愛というものについて
私自身、愛を極めたというわけでは無論ない。ただ、いわゆる世間にある愛という言葉の感覚に、疑問を感じている。なにやら、愛というものが尊ばれている。街に流れる歌の殆どは、愛を歌っている。道行くカップルは愛しているとささやきあう。その一方で、毎日のように、金属バットで人を殴り殺す少年がいて、ナイフで刺す中学生がいて、援助交際する女子高生がいて、自殺する中高年がいる。果たして、今のこの国に、愛は満ち溢れているのだろうか。
そもそも、愛というものは、そんなに簡単に手に入るのだろうか。例えば、友達はたくさんいても、親友と呼べるかどうかとは別で、「親友」はそんなに安っぽいものではないということは誰もが実感している。しかし、こと異性と付き合いだすと、必ず愛が手に入るという様子がある。であれば、愛の伴侶は、親友より容易に手に入る事になってしまう。しかも、男女が「別れる」と、その「愛」もうやむやに消失しがちだ。
もっとえぐい表現をしてみよう。だれでもが、例えば宗教の「悟り」の境地にたどり着けるわけではない。誰でもが国家公務員一種に合格できるわけではない。それらの難易度と比較して、愛を悟り、愛を実現するのは、はるかに易いのであろうか。
そして、結局、愛とは何なのか。これを、誰に聞いても返答はあるまい。が、だが誰もがそのよく分からないものを必死で求め、誰か異性と付き合うとなるとその存在を主張する。
これだけまくし立てると、誰でも気分の悪い思いをすると思う。そこはご容赦願いたい。そのうえで、本当にこれらの問いかけに答えようとすると、実は、我々が連発する「愛」に関して、我々は造詣が浅いのではという気がしてくる。
愛に関して、私の蒙を啓いてくれたのは、エーリッヒ・フロムという哲学者・心理学者の名著「愛するということ」(旧題「愛の技術」)である。ここではその内容を剽窃するようなまねはしないが、フロムは私の疑問に完全に答えてくれた。この本は、いわゆるベストセラーであり、もし心理学学会でなり愛について語るのであれば、誰も無視はできないであろう、お偉い本である。
ここで再び偉そうなことを言うが、果たして、あの「愛するということ」という一冊のクソ真面目な本を、読もうとする人がどれくらいいるであろうか、という気がしてくる。本当に愛は尊ばれているのだろうか、愛の実現に真摯に力を注ぐ意思があるのだろうか。ちなみに私自身は、「私は愛を実現している」とは公言できない。フロムの書を読んで、いかに愛というものが容易ならざるかを知ったにとどまる。
単純に、恋人同士だから愛がある、と盲信するのはやめて、英会話のレッスンに望むように、愛するってどうするのかね、と取り組んでみてはどうだろう。
繰り返し、自分の愛を否定される事ほど不愉快なことはあるまい。これはインターネットなので、私がどういう人間なのかも分からないし、文脈はよくも悪くもとれる。どうか不愉快にならないで頂きたい。私は、私に比べて読み手であるあなたの愛が劣っているとはまったく思っていない。
私は、ただ、愛というものの極めて容易ならざるを感じているのである。だから、さして愛することに尽力した確信も無いうちに、愛を乱発するのは、余計に愛から遠ざかるのではないかと言いたいのである。きっと我々のような凡夫が体験できる愛というのは非常に小さく、ごくたまに生まれるものであって、普段はもっと日常的な精神状態であると私は思っている。そして、まずは単純に、相手のことが好き、一緒にいると楽しい、それら「愛」にまでは至らないような心の状態をこそ、平凡ながら素晴らしいと思うようにするのが健康的であると思うのだ。
[愛というものについて/了]