考える、ということ
考えるという言葉は、あいまいだ。
迷う、判断する、気づく、こういった要素がひっくるめられて、考える、といわれる事が多い。
迷う、悩む、迷妄する、というのは、頭を使っているようで使っていない。自分の中にある葛藤を、何度も反芻して味わっているだけだ。健康によくないので、あまりいらない。
判断する、ということは、想像力に依存する。いろんな選択肢に対して、結果や過程を想像して、評価すること。これは、年寄りのほうが有能。経験の差だ。
一番大事なのは、気づく、ということ。これは、状況を整理したり記憶をなぞったりしている間にポーンとくる。頭を使っているのか、心を使っているのか、よくわからない。が、とりあえず、ヘンな力が入っていたりすると、気づかないことが多いので、リラックスして、頭と心をフリーにする。感度をあげてキャッチするのが「気づく」ということ。
他にも、頭を使う作業として、記憶するとか整理するとか知るとか、そういうのもある。
でも、何が大事かと言われれば、私は「気づく」を推したい。
例えば、学校に行っていて、面白くない、むかつく、何かどこかがおかしい、と思ったとする。どうすればいいのか、と「迷って」苦しむ。で、学校を辞めるかどうか、を判断しようとするも、辞めても辞めなくても、どっちも「何か違うんだよな」と思うだろう。で、さらにどっちにしようかと悩むし、決定できない自分に疑問を持ち、迷う。こういうときは、非常に暗くなってしまう。
結局これを打破するのは、「気づく」しかない。何が気に入らないのかに気づく、あるいは、全く別の選択肢に気づく、それしかない。
だから、今苦しんでいると思う人は、迷いや判断からひとまず目をそむけて、身体を開いて「気づく」をキャッチするといいと、私は思う。
自分の好きなことしてみる、新しい事をし、新しい人と会ってみる、映画をみる、本を読む、友達と遊ぶ、酒を飲む、ごろ寝する、ヤケ食いする、衝動買いする、旅に出る。そういうことを、誰もが無意識にしているが、全て「気づく」を呼び込む儀式なのだと思う。
気づく、に焦点を合わせると、けっこういい。
中には、迷うのがイヤで、「なにかおかしい」という感覚をねじ伏せて、楽しいフリをしている人もいる。誰でも多少はそうかもしれないが。でも、そういう肩の力は、「気づく」を遠ざける。そのほか、人やものをけなしたり、ばかにしたり、諦観したフリをしたりすると、「気づく」はやってこない。非常に厳しい事ながら、「気づく」は、前向きな魂にしかやってこない。極端に歪んだ魂には、うその「気づく」すら来ることがある。そして、その人はストーカーになったり、カルトになったりする。
頑張るとか、気合とか、自分らしさとか、そういうのからひとまず力を抜いて、いいもの食べて、友達と笑いあって、「気づく」が降ってくるのを待とう。
[考える、ということ/了]