信じる
下宿から歩いて30分かかるが、お気に入りのファミレスがある。24時間営業やドリンクバーはさておいて、そこにはステキな店員さんがいたのだ。いた、と過去形になるのは、つい2ヶ月前、彼女は希望どおり塾の講師として採用され、今はもういないからだ。
彼女は23歳だったが、見ようによっては10代に見えた。化粧はしっかりきめているのに、目を主役にした表情が無垢なために若く見えるのだ。それでいて、まず文句ないべっぴんさんであった。バイト前、自転車で歩道を颯爽と走りぬける様は、ほとんどの男性を振り向かせるに値しただろう。
彼女は、いつも日が変わるまで働いていたが、いつも店内の誰よりもきびきびと動いた。オーダーを取りにいくタイミングがとても敏感なのは、よくお客さんを見ているからだろう。本人は気にしているらしいが声が厚くよく響くので、座って本を読んでいても、ああ、彼女がいるんだ、とわかる。そういう力強さがありながら、一方で、客にメニューをだす、お冷をだす、そういうときには決してがさつにならない。客に、おすすめのメニューを不意打ちで尋ねられても、慌てることなく、丁寧に、自分の言葉で話す。元気のよさと丁寧さを、高いバランスで実現していた。私はその姿をほれぼれと眺めていたが、彼女が私の注文をとりにきたときである、彼女が客の目をしっかりと見て、かつ遠慮なく笑顔をあふれさせるのだということを体験し、私はどぎまぎし、なさけなくも目は泳いだ。
私はごく自然に、彼女と友達になりたいと思ったが、店内での彼女はあまりに輝いているため、お近づきになる機会がなかった。いや、機会がなかったわけではない。彼女は私のタンブラーに水を入れにきただけでも、しっかりと私の目をみて、失礼します、と笑いかけていてくれたのだし、コーヒーのおかわりにいこうとだらしなく歩いているときでも、新しいカップをお使いください、と両手を伸ばしてきたのだから。しかし、彼女があまりにきらきらした目を合わせてくれるので、いまいち格好のよくない願望を心に潜ませている私としては、まず教会で告解でも済ませてこなくては、居たたまれないほどだったので、話しかけるという跳躍は遠く及ばぬ話だったのである。
ところが基本的に私は幸運であるので、あるとき、彼女がたまたま店の前の道路を掃除しているところに出くわしたのだ。何年かぶりに胸が高鳴った。
こういうとき、くすぶっていては、彼女は掃除を5分で終えて店内に戻るだろうし、躊躇すればするほど精神の跳躍の必要距離はのびていくものである。私は格好のいい生き物ではないが、恥をかいてもしょおがねえや、と思いきる度胸だけはある。私は彼女に話しかけた。恥をかくことは覚悟の上なので、声はうわずらなかった。が、彼女があまりに弾んだ声で、はい、と答えて、ガチンコで目を合わせてくるので、どうしても心がたじろいだ。私の、すいません、という野暮ったい声を自分で呪った。
私としては、もうウソもカクシも出来ないので、シゴトスガタがトッテモステキでした、だからトモダチにナレタライイナと思いました、と、交通量の激しい国道に面した歩道上にて正直に申し上げた。顔から火が出るのが普通だが、私は覚悟の地点で火の元を切ってある。カッコ悪いのはどうしようもない、と、自分でわかっているつもりだ。
ところがである、彼女は、このイカレた男に、警戒することもなく唖然とすることもなく、目の光をそのままに、ありがとうございます、今書くものとか持ってないんで、また次に電話番号とか教えますよー、友達になりましょう、と笑ったのだ。
私がクリスチャンであったら十字を切っただろう。南無阿弥陀仏を唱えるわけにはいかないので、私は、ああ、とも、うう、ともわからないマヌケな声を漏らした。まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかったので、私は彼女の、神々しさとでもいうべきものに、めまいがしたのである。彼女はさらに、電話番号を教えてくれたらこちらからかけますよー、と追いうちをかけてきた。私は、私も書くものを持っていないので、また次にきたときに、ということにした。なぜだか、そそくさと逃げ出したいような気持ちになっていたが、それは全くもって愚かで失礼なことだと思ったので、勇気をふりしぼって、彼女の1/10ぐらいの輝きでもって、仲良くしましょう!と言って笑いかけてから、落ち着いたフリをしてその場を去った。
