笑ったことのある人へ
白鳥の湖(人はそれに近づいてはならない)
(暗転)
(風の音、吹雪の音。高まってゆく)
(風の音! 吹雪の音!)
(白鳥たちのガアガア鳴く声。高まっていく)
(白鳥たちの、攻撃する声! ガア、ガア! 攻撃する声のおぞましさ!)
(これはいつ止むのだ? まるで悪趣味だ!)
(表示、「白鳥の湖」)
(表示、「人はそれに近づいてはならない」)
***
春でさえ冷たく、夏は弱く、厳冬には氷雪に閉ざされる地域の、平坦な森や湖と共生する、確かな人々の話である。少女オデットは、信心深すぎる祖母の言うことへ、形式的な生意気を返したりしたが、祖母の言いつけを守れぬほど不埒な娘ではなかった。
「どうして? おばあさま、あの湖には白鳥がいるわ。それは、蛇や鰐はいないということに違いないのよ。白鳥たちは、あんなに優雅に泳いでいるのだから」
祖母はつねづね、孫娘の慧眼をよろこんでいたが、それだけに魔が差すようなことがなければよいと、老婆心を忍ばせていた。しわだらけになり、このごろは震えるようになった指先で、林檎の皮むきをしていたのをオデットに代わってもらい、
「オデット、いいかい。あの湖には名前があるけれど、それを今お前に話すことはできない。あの湖の名前は、悪魔の器という意味を持つからね」
「でもおばあさまは、その名前をご存知なのでしょう? それは矛盾のあることだわ」
「オデット、それはお前が、いつか好い人に娶られて、長く時が過ぎ、眼も細くなっていって、ずっと後で知ればいいことなのさ。いいかい、あの湖に近づいてはいけない。それがある朝美しく、森を逆さに映してお前に呼びかけることがあっても、それは遠くから眺めればよいことで、近づいてつま先を濡らすことはないのさ。いいね」
「おばあさま、わたしは、記憶力の良いほうでしてよ」
オデットは剥いた林檎をナイフでいくつかに割いてやると、佳い形の器へ並べてやり、祖母の脇机へ乗せてやった。お茶をお飲みなさる? と問うのへ、祖母が首を横へ振るので、オデットは搾りたての山羊の乳を温めてやり、カップへ移して祖母の手元へ添えた。
「お出かけしてくるわ、おばあさま」
オデットは祖母の首筋に絡まりついて、その頬へキスをして差し上げた。祖母の無骨な手は指先を震わせながら、まだ腰の強い生えたてのオデットのおぐしを芳しい作物のように撫でて梳かした。
無論その日のうちは何事もなくて……そのまま二つの短い夏を過ぎ、秋口にも雪が降り始めたころのことだ。オデットは少女のうちにも妖しさをもつほど美しくなり、彼女の愛する祖母は、気丈夫とはいえ本格的な医者に世話を受けるようにもなり始めていた。
出歩くことの少なくなった祖母への、快気への足しにと、オデットは道草に、この季節のみに咲く野花をしゃがんで摘んでいた。今年は特によく咲いたようだった。このたくさんの水を吸う花は湖の周りに咲きたがった。これまでは注意深かったオデットも、美しいものを愛で始める年齢になり、それでいて、美しいものが自分を惑わしていくということはまだ知らずにいた。オデットがそのことに気づかされて、はっと面を上げたのは、喉をつぶした蛙のような、ガア! という白鳥の一鳴きだった。しゃがみこんで花の咲く先へ先へともぐりこんでいったオデットは、湖のほとりに至っていた。まだ名前を知らない、知ってはいけない名前を持つ湖のほとりである。
「白鳥さん! ああ、あなたはこんなに大きい姿をしていらしたのね」
「ガア! ガア!」
「どうしたの、気を難しくしていらっしゃるの?」
お子様を育てていらっしゃるのかしら。そう疑い、見渡してみたがオデットにはわからなかった。
それにしても、間近で見る白鳥は、本当にこれほど大きいものだったかしら? このようなものが、空を飛べるものかしら。
いかにも自分が歓迎されていない様子であることに、オデットは少し口を尖らせておどけた。
「白鳥さん、お邪魔をしたかしらね。だとしたら……いいえわたしは、花摘みにつられてきただけなの。わたしも、あまり長くここにいてはいけないと、言いつけられているのよ。また冬を越して、春が来たらお会いしましょう?」
先ほどとは違う方向から、空に風が巻いて、吹きすさぶ音が湖に響いた。そして、ガア! ガア! と鳴きはじめた白鳥の声は、今度は一羽ではなく複数のものだ。それは無数の声となって鳴り響き、湖のほとりを取り囲んでいった。
「どうされたの!」
オデットはさすがに立ちすくみ、摘んだ野花の束を胸元へきつく抱きしめた。
オデットは初め、白鳥を狩る違法の猟師が来たのだと思った。白鳥たちはそのことへ怒りと警告と抵抗の声を上げているのだと思った。このあたりでは珍しくないそのことへ思いが至ったとき、なあんだ、と胸を撫で下ろした。見渡せば、このあたりには希少な立ち枯れた広葉樹が、湖のほとりに傾き、一人の男がその根元へたたずんでいるのが見つかったから、オデットはまったく息を吹き返した。
白鳥さんたち、ほらお逃げなさい、あなたたちには危険なことだわ、とオデットは白鳥たちを促したが、嘴をまっすぐ天に向けて叫ぶことをやめない白鳥たちは、ふたたびオデットを立ちすくませた。まだその言葉を知らないオデットにとっても、白鳥たちのそうして鳴く執拗な姿は、異様だったのである。
男が近づいてきた。一層高まる白鳥たちの声に、オデットが驚いたことには、男は木陰にいて黒ずんでいたのではなく、男自体が陰なのであった。両手両足があり、手に持っていたのは鳥撃ちの銃ではなく長い柄の鎌のようなものだ。近づいてくるうち、それが人間の背丈であるわけがなかった。そして何より、近づくと顔のない頭が縦に並んで三つある。それを左右にうごめかして近づいてくるのだ。
見慣れないものへ眼を奪われたオデットは、凍り付いて動けなかった。近づいてくるそれが悪魔であることをオデットは理解し、たちまち悪寒もしていたが、恐怖と共に、それ以上の負けん気が、オデットには起こっていた。
(悪魔なのでしょう? 知っているわ。でも、何も悪いことをしてきていない人間を、悪魔は死の国に連れてゆくことはできないはずでしょう。わたしはそのことも知っているわ。そのように教わってきたし、わたしは記憶力の良いほうなのだから!)
