アメリカ同時多発テロ事件
テロ行為は最悪である。
まず真っ先に、お亡くなりになった方々にお悔やみを、怪我や恐怖にさらされた方々にお見舞いを申し上げます。
人間が生きていく上で、どうしても戦いというものは起こるが、それだからこそ戦いには形式というものが大事になってくる。戦争においても、核兵器や毒ガスを原則として禁止し、兵隊以外の民間人には攻撃してはいけないとか国旗を隠したり他国の国旗をあげて撹乱してはいけないとか、国際法で定められている。そうでもしないと、ただでさえ罪深い戦争行為が、わずかな功をすら失って、罪ばかりを増してしまうからである。そのことを人類は歴史で学んできた。
ところがテロというのは、気に入らない奴の上履きに画鋲をしのばせてほくそ笑むように、まずルールの無い行為である。それだけに、戦いとしての功を期待できないので、世界をただ暗くする行為にしかならないのだ。これが根本的にテロが卑怯かつ悪魔に属する行為となる理由である。
次に、テロというのは例えば私でも出来る。たまたま私は大学で化学を学んでいるから、爆薬でも毒薬でも入手して、無差別に数十人を殺すことができるだろう。私は数十人を生み育てることが出来ないくせに、殺すことは出来るのである。これは結局、人間というものは、つくる能力より破壊する能力のほうが優秀だということだ。だから、創造を前提とせずただ破壊する行為は、本質的に楽チンなものであり、費やされる力のバランスからみて卑怯で無責任なものなのだ。
つづいて、テロには、とくに宗教的テロには、対象を攻撃する大義名分が無く、攻撃そのものが目的である。何かしらの目的のためにやむを得ず敵を倒すというのではなく、敵を倒すという快感、あるいは憎き敵に嫌がらせをしてやった、神の敵に一泡ふかせたという快感そのものが目的になっている。これは明らかに世界を破滅にいざなう行為である。
素性の知れぬグループが、貿易センタービルを破壊し、多国籍にまたがる数千人の民間人を殺した。
これにはまず、ルールや形式といったものは見当たらない。人類のルールとしてもっとも原始的なものすら無視しているので、法的には、古代文明の人たちから見ても有罪であろう。
費やされたもののバランスとしては、パイロット訓練を受けた者を含む十数人と、マンハッタンで朝から働く人たち数千人と超高層ビルと航空機4機、というのとでは、やはりバランスが悪く、戦いとしては卑怯であり、戦いとは呼べぬ一方的な殺戮である。
そして今回のテロ、その目的はなんだったのだろうか。テロリストグループは、かけがえのない何かを守ったのだろうか。どうもそれは想像しがたいし、それを表明する気もなさそうである。
以上の点から、テロというものは最悪の行為であり、今回のテロも、歴史に血なまぐさいシミをつくるものであった。
しかし、私にはより恐ろしく思えることがある。テロという最悪の行為に対し、アメリカもその毒気にやられたのであろうか、道を踏み外そうとしているように思えてならない。世界の警察官は、怒りに我を失い、逮捕するよりも犯人を射殺したがっているように見える。
日本国の小泉首相も、「民主主義に対する挑戦に憤りを感じる」と言ってはいるが、その憤りは、実際に玄関に火をつけられたアメリカの方たちの比ではなかろう。憤りというには、小泉首相が見せていた表情は猛々しいものではなく、本音としては、悲しいとか空しいとか、やるせない疲労などであったのではないか。
少なくとも私個人においてはそうであった。私は、今、解消しようの無い空しさ悲しさを感じていて、それだからこそアメリカのマスコミとは違った見解が出せるだろうと思って、ここに文を綴っている。
私は、億単位の人間が復讐心に猛っている世界など体験したくない。その世界をわずかでも遠ざけるために、言いにくいことを、せめてここに書いておきたい。アメリカは被害者だからといって、絶対善ではないのだ、正義の旗を慌てて振りまわさないでくれ、と私は言いたいのだ。
まず整えなくてはいけないのが、
「テロには断固として闘う」
「これはテロではなく戦争だ」
という理念の分裂である。
