笑ったことのある人へ
元に戻れ
空からパッと風が降りてきて、全部がパアになった。やっていられない。
ああ、おれの高度な芸術理論が……
これでまた、十万字ぐらいが無駄になった。
忘れないうちに書き留めておくと、ヒントは「寂しさ」にある。噛み締めていい。
寂しさがあるとき、初めて、寂しくない、という状態があるのがわかる。
そのことへ向けて、正常な戦いをする、そのためにも寂しさが感じられていることが必要なのだ、とわかる。
寂しさといって、ジタバタする類のものではない。到底、そんなことをする気になれないものだ。無理やり言えば、寂しさは寂しくなんかない。
十年近く、文章を書いている。十年ほど前からそのことを始めたのだが、果たしてそのことは正しかったのかどうか。悪い習慣が身についただけじゃないのか。
僕に身近な人が聞いたらびっくりするだろうが、僕には芸術なんて要らない。大江健三郎とその文学作法も、正直無くて結構だ。その他の全ても、自分の役に立つからといって愛するふうに言うのはひどいウソだ。
芸術といい、文化といい、それらはもちろんすばらしいものだ。人間の体験として、99点まではいく。社会生活上の生産とは無関係に、人間の想像力上に連鎖する影響づけあいの結果が示されていく。それ自体に、人間の想像力が直接の価値を認める。
しかし、天から風がパッと降りてきたら、オワリだ。なんだこりゃ、やっていられるか、となる。「想像力は人間のステイトではなくイグジスタンスである」とブレイクは言う。すごいことを言うものだと思うが、それでいうと、どうしてもイグジスタンスよりも上位の体験があると言わざるを得ない。99点ではなく100点のそれが。それは天からパッと風になって降りてくる。何だそりゃ、やる気がなくなるのも甚だしい。
大江も要らなければブレイクも要らない。イェーツもバシュラールもバフチンもクンデラも要らない。岡本太郎も要らない。それらの全てを、僕自身の体験してきたことと結合し、現代で最も有益な芸術理論に仕立て直したのが、僕の十年がかりの到達点だったのだけれども、到達点で何だといえば、要らない。別にゴミとは思わないし、あわてて捨てたり焼いたりするつもりはないが、こんなもの要らないので、少なくとも手に持っている必要はない。何しろ、天からパッと風が降りてきた。暑い風と冷たい風が混じって。そうしたら全部オワリだ。仏教が悟りを押すなら、申し訳ないが悟りも要らない。そんなものを希求しなくてはならない困窮はどこにもない。寂しいから、満たされていないわけだが、そのことに不満はないし、納得もないのだ。せいぜい感想ぐらいしかない。僕は一人でやっていけるので放っておいてくれ。
そうしたら、元に戻った。どこからともなく、いつからか生きているただの僕だ。そりゃ当たり前だ。
文章を書くといって、上手い描写なんかする必要がどこにある。上手い描写を、したければすればいいが、したからといって何になるのか。そんなもん必要ないだろ。想像力といって、想像力の活性化をしないといけない理由がどこにあるのか。ああもう猛烈に眠りたくなってきた。
僕に身近な人はびっくりするかもしれないが、すばらしい作品はしょせん作品だ。世界の中を直接歩き回ることに勝てるわけがない。その証拠に世界は芸術を重視していない。僕のやるべきことや為すべきテーマなんてものは一切無い。一人でやっていけるというのに、何を思い出す必要もない。
[元に戻れ/了]
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