甘えの構造
甘えの構造、という有名な本がある。心理学者の土居健朗という人が書いた本で、日本人に特有な「甘え」に関して、丁寧に論じてある。読め。
まあでもそんな小難しい本を読むのがヤな人もいるだろう。だから、甘える、というのは本質的にどういうことなのか、そういうことを偉そうにここに書こう。甘えからの脱却というのは、大人になる過程で非常に大事であるし、甘えの本質を捉えていない人が近所迷惑を振りまくことがあまりに多いので、これは絶対に知っておくべきだと思う。
結論から。甘える、ということは、「自分と他人との境界をあいまいにすること」である。
さて、例えば、「忙しいところ非常に申し訳ないが、今日にでも○○を××してくれないか」というのは、「甘え」っぽいが、これは別に甘えではない。頼っているのである。真に甘えが露出するのは、この依頼が拒絶された時に、もしその依頼者が不満を感じたら、それこそが「甘え」というものである。
「○○を頼む」と依頼する、そして、相手は承諾するか、拒絶するか、どちらかを選択する。相手には、選択権がある。これは当たり前の事だ。もし相手が拒絶を選択したならば、残念な結果ではあるが、不満に思ったり、感情を害したりするところではない。もし不満を感じたとするならば、心中で、相手の選択権を侵害しているのである。「相手は私の意に反して拒絶した・・・・・気に入らない。なぜ拒絶するのか」という心理メカニズムこそ、甘えの心理なのである。
例えば、デートの誘いに応じるかどうか、というのは、その人に選択権がある。たとえ恋人であってもだ。色々と個人的な予定もあろうし、相手に好意を持っているかどうかということもあるし、なんとなくそういう気分になれないというときもあろう。いくら熱意をもって誘っても結構、しかし拒絶されて不満に思うのは、相手の選択権よりも自分の要求を優先するという、幼児的ナルシシズム、自分と他人の境界を持たない「甘え」でしかないのだ。
「なんでいつもいつもそうやって断るの!!」と怒る人、あるいは、無言で不満エナジーだけを放出する人(こっちのほうがタチが悪い)の、なんと多い事か。それでいて本人は、その不満を、相手を強く想うが故の不満だと錯覚するケースがよくある。真実は、まったく相手の立場にたって考える事ができておらず、自分のことを想っているだけなのである。
それがさらに重症だと、「なんで雨降るねん、ムカつくなー!!!」と不満を持つ人までもいるのだ。まるでギャグのようだが、深刻にそういう人は存在する。だれしも、バッドタイミングで雨に降られた自分の「間」や「運」の悪さにムカつくということはあるが、それとは異質に、自分の思うようにいかないことがムカつくというとんでもない人がいるのだ。
もっとありがちな例もだそう。道端で、誰かとドンとぶつかった。そして、そのまま過ぎ去る。その時、「一言謝れ、ボケ!!」と聞こえないように罵る人がいる。その人は、自分も一言謝るべきだったという事を失念している。それは本質的に、相手から見た場合、という概念を知らない状態で、幼児性ナルシシズムなのである。
生まれたての子供は、自分がいて、母親がいて、母親には母親の事情と都合がある、ということは知らない。だから、自分の要求のままに泣き叫ぶのである。それはそれでいいし、このときは徹底的に甘やかしてやる事で、世界に対する「信頼」「安心感」というものを養うのである。しかし、物心ついた子供が、理不尽な要求で不満を感じたときは、大人は、冷静に、「それはまちがっているぞ」と諭さなくてはならない。そのときは泣きじゃくるであろうが、根っこに「安心感」が養われていれば、愛そのものを喪失することなく、道理を学ぶ事になるのだ。
