まちがい
次の事は、重要な真実である。
人間は、間違う。
そして、間違っている間は、そのことがわからない。
例えば、私は今、就職活動をしている。
その中で、こう思うのだ。
会社の説明会にいく。学生がたくさんいる。たいてい、学生は世の中をナメているので、態度が悪い。態度が悪い上に、休憩中、友達と群れて「しょぼい会社やな」と、なぜか彼が威張る。説明会の後は「就職活動、ダルいよな」と言って、帰っていく。会社のしょぼさには讒謗をたたきつけるが、自分のしょぼさには寛容だ。私は、彼らのようなことはしない。もっと、就職活動に、誠実に、体当たりでいこうと思う。
だが。
今日も、会社の説明会に行ってきた。200名以上いる学生がいる会場内は、いかにも学生らしい、不誠実なムードに満たされていた。そこで、社員の方が、こうおっしゃった。
「やっぱり、学生らしい人が欲しいね。へんに大人びているよりは、学生にしかないものを持っている人がいい」。
これには、ガツンとやられた。
もちろん、その方は社会人なのだから、学生が世の中をナメていることを、私などよりも深く感じているだろう。でも、それすらも「学生らしい」とし、「それがほしい」とおっしゃった。その方はその後も、いかにも気さくで、バカなふうを装っていたが、それは学生が楽しめるように、聞きやすいようにしてくれていただけだ。お話になるビジネスの内容は、ハイレベルで、かつユニークだった。
これが、大人か。
そう、私は、誠実なフリをしながら、結局は、「文句を言う連中」に文句をいい、「自分のしょぼさに寛容な連中」にしょぼいツッコミを入れている。これでは、本質的には同じ穴のムジナだ。私はなんと天狗になっていたのだろう。
今日は、本当の大人のカッコよさを目の当たりにし、自分が恥ずかしく思えた。
もちろん、世の中をナメるのがいいわけではない。態度が悪いのもよくない。でも、世の中をナメないとか、態度がいいとか、そういうことは実に小さいことなのだ。そんな小さいことを力説し、自分のウリにするようでは、私もたかが知れている。もっと大きな視点と心をもって見るのだ。その学生らしい青さも、すぐ転じてプラスになるさ、とまで思える、圧倒的な前向きと自信、それこそがすばらしいのだ。
今日は非常に勉強になった。ありがとうございます。届かんけど。
さて、ここで改めて思うのだが、じゃあ、今日までの私は、間違っていたのか。
そのとおり。間違っていたのだ。まさか間違っているとは、夢にも思わなかった。そのときは自分なりにイケてると思っていた。
「学生は世の中をナメているので態度が悪い・・・・・私は体当たりで行こうと思う」の部分で、うんうんと頷いた人が、きっといるはずだ。その人は、そのことを忘れないといい。ついさっきまで、正しいと確信していたけど、間違っていた、ということを。
人間は、間違う。そして、間違っている間は、そのことがわからない。
私は成長できた。
・・・・・いやまて、そんなに人間、うまくできていない。
こんなもの、すぐにひっくり返ってしまう。
「やはり、あの不誠実な学生たちの態度は、看過できない(みすごすことはできない)。失礼の度がすぎる。これに怒りや軽蔑を感じるのが、誠実な人間の普通の反応だ。『学生らしいのがいい』とは言うものの、それは多分、あの人がやさしい人だから、昔の自分のことを思い出して、励ましをこめて言ったのだろう」
と思うときが必ずくる。その時の気分で、そう思うようになる。女の子に電話がつながらなくて、不機嫌になったら、すぐにでもそうなる。
その時もまた、私は成長できた、と言うのか。
これでは、成長などなく、いったりきたりではないか。
そう、このいったりきたりというやつが、曲者なのである。これを突破しないと、成長できない。
今私は、「転じてプラスになるさ」という心の大きさがすばらしい、という気持ちだ。こちらの気持ちが、正解である。
なぜ正解だと、断定できるのか。
今私は、「プラスになるさ」という心の大きさがすばらしい、と思っている。思いつつ、不誠実な学生に軽蔑を感じる気持ちも「わかる」。「わかる」けど、本当にすばらしいのはこっちなのだ、と思っている。
明日になれば、やはり「あの態度は看過できない。それが誠実な人間の自然な反応だ」と思っているかもしれない。でも、このとき、「転じてプラスになるさ」という心の大きさは「わからない」。そう思おうと思っても、思えない。
