に述べたが、この、楽しさを追求する現代思想は、「楽しい」という言葉があまりに大味なので誤解を生みがちである。ここでいわれる楽しいことというのは、熱中できること、集中できること、すなわち、雑念を追い払い、無我に至ることのできるメディアのことを指している。若者にとって、楽しくハジけるという言葉で表されるのは、やはり主格相没し純粋体験を実現することなのである。
例えば、セックスについて考えてみる。インドの中部にあるカジュラホー地方の寺院には、多数の性交する像によって奉られた寺院がある。何千という彫刻の性交図が、寺院を取り囲んでいるのである。また、インドには、性交を極めるための書「カーマ・スートラ」という本があって、上流社会の女性は、思春期にそれを学習する。カーマとは、インド伝来の愛の神である。このように、インドでは性交も神の世界に至るヨガの一つであるととらえられているのだ。ただし、それが世間レベルで浸透しているかどうかは別のもので、生活するインド人の大半はただのスケベであるから誤解せぬように。
もし現代日本の若者カップルに、なぜセックスをするのかと問えば、「したいから。楽しいから」と答えるだろう。これは一部回答拒否とも言えるが、要するに、セックスも没頭できることの一つであり、無我に至る一つの方法であるから、「楽しい」と彼らは言うのである。極端に言えば、古代インドの「セックス=ヨガ」思想と同類である。いや、まあ極端過ぎるかな・・・・・。
さてここまできて、一つの構造的問題が立ちあがる。
例えば、セックスについて。ここまで、煩悩からの離脱が真理であるとし、離脱という観点から、主客観念から離脱する西田善の純粋体験、そして座禅やインドヨガへと話をつないできた。しかし、いかにも煩悩の精粋であるかと思われるセックスを、無我=善に至る方法ととらえることは、仏教のいう「煩悩からの離脱」と、矛盾を起こすのではないか、という点である。煩悩からの離脱のために、煩悩を経由しては矛盾である。
セックスや、豪勢な食事、そのほか色々な豪遊でも、人間は没頭することができる。ここにもひとつの無我があるとも言えるかもしれない。ぎらぎらとした無我ではあるが。
例えば、「自分で稼いだカネで、豪遊してハジけて、何が悪い」という世俗的な強弁が可能である。これに対して、言葉が詰まるようでは、いかにも主張が不備である。ただし、もちろん、セックスする最中に別のことを考えていたり、豪遊していてもいまいちノリきれていなかったりした場合は、無我でもなんでもないので話に関係無い。そうではなく、人間は、我を忘れるほど煩悩に身を任せることもできるという点を、見過ごすわけにはいかないのである。
「無我は、煩悩に身を任せることによっても、得られるのではないか」「煩悩から離脱せよ」という構造的矛盾に対する疑問は、正直なところ私の中でも結論は未だ出せずじまいであるが、いくつかのヒントは得ている。
仏教の経典の一つ、「スッタニパータ」の第1章第3節「犀の角」に出てくる言葉で、次のようなものがある。
「実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心をかく乱する。欲望の対象にはこの憂いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。」
「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」
「仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者との別れを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め」
このタイプの文が、第3節にはずらずらと並べられているのだが、そのうちの3つを私的に抜粋した。
私をうならせるのは、憂いのあることを「見て」とか、禍いの生ずることを「観察して」とか、「別れを厭いながらも」とか、この文意の幅の持たせ加減である。ここでは、欲望を捨てろ、という文意が、強く断じられるのではなく、欲望とその働きをよく見ろ、そして独り歩め、と諭されている。なんというか、心理カウンセリング用語でいうと、「非指示的」な含みをもたせたいわば道しるべとなるものが、ただ述べられている。(訳者は中村元。オーソリティである)
「見て」とか「観察して」とか、これらは、仏教の四諦八正道につながるものである。四諦八正道について詳しく述べるのは専門書にまかせるとして、四諦八正道の八正道の中には、例えば、正しく見ること(正見)の道などが記されている。なお、「諦」めるという言葉が使われているのは、あきらめる、というのはもともと「明らか」の「明らめる」を語源とするからである。
正しく見ることに道がある、というのが真理ならば、ここにある「見て」「観察して」は、「正しく見て」「正しく観察して」ということになる。この「正しさ」とはなんなのかについて述べられているのが「四諦」のほうなのだが、それはおいておくとしよう。
正しく見る、という言葉には、なによりズッシリと重みがある。この重みを用いて、先ほどの構造的矛盾、「無我=善であり、また煩悩からの離脱が悟りであるが、煩悩によっても無我が生まれうるという事実がある」という矛盾について、回答したい。
