No.329 九折式恋あい法
思い込みから離れることだ。
思い込みから離れると、世界がズバッと広がる。
観念的に言っているのではなく、感覚体験上の事実のことを言っている。
高いところから飛び降りたら、フワッとするよね、ということと同じぐらい、感覚体験上の事実だ。
思い込みから離れると、世界がズバッと広がる。
正面をぼんやり見ていた、漠然とした「意識の状態」から、ズバッと三百六十度、周囲に「感覚状態」が広がっていく。
これは、マジなのだ。
マジなのだが、先に、その「思い込みから離れる」ということが、ふつうできないよ、ほとんど不可能だろ、と言っておかねばならない。
思い込みから離れると、世界がズバッと、三百六十度、感覚状態に拓ける。
という、これは本当のことなのだが、「へえー」と言っておくべきもので、間違っても、出来るとか「出来た!」とか思わないほうがいい。
思い込みから離れると、世界がズバッと、三百六十度、感覚状態に拓けるという、その瞬間は、どういう感動があるかというと、別に何の感動もない。
この、感動なんか無ぇよ、ということでさえ、すでに思いこまれているイメージと違うはずだ。
感動したがっている顔面、そういう顔つきをしている奴には無理だ。
(陰険な言い方をしているのではなく、こういう言い方をしておくのが、もっとも誤解を少なくできるのだ、ごめんね)
ズバッと広がるのは、「そりゃそうなるわな」というだけのことで、別に何も感動するような材料はそこに入っていない。
このことは、理屈からでも説明できる。
体験しないとわからないことだが、一応説明で、つじつまがきちんと合っていることぐらいは確認できる。
まず人間には、捉えうる世界が二種類ある。
・意識世界
・感覚世界
この二つだ。
この両世界は、完全にどちらか一方になる、ということはまずないが、必ずどちらかが優勢でどちらかが劣勢、どちらかがアクティブでどちらかがインアクティブだ。
意識世界を捉えているとき、人間は、ほとんど感覚ナシで生きている、と思っていい。
感覚世界を捉えているとき、人間は、ほとんど意識ナシで生きている、と思っていい。
すこし雑な言い方だが、大筋の理解のためにはこれが最短だし、かまわないだろう。
今話していることのキモは、あなたが普段から生活しているとき、実は「ほとんど感覚ナシで生きている」という点だ。
これが、マジなのだ。
「感覚ナシ」?
そんなことないよ? と、誰だって思う。
洋服を見て、かわいいなって思うし、生春巻を食べて、おいしいなって思うし、セクハラ上司を見て、イラッとくるし、風が吹けば、うう寒いなって思うよ? と、「感覚ナシ」というのは事実上否定されるだろう。
まったくそのとおりなのだが、それが実は、「感覚ナシ」なのだ。
正確に言うと、「感覚」が、五感それぞれに分離的になっている、という状態なのだが、そこまで言い出すとややこしくてキリがない。
そうした、日常生活の状態が、実は「感覚ナシ」なのだと、ひとまずは鵜呑みにしてもらうしかない。
そのことは、「世界がズバッと広がる」ということを体験したときに、「ああ、そういうことか」と納得されるし、そのとき以外に納得できる方法はないのだ。
たとえば、インチキでない本当の芸術的ダンサーが、舞台上に立ち、ダンスシーンの構えに入ったとき、途端にスーと、舞台上にある種の世界観が広がっていくのを確認できるだろう。
(といっても、このことに目が利いていない人には、この説明だって通用しない)
ああして、舞台上にスーと世界観が広がっていくのはなぜなのか?
あなたが同じことをやっても、同じことは起こらないだろう。
それはあなたがダンスの訓練を受けていないから、ではない。
芸術的ダンサーと、あなたとでは、捉えている世界が違うからだ。
日常生活の中、たとえそこにダンスの訓練を積んだって、それはただの身体操作の訓練だから、意識世界から離脱する訓練やきっかけにはならない。
逆に、意識を高くして熱心に訓練することで、ダンスへのやる気や、「ダンスとはこういうもの」という観念が、思い込みとしてますます強化されてしまうことさえある。
社会人になり、キャリアウーマンになり、その中で「ダンスやってます」と自己紹介するようなことを重ねると、ますます、意識的に「ダンス」を捉えることになってしまい、思い込みは強化されていってしまう。
ちなみに、顔面が「すごくそれっぽい」表情になる人がいるが、あれはウソだ。ダンスでもなければ芸術でもない。
「思い込み」が、そういう顔面を出現させるだけなのだが、まあそれを言いだすと悪口みたいになるのでやめておこう。
今、そういった顔面モノは、街中のどこでも大量に見ることができる。
マイケル・ジャクソンもアリーナ・コジョカルも、そういった顔面モノはやらない。
芸術的ダンサーが、構えに入ったとき、舞台上にスーと世界観が広がっていくのはなぜなのか。
それは、芸術的ダンサーが、感覚世界を捉えているからなのだ。
芸術的ダンサーだって、日常生活はある程度意識世界で営んでいるに違いないが、舞台上、演目に入る瞬間に、そのことから離脱する。
意識世界から離脱する、ということは、つまり、思い込みから離れる、ということだ。
そうすると、世界がズバッと、三百六十度、感覚世界に拓ける。
そして、この感覚世界というのは、自分だけでなく、他者とも共有できるのだ。
人間の、意識は個人モノだが、感覚は共有モノなのだ。
だから、芸術的ダンサーが、ズバッと感覚世界を拓けていくとき、それが観衆の目にも共有され、「スーと世界観が広がっていく」というように見える。
これが理屈だ。
あなたが舞台に立って、同じことをやっても、舞台上に世界観が広がっていく現象が起こらないのは、あなたが舞台上で感覚世界を捉えられないからだ。思い込みから離れられない。思い込みから離れられないので、感覚世界がズバッと拓ける、それが共有される、ということが得られない。意識世界のままだ。「思い」を強くしたって、ますます意識世界の中だし、そこで顔面にインパクトを持たせたとしても、それは思い込みの顔面反映でしかない。それらは全て個人モノなので見ている側には何も届いていない。
それが、理屈なのだが、じゃあ「思い込みから離れればそれができるのね。世界観が、スー」というと、それはそのとおりなのだが、その「思い込みから離れる」ということが、ほとんどの人間にとっては事実上不可能だ、ということになる。