事実、しばらくの間であったが、三つ頭の悪魔は、目の前まで迫り来たくせに、そこからオデットに何もできなかった。オデットに明らかな関心を向け、覗き込んできては、嗅いだことのない饐えた臭いでオデットを怯ませたが、潔白のオデットを妙な気持ちにさせたのはそのことではなかった。
「あなた、泣いていらっしゃるの? 何かを苦しんでいらっしゃるの?」
三つ頭のうごめきが、ときおり引きつっていて、オデットにそのことを気づかせたのである。
オデットの、柔らかみを帯びた声が、三つ頭の悪魔に聞き取られると、三つ頭の悪魔は身をよじるようにして、確かに苦しんでいるようだった。その姿に、オデットはふと、悪魔の心のうちに、とてつもなく長く続いた、哀しさの苦しみがのたうっているのを感じ取った。
どれだけの時間、その苦しみが続いているのかは、まだ幼さの範疇にあるオデットには到底わからなかったが、オデットは直感的に、それが人の生の時間をはるかに越える長さで続いているのだ、とわかった。
「哀しいことが忘れられないでいらっしゃるの? ねえ、わたくしに何かして差し上げられることがあるかしら?」
悪魔に親身になりすぎてはいけない、と心に留めつつ、それでもオデットは困り果てていた。どうすればよいか、思案したあげく、まず名前を聞き出そうとして、でもこの方は言葉を話すことができないのだわ、と思い至って行き詰った。でも字を書くことはできるかしら?
かすかに、今度はオデットの側が、背の高い三つ頭の悪魔へ、覗き込む具合だったが、やがて苦しそうな三つ頭の悪魔は、その手にあった、柄の長いぼんやりした鎌のようなものをオデットの肩口へ振るった。それは寝ぼけたような動きで、鎌はオデットの身体を何の感触もなくすり抜けた。その途端、オデットはすうっと眠るようになって、美しい寝顔のまま、朽木のように湖の水面へ倒れこんだ。オデットを囲んで、赤紫の野花が水面に浮いた。白鳥たちは再びけたたましい鳴き声を上げた。
***
「王子、王子? "虫も殺さぬジークフリード"はどちらにおいでかな?」
「狩猟に出ていらっしゃるよ。例によって、撃つわけではない鳥撃ち銃をぶら下げられて!」
「独身最後の? ではまた木立とお話をされて、木の実をもぎ、小鳥と話されて、明日の天気を知られてお戻りになるでしょうな!」
「やれやれ、この国の行く末は!」
この地を統治するのは、強大ではないが弱小すぎるでもない、それよりはでたらめに長い伝統だけを誇りにする、一つの王家である。現王はかつて王としての威厳に満ち、威容もあって貴族らと臣民を畏怖させたが、大きな病に罹患して以降、それが癒えても気勢は恢復しなかった。年齢以上に老齢に見えた。そこに政略に長けた貴族たちがつけこんで、貴族たちは国政の玉璽と王族の権威を半ば手の内に掠め取った。それでも簒奪が未だ起こらないのは、貴族たちが貴族同士で派閥争いの牽制をしあい、まとまらないからに過ぎない。かといって、貴族同士の謀略の仕掛けあいが、内紛じみてまでは起こらないのは、今のところ隣国との戦争が機運に高まっており、そのことに向けては全体で備えないと、別の危機に呑まれる見込みだったからだ。
そうしてみじめな王政を、近々引き継ぐ立場に、ジークフリード王子はいた。宮廷は、翌日に執り行われる舞踏会へ向けての準備で忙しい。この舞踏会は実質的にジークフリード王子の后選びとその婚姻儀式に位置づけられている。そうしてジークフリードが后を定めれば、早いうちにも現王は退位宣言書を寝床から示す手はずなのだ。統治といって、「戦争はいやだ」程度しか言わぬ精薄なジークフリードが王となれば、王政はますます傀儡にしやすい。
王子の后選びは、「よりどりみどりですな」と尚書に揶揄されたように、表面的にはよりどりみどりであったが、候補の娘たちは権勢に及ばないところの家柄だけで慎重に選び出された心の無い踊り子にすぎない。幼いころから"虫も殺さぬ"と、侮辱的に言い表されるジークフリード王子の気質は、事実であったから、ジークフリードは今さら後宮を企んで自暴自棄の漁色で自己を慰めていく気にもなれなかった。ジークフリードが意欲のない狩猟の姿で湖のほとりを歩いていたのは、ただわざとらしい祝福風情に満ちる宮廷の空気が厭でたまらなかったからだ。
明日には后を持つ身になり、ひいては近々、何の尊厳もない玉座の上に座らされる。どうせ僕が何を言ったって聞きやしないのだろう。ジークフリードはひどい憂鬱さの顔で歩いていた。全ておしまいだ、という気がしている。しかしそれよりも、ひどい真実は、全てがおしまいになる以前に、何も始まらないまま終わるのだ僕は、ということだった。よい思い出といえば、今はもう亡い、かつての乳母が絵本を読み聞かせてくれた、その膝元の匂いと声の名残だけだ。あのときはいくらかでも素晴らしかった。虫も殺さぬという言われ方をするけれど、そうした気質は、人間としてまともなことなのだと、ジークフリードは内心にだけでも、胸を張ろうと努めてきた。あのときの乳母がいたら、僕の言うことをわかってくれるだろう。戦争をして、へっちゃらだなんて、そちらのほうがどうかしているのだ。
それにしても、絶望的な気持ちで、ジークフリードは湖の周囲を歩いていた。三歩遅れて、友人役の男がついてきているが、これは友人役であって友人ではない。この男にはひどく知性がない。世話役の息子だからということだけで、いつからか身近に押し付けられただけにすぎなかった。冷たさが目に突き刺さるような世話役グリンそのものがついてくるよりは余程ましだから、ジークフリードはこの知性のない男を付き添わせている。いくらこの男が愚鈍でも、ジークフリードが隣国の諜報と内通の密会をしていたら気づくだろう。ジークフリードにはそのような意思もないし、そのような大それたことをする気概もないのだが、それでも目付け役なしとはいかなかった。
ジークフリードの目に、湖は鉛色で、茫漠としていた。まるで、遠大な金属の溜まりだ。対岸までゆけば見知らぬ形の狼などに出会うことがあるのだろうか? あるいはいっそ、それが餓えた虎でもかまわない……あの針葉樹の森の中に、未だ人に知られざる洞穴があって、その地底をずっと行くと、話に聞いた海と砂の景色のところに出るのでは? そういった夢想も、ジークフリードの憂鬱な顔を明るくしなかった。全ては終わったのだ。ジークフリードは、目印としている立ち枯れた広葉樹の脇に座り込み、懐から羊皮紙と木炭を取り出しては、スケッチの準備をする。
