恋愛小説のコラム









Bull Shooter





午前二時、路面電車の停留所のすぐ傍にあるバー、僕はそこでダーツをしていた。タングステンのバレルにベリーショートのシャフト、ウイングは六角形。タン、タン、タン、一定のリズムを心がけて。

調子は、良いとは言えなかった。三本のダーツが三本とも、わざとらしく左上へと流れてしまう。これは、ダーツをリリースする際、指がバレルを弾いてしまっているせいだ。要するに、余計な方向への力を加えてしまっている。また、そのようにダーツが左上に流れるのを修正しようと、今度は右下への力を無意識に加えてしまうのだから愚かしい。そのようなごまかしで自分の悪癖が修正されうるはずはなく、ダーツは中央のブルに寄るように見えて、結局はまとまならないのだった。ブルに入らないダーツなど、もはやダーツではない。それは「ダーツのようなもの」に過ぎない。僕はそのように思い、ため息をついた。

僕はそれでも諦めきれぬ具合にダーツを惰性的に投げ続けていたのだったが、一方でバーカウンターのスツールに腰掛けていた女の子の二人組の話を盗み聞きしてもいた。彼女らは二人とも、いささか時代遅れの不良少女といったいでたちで、その会話の内容も「そういやあいつ、ついにカンベ入ったらしいよ」という具合に、可愛らしく物騒なものだった。カンベというのは鑑別所のことで、いわば少年院の手前にあるものである。僕はその単語の響きに懐かしさを感じていた。

僕は彼女らの話を盗み聞きしては、聞いたそばから忘れるという具合に聞き流していたのだったが、そのうちに僕もどきりとさせられる言葉が耳に飛び込んできた。それは、二人のうち背の高いほうの彼女から発せられた言葉だった。彼女は、これもまた時代遅れなデニムのホットパンツを穿き、そこからすらりと伸びた健康的な素足をスツールの上で抱きかかえていた。その形はいかにも女の子らしいものだったが、一方で彼女の目には、幼さの残る強気と、それを超えて気高い光があった・・・。

「あたしさ、アンタのそういうとこ、すっごい苦手なんだけど」

彼女ははっきりと不満と非難の響きを込めて、そのように言ったのだった。その調子は抑揚としては落ち着いてはいたが、言葉としてまた響きとしてどうしようもなく鋭いものだったので、言われた側の彼女は言葉を詰まらせてありありと動揺した。背の高いほうの彼女は、臆するところのない視線を動揺する彼女に容赦なく射込んでいる。その視線の迫力は、ごまかしの無い回答以外は認めぬという確固たる意思に満ちていた。僕はそのように緊張感を高めている彼女たちを横目に見ながら、コミュニケーションが為されようとしている、と感じた。それは妙に、胸を打つような感覚でもあった。

僕たちはコミュニケーションをしながら生きている。それはまったくかけがえのないもので、時にはコミュニケーションをするために生きている、とすら思えるほどだ。一方で、僕たちは自分の弱さや臆病さによって、コミュニケーションを避けてしまうことがあるということも認めなくてはならない。そのようなとき、僕たちは色々とごまかしをし、結果として「コミュニケーションのようなもの」をしてしまいがちだ。そのことから目を逸らしていると、やがてはコミュニケーションというものがどのようなものだったかということ自体を、忘れ去ってしまいさえする。

コミュニケーションとは何だったか。それは「気持ちをぶつけ合うこと」だったはずだ。その意味において、コミュニケーションとは穏やかなものではない。なぜならその交換されるべき僕たちの気持ちというやつが、そもそも善良で無害なものばかりではないからだ。僕たちに湧き上がってくる気持ちには、喜怒哀楽がまんべんなく含まれている。その中には、愛もあれば憎悪もある。尊敬や軽蔑、祝福もあれば妬みもあるだろう。それらをできるかぎり歪曲せず伝えるのが、コミュニケーションというものだったはずた。それが常識的に、TPOや丁寧さを必要とすることは確かにあるとして・・・。