テロは、アメリカ流にいうなら、「顔の無い人々」がやるものであり、犯人が名乗りをあげずに逃げ回るものである。戦争は、堂々と国旗が描かれた飛行機が、爆弾をもってやってくるものである。いわば、テロは犯人が逃げ回る「犯罪」であり、戦争は、名乗りをあげる「戦い」である。
今回の事件を、テロ行為として非難するなら、犯人を捕縛し法によって処罰するべきであり、特定の国に対して武力行使などの報復行為に出ることは筋違いである。例えば、「地下鉄サリン事件」が、ニューヨークで起こったとして、日本にミサイルを打ちこまれてはたまったものではないだろう。もしこのまま、アメリカが、外交交渉なしに特定の国に出兵すれば、「テロリストの出身地を焼き尽くしにいく」ことになる。それは人種差別である。
アメリカは、今回の事件を「新しいタイプの戦争」と言っているが、それはある国が国家ぐるみでテロリズムを行ったのだ、という見解を意味する。例えば、日本という国家が、テロリストを養成してニューヨークにサリンを散布させたりしたら、その「新しいタイプの戦争」というべきものになるだろう。
しかし、これはいかにも予断と偏見であり、民主主義の精神にもとる判断である。犯人たちが、国家からの任務を受けていたことを示す証拠がまったくないし(常識的に考えて、やはりテロリストたちは国家の任務は受けていまいが)、法を持ってテロリストたちを抑えようとしなかった国家、アメリカに対するテロリズムに未必の故意があった国家、世界平和を守ることに真摯でなかった国家に責任を問う、という立場をとるにしても、ひとまず話し合いの場が必要になるし、いきなり空母を動かして、ぶちのめしてやる、という態度を示すのは世界平和を望む者のやりかたではない。
テロか戦争か、この問題に対して、私の意見はこうである。
アメリカはこう言うべきだった。
「凶悪なテロリズムを受けた。我々は犯人の逮捕に全力を尽くす。一方で、このテロに関して、未然に防ぐための努力を怠った国がある。我々はその国に責任を問いたい。話し合いの場に出ることを拒否したり、話し合いの場で決着がつかなければ実力をもって報復することもやむを得ぬ。テロリストたちの存在を容認し助長した国家は、その世界平和に対する無関心の結果として今回の悲劇を生み出したのであり、重大な責任がある。我々は戦争を望むものではない、今からでも最善をつくしてもらい、失われた信頼と世界平和を再建したい」
「アメリカはテロを許さぬ。そのためには戦争をも辞さぬ!」と表明してもらいたい、というのが私の意見の立場である。
テロと戦争をごちゃまぜにして報復しようとしている現状の背景には、来るべき開戦にむけて、その開戦の責任さえも相手国に押し付け、アメリカは正義の権化であると思いこもうとしている心理があるように思える。悪のテロリストたちを打倒する、かつ、戦争を吹っかけてきた世界平和の敵を、正義の名のもとに屈服させる。それは結局、自国に対する陶酔を生み、相手国を抹殺すべきクズどもと思いこみ、修好不能な溝をつくってしまうだろう。それは避けねばならぬ。テロリズムを駆逐するための軍国主義、それで胸を張っていいではないか。自分たちは神の国にいると思っては、結局イスラム原理主義となんら変わらぬ。
次に、アメリカがイスラム圏で憎まれているのはなぜか、ということを、冷静に考えなくてはならない。
単純に言えば、イスラムの人たちは、自分たちの聖地に、アメリカのアーミーが居座って機関銃をちらつかせているのが気に入らないのである。それは戦争の抑止につながっているのかもしれないが、きっと気分のいいものではあるまい。聖地ではなくても、自分の国に、よその国の人が銃をもって見張りにくるのは本能的に気分が悪いものらしく、アイルランドのIRAにしても、沖縄の嘉手納基地にしても、予想をはるかに上回る緊張感を生み出す。
聖地というとピンとこないので、次のようなことを想像してみよう。例えば、あなたがとある田舎の生まれだったとする。そのあなたが小学生のとき、初めて好きな異性に告白した公園が、田んぼの横にあったとしよう。あなたにとってはさしずめ、甘酸っぱい聖地である。ところが、10年後、その公園が破壊されて、浄水プラントがゴツーンと建設されたらどんな気持ちであろう。金持ちそうなヨソの人が、○○化学工業とか書かれたバッジが光るスーツを着て、公園の桜の木を引っこ抜くよう指示しているのを見たら、本能的に好きになれまい。そのプラントによって田んぼの世話が楽になるとわかっていても、思い出の地に得体の知れないプラントをブチ込む連中に感謝する気にはなれないものだ。