見張りをしていろ、という、意味を為さないことを命じると、友人役の男はダアといい、茂みに分け入っては、隠し持ってきた葡萄酒を呑み始める。男のぶらさげた麻袋にはジークフリードの召し物など入っておらず、彼の目当てである葡萄酒の皮袋しか入っていないのだ。そして彼はどうせすぐに全てを飲み干して、いびきを掻かぬよう横を向いてうずくまって寝る。それでもひどく汚い寝息を立てるが……そうしたことはいつものことで、むしろジークフリードにとっても都合のよい、両者の暗黙の合意だった。男は根っからの、何も考えることをしない人間で、これまでにジークフリードが彼から聞いたまともな話といえる話は、唯一、彼の父であるグリンは、実は左目が悪いのだという、そのことだけだった。
座り込み、腰の短剣を抜くと、ジークフリードはその刃で木炭の先を尖らせていった。王族に継承される短剣は、王子十五歳に帯剣させられるものだが、この高貴な宝飾の刃を黒ずませることは、ジークフリードにとってささやかな、自己の宿命への反逆だった。けれどもそのことも初めのうちだけで、今はもう、全てのことについて、わけがわからないとしか思えなかった。スケッチといっても、彼の心の目が本当に捉えているのは、眼前の湖などではなく、自分を嗤う宮廷人どもの卑しい顔だけだ。しかしそのことにも、彼はもう慣れてしまっていた。この日は珍しく、湖面はひたすら凪いでいた。
夕刻には王宮に戻らないと、経験上、グリンから懲罰が下される。サーベルの稽古に擬された懲罰は、いつもジークフリードを痛めつけ、自尊心を踏みにじった。背が高く、発條のある四肢から繰り出される斬撃は、速く巧みで、気も力も弱いジークフリードの抗し得るものではなかった。若い頃は勲章を受けるほどの技量だったという。"懲罰"に重ね重ね自尊心を踏みにじられてきたジークフリードは、いつからか、自分の側こそがその剣に手抜きをするということをやりはじめた。そして、血なまぐさい斬りつけでしか自己を表現できない者への、憐れみについて考えながら、それをすることにしたのだ。すると、気配に気づいたグリンは、ますますその斬撃を加虐的にするのだが、その圧力に満ちたフクロウのような目つきは後の悪夢に出てくるにせよ、ジークフリードにとっては、何か本質的なことについて、してやったりという心地を得ることができた。――グリン、お前がそうしてくっきり半身に構えるのは、左目が弱いからだろう? それは昔、技量を上にする剣士とやりあって、目を打たれたからではないのか? 片目をやられたフクロウは、気を荒くするけれど、もはや獲物を捕らえられないと聞いたぞ。
しかしこの日、夕刻を過ぎてもジークフリードは立ち上がる気にならなかった。身を寒くするようなあの懲罰も、舞踏会を前にしてサーベルの稽古とはいかないだろう。今宵は満月になるそうだから、闇に道が見失われることもない。
そして何より、きっと今日が最後なのだ。こうして、醜男一人を付き添いに連れて、湖のほとりに来られるのでも。これから先は、もっととやかく言われるに違いないし、そのうちに力ずくの簒奪が起これば、自分などは塔にでも幽閉されるに違いないのだ。
ジークフリードは嘆きにうずくまった。それはジークフリードのよく取る形だったが、この日はそれが長かった。両手首の内を両目に当て、手のひらに天を向かせて、腕の内に表情を隠す。ジークフリードは、自分の腹の底に、何かが弾けそうになるのを感じていた。何が弾けるのかはわからなかったし、それが本当に弾けるのかどうかもわからなかった。ただ思わせぶりな何かの錯覚に過ぎないかもしれない。
「ついには、僕自身まで、僕を苦しめにくるのか?」
――誰も彼も、心の内を貧しくしすぎている! ジークフリードにはそのことが嘆かわしかった。自分が富むために、剣を抜いて人を殺めるなど、どうして許されるわけがあるだろう。僕には、そのような心が起こること自体わからない!
そのときのことである。両腕に狭められたジークフリードの視界の中に、湖面を滑ってゆく一人の人間の姿があった。それはあまりにも自然に見えたので、あやうく見逃しかけ、その姿のうっすらとした光に、今宵は満月だったなということだけを思い出させて、過ぎ去りかねないところだった。いつの間にか夜が更けていた。
「今度は幻影が僕を傷つけにきたのか」
そう心中につぶやいて、自嘲に嗤い、それでもジークフリードはさすがに気になるので立ち上がり、傷つけられることへ心の準備をしてから、ぼんやりと月光を受けて滑っていったそれのほうへ、歩み進むことにした。見ると、月光を受けた湖面の先に、白鳥の群れがたたずんでいる。それは珍しいものではなかった。しかし奇妙なことに、それは人間の姿でもあった。踏み進みながら、人間の姿へ焦点を結ぶと、それは人間の姿に見えたし、尾のほうから白鳥へ焦点を結ぶと、それは白鳥の姿だった。目が潰れたのかとジークフリードは思った。しかし爪先を濡らすほど湖に近づくと、彼女たちはやはり人間であった。そうはっきり見えたのは、近づいても白鳥は本来こんなに大きくないと気づいてからのことだ。
「そなたたちは? ここで何をしているのだ」
白鳥たちは、全て若い少女であるようだった。すでに一部は、半ば人の心を失いつつあるのか、まばたきせぬ目で湖面とジークフリードを均等に眺めている。けれども多くは、悲しんで泣いているようだった。ジークフリードの呼びかけに応えないのは、声が出せないのか、あるいは……すでに鳥の声しか出ないことが、彼女たちを辱めているのかもしれない。
ジークフリードも、この湖が口伝でいまわしく畏れられているところがあるのを知っていた。悪魔がいて、呪いがあるというのは、本当のことだったのか?
珍しく完璧に凪いだ今宵の湖に、満月が遠く映りこんでいる。青白い光に照らされて、立ち尽くし泣いている少女たちの背後で、一羽の白鳥が、眠っていたのであろう首をもたげ、立ち上がって少女の姿となった。少女はまだ背が低く、群れの中でも特に若年に見え、血色は無く、すでに肌は白鳥の羽の色だったとしても、瞳には精気があり、最も人間らしい表情をしていた。彼女が進み出ようとすると白鳥たちは左右に分かれて湖面を譲った。少女の威厳が白鳥たちをそうさせるようだった。
近づいてくるほどに、少女はその異様な美しさを明らかにした。少女の眼差しがまっすぐジークフリードに向けられ、その心が通ったとき、ジークフリードは、むしろ白鳥の少女にこそ、生まれて初めて一個の人間の心を見たのだった。ジークフリードは、初めての体験に、かかとから背中を抜けて脳天までを痺れさせる電流のようなものを味わって震えた。美貌のうつくしさではなく、人間のうつくしさに打たれたジークフリードは、立っていられぬ心地となり、気づけば片膝を地面につき、少女へ拝礼の姿を取っていた。少女はジークフリードに、待ち焦がれたように両手を差し伸ばした。