難しいのである。
トレーニングの仕方さえない。
トレーニングの仕方がないのに、トレーニングは圧倒的に必要だ。
だから、ここの方途のない困難さに向けて、人々は諦めて、「才能だ」とひとくくりにしている。
たとえば舞台上で、「白鳥の湖」をやるとする。
白鳥の湖の、ストーリーを覚えることや、動きを覚えることは誰だってできるし、「白鳥の湖」という演目の、雰囲気やイメージをしっかり持つことは、誰にだってできるだろう。
「わたしは白鳥なのよ、オデットなのよ」と、強く思い込もうとすることは誰にでもできることだ。「白鳥ってきっとこんな感じよ」ということを、イメージの中で膨らませて空想することもできる。
だが、普通の人間の「意識」にとって、そもそも「自分が白鳥であってもいい」なんてことは受け入れられないことだ。自分は人間だ、身長は何センチだ、という思い込みがある。事実に即した思い込みなので、間違った思い込みではないのだが、それにしても思い込みがあることには違いない。
これを、舞台上だからといって、フワッと手放せてしまえるかどうかというと、そのことがまず無理なのだ。普通の人間には、「白鳥になりきろう」「自分は白鳥だと思おう」と、思いを強くすることしかできない。舞台の上だからといって、「別に自分が、人間というわけでもないし」なんて、いきなり離脱してしまえるわけがない。
しかも、これは後で話すが、思い込みというのは、頭の中にあるだけのものではないのだ。身体にも染みついている。
思い込みから離れた、つもり、というのは、頭の中では容易に可能だが、思い込みというのは全身にこびりついている。
その、全身ごと、思い込みから離れなくてはならないという、このことがあまりに難しい。
全身ごと、思い込みから離脱できるだけのトレーニングが必要になるのだ。
そのときどうせ、心と身体はつながっているから、つまり脳の端末が身体で……ということになる。
もうこうなると、わけがわからんし、「思い込み」なんて本人次第のことなので、方法論はほとんどなくて、しょうがないから「才能」で片づけられてしまう。
恋あいも同じことだ。
結局、方法論なんてないので、「才能」で片づけられてしまう。
それを、「才能」のひとくくりにすることは、まったく間違いではないが、ここで言いうるのは、その「才能」は漠然としたものではなく、ちゃんと背後に精密な原理がある、ということだ。
ただその原理が、自分のものにするには手ごわすぎて、原理を知ったってどうしようもない、ということがあるのだ。
とはいえ、もしそこの手ごわさを、乗り越えていけるだけの誠実さがあるなら、原理について知ることはきっと無駄ではない。
もちろん、「そうかこういう原理なのね」「乗り越えなきゃ」といって、そのことが新しい思い込みになるだけ、という、予定された失敗のほうへ、99%の場合は行き着くしかないのではあるが。
まあ、そこは、考え方を変えよう。
知れば誰でも到達できる、というようなことでは、本質的にイージーで、陳腐で、つまらないものだ。そんなもの、取り掛かる値打ち自体がそもそもない。
「普通にやってちゃ掴めないこと」、それを、自分が、生きているうちに何か一つでも、掴めるのかどうか、どうだろうね、ということの話ではないか。
普通にやってちゃ掴めないことだからこそ、それ自体にロマンがある。
恋あい法、ということに話を戻そう。
恋あい、異性にモテるといっても、実際にはモテ方が何種類もある。
本質的に愛されるタイプもあれば、神経を何かヒートアップさせるタイプもあるし、何か人につけこまれやすいタイプというモテ方もあるし、キャラ化の露骨さが逆に何かをそそるというタイプもある。単純に美人だとかおっぱいが大きいからとかいうのもあるし、ファッションや都会性に向けられる憧れに重ねてモテるというタイプもある。
それぞれのモテ方において、何をどうやってもトラブルや不幸にならず、誰も傷つけない、不思議、というタイプもあるし、モテるけど必ずトラブルになるよねあのコ、というタイプもあるし、モテているけれどどんどん苦しくなっていってるじゃん、というタイプもあるし、モテるけど何か闇が深いよね、というタイプもある。
タイプごとの分類は、ここではどうでもいいので、もちろんここでの恋あい法は、「本質的に愛され、トラブルや不幸にならない」というタイプを追求するものとする。
あなたの周りに、そういうタイプとして、不思議なぐらいモテる、愛される、という人はいるだろうか。
もしそういう人がいたならば、少しは話がわかりやすいかもしれない。
もしそういう人がいたならば、そういう人は、実は「思い込み」の強度が低いタイプなのだ。
あるいは、真剣に自分に向き合い、自分が生きることやこの世界のことについて、「思い込み」を解きほぐしてきた、という背景がある。
何もなしに、雰囲気だけでモテているのではない。
ちゃんとした原理が背景にある。
彼女は、他の人より、ある程度思い込みから離脱しているので、ふとしたときに、彼女の周りに世界が見える。
芸術的ダンサーが、舞台上にスーと世界観を拓けていくように、彼女の周りには、何か世界がほんのり拓けているのだ。
そして、感覚世界は共有できるものだから、彼女に会う人間は、会うなり初めから何かの世界を共有することができる。
それで、桜の咲き誇る木の下で、彼女に会うと、笑っている彼女を見て、「あ……」と、どうしようもない感触を覚える。
それで、胸が高鳴るし、同時に、初めから彼女の世界を共有しているから、親しくて、やさしい気持ちになってしまうのだ。
そこに感覚世界の「共有」があるから、人は初めから親しくあれて、話し合いやケンカをしなくて済む。
単純な美人でも、胸は高鳴るのだが、それだけでは「共有」がないので、親しくはあれないし、親しくなろうとして話し合いをするけれど、結局「共有」がないので、疎遠になるか、もしくはそれ以上はケンカになってしまう。
もう一度確認すると、人間が捉えられる世界には、種類が二つあって、
・意識世界
・感覚世界
この二つがある。
感覚世界に憧れ、感覚世界への思いを強くする、というのは、矛盾しているので失敗だ。思いを強くしてどうする。
思い込みから離れるしかないのだ。
それが至難だが、もし思い込みから離れられれば、人間の捉える世界は、自動的に感覚世界に切り替わる。
