夢は怒りによって
今僕が住んでいるところは、割と商店街が近いので、朝になるとちらほら、玄関前に、空き缶が捨ててあったり、煙草の吸殻が捨ててあったりする。
そういうことについて、どう思うかというと、そういったことは、どんどんやれ、と思っている。
もちろん、これは僕の、完全に個人的な思いだ。
僕は、自分の家の玄関先に、空き缶や煙草の吸殻が落ちていた場合、「いいぞ、どんどんやれ」と思っている。
商店街が近いのだ。そして、商店街は、経済的な、生産活動をしているのだ。
人が来て、買い物や、飲食をするのだ。
空き缶の一つや二つ、吸殻の一つや二つ、落ちていないようでどうする。
そんなことより、吸殻を捨てていった奴は、ちゃんとその夜、女とヤッたんだろうな? ということばかりが気にかかっている。
自分の住んでいる街が、デートして女とヤレもしない街だったとしたら、それこそが一番まずい屈辱で、クソッタレだ、ということになる。
少なくとも、僕はそう思っている。
誰も彼も、そう思えとは、僕はまったく思わない。
僕の考え方を、誰かに強制するつもりはないから、僕だって誰かに、考え方を強制される必要はないだろう。
いいぞ、空き缶も吸殻も、ウチの前にどんどん捨てろ。
僕は、正直、そういったことが、自分の玄関先にされたとして、ぜんぜん気にならないのだ。
心が広いわけでは決してない。
僕の思うところを、正直に言えば、
「どれだけ心の狭い奴でも、さすがに、そんな小さなことでキリキリ怒ったりはしないだろ?」
と思っているのだ。
もちろん、今や世情がそうでないことは、僕だってそれなりに知っている。
知っているからといって、それを肯定しようとは思っていないけれども。
僕にとって必要なことは、ただ僕の日々と、僕の時間が、爆裂ハッピーでありつづけることだ。
僕にとって必要なことは、「玄関先にゴミが落ちていないこと」ではない。
玄関先に、ゴミが落ちていなかったからといって、「やったあ、僕の人生が完成した!」とはならないし、これで爆裂ハッピーだぜ、ということにもならない。
もちろん、物事には限度というものがあって、たとえばチョウチンアンコウの内臓をブルドーザーに満載にしてぶちまけていかれたら、それはさすがに困る。
そのときはさすがに困るが、そこまで凶悪な事象例を、こんな世間話に持ち込む必要はないだろう。
玄関先に、見知らぬ自転車が停めてある場合もしばしばある。
そのときは、
「おっ、ちゃんと、誰かが遠くから、商店街に来てくれているな」
と思っている。
事実、そうだろうからだ。
きちんと駐輪場に停めなさい、とは、僕はまるで思わない。
駐輪場に停めたら、カネが掛かるからだ。
自転車を停めるだけで、カネが掛かるような街に、何度も来たいとは誰も思わないだろう。
何度も来たいと思ってくれなくなると、街の人気はなくなり、街の生産性は下がる。
そうしたら、街の景気は悪くなり、街の人々の顔つきは憂鬱になり、街の治安は悪くなるだろう。
それ以前に、人の来ない街に住んでいるということは、それだけで精神に廃墟的なダメージを受けてしまう。
だから、そんなことになるぐらいなら、自転車なんか、ウチの前に停めてくれたらいいと思っている。
むしろ、
「すまんな、ウチの玄関先は狭くて」
と思っている。
僕だってさすがに、原子力発電所がもう五、六基吹っ飛んで、放射能をバラ撒きますよ、ということになったら、さすがに怒るだろう。
それは、僕の爆裂ハッピーを、大きく妨害するものだからだ。
そういうことは、許されない、と、誰だって思うように、僕だって思う。
ここで話していることは、あくまで、僕の個人的な考えだ。
いつだってそうだが、特に今回は、完全に僕の個人的な考えを、つぶやくようにしている。
もし、誰かが、僕の家の玄関先に、煙草をポイ捨てしたとする。
そのときに、モラル・マニアのおばさんが通りかかって、
「信じられない。あなたのような人がいることは。拾いなさい。あなたって本当に人間のクズですね」
と説教するようだったら、僕としては、
「頼むから、ババア、お前のほうがどこかに行ってくれ、お前こそウチの玄関先に来ないでくれ」
と思う。
これは、僕の感じ方であり、僕の考え方だから、しょうがない。
玄関先に吸殻を捨てていく人は、別に僕を攻撃する意図で、それをしているのではないだろう。
それに比べると、モラル・マニアのおばさんは、明らかに誰かを攻撃している。
僕は、たとえ自分に対してではないにせよ、誰かが誰かを必死に攻撃しているというところを、見たくない。
僕は決して心が広いわけではないのだ。