コミュニケーションが穏やかなものではないというのは、恋人同士においてさえそうだ。どうしても気に入らぬ物言いがある。忘れられず気持ちを暗くする態度がある。無邪気さが愛らしい反面、幼稚さが軽薄に見えてしまうことがあれば、尊敬すべき向上心が、鼻持ちならぬ傲慢さに見えることもある。僕たちはそのようなことに直面するシーンで、つい逃げを打ちがちだ。そして、「人間だから悪いところもあるさ」とか「傷つけるのはイヤだから」とか、そういう美辞麗句で自らを飾り立て、結局はコミュニケーションを避けるのである。そしてその代わりに何をするかといえば、自分の気持ちの中で聞こえの良いものだけを取り出して相手に伝えるのだ。それは要するに「コミュニケーションのようなもの」である。そして残念な事に、僕たちはコミュニケーションに至らぬ「コミュニケーションのようなもの」の退屈さといかがわしさを無意識のうちに知っているから、「コミュニケーションのようなもの」を繰り返しているうちに、やがて不細工な苦笑いや深刻なため息が出てきてしまうのだ。

中には、コミュニケーションを徹底的に避け、「コミュニケーションのようなもの」だけを積極的に愛好する人がいる。僕たちは習慣的に、そのような人を「いい人」と呼ぶようだ。僕たちは「いい人」について、言葉の上では賞賛しながらも、その人と相対するにおいて、心のつながりやきずなといったものを期待しないでおこうというスタンスを無意識に設定する。それは手の込んだ軽蔑でしかない。そして僕たちは「いい人」から愛の告白を受けたとき、「いい人だとは思うんだけど」と、不明瞭だが決定的な拒絶をするのである。「いい人」という言葉には、「聞こえのいいことしか言わぬ、コミュニケーションのとれない人」という残酷な意味が含まれているのだ。

しかしそれでも、一旦「いい人」の味を覚えてしまった人は、なかなかそこから脱出できない。それだけ、コミュニケーションを避けること、「コミュニケーションのようなもの」だけで済ますことは、安楽なのだ。その安楽さは、檻の中のヒグマを見て「かわいい」と言っている状態によく似ている。鉄柵を取り去って向かい合ったとき、そこには不安やわずらわしさがつきまとうだろう。「いい人」は、そのようなストレスに一方的に敗北するのだ。

考えてみれば、コミュニケーションとはなんとストレスフルなものだろうか。さしあたり表面上は楽しく会話している中で、例えば「その言葉づかい、やめてよ」と一言を紡ぐだけでも、そこには大きなストレスが発生する。それは、相手の気分を害して空気を悪くするということのストレスだけでなく、そこから始まるコミュニケーションを責任を持って完了させなくてはいけないというストレスであり、さらに「自分自身はどうなんだ」といった自己の問いかけについて、自分も正面から向き合わねばならないストレスである。

コミュニケーションはストレスフルである上に、正しく完了させるためには智恵も必要とする。まずは自分の気持ちを自分自身で正確に把握せねばならないし、それを歪まないように自分の言葉として丁寧に紡がねばならない。ここにおいて、「自分の気持ちを言葉にするのが苦手」といった弱音を吐いたとしても、それは何の救いにもならない。僕たちは言葉を発する者である以上、その言葉の取り扱いについて自然発生的に責任を持たねばならないのである。その責任に無関心だった人は、全ての違和感を「ムカつく」としか表現できないかもしれない。それはコミュニケーションをしようという時にはなはだ不利である。それでもそれは他人がどうこうできるものではないから、自分として言葉を紡いでいくしかないのだ。そのような場合、コミュニケーションが滑らかになされず、不毛な断絶に終わったとしても、それは自分の今までの怠慢の結果だとして甘受せねばならないだろう。

そのような点において、背の高いほうの彼女が紡いだ言葉、「あたし、アンタのそういうとこ、すっごい苦手なんだけど」というのは、全く良くできたものだったかもしれない。何より真っ直ぐであり、グサリとくるようでいて、実は深い優しさに裏打ちされている・・・。