その切り替わりの瞬間は、初めに述べたように、感覚体験上の事実として、「三百六十度、ズバッと、世界が広がる」ということが起こる。
そして、意識は個人モノだが、感覚は共有モノだ。
感覚が共有モノだということは、マジだ。
マジのマジで、雰囲気とか、そういうつもりとか、そういう気がする、とかいうレベルのものではない。
どのレベルまでつながっているのか、あるいはどのレベルまでつながってゆけるのか、僕自身、まだ底を見切っていない。
意識世界と感覚世界のバランスが、感覚世界に偏っていくと、常識的には信じらないようなことがバカスカ起こり始める。
背後から、人に呼び掛けようとすると、その動作と完全に同一の流れで、相手が振り向くことがある。
一目見たときから、恋人で、親友だった、というようなことは、もう何も珍しいことではなくなってしまう。
街中で、赤の他人同士、ふと目が合ったその瞬間から、彼女の手を取り、手をつないで歩く、というようなことが起こってしまう。
マジなのだ。本当のことなのだ。
もちろん、そうしよう、として企んだのではだめで、それどころじゃない、何か「そうする」ことが、その瞬間から共有されてしまったので、それに引き込まれた、という具合だ。
(企んでそうしたなら、それはそう「思って」やっていたのであり、共有はされていない独りよがりで、単純に犯罪だ。決してそんなことはしてはならない)
そのとき、お互いにわけがわからないのだが、その一方で、お互いにすごくよくわかっている。
そのとき、何も感動はないし、何の驚きもないのだ。
そのときは、どうしても、それが何も珍しくないことにしか感じられていない。
いきなり手をつないで歩きながら、しばらくして、
「よく、まあ。こんなことに、よくついて来たな。なんでついて来られるんだ」
「えっ、だって。何かそういう顔をするから」
「ふつう怖くないか、こんなん」
「でも、何か、これはそういうのじゃないって、それは初めから何かわかったもん。ね、どこ行くの」
感覚世界は、共有されるので、こうして極端なことが起こっても、まったく驚きがない。
だから、わざとらしい感動も起こらない。二人ともきょとんとしている。「なにこれ」と笑ってしまう。珍しさがない。
ただ、当然ながら、お互いを取り巻いて、ものすごい世界が拓けているのだ。
春は、特にそういうことが多い。
ズバッと、「春」が拓けるので、そのときはもう、心臓が桜色に破裂しそうになる。桜色の空気が鼻から脳へ直接入って、脳が精気漬けになる。
苦しいのだが、かといって、呼吸をやめることはできない。症状はなおも進行する。一種の地獄だ。
水中で溺死する、ということが想像しえるように、春という空気の中で窒息死する、ということも、ありえる、と僕は想像する。そうして死んだ人も、過去には何人かいるのだろうと思う。
水は液体だが、春の空気は固体だ。桜色空色透明の、気体樹脂が脳を精気漬けに固化してしまう。
わけもわからず、手を取ってしまい、手をつないで、歩き出してしまった。
お互いに、何をするつもりなのかは、まったくわからないのだが、そもそも何をする「つもり」もなしにこうなっているということが、お互いにヒシヒシわかる。
このことは、改めて驚かれてよいことだ。
我々は、個人として、閉じられて存在しているのではない、ということ。
個人として閉じられて存在しているように思えるのは、意識世界で日常生活を送っているからだ。意識は個人モノだから、個人として閉じ込められているような気がしてくる。
ここで、改めて、「意識」は何だろうか?
「意識」とは、つまり思い込みの装置だ。
人間には思い込みが必要なのだ。
思い込みがなければ社会生活は成立しない。
たとえば法律ひとつを取ったって、こういう法律がある、破ってはいけない、と、思いこまれているから、法治の社会が成り立っている。
法を破れば、警察に捕まって牢獄へ入れられるが、そうして牢獄に入れられるのが「イヤだ」という思い、そうした拘束と苦役を忌避しようという思いがなければ、法律だって機能しない。
我々が、隣の人の食べている弁当を、横から奪って食べたりしないのは、そういうことをしてはいけない、自分と他人は別個の権利を保障されている、と思い込んでいるからだ。
思い込みにはいくつか種類がある。区分は無数にありえようが、ここではここに必要な三種類だけを取り上げよう。
・常識、道徳観念、価値観念、法観念、社会通念
・「人間とはこうである」という人間観念。「男女とはこうである」という性観念を含む。
・「身体とはこうであり、身体はこう動くものだ」という身体観念。
意識は常にこれらを捉えている。捉えすぎて、それはパターン化され、全てをいわゆる「無意識に」という状態で保持している。意識はパターン化したそれをイメージとして記憶しており、たとえば「歩き出すとき右足はこう出る」ということをパターン化したイメージで記憶している。それで、歩き出すときにはそのイメージをなぞって挙動する。だから、ふつう人々が歩き出すときその足の踏み出しはいわゆる「無意識」だ。
こうして、我々の意識が保持しているところの「思い込み」について、この「思い込み」から離れろ、ということが、いかに困難を極めるかがわかってもらえると思う。ほとんど、不可能だと断じて差し支えないようなことだ。
ただ、もし、こうした「思い込み」からある程度離れられた人間がいたとしたら、それはそうでない人間と比べて、何がどう違うように感じ取られるだろう。
このように比較してみる。
まず、思い込みのAさんと、離脱のBさんがあったとして、両者とも、
・「こんにちは」と挨拶し、握手の右手を差し出す。
という挙動をするとする。挨拶をされる対象はあなただ。
Aさんの場合、Aさんは常識と道徳観念によって、その「こんにちは」の挨拶をする。パターン化されたイメージの記憶をなぞるようにして。彼は、「人間とはこうである」というイメージを無意識になぞって、その挨拶をする。
Aさんは、右手を差し出す。握手のために右手を差し出すなら、「身体はこう動くものだ」というイメージがあり、Aさんはそれをなぞることで、右手を差し出すという動作をする。
誰でも、いわゆる「無意識」のうちに、こういったことをしているのだ。ちなみに、「こんにちは」と発声をするのにも、身体の挙動はあるのであって、そういった挙動こそ、繰り返されてパターン化され、「声を出すとはこういうもの」というイメージが強く思い込まれている。
