付き合うということ
どうも、私の周りにある悩みや苦労のうち大半は、彼氏が欲しい、彼女が欲しい、あるいは今自分のしている恋愛がどうも納得いかない、というテーマのように思える。
これは、デカいテーマだ。この恋愛というテーマは、私がシェークスピアをサクッと超越してサクッと解決できるようなものではない。自分の半身との合一、とか言うだけなら簡単だが、これは、光速を超える、と言ったりするのと同じで、本当に言っただけ、名前をすりかえただけ、というやつだ。かといって、テーマがデカすぎるから取り扱えない、とサムいことも言いたくない。
だから、解決はしないことを前提に取り組むべきテーマということを、まず念頭においてもらって、その上で、ただただ、私の提案しうる限りの、解決へのアプローチ案を提案することにする。もし、そこから何かに気づいたり、知ったりしてもらえればと思う。評判がよかったり、リクエストがあったりすれば、恋愛系のコラムをシリーズにしようかナと思っている。イタいよお前、という評価を頂き次第、ソッコーでやめる予定。
今回このコラムは、付き合うというのは、細かく見るとどういうことなのかについて書く。
付き合う、という言葉は、言葉を変えれば、専属パートナー契約である。だから、「何のパートナーなのか」によって、内容は人それぞれだ。例えば、他の異性と電話はしてもいいけど、会ったらダメとか、会ってもいいけど、二人っきりはダメとか、セックスだけはダメとか、セックスはいいけどキスはダメとか、風俗のセックスはいいけど非商売のセックスはダメとか、キスまではいいけど下半身はダメとか、携帯に異性の番号を記録しちゃダメとか、他の異性には挨拶もしちゃダメとか、結婚するのは私だけとか、他はなんでもいいけどとにかく私の登山の誘いだけは断ったらダメとか、「付き合っている」にも色々ある。まだこれは常識に納まる範囲で書いてある。世の中にはもっと色々、とくにアメリカの同性愛やバイセクシャルの世界を入れたら、もっとあるはずだ。
だから、何のパートナーがいいのか、とかは規定できない。考えるべきは、専属、という言葉のほうだ。エーリッヒ・フロムは、その著書「愛するということ」の中で、異性愛の特徴は、その「唯一性」、「他のじゃダメ」、というところにあるという。だから、この付き合う、という言葉は、その唯一性こそが核になっているのだと考えると筋が通る。あなたを異性愛の対象としたい、というのが、付き合いたい、ということではないだろうか。「人間には、ある種の精神活動をする時、唯一の対象をもとめる性質がある」、とか難しく言っておこう。難しくかかれた文章って意味無いよな。
ちゃんと言い直すと、その人それぞれによって、キス、とか、セックス、とか、デート、とか、特定の行為や精神活動を「これは唯一の相手と行わなくてはならない」と感じる文化なり本能なりがあるのだろう。その唯一の相手を互いに設定するのが、付き合う、ということなのだ。ついでに言うなら、この唯一性の破壊が起こると、「付き合っている」は崩壊にむかうことになっている。
ここまでで、世間に思いっきり反感を買う見解を出したことに気づいてもらえているだろうか。これに気づいてもらえないと、読んでいる人は退屈でブラウザのバックボタンを愛撫してしまうであろう。だからバラす。読んで読んで。
唯一の相手―――赤い糸で結ばれた人―――と付き合うのでなくて、唯一の相手を自分で設定すること、赤い糸を結びましょうと提案することが、付き合うことだ、と言っているのだ。「付き合うから唯一なのであって、唯一だから付き合うのではない。唯一のために付き合うのだ」。人間は、唯一の相手を意思で作り出す性質があるのだ。だから、ロマンティック・ラブ以前の世界で、親が用意した結婚相手と付き合うことが矛盾なく行われていたのである。
さて、ここまでの話では、付き合う、と、好き、の間には、何の関連もないことになる。実際、好きでもないのに付き合っている人はいるし、好きでなくてもいいから付き合いたいという人もいる。そもそも、付き合う、というのは、お互いが契約を受理すればとりあえずは実現する。本来、好き、と、付き合う、の間には、従属性は無いのだ。
