観念論的野郎ども
観念論というのは、「我思う、故に我あり」というやつで、全ての原因は、そう「思う」からだ、というやつ。それに対するのが唯物論で、「モノがあるから、思うんや」という、反対の理屈。ニワトリとタマゴの話のように収拾はなく、哲学の話がまとまらない時は、たいていここでお互いの感覚がずれているものだ。
観念論的野郎ども・・・・・
「若いうちは、やっぱ夢もってないとダメだよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「学級崩壊とか自殺とかに、もっと社会ごと本腰をいれるべきだよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「自分がかっこ悪いとき、自覚から逃げたらだめだよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「汗と涙なしに、かっこいいことなんかないよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「やっぱり、お年寄はあなどれんところあるよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「20歳以上は、顔に人格出てくるよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「戦争とはいえ、命かけて戦った人を、侮辱はできんよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「あいつら楽しいと言うわりには、表情くらいよな」
「まあ、お前はそう思うかもな」
・・・・・・この野郎・・・・・
「突然やけど、何で人を殺したらあかんねん」
「まあ、人に迷惑かけるのはよくないやろ」
「なんで人に迷惑かけたらあかんねん」
「だって俺そう思うし」
「俺は思わんぞ、と言ったら?」
「じゃあ、お前はそれでいいんちゃうかな。ひとそれぞれやから」
これがただの言葉遊びで済めばいいんだが、そうでないケースもあるからコワい。
「お前、本番直前やから、いいかげんちゃんとやれよ」
「いやいや、ちゃんとしてるよ」
「なにがやねん、本気でやってないやろ」
「十分本気やで」
「お前、言うこと達者なくせに、いちばん目に力入ってないぞ」
「まあ、お前はそう思うかもな。でも、俺はこれで本気やねん」
また別の例。
「お前就職活動せないかんのやろ」
「うーん、でも、めんどくさいし」
「めんどくさいとかそういうこと言うてるときちゃうやろ」
「あー、でも、なんか他にやりたいことあるし」
「何やねん」
「うーん、何と聞かれても困るんやけど」
「そのよくわからんものをやるのが、何で就職活動しない理由になるんや」
「まあ、今は時間が欲しい時やねん」
「時間はみんな欲しいわい。ただ単に、面接が怖くて逃げてるだけやろ」
「いや、そういうわけではないで」
「俺にはそうにしか見えん。何かやりたいて、夢を語っている人間には見えんぞ」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「具体的には言えんでも、やりたいこと疼いてたら、エネルギーでるやろ」
「まあ、お前はそう思うかもな」
「なんやねん、口出ししたら迷惑なんかい」
「迷惑とは言わんけど、自分の事は自分でわかってるから」
「そのわりには、目ェ伏せてるし、手にやけに汗かいてるよな」
「それは関係ないで」
「さよか」
人間には、防衛、正しくは自己防衛機制という心理機構が合って、自分の心理的にヤバいことになると、合理化してごまかしたり、抑圧(フロイト忘却)して忘れちゃったり、投影してストレス発散したりする。その機構は、本人の自我(自分で意識できる心)に気づかれないようにこっそりとごまかしにくる。でも、はたから見てると、ごまかしたのがわかってしまうことがよくある。
毎度毎度そんな人の心の機微に突っ込んでいては嫌われポンチだが、人として大事なことや、自分の友人の一生にかかわってくるようなことについて、そのごまかしが見えたら、お前逃げてるよ、言ってやるのが友人たる資格であろうと思う。でも、最近、「まあ、お前はそう思うかもな」と言われる事が多くなった。どこでこんな防衛の仕方を学んだのだろう。あまりに世の中が、「個性が大事」「個人の自由」「好きなことするのがいちばん」とか言うものだから、それらをスローガンに観念論的逃避に走り、自分にとってつらいこと、逃げていることに立ち向かう気高い心を喪失してしまった。で、お前逃げてるよとか間違ってるよとか言う側も、個性・個人の大合唱に押される上に、愛情込めていった言葉たちが無視される――――――――「まあ、お前はそう思うかもな」―――――のにイヤ気がさして、言うことを放棄しだした。
私が中学生の時、遅刻すると猛烈に怒鳴り散らす体育の先生がいた。普段は面白い先生なのだが、遅刻したり、不注意でケガの元になったりすると、それはもう烈火のごとく何十分も怒り狂うのだ。そして、その怒り狂う先生をみて、「なんであんなに怒ってんの」「どうでもいいやん」とほくそ笑う女子生徒がいた。恐ろしい事に、同じく笑う教師すらもいたのだ。先生は我々を正座させ、怒りながら、「ボンクラがー!!!!」と怒鳴るが、常に「何回言うたらわかるんじゃー!!!」と言うのだった。また、「笑う奴は笑えばええわい!!!俺はな、お前らがいつまでたってもわからんのがガマンできんのじゃ!!!!」と、怒号は続く。「人がモノ言うてるときは、こっちの目を見ろやー!!!」・・・・・未だに私の耳に、その声はこびりついている。その時は、先生自身も正座して話を続けているのだ。
あの先生は、怒鳴りながら、常に、私に、生徒たちに、教えようとしていた。それこそ、烈火のごとく教えようとしていたのだ。普通に考えたら、さして重要ではなさそうな1分の遅刻、体育で、よそ見してぶつかって、ケガになることもあろう。そんなことを、あの先生は、いちいち自分自身の全身全霊をこめて、手抜きなしで、教えてくれていた。これほど感謝に値することはあるまい。もちろん、人間として、直情的で、始末に終えない部分もあったろうが、私からしてみれば、注いでもらった愛情に、ただただ感謝である。
私が大学生になったころ、かつての同級生からその先生の噂を聞いた。今はもう、怒りも怒鳴りもせず、やっている、ということらしかった。この話を聞いたときは、心底ショックだった。
あの先生の愛情とエネルギーを凌駕するほど、中学生の心は冷え切っていたのか。あるいは、周りの教師が、PTAが、冷酷な圧力をかけたのか。先生を挫折させるだけの、膨大な冷たさと空しさを、先生は投げつけられたのだろう。きっと孤独で、空しかっただろう。それを考えると、あまりにも気の毒だと思うし、何のための学校なのか、そして皆なんのために生きているのか、と思わざるを得ない。
閑話休題して、観念論的逃避によって、人の話を無視する事ができるということ、そしてそれが時代の傾向として増えてきているということ。逃避し、相手の言葉を無視する人は、いずれ、誰も愛情を込めて何かを言ってくれなくなり、その人はいずれ空しさに足をつかまれる。もちろん、その人は愛情を込めて誰かに話す事もない。いずれはその人も子供を持ち、育てる。そしていつの日か、子供が万引きしたといって電話があり、「別にええやろがこれぐらい。なにがあかんねん」と自分の子供に言われて絶句する日が来るのだ。
自分がどう思うか、自分の頭で考えること、自分の心でとらえること、それは非常に大事だ。ただ、誰かがあなたに、ただならぬ様子で、本人は何の得にもならないのに、お前は間違っている、と言ってくれた時は、自分の考えと違っていても、立ち止まってじっくり聞かなくてはならない。そして、自分が自分の考えを反芻する時に、その人の迫力に負けているなら、なにかあなどれない、無視できない、あなたの知らないものがそこに隠れているはずだ。何かを知るときは、もともとはそれを知らないということが前提だ。よく聞こう、心の底から、本当に聞こう。
[観念論的野郎ども/了]