価値反転
キリスト教の元になったのは、ユダヤ教。モーゼとか、ソドムとかゴモラとか、そういうのは、ユダヤ教が出典だ。まだこれは紀元前の話。そこから、十戒は発展してゆき、社会の「法」となる。だから、キリスト教社会では、法は根本的に神聖なる物である。モンテスキューは「法の精神」を書いた。ソクラテスは法の神聖を守るために死を甘受した。法は神聖であり、それだけに契約というものが極めて崇高なものとなる。裏切る事は許されない。そこから、契約社会が発展していく。いまだに中国などでは、契約を交わしていても、「採算が合わなくなったから、やめた」とあっけらんと言ったりする。そういう文化なのだ。
ユダヤ教の十戒から発展した「法」、その内容は、国家の上層の聖職者たちによって定められた。だから、強者の理に基づいて書かれた。これによって、社会的弱者は、社会的にも宗教的にも追い込まれてしまった。
そこに生まれたのが、キリスト。キリストは、弱きものをすくうために生まれてきた。例えば、キリスト教では有名な、こんな話がある。ある女性が、罪を犯し、私刑によって裁かれようとしていた。その女性を囲む人々の前に立ち、キリストは、
「まず、罪の無いものがこの女を打ちなさい」
と言った。すると、ひとり、またひとり、ついに人々はその場から立ち去った。
これは、法による裁き、断罪、それらに対するアンチテーゼである。
ここにある反転が、見えるだろうか。罪が悪、悪は罰するという価値座標から、罪を犯す弱きものこそ、救われる、という価値座標になっている。宗教というものは、その本質に「価値反転」をもつ。キリストは、弱きもの、苦しむものこそ救われるといい、親鸞上人は「いわんや悪人をや」と悪人正機を説いた(正確にいうと、本人は説いていないが)。
これらのように「ダメだと思っていたものが、実はすばらしい」とする反転が、宗教の本質にある。宗教としての名はついていなくても、例えばマハトマ・ガンジーが、被差別階級である不可触民族を「神の子(ハリジャン)」と呼んだことも、宗教としての内容をもっていると言えよう。
ちなみに、この価値反転という視点を持ち込んだのは、フリードリヒ・ニーチェである。これを用いて彼はキリスト教批判に移っていくわけだが、それを剽窃してもキナくさいだけなので、しない。
さて、前置きが長くなったが、この価値反転、偉大な宗教を生み出せばいいのだが、そうでなくてはただアンチモラルな、反社会的な思想を生むだけになってしまう。例えば、「現世は滅びる」とするカルト宗教の源泉としてだ。
普通の人は、そんなことするものか、と思うだろう。しかし、この価値反転という現象は、人間の心理機構に本能的に組み込まれているらしく、意外に日常においても表出する。そして、人の足を引っ張る事が、よくあるのだ。
一気に卑近な話になるが、例えば、あなたが何かでクサっていて、やる気が失せ失せポンチだったとしよう。そんなとき、目を輝かせてガンバっている、若いお姉さんをみたら、どう思うか。賞賛できるか。いや、そんな余裕は無いだろう。「へっ、どうせ私はサイテーですよ」、と独りでダークネスに浸るのが、よくあるパターンだ。
これが、ひどくなってくると、価値反転がおこる。ガンバっているお姉さんが、「バカおんな」に見えてくるのだ。そのことを正当化するために、例えば、
「今、日本経済が破綻して、たくさんの人が職を失っている。そして、世界の各地では、悲惨な内戦が起こっている。その悲しみの中で、なぜこの人は、何も考えずに笑っているのだ。今、本当に誠実な人がいたら、笑って頑張ることなんか、できないはずだ」
というふうに、ハタから見れば意味不明なのだが、巨大なテーマとからめて、彼女をバカおんな扱いする事を、正当化する。ひいては、クサっている自分を、真に誠実である人間だと、美化するのだ。
色んなパターンがある。夢を持っている人を見て、「生きるということの空虚さを微塵も感じることのできない愚か者」とする。街中で笑っているカップルを見て、「真実の愛があるわけでもないのに、そのことに無頓着で、相手がいるという事実だけが欲しいクズなカップル」とする。自ら起業し、ボランティアにも熱心な社長を、「人からむしり取った金で、善を施したつもりの傲慢野郎」とする。頭がよくて、勉強もしている人を、「わかっているようで、絶対に真理には到達できない、きっと心はすばらしくない、ロボット人間」とする。
いくらでもあるが、ここまでにしておこう。結局のところは、価値反転によって、一般的なすばらしい人をクズ扱いし、自分こそは真理に到達した人間だとするわけである。
こんなことが、イイコトのはずがないのだが、いざ自分がそういう状況になると、やってしまうものだ。自分の考えや意見、それらが実は心の底から湧いてきたものではなくて、自分を美化するための価値反転から生み出されたものだ、ということは、なかなか自分で認めにくい。だが、徐々にでいいから、認めていこうとする姿勢が、後々よい結果を生むように思われる。
価値反転、自分の中で、それをどうやって見分けるか。
価値反転に特徴的なのは、その考えを主張する時、不自然なまでに感情的であるという点である。例えば、学校で、テストの結果が返却されて、となりの女子が、「やったあ」と喜ぶ。そのとき、自分は芳しくない結果だと、悔しいというか、まあ、ちぇっ、という感じがする。だが、それを飛び越えて、「なんでそんなに喜ぶの。そういうのが一番バカだ。そういう勉強が全てだと思っているバカが、公務員になったりするから、この国がおかしくなるんだ」と血管を浮かせる人がいる。それは、不自然だ。テストの結果がよくて喜ぶのは、断罪されるようなことではない。この例にも見られるように、全然別次元の話を結びつけて、ありもしない罪をなすりつけるのも、価値反転の現象に特徴的なものだ。
まあ、どこまでいっても、特徴による状況証拠に過ぎない。自分の中にあるものが価値反転であるかどうかは、理論的に証明できることではない。価値反転などではない、とどこまでも言い切ることができる。だが、なにかが自分の中でぎくしゃくし、物事がうまくいかないとき、価値反転現象の疑いをかけてみることも、時には有効ではないだろうか、と思うのである。
[価値反転/了]