だが、いま現実に、好きです、付き合ってください、というのが通じる常識がある。それはどう説明すればいいのか。
これは、「好きな人とやりたくなること」と、先ほど述べた「唯一の相手と行わなくてならないこと」に重なることが多いということだ。ただし、説明する前に、もう「好き」という言葉に関しては、感覚的に用いる事にする。再定義はちょっと話が遠回りになりすぎるし、あまり偉い人の話を勉強していないので、役に立つ内容になりそうにないのだ。だから、「好き」は「おいしい」と同じように、「その人の存在に快を感じる」としておく。さて、好きな人とは、どんなことをしたくなりますか。電話でおしゃべりしたりするのが快、というか楽しいし、デートしたり、見つめあったり、手をつないだり、キスしたり、ムフフなことしたり、そういうことをしたくなりますね。で、それら「したくなること」と、「唯一の相手としなくてはならないと感じること」が、重なっていることが多いのだ。それは何か本能かもしれないし、文化、教育によるものかもしれない。それはもうここではどうでもいいので推論しない。
ここまでの話をまとめると、「好きです、付き合ってください」というのは、「あなたの存在に関する一般が快で、おしゃべりしたりデートしたり、ゆくゆくはキスしたり、心の準備が整えばムフフなことがしたいと思う。それでかつ、そういう『したい』と思っていること、おしゃべりぐらいはともかく、デート、キス、ムフフに関しては、唯一の相手と行うべきことだと私は感じおり、その唯一の相手にあなた選びたいと思います。かつ、その私の認識に対して、あなたも相当の扱いをする対象として私を選んで欲しいと思います」ということである。こんな言い方したら絶対ふられるけどな。これが、好きだから付き合ってください、という常識的な例の構造である。
また他の例を考える時も同様の手法を用いることができるだろう。要するに、「○○だから、付き合ってください」、ということだ。では、好きではないけれど、付き合いたい、という場合を、常識的にその構造を推理する。「キスやムフフはまだしたいと思いません。電話したりデートしたり、休日の予定を組んだりする時の最優先対象として、あなたを唯一の対象に設定したいと思います。デート、キス、ムフフ、最優先の対象化は唯一の相手と行うべきものだと感じています。また、あなたからみてそれに相当する対象として私も選んでもらえればと思います」
このように、結局は、付き合いたい、という言葉は、唯一対象に設定したい、そして自分を設定してもらいたい、ということである。問題は、その唯一対象性を持つ行為の設定である。これが人それぞれだ。その例として一般的なのが、デート、キス、セックス、などで、個人差が出るのは、帰ってきて一番に電話を入れる相手は、唯一か、日曜日に予定を組む最優先の相手は、唯一か、などである。
2つ注釈。最優先、と、唯一、という2つの言葉が微妙である。例えば、別の異性とも、デートしてもいいよ、でも、私を「一番」にしてくれなきゃダメ、というケースが多いのだ。デートの相手は、わたし唯一でなくていいけど、最優先は私でなきゃダメ、ということである。これを、分かりづらいかもしれないが、「最優先の相手を唯一にする」と表現している。もう一つ、デートするのがダメとはいわないけど、その人に取られそうだからイヤ、というケースがある。これは、付き合うとはどういうことか、とは別の話である。その人と付き合いたくなられそうだからイヤ、ということであるので、理論上は関係ない。
さて、この辺で役に立つ話をしないと、読んでくれなくなる。はい、ここから読んでね。
何を唯一対象性のものと設定するか、というと難しいから、色んな、つきあっている人たちの生活を想像してみて、それらを、「私だけじゃなきゃイヤ」、「私が一番でなきゃイヤ」「これはどうでもいい」ということに分けてみたらどうなるだろう。セックス、キス、デート、電話、プレゼント、手紙、などなど、これは意外と人それぞれなはずです。「わたしのカレあんまりしゃべらないから、しゃべる相手は別の男友達」とかいう人は結構いるでしょう。そう、これらの唯一性とか最優先とか、そういうことが、「付き合う」にはぶら下がっているのです。
