感動
先日、久しぶりに後輩らと酒宴をした。お金のない大学生である我々は、ウイスキーやチーズを持ちより、コンビニでおつまみを買って、公園に集まった。公園といっても森林公園などではなく、大学のそばの空き地にブランコがおかれ植樹がなされただけの公園である。100坪もないような公園だが、大学のそばで、景色がいいこともあって、たまにカップルがいちゃついているのを見かける。
その公園に我々5人は三々五々集合し、まずはカップルのいないことを確認してから、地べたに座り、円陣を組んだ。紙コップに、意外に高級なもらいもののウイスキーを注ぎ、とくに祝うべき何物もない、ダレた乾杯をする。なんとも貧乏くさい光景である。通行人が好奇の視線を向けているのを感じるが、我々はそういうことには慣れっこなので、いつもどおりの酒宴を楽しんだ。ウイスキーが予想外に芳醇なものだったので自ずと酔いは加速し、また久しぶりのメンツであったため、談笑もいつになく盛り上がった。
この公園は大きなマンションに面しており、我々の大きな笑い声はマンションにはっきりと聞こえていただろう。ひょっとしたら警察を呼ばれるかもしれない、とも思ったが、まあそのときはそのときである。夜11時を回ろうという時間に、我々は無遠慮に大声で笑いつづけた。
ふと、向かいの高級マンションの10階ベランダから、誰かがはっきりとこっちを見下ろしているのに気づいた。「あれ、誰かこっちみてるよ」と、5人が上に目を向ける。シルエットで、女性ということだけはわかった。浮かれきっている我々は、とりあえず手を振ってみた。すると、向こうもご機嫌なノリで、手を振り返してきた。
その女性は、部屋の中に消えると、だんなさんらしき人をつれて、再びベランダに出てきた。だんなさんもごきげんに、両手を大きく振ってくれた。酩酊する我々はとにかく盛り上がり、全員で手を振った。
「ワインは好きかー!?」
と、突然、深夜のマンションに壮年の声が響いた。
「好きでーす」
と、間髪をいれずに返した。
「1階ー!」
1階、と、体現止めを残して、そのだんなさんは奥に消えていった。1階!ワインは好きか!
エレベータが1階ホールにつくと、肩まであるロマンスグレーが粋な、だんなさんが出てきた。彼は、ぶっきらぼうに1本のワインを突きつけ、
「貧乏学生に乾杯」
と、我々に笑いかけた。そして、すぐに部屋に戻っていった。
我々は、いただいたワインをさっそく紙コップに注ぎ、10階ベランダを見上げ、だんなさんが出てくるのを待った。やがてベランダにだんなさんが現れると、5人はコップを高く突き上げ、これだけはモラルに反してもしょうがない、大声で、
「かんぱーい!」
と唱和した。だんなさまもグラスを掲げ、返礼してくれた。そのワインはなかなか高級なものらしかったし、また、その来歴によって世界最高とも言える美味であった。
私は、この夜の出来事を、この上なくすばらしいものだと感じる。ひとつ、世知辛い世の中なれど、粋な人はいるということ。ひとつ、我々は阿呆で迷惑な学生たちであるが、不快感をもたらす者たちではなく、人の心をくすぐる者たちであれた、ということ。このようにしてもたらされた深夜の赤ワインは、全ての陰鬱を吹き飛ばしてくれるぐらいうまいものだ。このために生きているといってもいいぐらいにだ。いや、いいぐらいというか、このために人間は生きているのだ。今私には、強い確信がある。
この夜の出来事は感動であった。このために人間は生きているのだ。すなわち、人間は感動するために生きているのである。
人間は、そして私は、感動するために生きている!
ジーンとするとか、グッとくるとか、そう言い換えてもいいだろう。また、路線を変えて、何がいったい感動的なのかを考察し、感動するからすばらしいのではなくすばらしいから感動するのだ、などとかき混ぜることもできるが、そんな野暮はもっとも罪深いものである。感動すること、心の芯が貴なる感情で満たされること、このことのために人間は生きている。そのことが今、血の通った結論として、私の中に宿っている。
お金を稼ぐことは大事である。なぜなら、度を越した貧困は人心を歪ませ、感動を遠ざけるからだ。ミュージシャンは素敵である。まっこうから感動するさせるということを目的とするからだ。どす黒い衝動で人を殺したり傷つけたりしてはいけない。それは人間の感動する心を消耗させるからだ。10倍の財産より、1/10の財産で10倍の感動がある人生のほうがいい。ただこなすだけの大企業の専務より、出世できなくても感動のある仕事を誇っていい。芸術家でなくてもいい、才能のない自分を輝かせようと懸命に生きる姿が感動的であればそれでいい。
私自身がそうだし、あるいはこれを読んでくれている人の中にもそういう人がいると思うが、日常を生きていく中でも、色々なことに悩み、やがて鬱屈し、迷妄し、イライラがつのって、残酷でヒステリックな気持ちになり、あげくはそれを哲学であるかのように信じ込もうとしだす。その歪んだ哲学を不自然な声高さで振り回し、人を本意ならず不愉快にさせて、それがまた人離れをまねき、孤独感からますます陰惨な自分を作り出してしまう。私はもう、それはこりごりだ。
すべてのことを、感動に向けよう。迷い悩んだら、ふてくされずに、感動を目指す道を選ぼう。誰に何を問われても、
「だって、そのほうが感動じゃないか」
と答えられるように。
やはり性格は明るいほうがいいし、物事には一生懸命なのがいい。人にやさしく、できるかぎり笑顔で接するのがいい。それは倫理道徳ではなく、ただ感動を生み出しうるという一点において、正しいのである。やはり人を罵り嘲るのはよくないし、悲観的になって頑張り屋さんを冷笑するのはよくない。それは感動を生まない、生まれるべき感動を霧散させるという一点において、誤っているのだ。
すべては、感動するために。
そしてこれからの私が為す全てのことが、どうかわずかでも感動を生むものでありますように。
[感動/了]