I know
以前、「ウイスキーはおいしくない」と主張する友人がいた。当然私はそれに納得するわけにはいかないので、何かの機会に、高級なウイスキーを一口飲ませてやった。すると、友人は「悪くないな」というようになり、今では彼もすっかりウイスキー党である。
では、以前「ウイスキーはおいしくない」といった彼は、嘘をついたのか。いや、そうはなるまい。その時はその時で、彼の中の「ウイスキー」があり、そのウイスキーは「おいしくない」だったのだ。だから、高級なウイスキーによって、彼の中の「ウイスキー」が破壊され、新しくウイスキーを知った、ということだろう。こういった誤謬(ゴビュウ・過ちのこと)を、「思い込み」と呼ぼう。
判断力や好き嫌いの問題より以前に、「知らなかった」ということが、この「思い込み」を生んだ。そう、人間は「知らない」のである。このことを指して、ソクラテスは「無知の知」と呼んだ。まず、知らないということを知れ、それが叡智の始まりであると説いたのだ。そして、孔子も「知るを知るとし、知らざるを知らざるとする。これ知るなり」と言った。知る、ということは、「知る」だけでなく「知らない」を認知する事によって成立する、ということだ。
ウイスキーが好き嫌いなら、まだ笑っていられるが、たとえば、女子中学生が「愛なんてウソです」と言った時、笑っているわけにはいかない。彼女は、知らないのだ。思い込みなのだ。まだ彼女は妥当な判断を下せるだけの経験と知識が無いのだ。だからはっきりと、「お前は知らない」と諭してやらねばならない。
自分のことを考えたとき、なにかを「知らない」ゆえに、思い込みをして、悩んでいないだろうか。
例えば、ある男性が「彼女が欲しい」という悩みを持っていたとする。そして、友人から「なんだかんだ言って、自分のことばっかり考えているから、モテないんだよ」とアドバイスをうけ、「うーん、そうしているつもりなんだけど」という。この時この男性は、「相手のことを考える」という心理状態を「知らない」し、自分が自分のことばっかり考えている、ということも、本質的には「知らない」。自分は相手のことを考えている、と「思い込んで」いるのだ。
この思い込みを打破するには、結局、「私の知らない心理状態があるのだな」という仮定を立てるしかない。知らないのだから、想像するしかないのだ。ウイスキーの話で言えば、まろやかさとコクとモルトの香りが作り出すハーモニーの味わいが、あるらしい、そして私はまだそれを知らない、と仮定するしかないのだ。
高級なウイスキーを飲んで、「知る」ように、先ほどの例で言えば、本当に他人の事を第一に考えている人を目の当たりにするか、本当に自分のことしか考えていない女につきまとわれるか、そういうことによって「知る」ことになるだろう。それ以外にも、例えば映画の中でそういう人物が描かれていれば、それを通して「知る」ことができるだろう。
自分の知らないことがある。なぜあの人はあんなに楽しそうなのか、明るいのか、モテるのか、くじけないのか、賢いのか、うまくいくのか、輝いているのか、その理由を、私たちは「知らない」のだ。「あの人」は、私たちの知らない心理状態にあるのだ。だから、部屋でうじうじとしていても、何も起こらない。それを知ろうとしなくては。
知るためには、どうすればいいのか。今まで信用できなかった、明るく挨拶をしよう、人には親切にしよう、真面目にがんばろう、大きな夢を持とう、そういうしょうもない標語でもいいから、それなりに実績のある方法を「信じて」、やってみるしかない。一杯2000円のウイスキーなら、一口飲んでみようかな、と思うように、「あの人の言うことなら、やってみようかな」ということがあるはずである。それをやってみることによって、新しく何かを知ることを期待するしかない。
私たちは知らない。人を無私に慈しむ愛も、燃えるような仁も、世界と自我が合一する無心も、知らないのだ。知らないうちに、世界を滅ぼしたくなったり、自分を滅ぼしたくなったりするのは、筋が違うようだ。悩む人は、「何かを知らず」、悩まない人は、「何かを知っている」。その前提の上で、すべきことをするのが、いいと思われる。
[I know/了]