一方、Bさんの場合。Bさんは、その「無意識」のうちに、引き起こせる挙動がない。彼の思い込み袋は空っぽだ。彼は常識によらず、また道徳観念にもよらず、「こんにちは」とあなたに挨拶をする。右手を差し出すとき、なぞるべきイメージを持たずに挙動する。このとき、<<なぞるべきイメージを持たずに挙動するには、感覚をもって挙動するしかない>>のだから、Bさんは感覚で挙動しており、感覚で挙動しているということは、その挙動は目の前のあなたにも「共有」されている。意識は個人モノだが感覚は共有モノだ。そこであなたはBさんと握手をするのだが、そこで得られるのは「常識と道徳からの友好の握手」ではなく、感覚世界上の「握手の共有」だ。
だから、赤の他人同士でも、そこに男女があって、感覚が共有されれば、いきなり手を取り合って歩き出してしまうということが、実際にありうると、理論上わかってもらえると思う。
だから、これはマジなのだ。
マジだし、正直に言ってしまえば、それは別に珍しいことでさえない。
ただ、時代状況的に、そういった現象は、今はもうきわめて得られづらくなっている、と見てよい。そういった現象はかつて、人によっては何も珍しいことではなかったが、「全て過去の話だ」と、切り捨てて捉える現実的な視点も今は必要だ。
それはつまり、時代状況が、人々に意識世界だけを捉え続けることを、強く要求しているということでもある。意識世界は個人モノであり、○○の共有、といったことは起こりえない。
十年前、二十年前より、人々の「思い込み」の量、およびその思い込みの強度は、何十倍か、それ以上に、計り知れず強大になった。
思い込みから離れるということは、かつても困難だったけれども、今は現実的には「不可能」という領域にまで差し掛かっている。
ただそれでも、本質的に愛されること、本質的に愛し合うということは、この方法を通してより他にないと、僕は信じている。論理的に見て、個人モノの持ち合いだけで、共有がなく、パターン化されたイメージをなぞりあうだけで、愛し合えるというのはいかにも不自然だ。
「流れ系明視」という言い方を提唱しておきたい。ロシア文学の一派、ロシア・フォルマリズムから有名になった、シクロフスキーの言うところの「明視/ヴィジェニエ」のことであるが、この芸術論の捉えるところには、おそらくその「明視」が系として動静系に所属するか流れ系に所属するかのことまでは考えられていない。そもそも西洋世界では「流れ」という捉え方が薄いかもしれない。「流れ」とは何か。そのことについては、「流れ系と動静系」という話を以前にしたし、また近頃は、「芸術とは"話し続ける"ことだ」という言い方もしている。話し続けるということの、その「続ける」というところが、流れ系のことを指している。
たとえ「ある程度」でも、思い込みから離脱できた人間がいたとき、その人間はそこに立っていることだけでも、すでにパターン化されたイメージをなぞることによって立ってはいない。なぞるべきイメージを持たないということは、感覚によってそれをするしかないということだから、彼は感覚によってそこに立っている。そして感覚は個人モノではなく共有モノだ。彼が立っているその姿は、拓けて見える世界ともども、実にありありとそこに存在しているのが「見える」。ガンバって「見」なくても、「共有」されるので、より直接感覚に「見えて」しまう。この見え方を明視という。明視とは、ただそこに人が立っていることを認知するのではなくて、立っているその姿を、そのまま"体験"するということだ。個人モノでない感覚世界を「共有」するのだから、そのことが体験にならない道理がどこにあろう?
この明視体験が、流れ系に属するということは、改めて強く言われる値打ちがある。なぜなら「感覚」というそのもの自体が流れ系に属するからだ。実際上の注意点としては、「共有は流れながら共有される」ということ。動静系の、固まったままのものが共有されるわけではないということ。このことの審査に重きを置くべきである。「共有」とは、そういう流れの中で丁寧に起こる現象だ。「話」は共有されえないが、「話し続ける」ことは共有されうる。丁寧な流れ。流れは、流れなので、ままならないもの、こちらの思いで「こうしよう」と決めつけて操作はできないものだけれど。
賢明たらんとして、あるいは善良たらんとして、流れを止めてはだめだ。いっそ他人のことなどどうでもよいので――他人のする「認知」のことなどどうでもよいので――流れの中にあり続けることだ。<<(認知より)先に行け>>、<<(認知を)待つな>>、流れている者にはしょうがないことだ。認知の様子を確認したがるからますます不安になるのだ。なぜ共有を捨てて、それぞれ個人モノの認知の確認をしたがる? 流れはありありと共有される。<<「共有」へ舌を這わせろ!>> 「流れ」のわざとらしい演出はない。スロウな流れもあれば勢いのよい流れもある。「流れ」は、まったく思ったようにならない。それでいて「流れ」はきわめて、"有能"だ……
我々は普段、パターン化されたイメージ、つまり「意識の思い込みの成れの果て」で挙動しているので、思い込みから離れたとき、自分がどのように挙動してよいか、見当がつかない、ということがある。そのとき、感覚によって挙動するしかないのだが、感覚によって挙動するということは、ほとんど<<共有が教える>>。「わたし」がわたしによって感覚を捉えるというよりは、たいてい目の前にいる誰かが、その「共有」によって、どのように挙動すればいいか、その流れを教えてくれる。ただし、思い込みから離れていれば、だ。
我々は普段、他人と協調するべきだし、理解しあうべきだし、好きあうべきだし、嫌いあうべきではない、と思っている。その思いは他のことより一段と強い。しかしこの強い思いは同時に強い思い込みでもある。この思い込みにおいて、人は互いに協調しあえるが、それは個人モノの持ち合いで協力しあうことへの合意に過ぎず、直接の共有ではない。直接の共有のためには、「共有」に、舌を這わせろ……