自分と他人との境界がないと、いろいろなトラブルが起こる。例えば、ある人に連絡を伝える。「明日、6時に集合ね。企画書のまとめを忘れないように」と留守番電話に入れる。その後、相手からコールバックがきて、「6時にどこに集合ですか。そもそも何のミーティングなんですか、企画書というのは、どのプロジェクトの企画書ですか。コピーを取っていったほうがいいんですか。・・・・・それと、留守番電話にメッセージを残す時は、折り返しの電話番号も入れておいてくださいね」と言われてしまう。連絡一つにしても、相手の知っている情報はどこまでで、何を伝えなくてはならないか、ということを考えなくてはならない。これは、マージャンで相手の手を読むように、知能の問題もあるが、やはり甘えが残っている人は、いくら頭がよくても、「うまい連絡」が取れない。
甘えが残っている人、要するにお子ちゃまな人は、やはり仕事ができない。そのくせ、自分では素晴らしいと思い込んでいる独り善がりな企画を振り回し、無視されて、「上の連中は器がない」と不満をもつ。
ここまで書いてきたように、甘えというのは、お子ちゃまの主成分であり、脱却すべきものである。しかし、そもそも甘えが皆無になるわけはないし、日本では特に、甘えが容認されている部分があり、それが安定した人間関係や共同体を生むのに役立っているのである。
他人と自分を区切らない、というのは、地続き、という感覚でもある。親しい日本人同士があまりにこやかに挨拶を交わさないのは、コミュニケーションなどしなくてもすでにつながっている、という感覚があるからなのだ。古くから単一民族(とは言い切れないのだけども)でやってきて、島国で、集落を作る農耕民族でやってきたので、共同体の一体感は、自他の区別をあいまいにするほど強かったのだろう。だから古くから村八分というワザが恐れられるし、ヨソ者に対する圧力は大きくなる。強盗などの犯罪でも、やはりアメリカなどに比較すると、情の残る犯罪形態であることが多い。いきなり店に入るなり店員を射殺、効率よく金品を奪うというまでにいたらず、武器で脅し、おとなしく言うとおりにしろ、という形になる。強奪する金も、個人の金よりも、チェーン店の金、銀行、郵便局の金などが狙われることが多い。やはり、犯罪者といえども、相手を「気の毒」に思う、地続きの感覚を喪失していないのだ。最近増加する犯罪が危機感を煽るのは、アメリカ型犯罪の増加によって、日本人の地続き感の崩壊を看て取るからであろう。
さらに、日本人が宗教なしで孤独感を感じなくてすむのは、他人とつながっている感覚があるからなのだ。キリスト教圏の人たちは、我々は神の子、と知ることによって、実存を得ている。日本人は、何々村の誰々家の長男、ということで実存を得ている。人間は究極的に「私は誰なのか」という問いかけを持つ生き物で、普通はそれを宗教に委ねるが、日本人は古くから、クニ(故郷)に委ねてきたのだ。
他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人他人、と書くと、非常に冷たく、寂しい感じがする。他人、という言葉は、相手との地続き関係断絶を宣言するものでもあるからだ。甘えを完全放棄するということは、世の中の人間全て、家族まで含めて、自分と他人とだけに分類する事だ。そういう風に言えば、甘えもなかなか、情があっていいものに思えてくる。
べたべたの恋人同士は、お互い承知の上で甘えきっていることが多いし、家族、という言葉も謎の重さをもつ。会社の中でも、「まあまあまあ」というフレーズが何万回と使われる。それで上手くいっている部分もあるし、それらを捨てたら、アメリカ型犯罪の増加を覚悟しなくてはならない。かといって、先に述べたように、甘えは人間関係に湿気とトラブルをもたらすものでもある。
結局、甘えがいいとか悪いとかは、一言で言えるようなものではない。ただ、甘えとは何なのか、ということをもっと知らなくてはならないと思うのだ。「甘えるのはダメ」と座右の銘にするのはちょっと大雑把すぎるし、「私は甘えない」と高言する人はたいがい近所迷惑なものだ。自分は何に甘えているか、相手の甘えをどこまで許すか、どういうときに甘えてはいけないか、それをきっちりもつことで、いい大人になれるように思えてくるのである。
[甘えの構造/了]