「あ……ああ、ああ! 来てくださったの! あなたは、目に付いたものを何でも撃つ、あのひどい猟師たちではない方だわ」
「なんと、あなたは美しい声でお話しされる!」
「声が……うまく出なくなってきて、恥ずかしいかぎりですの。ねえ、聞いてくださるかしら。そして、わたしたちを救うのに、少しの力でも貸してくださるかしら! 誰か知恵のある人へ報せて、ここへ呼び寄せてくださるだけでもよいのです。でもどうか、お見捨てにならないで! わたしたちはまったく困り果てていて、ごらんの有様! お許しくださる? わたしはこのような哀しいおしゃべりを本心からしたいわけではないのに、やむを得ずそうさせられてしまうこのことを」
ジークフリードは生まれて初めてのことに歓喜していた。その歓喜は、これまでジークフリードのまるで知らぬものだったので、ジークフリードを立ち上がらせ、跳ねさせ、ねじるように躍らせた。その声は抑えきれず、近くを徘徊する虎にも目をつけられかねない大きさで響いた。
「この夜……なんというこの恋心! 全てのことは上手くいくだろう! 美しい人! わたしが下人に鳥撃ちの銃を預けてきたのは、あなたをお救いするためと、こうしてあなたのお話を聞くためだったのです。新しい国から来た白鳥の少女! わたしはこの国を治める王家の、第一王子ジークフリード」
「いいえ、わたしはこの国に暮らす一人……ですから、あなたの臣民ですわ。ねえ、聞いてくださる? それにしても、あなたが王子さまでいらっしゃったなんて! このわたしのときめきが、殿下、あなたに察していただけるものでしょうか? あなたはきっとわたしたちを救ってくださるし、わたしは受けた恩を決して忘れないでしょう。こういったことを僥倖というのでしょう? 王子さま、わたしがこうして湖の淵に浮かんでいることしかできず、そのぶん、年齢にふさわしい勉強が遅れてしまっていることを、どうか許してくださって。ジークフリード王子殿下、わたしは羊飼いの丘に住むあなたの臣民オデット」
「わたしがあなたについて許さぬことがあるものだろうか。いいえ! わたしは"虫も殺さぬ"ジークフリード! 思えばわたしの満たされぬ、甚振られもした日々は、こうしてあなたに会う日のために、しようがないことだったのだ! オデット、わたしの話を聞いてくれるか? わたしがこうして今日のあなたに出会うために、これまで功徳を積んできたことを?」
「ええ、ええ……もちろんですわ王子殿下。しかし今夜のうちは、どうか憐れなわたしたちのお話を、先にお聞きくださって! 何しろわたしは、朝陽が葦を照らすころには、人の心を忘れ、蓮の葉を食む白鳥として過ごさねばならないのです。そして明日の夜には今夜のように話せるとは限らない! どうかお憐れみをくださって。殿下、わたしは悪魔のもたらした白鳥の呪いのこと、そしてわたしが気がかりにしている祖母のことについてお話ししなくてはなりません」
「ダー、ダー、わたしは快くそなたの、楽器のような声の音を、よろこんで心に聴くことにしよう。今宵わたしは、そなたの望みをかなえるのに最高の人でありえているだろうから」
月明かりの下で、オデットの声はかすかな鈴の音のように響いていった。オデットは恐ろしい悪魔とその呪いのことについて話し、どのようにすればこの呪いが解かれるかを話した。オデットは、身体を悪くしていた祖母には医者と薬と生活の援けが要るはずで、今どのようにしているのか心配でならないと話して涙ぐんだが、それらのことを全て話し終わる前に、ジークフリードは声を高くし、よろこびで饒舌になった。
「あっはっは! ああ! 今日はなんという日だろう! わたしの眦をごらん、ほらよろこびの涙が、玉のようにあふれているのが見えるだろう。わたしの麗しいオデット、そなたは明日の日没後、なるべく早く王宮に来られるといい。舞踏会の門番へ、オデットを名乗る美しい少女が来たら、胸を受け渡して開門するよう言いつけておくから! これまで誰も愛したことのない男が、そなたに愛を誓うとき、白鳥の呪いが解けるというなら、今日までのことはたいしたことではないさ」
「ジークフリード王子殿下! それはどういうことかしら、わたしは祖母から、人には礼節を尽くすよう、言われて育った一人の娘でしかありません。殿下はそんなわたしを助けてくださる? 慈悲深いお方! けれどもわたしは、こうして呪いを深くした他の人々のことを放ってゆくことはできません。どのようにすればよいか。ああ、どうかわたしの採るべき道を教えてくださって」
「必要なことの全ては後からついてくるだろう。祝福の道へ、おいでオデット! この国の王子は王女となったやさしい娘の祖母について知らんぷりはしないと誓うだろう。そなたの気に病む他の憐れな白鳥たちのことも! オデット、そなたの瞳は、老獪どもの濁った目に、傷んだ豆と黒真珠の違いを教えるだろう。あいつらもすぐに理解する! 想像してごらん? 誰もが戦争を取りやめ、虫一匹も殺すことをはばかるようになった国の幸福を。そういったことがこれから始まる! それはそなただ、オデット!」
ジークフリードが手を差し出すと、慣れぬ手つきでオデットがそれを引き受けた。ジークフリードは跪いてオデットの指の甲へ口付けをした。数羽の白鳥がガア、ガアと鳴いた。ジークフリードがよろこびのままにオデットの手を引いて踊り出すと、オデットは慌てふためきながら、しかし次第に、人として動き回ることの久しぶりさに、よろこびが起こって愉快そうに踊り、顔をほころばせて回り始めた。水面が何度か水音を立てた。白鳥がガア、ガアと鳴いた。他の白鳥たちも祝福している、とジークフリードは言った。そうした光景を遠くから悪魔が眺めていた。悪魔の脇には、もう一匹の悪魔がいた。
***
王宮の石造りは堅牢で古すぎて、いつ建てられたものか文献にも遡れない。高い天井の梁には四百年前のいざこざの矢が刺さったままだ。そうした伝統の長さに敬意を払われて、文化的には軽んじられていないこの国の祝宴には、貴族たちはもちろん、近隣国の権力者の名代や、商人や宗教の名士たちも馳せ参じていた。王宮が幸福になるこの日、鐘楼から名人の打つ鐘の音が響いて、
「弦楽の者、前へ! 打楽の者、左右へ延べよ!」