「九折式恋あい法」は、何であれこの「共有」を目指す。感覚世界は共有される、という事実を元に、感覚世界で二人が出会えるよう、「思い込みから離れろ」ということを唱える。思い込みから離れれば人間の捉える世界は自動的に感覚世界に切り替わる。共有されるものは流れており、それが「流れ」だということはしばしば共有へのヒントになる。感覚世界へ入りこむと、世界は三百六十度にバッと拓ける。しかもそれが共有される。感覚世界へ深入りするほど、その共有が互いのどこまでにおよびうるのか、いまだ底がしれない。ただ、初めから共有されており、初めから世界が拓けているので、初めから親しくて、初めからうつくしい。その中にいる人が、なぞるべきイメージを持たないため、感覚によってのみ挙動するのであるから、その挙動はそのたびごと二人の共有に突き刺さってゆく。突き刺さったまま流れていく。
だがそれにしても、肝心の、思い込みを離れるということだ。それが至難であり、まして現在の時代状況では、かつてより難度は上がりもはや不可能に近くなった。
それでも、結局恋あいというとこの道筋しかないのだから、自分はいつかそのことにまみえるように、誠実であり続けようという、これが九折式恋あい法だ。これがマジだと言い張る、ひどいたちの悪さまで含めて、これがどうぞ、九折式恋あい法だ。
これでマジのマジだというのだから困る。
***
続いては、「思い込みから離れる」ということについて、いくつか「やり方」と呼ぶべきものがないわけではないので、そのことについてお話ししたい。
「意識」とは、それ自体が思い込みを持つための装置だ。何のためにそのような装置が必要かというと、人間が社会生活を営むためだった。ここで我々は、社会生活なんか要らねえよ、と言い捨てるまでにやけのやんぱちにはなれないが、それでも我々は誰もがやがて、社会生活という空間から追い出されることにはなるのである。そうして、社会生活を追い出されてしまったならば、そのために必要だった思い込みも必要なくなり、ひいては、「意識」という機能そのものも不要になる。
よって、
・死の受容
これが、「思い込みから離れる」ということの、背後を支える観である。こういったことを「観ずる」という言い方をする。
たとえば、百年後のことを考えてみる。すると、おそらく人類社会は続いているであろうが、あなたを含め、あなたの現在の知人はおそらく全て死滅しているだろう。あなたはすでにおらず、あなたの知る人、またあなたを知る人もすでに残っていない。そのとき、あなたという存在は、本当にこの世界にかつてあったのかどうか、おぼろげであやしいものになる。あなたの存在は、かつてあったのです、と、帳面に書き残されているだけで……これが「死」であって、このことの受容は、社会生活への思い込みを根っこから溶解していく。
加えて、では一億年後のことを考えてみる。すると、おそらく、無念ではあるが、人間・人類はこの宇宙にすでに残されていないだろう。地球という星があるのかどうかも不明だ。人類をなしにした宇宙だけが残っている。かつてこの宇宙に、人間がいて、人類があったのか? そのことを記録する存在もなければ、そのことを認識する主体も、すでにこの宇宙に残っていない。宇宙のどこかには別の生命体があるかもしれないが、彼らはおそらく遠く離れすぎていて太陽系のこと自体を知らないだろう。こうして、一億年後には、人類がかつて存在したのかどうなのか、そのこと自体が確認の手段もないうつろな話になってしまう。では、そうしてやがて消え去ってしまうものの中で、我々はどうして、互いに正義を振りかざしたり、内心に大変な思いを抱えたり、やけくそになって物を壊したり、自分の生へこだわるあまり自分を切り刻んで悲鳴をあげたり、そんなことをするのだろうか? 一億年後の世界から振り返ったとき、全てが「あっそ」と言われるだけで、どうせ消えて無くなるものなら、何をどうしたって「損」だった。楽ちんに消え去ることと、大変な思いをして消え去ることを比べるなら、楽ちんに消え去ることを選びたいに決まっている。
どうしてこのことを誰も早くに教えてくれなかった? 現在のいかなる人文的な真実も、真実であれるのは今のうちだけで、一億年後には全部ウソになる。それはつまり、本当の本当はウソということじゃないか。
こういったことを、「無常を観ずる」という言い方をする。諸行無常というところの無常だ。別に線香くさいムードを引き立てなくても、科学的な見方として、無常を観ずることは誰にでも容易だ。こうして無常を観じたときに立ち上がってくる独特のやすらぎと勇敢さの心を菩提心という。詳しくは、おそらく「学道用心集」という道元の書に最も明瞭に書き表されている。その「無常を観ずる」ということおよび菩提心ということへの本当の困難さも、そこに最も明瞭に書き表されているだろう。
ここでは、菩提心というような立派なことへは、到底及び得ないので、あくまで卑近に「死の受容」と唱えるにとどまる。生活していく上で「思い込み」は必要であり重要だ。そのようにして社会生活は成り立っているのであるから。しかし、あくまでその上で、やがてその社会生活というものからも、我々は無慈悲に叩き出されてしまう。自らの意思によらず。しかも、それがいつのことになるのかは、誰も前もっては教えてもらえない。明日かもしれない、ということではなく、今日かもしれない。我々は誰しも、翌朝を持っているとは限らないのだ。
我々は普段、意識世界を生きており、思い込みのパターン化されたイメージを、なぞるようにして生きている。そのなぞられるパターンイメージの中で、翌朝は常に我々に与えられ続けている。けれども、あくまでどちらが真実かといえば、与えられるべき翌朝は、いつの日か閉ざされるのだ。我々はいつか、最後の夜を迎え、その夜をもって終わり、翌朝を得ない。その当日も、「まさか今日ではあるまい」と我々は思っているのだ。ちょうど、今日このときもそう思っているように。
こうして、「死の受容」の上では、必ず翌朝が与えられるという思い込みが溶解される。それは、溶解されると、ギクッとする恐怖が走るが、恐怖が走ろうが真実は真実である。この真実の上で、たとえば「ワー」と叫んでみるとき、誰もが感じ取れると思うが、いつものようにパターン化されたイメージの上で「ワー」と叫ぶことが、できない、という感触がある。それは思い込みから少しでも離れたことの反映だ。そこから「ワー」と叫ぼうとすると、パターンイメージをなぞれないため、感覚に頼って、「ワー」と叫ぶという挙動をするしかなくなる。あるいは、ギクッとした恐怖から逃れるために、あえてパターンイメージを呼び起こしてそれをなぞり、いつもの思い込みの世界に帰りたい、と望んですることもあるかもしれないが。
