意思
意思を強く持とう。ということを提案したい。
意志を強くもつというのは、具体的にどういうことなのか。そして、どんなメリットがあるから、そうするべきなのか。そのことについて、体験を通して書こうと思う。
私は去年、初めての海外旅行でインドに行き、英会話に初挑戦することになった。学校で文法やらはならってあるので、さほど苦労はしなかった。1週間もすれば、観光するに困らない英語は身につく。1ヶ月すれば、それなりにチャットもできるようになる。周知のように、学校で教わる英語で英会話は身につかない。それは、英語を「使う」ことがないからだ。使う、というときに初めて、別の脳ミソ、たぶん言語野、が働き出すのである。トイレにいきたい、と思って「使う」と、英語が言語野にツルッと入るのだ。使わないで学ぼうというのは、パソコンなしにC言語を学ぼうというムチャに等しい。言語とはそういうものらしい。
さて、英語の得意な人は、次の会話を英訳してみてもらいたい。
「あしたどうするん」
「あしたは、まあそろそろバイトを探しに行こうと思ってるんやけどな」
「どうやって」
「そうやな、雑誌とかやけどな」
「あんまり楽しいもんじゃないよな」
「まあ、そういうもんやろ」
この会話は、英語に翻訳は不可能だろうと思う。要するに、英語圏の人は、こういう会話をしないのだ。これは、あらためて驚くべきだと思う。なぜなら、日本人の会話の6割はこういう会話をしていると思われるからだ。
英語が得意なわけではないので、いろいろウソ英語を使うのは容赦してもらいたい。例えば、
What will you do, tomorrow?
I will look for part time job, tomorrow.
How?
With a magazine.
It’s not very funny.
Yes, it’s as it is.
というふうに強引に訳すと、いろんな要素が変質して、もう元の文章とは違ってしまっている。
何が変質するか。「どうするん」が「何をする」に変わり、「まあ」が抜け落ち、「行こうと思ってるんやけどな」が「行くつもりだ」に、「雑誌とかやけどな」が「雑誌で」に、「楽しいもんじゃない」が「楽しくない」に、「そういうもん」は表記不能に、それぞれなっている。
「行こうと思ってるんやけどな」が「行こうと思っている」になると、かなり、意思が強く感じられないだろうか。日本語の会話では、しょっちゅう語尾に「けど」がつけられて、言葉に含みを持たせたまま会話が終了する。同様に、「雑誌とか」などの「とか」も、含みを残す。これら「けど」「とか」を、”but”と”and”に置き換えることはできない。「けど」とbutは意味が同じだが、英語では「先を述べないbut」はルール上許されない。But,と言うと必ず続きがあるものなのだ。こういう日本語は、「明日にでも行く」「行こうか、と思っている」「わからないこともない」「こういうのも、いいものだな」など、たくさんある。
細かくみると、「行こうと思ってるんやけど」の「けど」の後には、「思ってるんやけど、どうしようかな、どう思います、その時次第かな」という、周りの様子をうかがう姿勢がある。「こういうのも、いいものだな」というのにも、はっきり「いい」と、自分の感想を言わずに、いいもの、と言うことによって、一般的にいい、というとらえ方をしている。自分の意志、というものを丸め込んでしまうのだ。
さらに、英語になると、毎回主語がつく。先にあげた日本語での会話は、主語がまったくでていないが、英語ではそれが許されない。英語は、私が「いい」と思う”I think it is good.”ということと、一般化して「いい」とする”It’s good”ということを、厳密に分類するのだ。
だから、英語の会話を日本語ですると、非常につよい意思が感じられる会話に聞こえる。
お前は、明日、何をするつもりだ。
俺は明日、アルバイトを探しに行くつもりだ。
方法は?
雑誌だ。
楽しくないな。
それはそれだ。
英語で話そうとするとき、そう、例えばインドで、物売りにからまれたとする。で、日本式に、「まあ、考えておきます、またの機会という事で」と断ろうとしても、そんなものは英語で表現不可能だ。だから言葉に詰まる。そして、困った挙句、「いらない」といえば、「わかった、みるだけだ」と言われ、「いらないってば」というと「だから見るだけだ」と言われる。「急いでいる」とウソをつけば、「1分だけだ」と言われ、「興味が無い」というと「なぜだ」と聞かれる。そして、最終的には言葉が詰まって無視するか、ウソをついて逃げるかだ。これではストレスが溜まる。
こういう、英語を話さなくてはならない中で、段々と、英語に翻訳できる思考をするようになってくる。英語に翻訳できる思考とは、まず「私が」「こう思う」そして「こうする」という、意思を中心に据えた思考だ。そうなってきて、「私は買い物に興味が無い。今時間を無駄にしたくないから、断る。悪いな」と言えるようになると、物売りもスッと引き上げる。物売りも、可能性のない奴に構っているほどヒマじゃないし、相手に同じことを言わせることがエレガントでないということが分かっているのだ。そういう「くっきりとした意思」を持つようになると、もう「ノーセンキュ」だけで、相手は「意思」を感じ取って、引き下がるようになってくる。こうなると、「Good luck for your business!」と一言入れる余裕も出てくるのだ。私はこのとき、アメリカニズムを肌で体感したのだ。
いわゆる、ガイジンのかっこよさの秘密は、この「意思」にある。意志が強い、というのは、意思をガンバって持つのではなくて、自分の意思をくっきりと認識し、はっきり表明することだ。そして、それをエレガントに行うために、ジョークが必要になってくる。「断る。早く帰らないと女房がおこる」というふうに。そして、意思の強さ、言い換えてみれば自我の強靭さは、眼光に宿るようだ。だから、ガイジンは、いかにも「強そう」に見える。事実、自我の強靭さは、一般的に日本人に勝るだろう。だから、酒の席でも無礼講というものがない。自我をはっきりもち、それを尊ぶのが西洋のやり方なのだ。
へんないい方になるが、あらゆるところで自我と意思ををまるめこんでしまう日本人は、豊かな生き方をしていると思う。それによって、世界の色々を感じることができるからだ。自我を強く持つということは、世界に流れるえもいわれる何かを、無視して生きるということでもある。だから、ガイジンをみていると、「疲れないかい」と言ってやりたくもなる。
だが、日本人も、ここまで西洋の進出を許し、自分の国の風土と風習を愛さずに軽蔑するのであれば、せめてガイジンの意思に対抗できる意思の強さを持たなくては、かっこ悪いのではなかろうか。そして、コンビニの前にたむろする若者たち、彼らを全員クズ呼ばわりするのはやめよう。いわゆる日本社会に馴染まない連中にも、クズだけでなく、意思がはっきりしすぎているため、はみ出ている奴も混じっていることを知るべきだ。彼らは我々の、意思の先生になりうるかもしれない。
意志をくっきり持つ、そのワザを、ガイジンから盗もう。そして、普段は自然の流れの中で豊かに生き、ときには眼光を宿してかっこいい意思の透徹をみせる、そういう人間になろう。そのためには、たまに、日本語の一部を使用禁止にすることだ。私は、夢を持っている。私は決して、くじけない。あなたは、素晴らしい。あなたは真剣に考えていないから、私はあなたを尊敬できない。私は、あなたが好きだから、あなたの喜ぶ顔を見るために、力を尽くしたい。・・・・・そういう言葉を使おうとすると、自然に精神は自我に集中され、目に光がともる。
私は、はっきりした意思を持とうと、努力する。
私は、あなたもそうするべきだと思う。
[意思/了]