ただちに演奏が始まった。立ち話をしていたドレスたちの群像は動きだして華やぎ、燕尾服たちは直立で手のひらを打った。腕の太った料理人たちが次々に羊の丸焼きと巨きな川魚の香草焼きを数人がかりで運び込んでくると、対立する貴族たちも食い気に艶めいて笑い休戦した。奪い合わずに済む肉なら、冷ますのは愚かしいことだった。
この世には不幸とか病気とか、寿命とか死とかいったものは無いように思われた。大きさはさほどではない王宮に、高級な香を焚きしめた肌の、白色と褐色が踊り始める。留め具を早くから外して金の髪を振り乱して踊る者もあった。得意の木貝を手の内に打ち鳴らす者もあった。特級の酒瓶と花型グラスが運びこまれると、注がれるのを待ちきれぬ悪女が瓶ごとをひったくって口をつけて呑み、衆目に笑いが高まったところ、男女がくるくる回りあう流行りの踊り方に運ばれて、酒瓶は踊り場を次々に人の手に渡っていった。やれやれ! と全ての人がそれを許した。
祝宴に慣れきらぬ若い人間が、二人ほどであるが、視界をひずませて膝から折れて倒れた。そのことも笑いの戯画に飲み込まれていく。そうして祝宴の陽気に当てられる人は珍しいものではなかった。看護隊が少年じみた刈り込みの妖精役の服で現れ、冷水の手当てが出来る奥の部屋へと担ぎ出して行った。
この国の人々は、上機嫌なジークフリード王子という、そのありえない顔と振る舞いを初めて見た。それは祝宴の前にはしばらく人々を驚かせたが、祝宴が始まれば、王子も愛を乞う娘らの健気さに火のようになられたに違いない、ということで片付けられた。
開幕にふさわしい派手好きの楽曲が締めくくられると、拍手が沸き起こり、各所で杯が掲げられた。ただちに続く演奏が、ゆっくりとした流れと、荘重な和音で始まった。念のためというふうに歓声は一時的に鎮められた。
ジークフリードはほとんど心に音楽が聞こえていなかったので、グリンに脇をつつかれるまで気がつかなかった。この国の成り立ちを表す伝統的楽曲が奏でられ、それに合わせてジークフリードは階を降り踊り場へ入り込んでゆく。海が割れるように人だかりが分かたれ、人々から改めて勇気ある拍手が打ち鳴らされると、ジークフリードはこの日は堂々と一礼した。
「皆さん! 誰にとってもよろこばしきこの日! この国の未来に平和を約束することは、あなたがたの未来に平和を約束することと、何が異なりましょうか?」
ジークフリードの語りかけというより、ジークフリードが声を張り上げることの珍しさに、人々は面白がり、その面白さは、特に酒精にほこんでいた人たちによく響いた。単純な歓声が、またそれだけに無闇に高く起こった。そのことは、浮かれたジークフリードにとっても本懐だったので、ジークフリードは満足そうに微笑んで歓声に一礼して応えた。人々が口々に、「平和を!」と杯を掲げた。古い詩句として、「あのタイガの森のごと! 深く静かに豊かに永く、生える苔にも畏怖を持たれて」と唱える者もあった。演奏が再び、陽気に踊りうる打楽器の打ち鳴らされるそれに切り替わると、人々は足音を立て、無限に続く酒池肉林にもはや引き返さない構えとなった。
「王子さまは、気の早い方。もう浮気していらっしゃるわ」
祝宴の実際的な陽気と、ジークフリードの様子が常と違うのに、踊り子にも社交の見せ場を期待して色めきがあったのに、娘が口を尖らすのは、ジークフリードが浮かれっぱなしで、調子はよいのにずっとどこかを余所見しているからだった。舞踏会の入り口へ、新しい娘の参上があったとき、門番は報せに太鼓をド・ドンと打ち鳴らして開門する。ジークフリードはずっとそれに聞き耳を立てているし、鳴ってもいない太鼓の音を幻聴するし、太鼓が鳴ればしきりに首を伸ばしてそちらを覗き込もうとするばかりなのだ。
数人と踊り、いささか疲れ、内心では待ちくたびれたジークフリードは、氷に白葡萄酒を垂らした飲み物を喉にやって心身を冷やした。内心……オデットは来てくれるだろうか? 来ないかもしれない! そうして心の内を寒くもしたが、ただちにオデットの眼差しが思い出され、ジークフリードは嘆息と安堵をした。そうしたことがもう何度も彼の心には繰り返されていた。オデットのあの眼差し、あの声……オデットが約束を反故にして僕の心を打ちのめしたりするはずがなかった。オデットが約束をしてくれた! このこと以上に、世の中に信じられることが他にあるだろうか? これは綴じきれぬほども重ねた条約の紙切れを途端に反故にするあの国士たちのすることではないのだ。
数度の落胆を経て、しかしついに、ド・ドンと鳴ったゆるい太鼓の後、その先に現れた姿がジークフリードの心臓を跳ね上げさせた。息を呑んだのはジークフリードだけではなかった。貴族たちも、踊り子たちも、誰もが老若や男女を忘れて、突如現れた、見知らぬ、異様な美しさの娘に、眼を奪われた。演奏を続ける楽隊もその演奏を間抜けにゆるめてしまったほどだ。集まって突き刺さる視線に、美しい娘はゆったりと礼をして返した。
「ああ、オデット……オデット!」
ジークフリードは、場違いな声を上げて、急ぐ夢遊病のような足取りで、オデットの元へ駆け寄った。目前に立つと、改めてオデットの美しさが、自分に記憶できるようなものではないのだと思い知らされた。どのように誂えたのか、足元に黒く磨かれた靴が光っている。オデットは鳥を模した優雅なドレスを着ているように見えた。
目の前に、なんというオデットの微笑み!
オデットを出迎える気の利いた台詞を全て忘れてしまったジークフリードは、色めき立ちに震える一礼をして、踊りを誘う手先の構えを、やはり震えながら伸ばして示した。衆目は、知らされていなかった一幕に純粋な興味を向けて見入っていた。これから何が起こるのか誰にもわからなかった。ジークフリードにさえ目途が立たなかった。ただ、鳥のようなドレスから美しい足が伸びており、けたはずれの美貌が飾られて磨きこまれていて、この娘には全ての資格があるということだけを、誰もが認めていた。
オデットが、王子の誘いかけに、優雅に手を重ねて引き受けると、このときばかりは、何もない純粋な、割れんばかりの拍手が起こった。それによって、何もかもが新しくなった。誰も彼もがおとぎ話の中にいるのだ。そういった詩人の言葉も疑われずに済むときがきた。
王子と、美しい娘のため、その二人のためだけに音楽が演奏された。二人のためだけに踊り場は大きく空けられ、残された者は二人を飾るためだけに周囲を控えめに踊った。踊りの手順が角を踏むたびに、全ての人は惜しみない拍手を贈った。すでに誰もが、王子が后と踊っているのを見ていた。