また店に行くと、彼女は本当に何の屈託もなく連絡先を教えてくれて、仲良くしてくれた。普通は、ちょっと気まずさが混入しそうなものなのに、彼女は本当に、当たり前のように私と仲良くした。空元気を張るする私をおきざりにするように。電話などで少しお話するようになり、学生だったときのことや、今のバイトのこと、これからの仕事のことなどを教えてもらったりした。
その後しばらくして、彼女がバイトを辞め、念願の塾講師として就職すると、会う機会は減っていき、電話などもしにくくなった。彼女には彼氏がいる以上呼び出したりするのもはばかられ、いつのまにかうやむやになった。これは、機会のせいだけでなく、私が彼女の、スポーティーな明るさや元気よさについて行けず、うまく間を保てなかったこともある。不思議なことに、恋心はまったく芽生えなかったので、さしてそれが悲しいわけでもなかった。
彼女のことを考えると、あらためて、素晴らしい人だったと思う。同時に、自分が矮小に思えてきて、自分などまだまだだと気が引き締まる。そう思いながら、また当然の疑問がこみ上げてくる。彼女は素晴らしい人だったが、何が彼女を輝かせているのだろうか?私はそれを知りたいし、あわよくば盗みたいとも思った。それだからこそ、あの時、恥も外聞もなく彼女に話し掛けてみたのだろう。
彼女は、目の前の人を好きになるようだ。目の前の人が、陰険であったり悲観的であったり黒い情念をもっているとは、露ほども思わぬらしい。だから、一人一人にああして笑いかけられるのだ。またその態度が、周りの人を否応なく優しくする。そして、彼女は自分でつくる幸せのサイクルの中に生きているのだ。心の栄養がいきわたれば、こんなにも女性の瞳はかがやくのだ、と私は彼女を見て知った。
彼女は、自らを鞭打って、人に笑顔を振りまこうなどとしていない。慈愛を注ぐ者を気取ってはいない。ただ彼女には、周りの人々が、いい人たちに見えるらしく、だから彼らに微笑みかけることに恐怖を覚えないのだ。恐怖!大げさなように思えるが、まさしくそうなのだ!人に笑顔を、とくに心をこめた笑顔を見せるには勇気がいる。おそれやおびえを伴う行為である。それは、目の前にいる人が、それに値すると信じられないからだ。
彼女は人を強く信じている。強く。それが彼女の輝きを生み出している。
礼儀作法を整え、インドの山奥で哲学を追求し、ローマ法王から祝福を受け、深層心理学を極めたとしても、彼女の心持に至れるとは限らない。人を信じられなければ、なにも進んだことにならぬからだ。人間のあるべき姿を100万回説いたとしても、彼女の立ち居振舞いを手に入れることは出来ない。人間の力は、その存在をくどくど説明されるものではなく、ただ示されるものだ。
彼女の実現している心の状態、幸せのサイクルに至るには、特別な修行や資格試験は必要ない。人を信じること!部屋に寝転がって思いをはせるだけでも到達できるはずの、ただ人を信じるということ!ただそれだけのはずなのに、それがなかなか容易ではない。気が滅入っていると、近所の人に挨拶するのもままならなくなったりする。何かから身を守ろうとせんばかりに、自らに閉じこもる。人と話すときに、相手が検察官であるかのごとく、居心地の悪さを覚えて目をそらす。あらゆる些細なことが気にかかるようになってしまう。
そういうとき、人はなにに脅えているのだろう。スキあらば、周りの人が指を指して笑いに来るとでもいうのだろうか。そんなわけはあるまい。
人は、己が人を信じられぬ業のゆえに、人を恐れる。かつて自分が人を指差し笑った、因果なのだろうか・・・・・。
彼女が働いていた風景を思い出して、彼女のようなマネは、一朝一夕では身につくまい、と改めて思う。ため息が出ないでもない。けれども、ああも美しいものなら、私も人を信じられるようでありたい、と思う。悪い人ばっかりじゃないよ、などという乾いた処世術を飛び越して、人のやさしさを信じよう。この世界は、大半がいい人たちで出来ていると信じよう。
・・・・・そう心に決めると、なんだか、言うまでもなくそうであったような気がしてくる。これは非常に大事なことだ。実はもともとそうだった、と知ることが、信じることのゴールであるから。どうせ、イヤな奴ら、問題のある奴らばかりだ、と吹聴する者にも、さしたる根拠はないのである。どうせ薄弱な根拠で信じこむなら、人を信じ、幸せのサイクルを生きていこう。
[信じる/了]