前者のほうは、「プラスになるさ」「看過できない」の、2つを実感し、比べた上で、こちらが正しい、と確信している。後者の方は、2つを比べられない。なぜなら、「転じてプラスになるさ」という心が、もう実感できないからである。だから、前者のほうが高位にある。高いところからは、両方見えているのだ。両方見えている方が高位であり、正しいのである。
これでやっと、いったりきたりを突破できる。正しい方がわかったのだから。
私は、今感じている確信、「こっちが高位だ」ということを、しっかりと心に、あるいはノートにでも、記録しておかなくてはならない。心の大きさがすばらしい、ということを。心の中に刻み付けておかないと、すぐ忘れる。なにしろ、「間違っている間は、そのことがわからない」のだ。明日にでも「あの態度はゆるせん」と思ってしまったら、そのときには「プラスになるさ」という感覚はすっかりわからないのだ。今は、両方が見えて、その上で選んでいるのだから、高位なのだ。こっちが偉いのだ。どうか私よ、忘れませんように。
さて、このことを、一般論にまで広げてみればどうか。
まず、
人間は、間違う。
そして、間違っている間は、そのことがわからない。
ということ。
もっと実用的にいえば、「正しい」と思っていることなんて、そのときの気分次第なのだ、ということだ。それこそ、空腹時と満腹時ですら、「正しい」と思うことは違う。それぐらい、頼りないものだ。聖職者の方はそうじゃないかもしれないけれど。とにかく、「気分次第なんだ」、ということを強く自覚する。まずこれが大事だろう。
だれしも気分の浮き沈みによって、「正しい」と思うことが変動する。そして、その変動する中で、より高位の「正しい」を、発見しなくてはならない。なにかしらで気分が健やかに高まった時は、普段のじめじめした自分はやっぱりダメだ、と自然に思えるだろう。その時、普段の自分を振り返って、まあ落ち込むのも「わかる」し、意気地なしになるのも「わかる」けど、やっぱりこうでなきゃ、と誓い、それを心に刻むのである。このとき、「高位であった」ということも含めて、もうこれをわすれませんように、と願をかけて、心に刻む。何なら部屋の壁に掘り込むのである。「高位である」というのは、他の状態も実感でき、「わかる」ということ。これがないと、ただの躁鬱の往来である。
そして、また落ち込んでしまったときは、思わずウソの「正しい」に引きずり込まれそうになるが、その時に壁に掘り込まれた真実をみて、思いとどまる。この言葉が実感できるか?この言葉の内容を、今、実現できるか?と問うてみる。今できないなら、今考えていることは低位なのだから、壁に掘り込まれている言葉を信じろ、というふうに、糸口にする事ができるだろう。
簡単な言い方をすれば、高位にあるときに、励ましの手紙をかいて、落ち込んだときにそれを読んで、糸口にする、ということかな。
具体的にどういうことになるか。
例えば、彼氏が欲しい女の子がいたとする。そして、昨日は「モテるようになるため、ちゃんと身だしなみして、笑顔でいて、色んな事にチャレンジして輝いていよう、それが結局近道だもんね」と思っていたのに、今日は「がんばって手に入れる恋人なんて、にせもの。恋人になったら、どうせ私のみっともない部分を見せてしまうことになるのだし、このみっともない部分を隠さないで恋人をつくれなきゃ意味が無い」と思う。これがいったりきたりする。
そんな中、あるとき、友達に誘われて、山に登ることになる。汗をかいて、山頂についた。お弁当を食べながら、友達と久しぶりに思いっきり笑いあう。そこに、若い男性のハイカーが通りかかったので、明るく挨拶すると、男前に「すごく華やかで、うらやましいですね」と言われる。「ああ、これじゃん!」と思う。このときが、高位だ。このとき、普段の自分を思い起こせば、まあじめじめするのは「わかる」けど、やっぱりこうじゃなきゃね、と確信できるはず。このときのことを、ノートの隅に書いておく。「山のてっぺんで知ったでしょ、じめじめするのはわかるけど、やっぱりだめなんだよ。ココを読んでるってことは、またじめじめしだして、それが正しいとか思ってるな。これ書いている今は、じめじめの時の気持ち、わかるよ。でも、これ読んでいる今は、山のてっぺんの気持ち、わからないでしょ。だから、ココに書いてあるのが、正しい事だよ」と書いておく。
これが正しい、という確信は、その時の気分でかわってしまうことを認識する。
気分のいいときに、高位であることを認識する。
そして、低位に陥った自分にむけて、何かを刻んでおく。
これで、悪い循環から抜け出せるんじゃないかな。少なくとも私はやってみる。
さて、私はさっそく、今日の説明会のことをノートの隅に刻んでおこう。せっかくの高位日だからな。
[まちがい/了]