舞踏会は果てしなく続いていく。踊りの手を休めても、しきりに周囲に「きみもオデットの美しさをご覧よ!」と、はたらきかけて止まないジークフリードは、紅潮した若い王子として、このとき無性に愛された。グリンでさえ耐え切れずほころびて笑い、一目置いたように深く長い一礼をジークフリードに示した。
ひいては、演奏をする一画の、指揮台へジークフリードが上がりこみ、指揮者を押し出して演奏が急停止したときにも、全ての人は愉快さに熱く一斉に笑ったのみだった。指揮台の上から、全ての人へ向けて、演奏を中止させたことには理由があることを、ジークフリードは胸を張る態度で示した。
「みなさん! 今日は大いに笑って! 昨日までの僕に対して、含みのある人も、そうでない人も平等にね! そして、こうして僕が鷹揚にならざるを得ないなら、あなた方も、すっかり鷹揚になっていることでしょう。今さら、予定されていた手はずが少々狂うようなことになど、誰が気に留めて悪酔いしましょうか? ご存知のとおり、時計塔にまだシリウスは差し掛かっておりませんが! しかし然るべき機は満ちたようです。わたしが后を認め迎え入れることを、あなた方が最後まで見守ってくだされば、それはあなた方の飲み食いを、朝まで味良くするに違いない! さあ、麗しきオデット!」
オデットを踊り場の中心にして、ふたたび人々が、大きく輪を作って、オデットのことを尊重する。ジークフリードは矢も盾もたまらず、ほとんど駆け寄って滑り込むようにオデットの前に片膝をついた。それは求婚の作法として様式からずれたが、衆目はそれを王子の意思と受け取ることができた。
「ああ、美しい、わたしの恋人よ! あなたの前にわたしの愛は無く、あなたの後にもわたしの愛はない。たとえ太陽の光が永遠でなかったとしても、わたしのあなたへの愛は永遠であると、ここにわたしを誓わせよう。たとえ蛇の枯れる万年の荒地があったとしても! やがてはわたしが沃土の緑野としてみせるだろう」
静まりかえった場内は、オデットのどう振る舞うかへ注目してのことだった。オデットはジークフリードよりも身を低くする無理はせず、無言で、ジークフリードの脇へ寄り添い、妻の位置を占める意思を示した。衆目に、オデットは完璧な后であったから、満足して一斉に拍手と歓声が起こった。
ジークフリードがせわしないやり方をしたので、準備に入っていなかった女官たちは用意した紙ふぶきを天窓から降らせることができなかった。楽隊の指揮者が気を利かせて、慌てて祝福の歌の重要な部分から演奏を始めさせた。突然祭りの後となった舞踏場に、いくらか落胆する人々の気配もあったが、したたかな彼らは、落ち着いて美酒と健啖をじっくりやっていく構えへ切り替わっていった。
祝福を受けながら、王子と后は舞踏場を引き取り、絨毯の敷かれた道筋で、王家の寝所へ歩いてゆく。寝所で、后は初めて妻のするそれとして、王子の足を薬湯と香油で洗うことをする。誰にも見られないが、そうするしきたりらしかった。
全てのよろこびに、雲を踏む心地であったジークフリードは、寝所で身体を熱くさせ、あちこちの筋肉をちぐはぐにわななかせていた。祝宴の喧騒は石壁のいくつかに阻まれてはるかに遠くなった。いくらなんでも落ち着かねばと思い、寝床に座り込んだジークフリードは、つい慣れた彼の形をする。両手首の内を両目に当て、手のひらを天に向かせ、両腕で顔の表情を隠す。オデットは寝所の端を覗き込んでいるようだった。
ジークフリードは、ずいぶん長い時間そうしていた。恍惚と、よろこびと、それ以上の何かに呆然としていた。ああ、オデット、僕はきみに何から話せばいいだろう? これまで、自分を取り巻く全てが忌まわしい、永い時間があった。それらは今、明日には何一つ思い出せないだろうという予感がするほど、薄弱に、溶けて流れてゆきそうだ。
ごつんごつんと、無粋な木戸を叩く音がして、ジークフリードは眠っていたわけではない眼を覚ました。あのう、と呼びかけてくる愚かしいふうの声は、ジークフリードに日常の興醒めを与え、それはむしろそのときのジークフリードにありがたかった。ジークフリードは愉快な気になって扉を開いた。
「あのう、何です? ご成婚、おめでとうございます、ってやつで」
「まったく、きみの不粋には寧日なしだ! わざわざかしこまってどうなった? 今日こそは、きみも隠れてこそこそ酒を呑まなくていいというのに」
「それでやんすがね」
ずんぐりとした肉の男が、珍しく引き下がらないので、そのことはジークフリードに興味を持たせた。
「あのう、あっし、見てやんしたよ。どえらいべっぴんで。そのう、昨日湖の端で、なにやらお話ししてらっしゃった娘でしょう? あっし母親ゆずりで眼だけはいいもんで」
「金細工職人でもしていたかな、きみの母親は! それで、きみの役に立たない抜け目のなさを……」
「違うんです、王子殿下! 殿下は、あの娘を……お后さまを、オデットと呼ばれるでしょう? 違うんです。あっし、門のところで、彼女の名をオディールと聞きましたよ。ただね、どえらいべっぴんでしたし、なにより昨夜、殿下が親しげに、楽しそうに、お話しされているところを見ているでしょう? それで通しました。オデットのほうはですね、来たんですよ。オディールの少し後でしたが。ただ、こいつも同じ顔して美人かもしれませんでしたが、俯いて髪も乱れて、何より裸足だったんでね。お言いつけどおり、オデットだからってんで、お通しはしましたが、さすがにその格好じゃでしゃばらないでくれって、あっし言いつけたんです。するとね、まあ言われなくてもって風情でしたが、娘はこじんまりと、舞踏場の隅で、まるで掃除婦みたいに、一番目立たないようにしていたんですよ。いつのまにか、ふいっと消えていなくなりましたが」
「きみの……冗談は! オデットの顔をした人間が二人いたら成り立つだろう。ありもしないことを言ってどうする? 不相応の酒もきみを上手い饒舌の持ち主にはしてはくれない」
「殿下、あっしはね、実はグリンの、実の息子じゃないんで。父とあっしとじゃ格が違いすぎるでしょう? ま、それは今話すことじゃございやせんか。殿下が、湖でね、娘と話し込まれているとき、見ていりゃゾーッとしましたよ。面妖な娘に話し込んでいるところ、それをじっと見てやがる、面妖な黒いのがいたんです。そりゃもう怖くてね、近づけもしませんで。殿下もああいうことしちゃいけない」
「愚かだ! お前は! 酢を酒にして飲みこみ、夢をうつつにして小便をする男だったか! 黒いのの与太話は百聞いた、今日はその百一つ目だ!」
手荒く扉を閉じ、ジークフリードは怒りに心臓が高鳴るのを痛みに感じた。まったく馬鹿げたことを言う。それは彼が馬鹿げた男だから、やむを得ぬことかもしれないけれども!