背の低いほうの彼女は、いくつか言い訳じみたものを並べたあと、ごく自然に泣き出してしまった。その泣き声はやがて嗚咽を含みだし、漏れてくる言葉―――だってあたし、でもあたし、といった具合の支離滅裂な言葉―――は、次第に赤子じみて無法に音量を大きくしていくようだった。

人目をはばからず泣き続ける彼女は、うつむいて膝に拳を当てたまま、とにかくどうにもならぬ不満と自己憐憫を、散り散りになった言葉で訴えているようだった。それは誰の目にも明らかに、大声で駄々をこねているだけの姿だった。背の高いほうの彼女は、先程よりはいくらか柔らかさの混じった視線で、泣き続ける彼女を見ていたのだったが、やがて彼女は、黒いマニキュアが丁寧に塗られたその右手を、涙に濡れる彼女の拳の甲にそっと重ねたのだった。僕は彼女のその仕草にどきりとさせられ、思わず目を逸らした。やさしい女だ、と思った。

いささかどきまぎしてしまった僕は、マスターに頼んで音楽をかけてもらうことにした。

―――サイモン&ガーファンクル、あったっしょ?あれ、大きめのヴォリュームでお願い。

僕がそのように頼んだのは、泣き続け駄々をこね続ける彼女の悲しい声が大きすぎ、店内の全員に明け透けに聞こえてしまっていたからだった。マスターは僕の頼みを「あいよ」と一言で快諾し、十分に大きなヴォリュームで「Old friend」を再生したのだったから、マスターとしても僕の意図は言外に了解していたのだろう。サイモン&ガーファンクルを聴くのは随分久しぶりだった。久しぶりだったのは、その音楽だけではなかったかもしれないけど・・・。

アコースティックギターと透き通った歌声が店内に響き渡ると、嗚咽の声はその切迫感が中和されるようだった。これで彼女も存分に泣けるだろう。僕は他人事ながらそのように思い、安堵した。

僕は再びダーツをやろうと、スペクトラムのダーツマシンに向かったのだったが、その途中で、背の高いほうの彼女と目が合った。彼女は、泣き続ける背の低いほうの彼女を慰めながらも、はっきりと僕のほうを伺っていた。僕の視線は彼女の力強く柔らかい視線に絡め取られ、僕は思わず立ち止まってしまいそうになった。やがて彼女は、僕の目をしっかり見たまま、明らかに御礼のそれと分かる、微笑寸前の表情の会釈をした。僕は、彼女の強く脱色された前髪が会釈につられてさらりと揺れるのを見てしまい、それによって突如、猛烈に照れくさくなった。

僕は、みっともなく上気して、その場に全然関係の無いことをほざいてしまった。

―――ブルに入らねぇんだよ、ブルによ。

それは我ながら全く意味不明の言葉だったが、彼女はそれを受けて一拍後、なにやら意味ありげな笑みを見せてくれた。

僕はもはや彼女を正視できないぐらい照れくさい気分になっており、逃避的にスペクトラムのダーツマシンに視線を逸らした。ダーツマシンは色鮮やかなボードを掲げており、ダブルリングとトリプルリングに囲われたそれは、まるで曼荼羅(まんだら)のようにも見えた。その中心にはブルがある。このブルにダーツを打ち込むのは快感だが、それなりにストレスフルでもある。この曼荼羅に本気で向き合って、真っ直ぐに、本当に真っ直ぐに、投げなくてはいけないのだ。そこには、真剣な丁寧さも要求される・・・。

それでも僕はダーツが好きだ。時折その未熟さから、「ダーツのようなもの」に堕してしまうこともあるけれども。それもやがては、乗り越えていきたいものだ・・・。

僕はそのように思ううちに、ふと、いつもよりダーツボードが近く見えることに気付いたのだった。

今度こそ、ブルに入るような気がした。






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