付き合う、ということの、次は表層を見ていきます。
「まだお互いそんなに好きじゃないけど、お互いの仲を深め合うのに、とりあえず付き合う」
というケース。これは、お互いを最優先にする、というやつですね。本来、仲を深めるのに「付き合う」必然性はないけれど、お互い最優先の契約をむすんでいると、安心便利、というわけです。このとき、一方が別の人と寝たら、たいてい一発でアウトになります。だから、まず唯一性の話をしないと、話ができなかったんです。お互いに、相手を最優先対象にしよう、という意思をもっています。
「一方が相手を好きで、それに口説かれて、付き合うことになった」
というケース。これも、上の例に同じです。お互いを最優先する契約。相手のことが好きな人の側は、最優先することそのものも欲求になっているはず、自らの意思によらず相手を最優先対象にしているはずです。
「相思相愛」
というケース。これは、お互いに、その人とやりたいことと、唯一の相手とするべきことが重なっている。いわゆる恋人の行為も含めて、自然に、意思によらず、お互いを唯一・最優先にしてしまう。だから付き合うのが自然です。
好き、と、付き合う、の関連性がわかってもらえたでしょうか。付き合うということは、唯一・最優先にする、ということですが、好きということは、感情として、すでに相手を唯一・最優先の対象に選んでしまっている、ということです。好きな人と付き合えると、この感情が充足する、ということになり、ハッピーね、ということになります。
いくつか誤解のタネを取り除いておきます。ここでいう「好き」は究極的な「好き」です。実際には、きらいじゃない、興味がある、悪くないと思う、気に入っている、好意を持っている、惚れている、など、無限の段階があります。まあまあ好きで、まあまあ付き合いたい、というときは、「あの人と付き合うとなると、他の人とデートやキスやムフフはできなくなるけど、まあいいか。とりあえず、デートするならあの人が最優先、キスとムフフは、とりあえずするかしないかは別にして、するなら唯一あの人とだけ、・・・・・まあいいかな、結構あの人のこと好きだし」となります。こう考えれば、理屈が通りつつ自然でしょ。
いろいろな好きと、いろいろな付き合いたいがあります。好きとは感情であり、付き合うとは専属契約です。どのように好き、というのは自分の意志ではありません。どのように付き合う、というのは意思です。
付き合うということの分析は、これで終了。お疲れ様でした。果たしてこれに意味があるのかは疑問だ・・・・・ちゃんと書けているとは思うが、役に立ててもらえるか、それどころかちゃんと読んでもらえるかどうかが不安だ。あーあ。
一応、付き合うという契約に関連して、好きという感情と、設定する意思とが、どう絡み合っているかについて述べられているはず。ただ、だからこうするといい、ということにはまだ踏み込んでいない。それを書こうとすると、愛という観点を持ち込まざるをえなくて、愛をもちこんだら、フロムの本を勉強しなおして、愛に関する考察を十分にした上で、付き合うということとどう関連しているかを述べなくてはならない。ちょっとそれはきつすぎるし、いよいよ誰も読まなくなる。
まあ次回に期待するとして、読んでくれた人は「どう好き」という感情があって「どう付き合いたい」という意思があるのか、考えてみてください。唯一だから付き合うのではなく、付き合うから唯一で、唯一のために付き合うのです。それも人間の性質なんです。で、これだけじゃなんかブルーな話でしょ。だから、結局、好きとか付き合うとかを超える、愛というやつが本体なんですよ。みんな、付き合うことに関して悩んでいるようで、本当は愛に関して悩んでいる。
さて、読んでくれた人はありがと。著者アシタカさんにはげましのメールを出そう。おしまい。
[付き合うということ/了]