幼児虐待
我が子をダンボールに閉じ込めて餓死させるとか、熱湯をかけて警察で言い逃れするとか、もうその所業は悪魔に等しい。それなのに、世間はなぜかその悪魔を「ストレスがたまっていてかわいそう」というような扱いをする。虐待ママがテレビに出てきて、つい手が出てしまうんですと涙を流したりすると、すぐに同情してしまう。
あらためて言うことではないが、気の毒なのは虐待された子供たちである。まして、0歳から4歳までの幼児に、自己形成の責任は問えまい。一方、20数年生きてきた父母はどうか。すぐキレる中学生と変わらないではないか。そう、事実、子供が子供を育てようとしているような破綻があるのだ。
もちろん、母親は真剣に追い詰められていて、どうしようもなくなってやってしまったのだ、ということは分かっている。しかしその言い方をするのなら、猟奇殺人もストーカー犯罪も、本人にとってはどうしようもなかったのだろう。衝動に耐えられるだけの人格を形成してこなかったことによって罪を犯したのだ。罰する以外に無い。そして、母親が真に誠実であるならば、罰されることを望むはずだ。本当に恐ろしいのは、どうしようもなくてやってしまった自分を被害者だと思っている人間だ。ストレスが溜まり、子供はなつかず、周りの理解を得られず、ついやってしまったから、みんな私の事をいたわって、と思っている。それは本当に恐ろしい。子供に熱湯をかけたうえ、気の毒なのは自分だと思っているのだ。永遠に、その意識が自分という枠を越えることは無い。本当の悪魔は、自分が悪魔である事を自覚しないほどに悪魔なのだ。さらに言うなら、その人は、相手に抵抗する力がなければ、気に入らない人には熱湯をかける人なのだ。子供に対してだけではない、全ての気に入らない人を、ダンボールに閉じ込めて殺す、そういう心を持っている。
さて、子供というのは、何も知らないくせに、大人に対してシャレにならない切っ先を向けてくる。「本当に僕のこと好き?」とか、「お母さんはお父さんが嫌いなの?」とか、「お母さんは何か怖がっている?」とか、建前をまったく無視して、つきつけてくる。何も知らないがゆえに、タブーも知らないのだ。もちろん、言葉は発達していないから、態度で表現してくる。いくらかわいがってもなつかない、叱ってもいうことをきかない、すぐ泣くし機嫌のいい顔をしない、という態度を突きつけてくる。
子供は、生まれたての人間だ。ナマのニンゲン、と言ってもいい。そして、知っている他の人間は、親だけだ。とくに母親だけだ。だから、無垢の子供には、母親のありのままが投影される。それは非常に恐ろしい。なつかない子供は、かつて親に愛されなかった自分自身を突きつけてくるし、叱ってもいうことをきかない子供は、今まで人生を建前で切り抜けてきた自分自身をつきつけてくる。すぐ泣くし機嫌のいい顔をしない子供は、世の中に幻滅して楽しめていない自分自身を突きつけてくる。それは、見たくも無い自分を容赦なく見せつけられる拷問ですらある。
自分の意志で生み、自分の手で育てた子供に、苦労はしても、不満をもつのはそもそも筋違いである。だが、自分の全てが映し出されるため、「むかつく」のだ。例えば、一枚の絵を描いたとしよう。その絵は、自分の画力の無さや、自分のあきっぽさ、自分の集中力の無さを表現することになる。すると、なんとなくその絵が「むかついて」、破り捨てたくなったりする。そのほか、試験の結果表や、自分の部屋の様子、それらにむかついてブッつぶしたくなることがあるだろう。それらと同様なのだ。
いざ子供を育てだすと、今まで自分を甘やかしていたことのツケが、一気にまわってくる。例えば、真面目一筋で生きてきて、学生の時は、不良たちを陰で罵りながら本当はおびえていた、という人の子供が、うまい具合に万引きをしてくる。それを叱ろうとすると逆に殴られて、その時に何もできない自分に呆然とする。そういうふうに、子供というものはできている。