それが、何千年と聖地とあがめられ、父も祖父も曽祖父も、その地を守るために命を捨てたという誇り高き思い出が染み付いた地であったなら、どんな気持ちがするだろう。そこに基地がつくられ、アメリカ兵が機関銃を持って跋扈し、チューインガムを捨てたとしたら、そのみじめさは我々には想像できないほどのものだろう。ましてアメリカ兵は、イスラムの作法を尽くそうなどとはしないだろうから、聖地のまん前で、アーミーの無作法を黙認せねばならないのがイスラム圏の人々の立場だっただろうし、アメリカ兵のほうも、奇怪な祈りの作法を生真面目に守る彼らを、内心鼻で笑いながら見ていたかもしれない。中には、そんなクレイジーなことをしているから、内戦が絶えないんだよ、ぐらいのことは思う人がいてもおかしくないとおもわれる。
さらに、当然のことながら、湾岸戦争などにおいて、アメリカは中東の人間を殺している。しかも、その殺し方がとんでもないのである。湾岸戦争での、イラク兵・イラク市民の死者が、8万から10万人とされているのに対し、多国籍軍の死者は、・・・・・ちょっと想像してもらいたい。戦争というものの現実が、以外に我々には知らされていないから。
多国籍軍の死者は、182人である。
あなたが友人とポーカーをして、あなたが10万円、相手が182円では、戦いとしてのわびさびは感じられないだろう。これは戦いではなく、一方的な虐殺である。音速で飛行する戦闘機を、手筒のロケット砲で撃ち落とすことは出来ない。これほど「バランスの悪い」行いをして、中東の人々に屈託無く受け入れてもらえるはずがない。
今までアメリカは、戦争という名の虐殺をしてきたが、今回のテロで、アメリカ市民は、はじめて戦争の恐ろしさを実感として知ったのではないだろうか。兵役にいった息子が心配というだけでなく、自分と幼子の眠る寝室が、いつ吹き飛ぶかわからないという恐怖、それを初めて体験したのだ。ましてこれが、数ヶ月、数年にわたるのが本土決戦であり、アメリカ軍は正義の名のもとに、敵の本土にピンポイント爆撃や焼夷弾の絨毯爆撃をしてきたのである。
結局、アメリカ軍は何人を殺し、何人を恐怖と悲しみに、マンハッタンと同じ恐怖と悲しみに、陥れてきたのだろうか。それも、いつ終わるとも知れない憂鬱を与えながら。
アメリカは何であれ、世界で一番、爆撃をしてきた側である。それがテロ一つで取り乱して泣き叫び、我が身の不幸を大声でがなりたてるのをみて、歴史的な長さで銃撃や爆撃にさらされてきた中東の人たちは、侮蔑の笑いを浮かべたかもしれない。死を覚悟しないくせに、最も殺人する人たち、という言い方が中東でなされても、なんら不自然なことはないであろう。それでいて、自ら世界の警察官を自負し、自国の強大さ、いわば圧倒的に人を殺せる力を誇りにしているのだから、その傲慢さが鼻につくのも当然だろう。
他にも、アメリカの恐ろしさと傲慢を抉り出す材料はたくさんある。例えば、湾岸戦争において、重油にまみれた海鳥の映像を使って、アメリカはフセインを悪魔化したが、あの映像もアメリカがデッチあげたものなのである。事実として原油にまみれた海鳥たちはいたが、すぐさま映像として用いるために、みずから海鳥を捕獲して映像を製作したらしい。真珠湾攻撃においても、アメリカは既に暗号解読によって日本軍の襲撃を知っていたにもかかわらず、日本軍を悪者に仕立て上げるためにそれを隠匿し、表面上日本軍の奇襲を演出して見せた。アメリカは本当に情報戦のセンスが強い、恐るべき国である。その他、我々の国に原爆を落として民間人を30万人殺したり、東京大空襲で民間人を10万人殺したりしている。その前には、西洋諸国がアジアを当然のように占領して植民地化したし、肌の色の違う人々を、堂々と奴隷として扱っていたのである。自然の中で暮らす人々を暴力で拉致し、死ぬまでこき使ったのだ。アメリカそのものが、建国のときに、原住民のインディアンを虐殺したのは有名な話だし、奴隷解放戦々では結局奴隷たちが戦うハメになったりした。
