教え
宗教に、2種類ある。教えのないものと、あるもの。まあ、この表現が適当かどうかよくわからない。
前者は、例えば、ヒンドゥー教。創造神ヴィシュヌがあり、破壊神シヴァがあり、それらの上にブラフマンがある、という宗教。ヒンドゥー教は、生きていく上でどうこうしなさいという教えを持たない。ただ神を祭り、神に祈る。そして死後は神様の元に魂がいく、と信じているだけ。
後者は、例えば、キリスト教。汝の隣人を愛せ、とか、十戒、などがある。
まあ、ヒンドゥー教が教えを全く持たないというわけでもない。ヨガと一体になって教えを持つ状態になっていたりするし、戒律の遵守が宗教の骨子でないということだ。
日本にも、日本書紀という神話があり、タカマガハラでオオクニヌシノミコトがどうのアマテラスオオミカミがどうの、ということが書かれている。かつては、天皇がそれらの神の使いとされていたのだから、これも、日本の宗教だ。だから、神を祭る神道の神社と、天皇を祭る神社が混在している。
宗教の本質は、人間の自我では捉えきられない何かが世界にはある、という感覚である。だから、実は「教え」がなくても、ちゃんと宗教の役割を果たすのだ。自我で捉えきられない何か、があるとすれば、自我、もっと簡単に言うと、自分が思うこと感じることが、絶対のものではなくなる。自分が「あいつがキライ、あいつは最悪だ」と思っていても、その感覚が、絶対唯一無二のものではなくなる。あいつら殺してやりたい、あいつらは死ぬべきだ、と思っても、自分の思う事が絶対でなくなっているため、踏みとどまるのだ。
そこまで大げさなものでなくてもいい。食後、自分の嫌いな食べ物が残ったとして、日本人は、それをポイとごみ箱に捨てるのは、「もったいない」と思う。日本はこの風習が強い。例えば、南インドでは、レストランなど、客が食べ残すまでおかわりをつぐのが習慣だ。たとえその残り物を捨てたからといって、この飽食の時代、何がどうなるわけでもない。無理して食べても、誰も喜ばない。しかし、食べ物を粗末にしてはいけない、という不合理な感覚が、我々の「別に捨ててもいいやろ」という気持ちを圧倒して存在し、実際にその感覚に添って無理やりでも食べ、それを見てお互いにそれを確認しあう。それが結局は、食べるということ、命、自然、そういう世界観につながり、理屈とは違う筋の通った世界に人間を生かすようになってくる。
むしろ「教え」というのは、宗教に道徳が入り込んだかたちであって、たいがいは、その教えに従って行動し、徳を積むことによって悟りを啓き、宇宙の姿を感じることができると説明されるものだ。宗教=平和・道徳・ボランティアと思っているのは、無宗教と言うより無知とかの恥ずかしい域に達しているので、ちょっと新しく知るといいと思われる。そして、無宗教であっても、やはり「もったいない」と思うし、お地蔵さんにケリは入れられないし、ということを自覚して、日本人はそもそも「教え」られなくても、神様の存在を知っていたのだ、だから私は特定の宗教にはいって修行しようとは思わない、という、世界観豊かな無宗教派・Japaneseをやっていくとかっこいいと思われる。
[教え/了]