だから、それらを突きつけられたときに、グッと受け止められるのが大人なのだ。今までの人生でさんざん突きつけられてきたから、ダダをこねずに受け入れる。強くない自分、すばらしくない自分を受け入れられるのだ。クラブで先輩に叱られ、大学受験には落ち、就職も大変な苦労をし、その中で、「決して優秀でない自分」と格闘してきた人は、「なつかない子供」を受け入れる事ができる。なつかない子供は、「お前はすばらしくない」ということを突きつけているのだから。
親に虐待を受けた人は、自分の子供を虐待することが非常に多いという。それも当然の事だ。親に愛されなかった人は、どうしても自分はダメだ、愛されないのだ、という「おびえ」を持つことになる。そのおびえを、子供は突きつけてくる。すると、かつて自分が親を憎んだように、子供が自分を憎んでいると思う。無理もない、親子の愛という現象を体験していないのだから。そして、カッとして絞め殺す。難しく言うと、母子関係の転移が起こって、それを破壊しようとする。かつて自分が親から愛されなかった経験を否定しよう、破壊しようという無意識の衝動が顕在化するのだ。
だが、それらを含めて、大人になる過程で克服されていなければならないのだ。親子の関係で未完了となったものは、例えば先輩後輩の関係の中で再体験され、恋人との未完了は、例えば仕事の人間関係で再体験される。何かに打ち込む、苦労するというというのは、結局自分の中にある色々な未完了や未成熟との戦いであり、それらを経て大人になる。大人とは、「ひととおり戦いぬいた」人のことだ。
最近の風潮は、クラブとかしんどいの超イヤだしー、バイトとか店長むかつくからヤメて親とかにお金送ってもらうしー、ガッコとかもそんな真剣にやる気しないしー、カレシとかも次の人がみつかれば別れようと思ってんのー、という感じである。戦う要素は皆無だ。逃げつづけるので、子供のままでいることになる。
義務教育や高校の間は、例えば運動会で、徒競走に無理やり参加させられ、ウスノロな自分を突きつけられる。もし自由参加なら、参加しなかったであろう。本人にとっては辛いことである。またそれだから強制しなくてはならなかった。教育するというのは、適度な強制を必ず持つのである。それが大人をつくっていく。大人の心が芽生えると、くやしいから努力してやろう、という気持ちが出てくる。そうなると、自らに何かを課し、自分と戦うすばらしさを知る。もうそうなれば強制は不要だ。そうして、ごく常識的に「ひととおり戦い抜いた」ら、子供をまともに育てることもできる。もちろん、苦労はともなう。だが四苦八苦しながら、悪魔に堕すことはないのだ。
これからは学校もどんどん甘くなっていくし、自分と戦うことがすばらしいとも思われなくなるので、ますます「子供」が増え、虐待は増えていくだろう。そしてついには、「子供を育てられなくなったら、施設に預けるのが当然だ、そして母親としてではなく個人として生きよう」という風潮になるだろうか。
さて、どうすればいいのだろう。
母親の未成熟はどうしようもない。けれど、やはり母親しかいないのだ。母親は勇気を持たなくてはいけない。私はなんと未熟な人間なのだろうか、ということと格闘しなくてはならない。もちろん、子供を育てるのは苦労する。当たり前の苦労がある。その上で、自分を追い詰めるものは何か、ということを見極めなくてはならない。そうして母親が大人になった時、目の前の生物は我が子となるのだ。
そして、自分の中にある「本気」を、総動員して立ち向かわなくてはならない。子供が泣くなら、本気であやすのだ。方法がわからなくても、必死にしていれば、その愛は子供に伝わる。叱る時も、本気で怒鳴る。にらむとか冷たくするとか、そういう「イヤがらせ」はダメだ。思わず瞬間的に手が出る、というのは構わない。しょっちゅうでは困るが、そういう時もあるのが自然だ。動物たちはすべてそうしている。ただ、あくまで瞬間的にである。「たたいてやろう」と思ったりしたらダメだ。それはもう叱っているのではなく鬱憤を晴らしているだけだ。極端になると、積もり積もった鬱憤をはらすために、お湯を沸かして、寝ている子供にかける、というところまでいく。これは叱ったことにならない。「こらっ!」という気持ちはそんなに長持ちしないのだ。1秒で消える。