それらのことは棚に上げ、イラクがクウェートを侵略したといってイラク人を10万人殺すのであるから、中東の人たちはアメリカを悪く思うに十分な材料がある。
こうやって考えてみると、テロは言語道断としても、まっとうな不満を持つイスラムの方々がいるのも当然のことだし、その筋の通った不満に対して、アメリカの対応は無神経にすぎるのではないかと思われる。その他、識のない私では想像のつかぬような背景が絡み合っているのだろうが、私には枝葉末節よりこれらのことを肝に銘じるほうが重要に思われる。
アメリカがイスラム圏で憎まれている事に関して、私の意見はこうである。
アメリカの方々には、なんとか断腸の思いに耐えて、怒りよりも悲しみを大事にしてもらいたい。中東において、何百万という人間から、アメリカは聖地から出ていけ、あるいは死んでしまえと思われている事実、そしてテロ一つで、アメリカもやはり、あいつらを殺してしまえ、と思ってしまう事実、右の頬をうたれても、左の頬を出すことは到底出来ず、コーランにあるように「目には目を」と思ってしまうこと、いや、正確に言うと、目には目をというのは、やられたこと以上のことはやり返すな、という意味であるから、「目には刃を」やってしまいかねない事実、そして何より、強者の立場から、たくさんの人命を奪った側・・・・・貿易センタービル何個分に相当するだろうか?・・・・・である事実。これらの悲しみを示して、アメリカは人類愛に満ちた国家であることをここに見せてもらいたい。自分に課されてもまったく成せる自信は無く、他人事だからこう言えるにすぎないとは自覚するが、やはりそれを見せてもらいたいのである。
アメリカは、国民感情として、また国の思想として、報復をせずには済まないだろうし、テロの効果を認めるがごとき中東からの撤兵もできまい。しかし、今回、ビルが崩れ落ちる様をみて、自分の町が攻撃されて、町が、命と思い出ごと吹き飛ぶということがどれぐらい悲しいことか否応無く知ってしまったのであるから、中東の数十万の人々を同じく不眠症にしてやりたいと、心の底からは思えないはずだ。
だからせめて、報復をするならば、復讐心に猛るという紳士として恥ずべきことに溺れず、悲しさの支配することとして、レクイエムの聞こえる報復をしてもらいたい。
日本も、国会で人の揚げ足をとる答弁ばかりしていないで、「アメリカから出兵要請があったらどうするのか」という問いに真っ先に取り組まないといけない。アメリカから先に言われて戸惑わないよう、世論を高めておかなくてはならない。
私としては、アメリカが、テロと戦争をごちゃまぜにし、開戦の責任を背負わず、怒りに任せて報復しようとしているなら、協力はしてほしくない。そこに参戦すれば、つぎは都庁のビルに突っ込まれるだけだ。
「テロを許さぬために、テロを見逃した国家に対し、悲しみの報復戦争をする。せざるをえない。今しがた、人の命と、人がつくりあげてきた町が消し飛ぶ痛みを知ったばかりであるにもかかわらず、だ。そのためにまた我々は今から万単位の人間を殺すが、せめて戦争で流される血とテロで流された血が生贄となって、憎しみを収束させるように、我々は誠実を尽くそう」という立場にアメリカが出たときにはじめて、日本として協力してほしいと私は思う。むしろ、先に国内で世論を高めて、アメリカに言い寄られる前に、「憎しみを拡大する報復には参加できない。憎しみを収束するためにのみ、日本は協力する」とアメリカに直接宣言しに行けるとすばらしい。そしてさらに、アメリカが現地で、憎しみに溺れた行動に出ないように協力する立場になれたら、唯一原爆を落とされただけのことはある、戦争と平和に敏感な国だと世界に尊敬されるのではないだろうか。
これから状況がどう変化するのかはわからないが、血を見ずにはいられないのだろう。だからせめて、収束に向かうための流血、憎しみを昇華させる儀式の、生贄としての血が流されれば、いい、とは言えないが、絶望的でない、と思う。
[アメリカ同時多発テロ事件/了]