「ああ、オデット、オデット。すまない、荒げた声を聞かせてしまったね。虫も殺さずに来た果ての夜だというのに! そちら、寒くはないかい? もっと火の当たる、明るいほうへおいでなさい。まだその馬具は油のにおいがきつくて、胸を悪くするものだから」
ジークフリードは何度もオデットの名を呼んだ。なぜか、自分でもわからぬほど、自分からは近づこうとせずに。
オデットの背丈は明らかに高くなり、並ばずともジークフリードより高いのがわかった。なぜなら髪が天井に擦りそうだからだ。ジークフリードは、これまで何度もそうしてきたように、自分をよく守ってくれる気分になるやり方で、鼻から深く息を吸い、視線を斜めに下げてみた。これまでに嗅いだことのない、饐えた何かの臭いがした。
***
「これはどうしたことだろう! 僕は歩かされている。こんな夜更けに、横殴りの風雪を受けて、闇夜に道も定かではないのに! まるで歯車に乗せられたように」
ジークフリードは何もかもが自分の意思でないような心地で歩いていた。自分を一ひねりにつぶしそうな巨大な闇夜に、なお黒い雲が垂れ込めて、まるで景色は人の世ではないが、ジークフリードはまるで前もって知っていたような気がする中で、何の目途も立たない道筋を歩いていた。
「どこへ行く僕? オデットのところに決まっている。オデット! ああオデット、今ごろその首筋に雪を受けて、傷ついた心を甚振られているに違いない。寒そうに」
ジークフリードはオデットに詫びねばならなかった。オデットに会い、今宵のことを許してもらなければ、明日の太陽など決して東の丘に上って来はしないと思われた。一方で、ジークフリードの心は恐怖に支配されていた。破滅がちらついている、当然……ところが恐怖の支配が強すぎて、心が恐怖を覚えられないでいる。ひいては、心がどこかへいってしまった形で、まるであやつり人形のような手足のちぐはぐさになり、ジークフリードは歩いているのだ。
恐怖と、オデットへの愛と、全てを失った破滅の中で、ジークフリードは顔を笑わせるようなこともできた。つまりジークフリードはまともでなくなっていた。それがどうなるかということも、全てはオデットが握っていることなので、ジークフリードは壊れた手足のまま、ときには不明な笑い顔などもして、湖のほとりまでゆくしかなかったのだった。
湖のほとりには、風になぶられる葦原しかなく、横殴りの風雪が視界を閉ざしている。広大なはずの湖も、看て取れるのは足元の黒い水溜りでしかなかった。
「狼どもよ去れ、そして白鳥たちはこちらへ! オデット……聞こえるかいオデット。今夜は十六夜が雲に隠れて、声が届くほどには姿は見えない。だからこちらへ来ておくれ! オデット」
何度叫んでも、オデットはおろか白鳥の姿はなく、この夜更けの風雪には、鼠一匹も巣穴から出ない様子だった。次第に、叫ぶジークフリードも、自分は夢遊の果てに甕の中に叫んでいるのではないのかという気になってきたが、それでもなお叫び続けたのは、ジークフリードにとって今さら王宮に戻ることは、湖の果てまでいくより百里も遠いように思われたからだ。帰り道のなさがジークフリードの行き先を決定づけた。
叫び続けて、喉が焼けてきたので、ジークフリードは湖面に直接唇をつけて、その水をすすった。一部には薄氷が張り始めていた。喉の焼けるのは治まったが、水の冷たさはジークフリードの身を凍えさせた。
再び叫び始めようとしたところ、湖面の漣に眼がいった。一定する漣の、その流れの一部が分かたれている。眼を凝らすと、そこには白鳥の腹が浮いていた。遠巻きにではあるが、白鳥たちは自分を見物しにやってきていた。
「白鳥! そうか風雪から身を守るためには、そうして羽毛の姿で過ごすのであろう。来てくれた、オデット! 何度でも言おう、今宵は十六夜が悪い雲に隠れてしまって、声が届くほどには、姿が見えない。僕の言うことがわかるね? オデット!」
ジークフリードが湖面に踏み入ろうとすると、
「来なさらないで!」
と、強い調子の制止が掛かった。声の出元は風雪に遮られて見えない。
ガア、ガア、と白鳥たちが喧騒に応じて鳴きはじめた。
「来なさらないで! 全てを終わらせてしまったあなたに、わたしたちの住処へひとつの小石でも投げ込んでよいことはないわ。わたしたちは、いえわたしは、あなたの後姿が遠のいてゆくことだけをよろこぶでしょう!」
「オデット、その声はオデット! 僕はお前に詫びねばならない。そのために窓を割って僕はここへ出て来た。気が変になりそうだった!」
「裸足のわたしを王宮に呼びつけて、足の裏を掻いていたわたしを笑いものにした、そのことをお詫びなさりたいのでしょう? ジークフリード、いえ、名も無きどこかの人! たとえどのような嵐がわたしを打っても、わたしが受けた辱めを洗い流すことはないでしょう。あなたはそれだけのことをした人!」
「オデット! ああ、きみに、僕がどのようにしてここへ来たか、そのぶざまな姿を見せてやりたい!」
オデットが強い調子で怒りを示すのに、ジークフリードは愕然となった。オデットが自分を突っぱねて許さないことに、改めて、振り返ったときの自身の破滅が思い出された。婚姻の誓いを示したところで、翌日には后に逃げられた! お后さまはご消失なされたらしい! どのような嘲弄が王宮に響きわたるだろう、季節がめぐる間ずっと……これからの王子は、いや王位を継いだとしても、その権威は、篝火につられてきた一匹の甲虫ほどにも扱われまい。このような失態に、グリンの懲罰! グリンは特にこういう不始末を毛嫌いする。
自分にいかに帰るところが無いかということと、オディールなる悪魔がどれだけ巧妙で悪辣だったかということを、ジークフリードは熱烈に説いた。オデットからの声は応えてこなかったが、オデットが人の言うことを聞き流したり、本心に受け止めず消してしまったりすることはできないと、ジークフリードは知っていた。なおも語り続けた。
「……だから、きみがどうしてもと言うのなら! 僕はあなたの目の前に、これだけは持っているという僕の勇気を示そう。僕が短剣を腰にぶら下げているのは、何も宝石の重みが人を慰めると信じているからじゃない。飾りじゃない! そのことを示そう、そのことしか僕にはないというのなら」
ジークフリードは跪き、短剣を抜いて、己の首筋にその刃を当てた。その刃はひんやりとしてよい味がした。ジーフクリードは思いついて、――恐怖はないんだ! と叫んだ。
その叫びはジークフリードにとって本心だったし、上手く叫ぶことができた! とジークフリードは思いもしたのだが、正直なところでは、よくわからないのだった。よくわからないということは、恐怖もよくわからないことにした。短剣で首を切断しても、威勢よく話し続けられる気がした。肉は切れても血は出ない、粘土細工にヘラを入れるようなことだという気がしていた。
眼を閉じて首筋に剣を当てていたところ、ふと、白鳥たちのガアガアいうのが止み、ジークフリードの首筋へ、小さくやわらかいものが当たった。眼を開くと、目の前にオデットの姿があった。オデットは唇を噛んで泣いていた。小さな唇は、形が歪んで蝶々のようだ。
「なぜそんなことをなさるの。卑怯もの! 卑怯もののジークフリード! たとえあなたが、どれだけ恨めしくったって、万が一にも首筋に刃が刺さってしまい、この風に血が散っていくことがあれば……わたしは悲しまざるをえないのです。これ以上の悲しみを、背負ってわたしがどうして生きていけるでしょう? ジークフリード」
「ああ、オデット、オデット! 僕は全ての目が覚めた。このとき! 僕は世界中の全ての木の葉について意味が言えるし、麦酒の面に浮く泡の一つごとにだって見つめてものが言えるようになった! きみがこうしてそばにいてくれるなら」
「ジークフリード! 風に飛ぶ花の種が、塩湖に落ちてしまったときの悲しみのように、もしあなたが憐れなわたしに、わずかでも親しみと慈しみを向けてくれるのならば、このことを聞いてちょうだい。湖に氷が張りはじめています。この氷に魚たちが閉じ込められる前に、わたしは人の姿を取り戻さねば、わたしはもう、なぜ自分が人間だったかを思い出せない、首をかしげた白鳥になるでしょう。それは近づいているのです。わたしの嘆きがわかって? ジークフリード」
「ああ、ああ! そんなことはさせない。太陽の王に命じてでも、時間の精霊に心臓を捧げてでも! それで僕にできることは? オデット」
「わたしをここから救い出せる、心のよい人を。身を投げるような……わたしを初めての人として、認めて救い上げてくれる人を、ここにお連れになって、ジークフリード。そのような方は、もはや三つの国をまたいでもいらっしゃらないかもしれないけれど」
「そんなこと! そんなことは……ああ! 容易なことに違いない。僕にはお前を救い出すことが全てなんだ。改めての謝罪と共に僕はそれをしよう! オデット、きみのことを一目で愛し、これから部屋の片付けでも怠らないと誓える人を見つけることは、秋雨の降った翌朝の森にきのこを見つけることよりも簡単なことだ」
「それでは、ジークフリード? わたしは待てばいいの? 明くる朝も、朝陽は他ならぬわたしを照らしに来てくださるのだと、無闇に信じてよいあの日々のように?」
「もちろんだ、オデット! 僕は何でもできる、なぜならきみがいるからだ! こんな調子になったことは初めてだ。全ての証拠に踊ってご覧にいれようか? オデット! ちょうどこれが、短剣を持つ者の舞としてあるものだから」
ジークフリードが踊り出すと、白鳥たちはけたたましく鳴きはじめた。踊りながら、王宮にいる小姓たちか、あるいは聖歌隊の幼い組の誰かを連れてくればいいと思った。彼らはまったく従順で、言われたとおりにし、それでいて顔かたちのきれいな者だから、オデットも厭な気持ちになりはすまい。そうしたらオデットは救われるし、僕は毎日の朝食をオデットと向き合って取ることにしよう。特別な鳥が生む卵をよい乳脂でほぐしてもらって。水気に張り詰めた青菜や、酢につけた妙薬のきのこなどを食べるとしよう。オデットには精をつけさせないといけない。長い湖の暮らしで、肝腎を細くしているに違いないから! ええい、白鳥たち、うるさい!
