事より仲間
やりたいことをやるのが一番というけれど、本当は、そのなにかをするときに、ともにいる仲間のほうが大事だ。
先日、夜の海を見たくなって、連れと海岸に行った。すると、漁師さんたちが、シーズンの過ぎた海の家を解体していた。砕かれた材木が燃やされる大きな焚き火の明かりに、フラフラと私たちが寄っていくと、漁師さんたちは仲良くしてくれた。「みんな、この海に来て楽しんでいきよるんよ。若いのんも家族づれもな。あんたらも、来年は泳ぎに来いな。ええ海やから」、と、潮に枯れた声で言った。
また別の漁師さんが一人、私たちが座れるように、ダンボールを持ってきてくれた。そこにダンボールを2枚重ねて、「ほれ、ダブルベッドや」と私たちを笑わせて、また作業に戻って行った。暗い海岸に、大きな声が遠く響く。作業の指示に、軽口や冗談や悪口をまぜながら、焼けてひび割れた顔に汗を流していた。漁師さんたちは、こうして、何年も、仲間たちと労働を繰り返してきたのだろう。私は、それがうらやましく思えた。
私は来年から、資本金322億円の企業で働く予定だが、一体それが、何の幸せを保証するだろう?私は、生きていく中で、この漁師さんたちのような仲間と居場所を、手に入れられるだろうか。
キャリアアップ、自己実現、自分らしさ、そんな言葉が空虚さも新たに、私の脳裏に冷たいゴシック文字で現れて、私の焦燥を煽った。その冷ややかな文字たちを、焚き火にくべるか、波に流してしまいたかったが、私はとりあえずダンボールに座り込んで、ひざを抱えることしかできなかった。
漁師さんたちは作業を中断して、食事に行った。
私は材木を焚き火にさしこみながら、自分のことを思い出していた。
私は、大学で、合唱団に4年間いて、その指揮者を務めたりした。楽しかった。だが、またやろうとは思わない。あれは、あいつらとやるから、ああも面白く、また心に食い込む思い出になりえたのだ。そのほか、つい最近、カラオケでバカさわぎしたときでも、いつまでもオトナにならずプレステ2で徹夜したときでも、楽しいときのことは、かならず仲間の顔が思い出される。それは間違い無く素晴らしいものだ、という実感を伴って。
事より、仲間か。大事なのは。
漁師さんたちは、食事が終わったら海岸にゴザを敷き、酒を飲んで翌朝まで寝るという。ここにいると、宴会にまきこまれるので、私たちは立ちあがって服の砂を払った。
いこうか、と言ってから、私は材木の中から大きなものを拾い、砂に大きく、アリガトウ、と書いた。連れがそれを見て、「見えないかなあ」と言い、私も「かもな」と言った。大きな焚き火の前で、時ならぬ書道をしたので、私は汗をかいていた。
[事より仲間/了]