玄関先の吸殻を拾うようなことは、何でもないが、モラル・マニアのおばさんと握手するということは、とてつもなくイヤだ。
美少女ならいい。
というぐらい、僕は十分に、心が狭いタイプだ。
煙草の吸殻ぐらい、どんどん捨てていったらいい。
そうして気楽に吸えるほうが楽しいに決まっているだろう。
空き缶だってどんどん捨てていけばいい。
空き缶を持たされたまま街を歩かされるのは邪魔っ気で楽しくないだろうから、身軽になって遊びに行けばいい。
僕は、赤の他人が、攻撃されているのを見るのがイヤだし、そのぶん、赤の他人が、それなりに楽しんでいるところを見るのが好きだ。
僕の妄想によると、玄関先の吸殻にキリキリ怒るようなことをすると、運気が冥王星レベルにまで下がるので、それはイヤだなということもあり、そんな不幸なコースにダイブしないよう、「人が楽しめるならそれでいいじゃん」という考え方に、与するようにしている。
ところで、マニア/maniaという語は、もともと「熱」の意味であり、そこから敷衍して、マニアックというのは、「正気でない」という意味を持っているらしい。
モラル・マニアの人は、今、世の中に、決して少なくないのだろう。
マニアの人というのは、もう、そのことの実現のためなら、なんだってやる、どんな蛮行でもする、という狂信的テロリストの気質を持っている。
と、勝手に僕は思っているのだが、まったくデタラメかもしれないので、気にしないように。
ただ、少なくとも、僕がモラル・マニアの隆盛について、ひたすら「恐怖」を覚えている、というのは事実だ。
マニアックというのは、正気でない、という意味だそうだから。
モラル・マニアが、いいとか悪いとか、そんなむつかしいことは、僕にはわからない。
ただ、僕が「恐怖」している、ということは、僕自身の心境のことなので、僕にだってわかる。
玄関先に、つい吸殻を捨てて行ってしまった誰かのことは、別に恐怖ではないが、モラル・マニアの人は恐怖だ。
吸殻を捨てて行った誰かは、別に狂信的テロリストの気質をもってそれをしたわけではないだろうから、別に恐怖ではない。
モラル・マニアの勢力が隆盛して、我々が常にその恐怖に監視されるようなったとしたら、そのときはどうすればいいだろうか。
あるいは、実際に、モラル・マニアから攻撃を受け、抗争せねばならないときが来たら、そのときはどうすればいいだろうか。
モラル・マニアの隆盛について、「恐怖」だったとして、それをどう受け止めればいいだろうか?
それについて、僕は珍しく、「受け止めなくていい」と思っている。
何をどうすることもできないのだ。
関心をゼロにするぐらいしか、僕には方法が見当たらない。
攻撃されると、被害が出るのだが、被害が出たら手当して修復し、ただそれだけ、ということで打ち切るしかない。
たぶん、それについて考えるとか、受け止めるとか、そういったことの全てが無駄になるのだ。
僕は、もし、誰かが僕の目の前で吸殻を捨ててしまい、僕の家の玄関を汚すところを目撃したとしても、ちゃんと、
「いいよ、いいよ、そんなもん」
と、気楽に言えるジジイでありたい。
僕がどういうジジイになりたいかは、さすがに僕の勝手なので、これは僕の好き勝手にしていいだろう。
という、理屈も、はたしてモラル・マニアの人には通じるのか通じないのか、わからない。
まあ、そのあたりは、考えていてもしょうがない。
とにかく、僕の爆裂ハッピーは、そうした吸殻とか空き缶とかによって脅かされるものではない。
爆裂ハッピーは、夢とか、自由とか、成功とか、可能性とかによって成り立っている。
それらの全ては、ひっくるめて「夢」と言っていいと思うが、僕が怒って立ち向かわねばならないときがあるとすれば、その爆裂ハッピーの「夢」を妨害されたときだけだ。
「夢」とは何か?
そうして、夢とは何か、というような、難しい話は、どこかの誰か、偉い人に訊いたらいい。僕に訊いたって、どうせ僕は「かわいい女の子の、スカートの中、その無防備な、なんちゃらかんちゃら」ということぐらいしか言わない。
実際、それが「夢」だと確信しているのだから、しょうがない。
僕の「夢」は、そのとおり、世界中の街角に散らばっている。
「夢」がいくらでもあるのだ。
なんで吸殻とか空き缶とかが気になるかね?
このとおり、爆裂ハッピーというのは、こうして確実な、無数の、かつ手が届く夢がないと、実現されない。
ところで、吸殻や空き缶に、爆裂の怒りを向ける人は、たとえば日本に移民が参入して来たら、全員かめはめ波で吹っ飛ばす、というぐらいの怒りに、満ちているのだろうか?
