笑ったことのある人へ
劇的なところに恋は起こる
昭和の後期に生まれてきた僕として、向き合わなければならない"影響づけ"についての、奇妙なとりまとめの話をしなくてはならない。僕が中学に上がって丁度のころ、当時の天皇が崩御され、年号は新しく平成と定められた。それを受けて父が、自宅にぶらさがっていたカレンダーの蒼い海の上へ、太いマジックインキで「平成元年」と大きく書き表したことに、その高潮した字体を受けてか、当時の姉がしきりに痙攣するほどに笑っていたのを思い出す。このことを話しておけば、僕自身が歩んできた少年時代の時代的背景は滑らかに読み手に受け取られるだろう。つまり僕は昭和の末期から平成の初期にかけてを少年として過ごしている。当時はいわずもがな、コンピューターの陳腐化と共にサブカルチュアが大きな産業として立ち上がることの黎明期であった。
僕自身、もし少年のころから詩や小説といったものから影響づけを受け、その文脈を自然に受け継ぐ形で現在へ至っていれば、このような奇妙な話をここでする必要はなかっただろう。さて前もって言っておきたいのは、すでにゲームという呼称を言えばほとんど無条件でヴィデオゲームを指すように、ヴィデオゲームは、たとえ手元になかったとしても、人々の知識に普遍化した。そのヴィデオゲームが表すいくつかのジャンル分けがあり、代表的には? と尋ねれば、即座にアール・ピー・ジーと略称で言われるか、もしくはロール・プレイング・ゲームと答えに言われるだろう。このRPGと呼ばれる概念が正統的に扱われるのは、これがコンピューターゲームが主流になる以前の、テーブルゲームとしての遊び方にも元々あるからだ。テーブルのTを付けて、TRPGといわれる。その独特の遊び方に、今でも愛好者は、趣味のコミュニティに語りえる程度には、少なくないのではないかと思う。
けれども僕自身が体験してきた、影響づけの実際を捉えて言えば、これらをジャンル区分としてRPGだと言い表すようなことは、実体験に向けては有効でなかった。別にRPGかシューティングか、アクション動作性に偏るか……といったことの区分に関わらず、僕――ならびにきっと多数の少年たち――を影響づけてきたのは、つまるところ主人公とストーリーの表れが気になってくる、"劇場型"のゲームだったと言わねばならない。この劇場型ゲームという言われ方が、適切に、然るべき場所で語られれば、そのことをよく知った聴衆からは、無闇な拍手が起こるに違いないだろうと、僕は空想の中で笑うことができる。
もし僕と同じ性質の誰かがいて、同様に"劇場型"のそれへ没入していく経験を持ったとしたら、内心でしきりにこのように確信されることを体験したのではなかろうか? つまり、よくできたゲームが連作ともなると一時期は社会現象とまでいわれた売れ方になり、そうした遊びに不熱心な者の手にもそれらが届くようになる。そうしたらひとしきりはそれをいじって、操作して遊んでみようとする。"攻略"への情報が学級の休み時間にも交換され、ひとしきりの話題のブームがそれになる……その一方で、こちらにはこのような確信が湧くのだ。「彼らがやっているD・Qと、僕がやっているD・Qは、別物だからね!」。
これはどのようなことを指すかというと、このことは当時の僕としても抜け目なくわかっていたのではあるが、僕のような性質の人間がそれに没入するとき、その主人公と自分とを重ねあわせるような没入の仕方はしない。僕は作中に向けて、そこに起こることを"見届ける人"として、主人公の脇に付き添っているのだ。
つまり、同じプログラムがロムカセットに封入されたゲーム・ソフトであっても、それを開き進めていくプレイヤーは個別であるのだから、それに操作される主人公として、同じ筋書きの演目を、それぞれが別キャストで演じている、という状態ができあがる。その別キャストの、別の上演のことについて、「彼らがやっているそれと、僕のやっているそれは、別ものだからね!」と確信することは誤りではない。そして遊び手の想像力のうちに展開される劇作と、表面的なゲーム・ソフトのそれに含まれている仕立てのストーリーとは――それが入念に上手く仕立てられた脚本だとしても――まったく別のものだ。