同じように、思い込みから離れるということについては、次のようなやり方もある。
・殺し合い
・失い合い
・別れ合い
ボクサーがボクシングのリングで戦うとき、その戦いは厳密なルールによって保たれている。同じ程度の体重で、決められた日時と決められたリング構造の中で戦い、ゴングが鳴れば休息し、グローブをつけて、ダウンを取ればそれ以上は打撃しない。カウント10まで立ち上がれなければその者の負けだ。これは戦いではあるが殺し合いではない。そのようなルールが、清潔な選手の意識に「思いこまれる」ことで、あくまでボクシングは成り立っている。つまり社会的な戦いだ。この戦いの中では、思い込みから離れるといっても、いきなり蹴りを繰り出す、というわけにはいかない。
これが、殺し合いということになると、まったく変質する。ボクサーの手元に拳銃があれば、何はともあれ、それでさっさと相手の全身を撃ちぬいてしまったほうがよい。リングの中に立つ必要はなく、リングの外から撃ちぬけばよい。そのほうがこちらは安全だ。あるいは徒党を組んで叩きのめしてもいいし、停電させてそのスキに近寄って首を絞めて殺してもいい。殺し合いにはルールがない。だから、普段から思いこまれている「これをしてはいけない」というようなことが、全て一気に溶解する。相手を殺すとき、笑いながら殺してもよいし、泣きながら殺してもよい。どうせ殺してしまえば、文句を言う相手そのものが消失するのだ。二人きりで殺し合えば、殺し合いが終わったとき、そこには殺し合った二人は残らない。残るのは一人きりの、あの独特の感触だ。
とはいえ、そのような殺し合いを、社会的にやるわけにはいかないし、たとえ社会的に治外があったとしても、そのような殺し合いは身が持たない。恋あいの前にただ自分が死ぬだけだろう。だから、あくまで真剣な模擬として、その殺し合いを体験してゆくしかない。そこに向き合う真剣ささえ現成できれば、実際の生命の得失は本質ではない。そのようにして、殺し合いについて考える武術の道場が成り立つ。模擬とはいえ、子供の遊ぶ公園で殺し合いの模擬をするわけにはいかないので、あくまで道場という区画された中でそれをすることが、社会的に認められている。武術家はそうして、社会的に認められながら、もし市井で社会的に認められないことをする暴漢が出現したときには、どのように対処しうるのか、ということを研究しているのだ。一対一で、刀を模した竹刀で打ち合うだけならスポーツとしての剣道だが、武術家は、そうして刀を打ち込んでくるとは限らないし、一対一とも限らない、「複数で刀を投げつけてきてそのまま突進してきたらどうするんだ」ということまで含めて考える。そうして「戦いとはきっとこうだろう」という思い込みから離脱を重ねていく。よく武士道で言われる「死ぬことと見つけたり」というのは、「死んではいけない」という思い込みから離脱しているのが武士だ、という教えである。そうして思い込みから離れた武士は、感覚世界をズバッと三百六十度に拓かせて、その感覚世界の有能さによって相手を制し、敵を斬り伏せていく。
同様に、我々は、大切なものを失いたくないし、大切なものと別れたくない、という強い思いを持っている。強い思いは同時に強い思い込みだ。人間は自分の片足を失いたくはないし、愛する人と別れたくない。この強い思いが、同時に強い思い込みになり、結果、人を意識世界に縛り付けてしまう。それによって、感覚世界の有能さが使えなくなると、皮肉なことに、かえって失うべきでないものを失い、別れたくないと願った誰かと別れることになってしまうことがある。逆に、失ってもかまわない、別れてもかまわない、と捨ててかかったときこそ、思い込みは溶解し、ズバッと世界は三百六十度に拓かれる。結果、感覚世界の有能さが彼を救い、彼はすべてを獲得してゆくことができた、ということが残ることもある。
次に、ここまでに示した四つの「やり方」に加えて、もうひとつのやり方が、よく知られて存在する。このやり方は他の四つとうまい兼ね合いを具えてもいるのだ。並べて書くと次のとおり。
・死の受容
・殺し合い
・失い合い
・別れ合い
・フィクション
前段に、芸術的なダンサーがどのようであるかの例を示した。芸術的ダンサーは舞台上で思い込みから離れることができ、たとえば「自分が白鳥であってもよい」ということで「白鳥の湖」を演じることができる。感覚世界のズバッと拓けるのを観客と共有し、感覚世界の有能さで挙動することが、また観客に共有されていくことで、芸術的な表現が為される。
彼女にとって、舞台の上がその湖のほとりであってもよい、というわけだが、同様のことを、自動車の行き交う車道の上でやるわけにはいかないし、また生物的な事実として彼女は白鳥そのものではない。彼女は芸術的ダンサーだからといって、川面に泳いでいるゲンゴロウを突然ついばんで食べたりはしない。いくら舞台の上が湖のほとりであったとしても、彼女は決して夢遊病者ではなく、彼女は勝手に舞台から降りてきて客席を走り回ったりはしない。それは、彼女が彼女として舞台の上で「何をやっているか」を正しく理解し続けているということだ。
つまりこれは、彼女があくまでフィクション世界を創り出す演者であれることを示している。また先ほど、武術家が道場で何をしているかについて、殺し合いの「ごっこ」ではなく真剣な模擬をやっていると述べた。直接の殺し合いをすると身が持たないし、そういったことは社会的にも禁じられているからだ。それで、ごっこではなく真剣な模擬として、殺し合いをやっているのだとしても、そこに実際の流血と死体が積み上げられるわけではないのだから、そこで営まれる稽古はあくまでフィクションである。
誰でも知るとおり、フィクション世界はフィクションであるのだから、社会生活上で我々が苦心するような思い込みを持たなくてよい。何しろ、「実害が出ない」ということで、万人を初めから説得済みなのだ。だから、バッタバッタと敵を斬り伏せてもよい。人間が軽々と空を飛んでもよい。人間でない動物や昆虫の主人公が人間の言葉を話してふるまうアニメ作品はいくらでもあった。それがフィクションというやり方のよさだった。誰でもそうした映画や物語を観たことがある。我々が社会生活の中で思い込みのみに縛られてしまわないように、思い込みを溶解させる方法としてそういったフィクションの提示を用いる。だからこそ、恋あいといえば、昔は恋人たちのデートは第一に映画に行くのが定番だった。興奮して寝付けない子供に、母親が話を読み聞かせるとき、その話は必ずフィクション作品だった。逆に、大人が起床して、これから社会生活に出かけるぞというとき、このときは必ずノン・フィクションの、新聞に目を通すのである。