言い換えるなら、母親は、自分の心について知らねばならない。子供を育てる上で必要なのは、理論ではない。どんな理論も、子供には伝わらない。その分、感情はすべて伝わると思っていい。子供をうっとうしい、と感じたら、子供はそれをダイレクトに感じる。子供には「官能的共感」という能力があるのだ。そして、うっとうしいなんて思ったらかわいそうだ、なんて私はひどい母親なんだ、と思ったことも伝わる。さらに、その自分を卑下することに「酔って」いたら、それも伝わる。自分自信にも隠していることまで伝わってしまうのだ。だから、自分の根っこにある感情はどういうものかを知らなくては、解決はしない。子供を愛しいと思う心、一方でうっとうしいと思う心、家族ができていく喜び、また家庭に縛られていく恐怖、愛する人の子供ということ、同時に憎むべき人の子供ということ、それらの感情が錯綜している。それらをひとつひとつ噛みしめて、矛盾する気持ちも受け入れなくてはならない。我が子を愛している、というのはウソだし、我が子を愛していない、というのもウソなのだ。それら自分の感情を深く理解し、それでもこの子を慈しみ育てるのだ、と決意を持たなくてはならない。それらから目を伏せて、「ガンバロー」というだけの甘さではいずれ破綻する。勇気を持って、決意に至るのだ。
以上で、幼児虐待と母親についてはおわり。ついでに、政治的にどうするか、というワイドショーのようなことも考えてみる。
1.NHKで、毎日「子育てドラマ」を流すというのはどうだろう。デジタルチャンネルで育児相談というのもいい。衛星放送の加入者をふやすチャンスでもある。
2.世の中に余っている(失礼)お年よりを募集して、お年寄りがあちこちの家庭を巡回するというのはどうだろう。老人の知恵、老人力を生かすのだ。
3.「育児寮」というのをつくり、母親は子供を抱いて入寮し、しばらくそこで過ごすというのはどうだろう。わりと重症対策。あるいは、育児園にして、お母さんは子供を抱いて通う、でもいい。
他にも色々あるが、とりあえずこれでどうだろう。毎日子供に乳をやりながら、同じく苦労している様をテレビでみる。ひととおり朝の用事が済めば、子供を抱いて育児園にいく。そこで母親同士グチを言いあったり、子供同士が遊びあったり、育児のコツを教わったりする。帰宅してしばらくすると、育児センターのおばあさんがきてくれて、子供と遊んでくれる。その様を見て、子供のあやし方を覚える。同時に、手が空いて夕食の用意がスムーズにできる。たまには「そろそろ不安期に入るから、よく泣くようになるよ」と教えてもらう。夕食ができると、旦那さんが帰ってくる。
まあ、プロである例えば厚生省の方々は、我々一般人には思いつかないような、そりゃもうスゴいアイディアを持っていてバリバリ検討して汗を流しているはずだから、意見するのは釈迦に説法というものである。一応、言いたかったので言ってみた。
子供を育てた事も無いくせに、と思いながら、それでも読んでくれた人に言っておきたい。あくまで、私は、虐待された子供に同情している。それは当たり前ではなかろうか。そこで「育てた事が無いからどうこう言うのをやめよう」と思うのはすばらしいことだろうか。母親として追い詰められた自分を被害者のように思っていると、他人が子供に同情するという当然のことが、自分を論難するだけの行為に思えてくる。それはとても自己中心的だ。虐待されている子供が、どれぐらい追い詰められているか、それを思うと本当にやりきれなくなる。なぜか世間全体が、そのことを忘れているのだ。唯一の母、生まれてきたこの世界、その神の代理たる母に虐待される。我々は、学校をやめる、仕事を辞める、彼氏と別れる、離婚する、自殺する、そういう方法を知っている。だが、子供はどうやってその地獄から抜け出すのだ。ただ泣き叫ぶか、だが泣き叫べば母の下す罰はより大きくなる。しかし子供は自分の涙を抑制する力もなく、泣きつづける・・・・・。今、その苦しみを想像するだけの心の能力を失ってしまった、そういう世間になりつつある。だから私は、育てた事が無くても、言いたいことを言うのだ。
おしまい。こんなページ、どこの母親も読まないかもな。
[幼児虐待/了]