煩悩によっても、無我にはなりうる。ただ、煩悩による無我を楽しむときには、それが、後には禍いと苦しみを生じる、憂いのタネにもなることを、心のどこかで知っていなくてはならないのだ。私はそう結論する。
例えば、こうだ。母が子を産む。その分娩という大仕事は、そして母との子の対面は、母を無我の境地に至らせるだろう。子に対する情愛は甚だ大であるので、自分の体から生まれ出た子供は、母の心と本能をつんざいて愛しい。さて、ではこの子供が、一転、不治の病にかかったらどうなるか。母は、愛しさからくる苦しみで、己が心を焼かれるであろう。愛欲という煩悩から、やはり苦しみと禍いは生まれうるのである。
子を産むというのは話が強烈すぎるならば、例えばこうだ。うら若き女性が、友達と海に泳ぎにいく。悩みが無く全てが楽しい学生時代に、最盛期の美身を太陽と人々にさらし、おおはしゃぎする。ナンパされて、それを冷たくあしらったりからかったりして、でも中にはカッコいい人がいて、イイコトになったりして、いつしか遊び疲れて泥のように眠る。そういう、黄金の時間を過ごしたとしよう。そして、10年を経たとき、状況は一転している。冴えない事務員をこなしている間に婚期は過ぎ、彼氏と呼べる人もいない、という状態になる。お見合いをして、ダサいけど、一応キープしておこうと思った男性から、あっさり交際を断られる。資格を取るための勉強はするが、以前のようにアタマは働かない、活動力は減少していく上、このまま時間が流れれば、さらに状況は悪くなるとあせり、そういうときに限って、最後に残っていた独身仲間から、婚約しましたのハガキが届く。このとき、かつて黄金の時代を満喫した人は、こんなはずじゃないのに、昔は楽しかったのに、と身を焼かれる苦しみを味わう。この先、齢を重ねていく中で、もうあの黄金のときを上回る幸福感は訪れないのだ、ということに思い至れば、絶望し、心を黒くしたまま、残り50年を生きる。後は姑として、嫁をいじめるのが生きがいになるかもしれない。やはり、煩悩から禍いと苦しみは生まれうるのだ。
この禍いを防ぐ、あるいは禍いはともかく破滅を防ぐためには、やはり、心のどこかで、知っていなくてはならない。この楽しみや喜び、恍惚と喜悦が、いずれ己の身を焼くことにもなりうるのだ、と。
決して、世の中を年寄りくさくしたいわけではない。例えば、海で若さを開放するもいいが、さてそれを楽しむときには、心のどこかに、諸行無常の覚悟をしておかなくてはならないのだ、と思うのである。そうしないと、そのときの楽しみの陶酔は、巨大な負債となって、己が身を焼き尽くしに戻ってくる。いや、覚悟していても、いずれ焼かずにはいられまい。ただ、その温度をさげ、破滅に至ることを避けられるのではないか、あるいは焼かれることを慢性でなく一過性にできるのではないか、と思うのである。
本題に戻ろう。「煩悩によって生まれる無我は如何」という問題に対し、「それもよいが、覚悟はしておいて、楽しむように」というのが、私の回答である。煩悩に基づく無我は、クレジットカードで豪遊することに似ている。悪いとは言わないが、覚悟しておかないと、返済時に破滅的な悲哀と鬱に陥るのである。仏教の経典に馴染む単語を使って、かつ卑近に、「楽しむのはいいが、むさぼるのはいけない」と、シンプルに近似していいかもしれない。
Ram it down!ハルフォードの声を聞くと、私は呆然となり、禍いの元となる煩悩の執着から逃れることができる。執着がなくなると、人間の心は、本来の生命を吹き返すのだ。脅えることなく、いきり立つこともない。自分の為したいままに、自分を生かすことができる。執着や、それによる脅えやいらだちなどに駆り立てられているときは、自分が自分でなくなっており、いわば煩悩という悪魔の操り人形である。
その執着のない状態は、無我の中にある。
無我に至ることのできる、自分の道を探せ。
音楽を聴いてもいい、スポーツでもいい、むさぼらなければセックスでもいい、歌うことでも踊ることでもなんでもいいから、無我を探れ。その無我の瞬間を手がかりに、行住坐臥無我たれるように心がけよ。煩悩と執着がなくなれば、そこに残るのは、ただ自分という個のみ。この状態が、世界で一番ゴキゲンな状態なのだ!西田哲学のいう「善」にこれを重ねてもいい。そうして、犀の角のようにただ独り歩め。
ただ、古代インドではともかく、かくあでやかな現代先進国の煩悩を全て捨てるのは、凡夫たる我々に絶望感を与えてしまう。そこまでしなくてもいい、悪ふざけできる友達がいて、安酒を飲んでカラオケではしゃげるチャンスがあれば、それを禁じはしないから、そうすればいい。ただ、この楽しみは、諸行無常、失われてしまうこともある、その切なさを覚悟しておかねばならない。その覚悟さえあれば、後にやってくる苦しみも、一過性で乗り越えることができるだろう。
自分の芯からゴキゲンになるためには、全てのものから離れて自分のみに至らなくてはならない。自分のみ至ったときとは、また自分すらなくなったときでもある。ただ世界の体験だけがそこにある。
それに向かって、犀の角のようにただ独り歩め。
[ヘヴィメタル仏教/了]