フィクションはこのようにして、思い込みから離れるのによい方法であり、また豊かな方法であり、さらには方法としてわかりやすいという長所もある。殺し合いの研究をしても「実害が出ない」という素晴らしい方法だ。そして、さらに踏み込んで捉えるならば、やや哲学的な難解さはあれど、その先にはよい"兼ね合い"の力がある。たとえば「死の受容」に接続して……
一億年後の未来には、おそらく人間は残っていないだろう。人間とはどのようなものだったか、人類がどのように生きたか、それを記録する者も残っていなければ、それを認識する主体も残っていない。
では、そうしてやがては消え去ってしまうものなのに、それまでに地球だの人類だのと言ってヤッサモッサしていたすべてのことは、いったい何だったのだ? 偉大な人物とされる誰かがいて、一方には悪逆非道な誰かがいた。取るにたらない誰かもいて、取るに足らない誰かも大きくはなろうとして苦しんだ。何が正しくて何が誤りなのか、無数の議論が重ねられた。議論が重ねられるうち、新しい正しさが発見され、その発見ごとに人々はよろこびに沸いた。人類は英知を積み重ねてゆき、歴史を後世に伝えていった。人の生は短すぎるので、それを人類の繁栄にどう貢献させられるかが問題だった。が、そうして、誰もが誠実に取り組んだとしても、一億年後の宇宙は静寂だ。人間の喧騒が立てられることはもうない。あれだけ考究した正しさも誤りもまったく同じに消えてしまった。どうせそうして等しく消えてしまうだけなのに、その前に人間は何をやっていたのだろう? 一億年後の静寂の宇宙の中で、「人間がいて、どうたらこうたら! 中には鼻息の荒い人がいてね!」というようなことは、もはや何か意味のあることだろうか? 人間がいたということ自体、そのときすでに、本当かどうかわからない。何しろ、それはつまり、いてもいなくても同じだったということではないか。
こうして、「死の受容」と兼ね合いを持たせてみれば、自分がこうして生きているということと、人間がこうして生きていて、人類があり、社会と歴史を続けているということ自体、フィクションとさして変わらない、ということが見え出してくる。偉人は立派で、刑務所に入った人は残念だ。本当にそうか? 一億年後にはもう何もかもが消えているので、立派だの残念だのは絶対ではまるでなく、おもちゃみたいな時間制限がつけられている。われわれが「何をやっているか」、それは、この時間制限の中での「フィクションだ」と言われても、そのことを否定するうまいやり方は見つからないのではないか。
こうして、思い込みを離れる方法のひとつである「フィクション」は、何も舞台の上とかスクリーンの中とか、そういった様式の中に限定されるものではない、ということがわかってくる。これによって「フィクション」は、すでに何の限定の中にも納まらず、我々が生きるということの全体に向けて、思い込みの溶解を仕掛けてくる。真実の上では、我々が実と信じている実生活と、虚と信じているフィクション作品の世界とに、確たる区分はないのだ。我々は虚と実の皮膜の中を生きている。このことを、古くから虚実皮膜という。つまり我々は、その皮膜の中にいるからこそ、「実」への強力な思い込みを持つことと、それを気兼ねなく「虚」へ溶解させてしまうことを、自由自在に、好き勝手にやれるのだ。
手のひらを、パン! と打ち鳴らし、ここからダンスシーンよ! という号令が掛かる。すると、そこからの数分はフィクションのシーンに切り替わるように感じられる。けれどもそれは錯覚だ。手のひらを打ち鳴らす前から、われわれは元々フィクションの中にいる。もし厳然たる「実」の世界があるのだとしたら、そこでいくら手のひらを叩こうと、それによって世界が虚の世界に切り替わることなどありえない。手のひらを打ち鳴らしての号令が有効なのは、実はそのパン! という音が、フィクション世界に鳴り響いていくのを、我々が聴くことができるためだ。
九折式恋あい法は、思い込みから離れることを第一とする。そのための、やり方、とかろうじて言いうる五つを示した。もちろんすべては、人と人とが感覚世界で出会うためだ。感覚世界でのみ起こる「共有」によって、お互いの存在とその世界のズバッとした広がりを、親しくうつくしく明視し、体験しあうためだ。
感覚世界で出会うためには、意識世界への呪縛たる「思い込み」を解呪せねばならないのだが、これがどこまでいっても至難だ。その至難に、まっすぐ正々堂々と向き合おうとすると、こんなぶっとびの話が積まれるより他なくなる。そしてこの積まれたぶっとび話について、マジだ、と言わなくてはならないのだった。
これが、マジだ、というふうに言うと、読み手であるあなたは、ひとまず笑ってくれるだろう。僕としてもそのように求めて、ここまでわざとらしく「マジだ」と差し挟むタイミングを計ってきている。マジだ、と言って笑ってくれるということは、このことはやはり冗談っぽく聞こえているということだ。本当のマジのことは、学校や職場や家族といった、世間の扉の向こうに転がっていると思われている。世間の扉の向こうにあるものに比べて、ここに書かれていることが本当のマジだとは思いにくい。
それぐらい、思い込みから離れるということは至難なのだ。
***
思い込みから離れること。
それによって、意識世界優勢から感覚世界優勢に切り替わり、三百六十度に世界がズバッと拓け、そこでは「共有」が起こる、と唱えてきた。九折式恋あい法は、この「共有」の中に恋あいは必然起こるという捉え方で、「共有」の以後について差し入ったノウハウを持たない。必要ないからだ。
「共有」があれば、初対面のときからでも、親しさとうつくしさがある。そこにさえたどり着けばそれはすでに恋あいだ。逆に、「共有」のないまま、それぞれ個人モノの意識世界を持ち合って親しくなろうとしても、そこには真の親しさはありえないし、うつくしさもない。どれだけうつくしさを飾ったとしても、それは「見えない」のだから話にならない。