ついては、僕はここで三十年がかりに、当時からあった「ピコピコ遊び」というような蔑視の仕方について、正当な反撃を立ち上げねばならない。僕自身が実際に触れてきたその劇作の受け皿としてのゲームを、ただそのタイトルのみを言い述べていくだけでも、それは膨大すぎて、きっと聞く側を退屈にへばらせて眠らせてしまうだろう。野山や川べりの水流にも無限の物語をつけて遊ぶ子どもの心が、本当に「ピコピコ遊び」などにこだわっていると思ったのか? もちろん、僕自身の性質がそのことへ大きく偏っていたことで、僕の得た体験も劇作のそれへ偏ったのではあるが、少なくとも僕自身に関しては、胸を張ってこのように言うことができる。――無数の脚本から、無数の劇作を、想像力のうちに展開してきた。その体験の膨大さは、有益さにおいて無視できないし、今さら余人に追いつかれる物量ではないぞ? ましてそれが電子的な表示を媒体にするということは、劇作の本質においては何でもないことだ。
薔薇の密集したエンブレムが子供心にも印象づけを起こす難波高島屋へ、および次点として予定に組み込まれている心斎橋の大丸へ、品のよい祖母がよく買い物に行った。母親もよくそれに同道した。買い物へ、買うというより耽るという入り込み方をしたがる彼女らにとって、僕はお荷物になるわけだから、すっきりとしたていの良さで、僕は戎橋筋にでもある当時のゲーム・センターに放り込まれた。それは僕にとっては、基地に戻ってきたような居心地のものだ。不良のたまり場、と、四音・四音の言い易さだけで人口に膾炙した当時の言い方は、半ば実際の正鵠を射ていたけれども、まだ幼児だった僕はときおりおもちゃにいじられることはあれ、彼らに何の目くじらも立てさせない存在。ところがこの幼児が彼らよりも高度なプレイと先の面へ進むため、彼らはその意外さに湧き立ってよろこび、僕をよくわからない関係の一員に認めて加えた。僕には何もわからなかったが、ただ、こうしたことは誰をも無邪気によろこばせるのだということだけ知り、そのことに長けていることが子供らしい誇りであった。
ゲームといえば、本来はヴィデオゲームに限らず、球場で開催される野球の試合もゲームであるはずだ。将棋やオセロといった盤上のそれもゲームであるはず。僕はこれらを、体験の上から有効に区分するのに、劇場型のそれと対比して、"競技型"のゲームと呼びたい。劇場型のそれが劇作としてのドラマツルギーを生むとすれば、競技型のそれは競う人間としてのドラマツルギーを生む。両者間に優劣のつけようはありえるはずもなく、せいぜい、競技型のそれは身体や知能を競技的に鍛える付録があり、一方劇場型のほうは、想像力に無限の多彩さをもたらしうる、ということぐらいだろう。僕はその彩りの多さのほうへ惹き付けられる性質だったから……僕はおそらく高校生になる前後に、家庭用のゲーム機を新機種へ買い換えることをしなくなっている。それは、一旦それをやりだすと、まったくその劇作のことへばかり、救いがたく没入するからだ。通学路の、帰路でさえ、一日の例外もなくゲーム・センターへ入り浸るというのに、帰宅してまでそれでは、さすがに何かが破綻する。実際、自分の性質にいいかげん怯えるようなところがあって、バランス感覚としての自制をしたのだ。もはや笑うしかないこととして、その性質は、現在もまったく衰えず僕自身に続いている。少しでも手をつけると、またその劇作のことへ"寝てもさめても"という状態になる。僕に身近な人間は、そのときの僕の救いがたさを知っているから、もはやそのことの僕については口出しをする気も起こらないという投げ出しぶりだ。