吸殻や空き缶の問題より、移民を受け入れたときに起こる騒動のほうが、明らかに深刻で、規模が大きいように思うのだが……
とにかく、そうして考えると、僕には難しいことが一切わからないのだなあ、ということに気づく。
僕にわかるのは、その、爆裂ハッピーには「夢」が要る、ということぐらいで、あとは、「夢」は、怒りによって成り立つんだな、ということぐらいだ。
怒りを持たないと、夢が持てない。
というのも、世の中は基本的に、我々が自由とか夢とかを持たないように、圧力的なはたらきかけをしてくるからだ。
世の中というか、世間が、ということになるだろう。
僕が、かわいい女の子のスカートの中で、イイネ! ボタンを押そうとしたら、きっと世間のおばさんは、僕のそれを否定的に見るはずだ。
否定的に見るのは、人それぞれの自由だが、世間というのはしばしば、織田信長よりも横柄に、他人に向けて架空の権力を行使してくるものだ。
世間というのは、たとえばアヴリル・ラヴィーンに対してだって、「ピアスはやめなさい」ということぐらいは言いかねない。
僕は、そうした横柄な、架空の権力が、人の自由と夢を侵害し、特に僕の爆裂ハッピーを無神経に妨害してくるときには、核融合炉を全開した怒りをもって向き合いますよ、と心がけている。
それは、「怒り」なのだから、一も二もない、全て焼き尽くして終わりにしてやる、という決定だ。
悲鳴を聞いてやるほどの酌量もない。
「怒りますよ」と、警告なんか、絶対にしてやらない。
何に対して怒るか、ということは、僕の個人的なことだから、これもまた、僕の好き勝手にしていいことだろう。
「怒り」なのだから、こっちが一方的に仕掛けて、一方的に完了させるだけで、別に相手に何を認識させてやる必要もない。何の認識もさせないまま、「全部終わりましたが?」とすればそれだけでよいことだ。
僕は、「怒り」は持っているが、見せしめとか復讐とか、そういうまだるっこしいことへの精神は持っていない。
怒りの対象が、消失すればそれで済むので、最速でそれを済ませるだけだ。
これはもう、決定事項だし、「怒り」のよいところは、そうして何もかもが前もってすでに「決定済み」、というところにある。
そう考えると、「夢」というのも、まったく同じだな、ということがわかる。
夢はやはり、怒りによるのだ。
「夢」といって、たとえば「野球選手になる」という少年は、もう「野球選手になる」ということが、決定済みのことなのだ。
決定済みのことなので、そのことを最速で済ませる、というだけになる。
決定済みのことに、今さらあれこれ思念を入れなくていいし、またそうして決定済みのことを、他の誰かに認識させてやる必要もない。
もう全て済んでいるのだ。
そうして、怒りと夢は、まったく同質であって、人間の持つ「夢」という現象は、まったく怒りの機能によって成り立っている。
そう考えると、やはり、玄関先の吸殻やら空き缶やら、そんなことに「怒り」なんか持っていられないのだ。
そんなことは、僕の夢でも何でもないから。
夢は怒りによって成り立っているし、夢は怒りとつながっている。
かわいい女の子の、スカートの中の無防備な、イイネ! ボタンが夢だということは、そのかわいい女の子の、スカートの外側は、全て核融合炉を全開した熱で、消失させればいい、ということになる。
怒りがあり、その対極に、つりあって、夢があるのだろう。
居酒屋で出されたカラアゲに、勝手にレモンをかけることへ、全力で激怒する人は、その対極に、つりあう夢、つまりカラアゲにレモンを掛けるかどうかへやさしく六時間話し合って基本的人権のありようを知り合う、というような世界が、「夢」としてあるのだろう。
人の夢はそれぞれで、人によってはそれが爆裂ハッピーだというのだから、しょうがない。
他人が口出しするべきことではまったくない。
人はもちろん、夢など持たなくても、十分に生きていくことができる。
と、たった今、猛烈なウソを言ってみたことで、僕はニヤニヤしているのだが、本当のことを言うと、人は夢を持たないとまったくまともに生きていけない。
決定済みのことを持たずに生きていけるなんて、どれだけ肝が太いんだ。僕にとっては考えられないことだ。
僕が小心者なのかもしれない。
夢は怒りによって成り立っている。
怒りは、「正気」の一つであって、正気を失ったマニアの激情とはまったく異なる。
あるいは、いつの日か、僕だって、玄関先の空き缶や吸殻に、激怒する日が来るのかもしれない。
そのとき僕は、夢を失っているのだろう。
そのとき僕は、夢を失い、すでに爆裂ハッピーではなくなった、残りの時間に苦しめられて、ただ生きているだけなのだろう。
なるべく、そんな日が、永遠に来ませんように……
どうせ来ないだろうけど、一応……
苦しむのは、僕ではなく、どうかヨソの誰かでありますように……
と、たまには好き勝手に、僕の個人的な考えのことを言ってみた。
僕はあくまで、僕の個人的な考えにおいてしか、生きていくつもりがないからな。
[夢は怒りによって/了]
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