踊りながら、ジークフリードがそれを急に凍りつかせたのは、視界に、鋭い目つきのフクロウを見つけたからだ。フクロウ! と思われたそれは、人間の形をしており、正装をした、背の高い男だった。男は、じり、と近づいてきた。
「グリン! どうしてお前がここへ!」
見慣れた王宮の、見慣れた姿が、異物のように割り込んできたことで、興醒めがジークフリードを正気にした。ジークフリードは、思わず笑ってしまった。
急に、何もかもが済んだ気が、ジークフリードにはした。オデットとの二人きりの時間を断たれたのは、口惜しかったが、何かそれも妙な解決のように思え、ジークフリードは一息ついた。もはや何を慌てることもないのだ。であれば、全ての人の手で、物事を進めてゆければよい!
「グリン、そなたなら聞いていただろう。全てのこと! 今宵はともかく、明日にでも……」
ところが、歩いて近づいてきたグリンは、ジークフリードには一瞥もくれず、そのまま湖の奥へ進んでゆく。足元が濡れることも、このときグリンは気にかけないようだった。
オデット。彼はグリンというんだ。王宮での、僕の世話役でね。ジークフリードは笑ったまま、そのようにオデットに明かそうかと思ったが、気が変わった。
まさかグリン? お前だけはいけない。
お前は、そうしてオデットの目の前に立ち、何をしようとしている? そういった冗談を、お前はする男ではないので、それは似合わないことだ。
お前の息子は、お前の実の息子ではないそうだな。妻はどうした? これまでいなかったのか。そういうことはあるかもしれない。それにしても、お前は何をしている? お前はすでに中年だ。そしてサーベルを振り回すひどい暴力を趣味にした人間だ。
お前がそこから、舌の根のわずかでも動かすことは、許されない。グリン、全てのことを許す僕だが、お前だけはいけない。僕を無視して背中を向けているが、それは僕を軽視してのことか。お前はたしか左目が弱いそうだな! 左からの剣の影には、お前は気づけない欠点がある。
ふと、グリンとオデットは、何かを話し始めそうだった。あるいは、そのような気がしたし、そのように見えた。
ジークフリードは、短剣を強く握り締めると、飛び出して、グリンの背後から、グリンのこめかみを斬りつけた。それは咄嗟に、ジークフリードのこめた力よりも渾身の一撃だった。
鈍い音がして、剣はこめかみに深く突き刺さった。刃は顔の半分近くを割って、抜けずに刺さったままになった。
オデットの悲鳴が上がった。白鳥たちが嘴を天に向けて責め立てる声を上げ始めた。
「わは、わはは! だらしないぞグリン! お前、今何をしようとした! サーベルの名人?」
ジークフリードの内で何かが弾け、抑えきれない力が湧き起こる。憎悪はジークフリードの喜色の顔となり、怒りの声となって、割られたグリンの頭部へ投げつけられた。
「オデットは、やらない!」
しかしグリンが頭をもたげてジークフリードのほうを振り返ると、そこにはグリンの顔はなく、それどころか誰の顔もなかった。黒ずんだ影そのものしかなかった。気づけばその背丈はすでに人間のものではなく、短剣の刺さったまま、頭部は三つに並んでいた。
悪魔がその三つ頭をゆらゆら揺らし、ジークフリードに、嘲って告げた。それは声ではなく言葉でもない。
(それ見たことか)
それだけ告げると、悪魔は打ち込まれた短剣によって倒れた。倒れると悪魔は湖に溶けていった。悪魔を溶かした水面は黒く濁り、その濁りは漣に乗って散っていくようだった。
白鳥たちの声は怒りに猛っている。
ジークフリードは笑い始めた。上手く気づかされたことへ起こった笑いだった。ジークフリードは、引きつってぎくしゃくとした笑いに、自身で立っていられぬ様子になったと思うと、うずくまり、両手首を両目に当て、腕の中に表情を隠して、なおも笑い続けた。
「それ見たことか……それ見たことか! なるほど悪魔か、全てを上手に暴き立てる! 僕は誰とも馴染まずにきたわけだけれど? 自分とも馴染んでいなかったとはなあ! 僕は愛する人の顔の見分けもつかぬ男で! 恋敵となれば背後から眼の悪いところを狙って頭を割る。"虫も殺さぬジークフリード"、何のために生まれてきた? ジークフリード、そら、意外に手厳しいオデットが、もう僕のついた嘘と偽りに気づいているぞ。何ひとつをも僕の思い通りにさせないために」
ジークフリードは立ち上がると、よいことを思いついた笑い顔で、一歩ずつオデットに詰め寄っていった。怯えたオデットが身を翻して逃げようとするところ、その肩を掴んでジークフリードは抱きしめた。
「オデット、僕のオデット。僕はきみのことだけは、他の誰にもやれない。よいせりふ!」
オデットを抱きしめたジークフリードは、オデットを抱え込んだまま、一歩ずつ、湖の奥へと進んでいった。
白鳥たちの責め立てる声が無尽に響いている。
「ジークフリード! あなたは! ご自身が滅びるのに、わたしのことも滅ぼそうとするの」
「オデット、僕のオデット。僕は! きみのことだけは、他の誰にもやれない!」
「ああ誰か! 助けて、誰か! あ! この方はもう!」
救いを求めるオデットの声は、湖面の下へ引きずり込まれてゆき、水音混じりになると、いくつかのあぶくを水面に残して消えていった。
風雪が吹雪となり、白鳥たちの嘆きに満ちた叫喚が響きわたる中、オデットの手のひらだけが湖面に突き出している。救いを求める形に開かれたまま、それもゆっくりと沈んでいった。
(風の音! 吹雪の音!)
(白鳥たちの、攻撃する声! ガア、ガア! 攻撃する声のおぞましさ!)
(いつまでも止むことのない)
(暗転)
(表示、「白鳥の湖」)
(表示、「人はそれに近づいてはならない」)
(閉幕)
(照明、カーテンコール)
[白鳥の湖(人はそれに近づいてはならない)/了]
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