そうして単に、実生活を忘れて深い没入をするという、"ふう"のことなら、別段珍しくないと思われるかもしれない。けれども言われねばならないのは、いかがわしい空想への耽溺が神経に習慣づいてしまった者のそれと、劇作へ想像力が引きずりこまれていく者のそれとは、まったく別の営為だということだ。近年、すでに指摘も古めかしく聞こえるほど、神経をなでさするだけのそれや、神経を引っかきまわすだけのそれが、サブカルチュアの消耗品として大量に生産されてきた。それに向けて起こる習慣的あるいは逃避的な、中毒を認めさせる没入は、基本的に不活性のものであり、向き合うのに活性を要求される劇作のそれと同質ではない。活性において劇作に没入するそれは、人間をヘトヘトにさせるが、神経中毒の側のそれは、人間をぐだぐだにさせるのみだ。自慰と性交の差について言うのを、燃焼という一言でおおよそ言い表せることのように、神経中毒のそれは燃焼性を持っていない。近年に起こるいかがわしいサブカルチュアの供給は、燃焼性を持ちたがらない者らへ産業の刃が向けられてのことだと言えるだろう。
同年代の人間が、劇作へ興味を持ち、また実際にその劇作を手がけていることがあったとして、仮に彼が過去の記憶の中に、劇場型ゲームに劇作の体験を持たなかったという場合、僕はその劇作の人間へ、わずかに慎重な一歩の距離を取る。特に、もっとも社会的な調子で、「当時はよく流行ったよね!」と、彼が軽くそれを言う場合、彼がしてきた体験と、僕がしてきた体験には、説明ではなかなか歩み寄れない格差があると感じ、それを踏まえての距離を取るのだ。昭和の末期から平成の初期、およびそれ以降も続いてきた僕の劇作の体験は、一言でいってそう生易しいものではなかった。遊びではあってもお遊びではなかった。毎日ヘトヘトだっただろ! 救いがたいことに、その本質的なところ、劇作の体験へ向けてヘトヘトになることを自己の本懐とする面では、僕は三十年何も変わっていないのだ。あるいは別の言い方をすれば、僕は三十年前からこの地点にいた。
まるで宿業のようにそうして生きてきて、現在もなお生き続けている一人の人間として、このように言っておきたい。これまでの経験と、そしてこれからも起こりうる経験について、<<人間の恋というものは、劇的なところに起こるものだ>>。ここで言う"劇的な"という言葉が、洗いなおされて鮮烈になることを愉しんでもらいながら、改めて恋が"劇的"なところにのみ起こるということを、誰だって知っているさということへ、結びなおしをしてほしい。恋と劇的なものをと結ぶことに何の困難や違和感があるだろう? そして本来言うところの"劇的"とは、劇・劇作というそのものへ結ばれてよいものであって、誰だってその"劇"が起こり、恋も惹き起こしていくことを、自己の生のうち待ち望んでいるところがあるはずだ。こういったことはヒントになる。
もちろん、僕の務めとして、ヴィデオゲームのことを言ったけれども、そのことは面白がられるべきで、それ以上のことはない。ただ誰しも、そうして時代の中で触れる一々のものについて、「彼らの触れているAと、わたしの触れているAは、別物だからね!」と確信される、個人的な体験があってよいはずだ。仮に、有名なアーティストAが歌うのを、記録メディアと再生装置を通して聴いたとする。するとそこに、歌われる世界への単なる移入や重ね合わせというのではなしに、<<歌われる世界への脇に自分が付き添い立ち、すべてを見届けるというやり方>>が出現することがある。このときから、有名なAについての世間の評価や、その感動についての一般的解釈などは、一切の関係を失うのだ。外部の誰にも知りようのないものとして、よく仕立てられた音楽と歌から、劇作を起こすという営為をやり始めている。
だからもし、自分の聴いたAの歌と、他のみんなが聞いているAの歌は、まったく別物の気がする! と言い出す若年の誰かがあれば、僕は年長者として、――それはよいところに差し掛かっていることだ、と励ましを申し述べたい。そうして、一般的にも魅力的なAが、それどころではない、かけがえのないAとして結ばれることがあるから、そのことを指して"恋"と呼ぶのだ。そうして劇的なところにのみ、恋は起こるのである。
[劇的なところに恋は起こる/了]
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