さて、その「思い込みから離れること」として、五つのやり方のようなものを示したが、このことにはまだ抜け落ちがある。というのは、先に述べたように、思い込みというのは必ずしも精神や観の中にのみ起こるのではないからだ。身体にも起こるのである。それについても触れておかねばならないが、このことになると僕はボディワークの専門家ではないし、また直接身体的なことを文章に書き起こして説き明かすのは方法として最適でない。
それで、さわりだけ――要点だけ――述べておくことにしたい。
僕があなたの手首を掴み、あなたの、ちょうど肩ぐらいの高さでそれを保持する。それで僕はあなたに、腕の力を抜いてください、とお願いする。あなたは言われたとおりにする。存分に力を抜いてください、という。あなたは、はい、と言われたとおりにする。
このようにしたとき、十中八九、腕の力を正しく抜ける人はまずいない。
この、チェックを兼ねた訓練は、音楽指揮者がその訓練の最初に行うものだ。
次に、あなたに僕の手首を掴んでもらい、同じように、今度はあなたに、僕の手首を僕の肩の高さに保持してもらう。そこで僕が、腕の力を抜きます、と宣言する。はい、とあなたは構える。
その直後、ぐん、とあなたの手に掛かる重み、力が抜けた腕の重さは、あなたを確実に驚かせるはずだ。あなたは、よろよろっと踏み出し、何なら、両手で掴みなおさねば、片手ではそれを保持していられないかもしれない。
それは、考えてみればわかるはずだ。スーパーマーケットで、豚バラのかたまり肉を買ったとする。そのとき、少々大胆に買い付けたとしても、大人の腕一本ほどの大きさの肉など買わないはずだ。大人の腕一本は、実はすごく大きく、大きさなりにしっかり重いのである。よくよくその大きさを見れば、片手で軽く保持などできるはずがないのだ。これだけの大きさのかたまり肉なら、かなりしっかりとした強さで掴まないと保持できない。
これは最も簡単に判別できる例として、身体の「思い込み」なのだ。「力を抜いてください」「はい」「力を存分に抜いてください」「はい」。当人は、力を抜ききったと思っているし、力を入れる/抜くということは、自分の思うがまま、自由自在にできると思っている。しかし事実はそうではない。
力を抜いた「つもり」にすっかりなりきったとき、それでも腕に残っている、腕の力がある。この、腕に残ったままの力が、身体における「思い込み」だ。精神的な思い込みについて言うなら、それはきっと、脳神経が、入力しているつもりのない神経信号を、実はずっと入力し続けている、というような有様だろう。その脳神経が、運動神経に代わるだけのことだ。入力しているつもりのない神経信号が、実はずっと入力され続けていて、腕の筋肉に「力み」として反映されている。このときこの「腕」は、それ自体が意識世界に存在していることになる。
音楽指揮者が、一番最初にこの訓練をする理由は、明らかではないだろうか。音楽指揮者がその腕をプレイヤーに向けて振るうとき、プレイヤーに向けて「共有」が起こらないのでは、それはまったく無意味なことに違いない。音楽指揮者の腕が振り上げられるとき、そこに、三百六十度にズバッと拓けた世界があり、それが「共有」され、明視され、共有されたまま流れてゆくからこそ、プレイヤーはそれに応じて演奏を合わせていくことができる。もし、単にタイミングを合わせるだけでよければメトロノームで済むことだ。音の強弱など楽譜にもともと書いてある。
単に運動のように腕を振り上げることなら誰でもできる。だが問題は「共有」だ。「共有」のために振り上げることがむつかしい。このことのために、まず「腕」が意識世界に縛り付けられていたら話にならない。それで、腕に染みついている「思い込み」の程度をチェックし、またその思い込みを取り払う訓練をする。そしてこういった訓練は、積んだからといって習得されるとは限らないものだ。
訓練と実践を、うまく成功させた音楽指揮者は、その腕をまるごと感覚世界の中に置きっぱなしだ。もしそういう機会があれば、目の前で音楽指揮者に、空中に三角形を描いてくれるようにお願いしてみればよい。そのときあなたは、その三角形が実に明視されること、および、その描線を創り出す指先がいかにも流れているということを目撃できるだろう。意識世界の中では、たとえばあなた自身でも、空中に三角形を描こうとすると、三角形のパターンイメージを持ち、それを指でなぞるしか方法がないはず。だからその三角形は認知されるが共有されない。音楽指揮者はそのパターンイメージを持たず、イメージを空白にしたまま、流れる感覚にのみ頼って三角形を描き出すことができる。だからその三角形は共有される。
腕に力みという「思い込み」が残ったままでは、そういった特殊な挙動をする仕事はできない。ここで触れているのはもちろん音楽指揮法のことではなくそれぞれの具体である身体についてだ。実は、人間の身体には、そういった思い込みが無数にどっさり染み込んでいる。身体の各所ごとに、本当の脱力ができるかというと、そのようなことはボディワークの究極的な達人でなければ実際にはできない。身体に思い込みがまるでない人間というと、有名人でいえば、マイケル・ジャクソンだとか、その師匠格にあたるフレッド・アステアなどだろう。だからこそ、彼らの全身がどう動くかは、流れるように動くたび観衆に「共有」され、明視され、鮮やかなダンサーとして存在しえた。だがいずれにせよ、それは非凡をきわめた達人たちのことだ。我々の参考にはほとんどならない。ただ、割に心に留めておけるのは、そうした非凡の頂点を観ながらでも、我々は容易に自分の身体を脱力できるというような思い込みを平気で持ててしまうということだ。脱力や、「自然体」になることぐらいなら、割と普通にできる、と思い込んでいる。それがとんでもない思い違いだということは、心に留めておいて賢明なことだ。
音楽指揮者が、その指揮棒をどのように振っているか。その腕をどのように挙動させているか。このことには、にわかに信じがたい事実がある。音楽指揮者の腕は、感覚によって動いてはいるのだが、意識によって動かしてはいない。もう一度、初めに示したところを振り返ると、
・意識世界を捉えているとき、人間は、ほとんど感覚ナシで生きている、と思っていい。
・感覚世界を捉えているとき、人間は、ほとんど意識ナシで生きている、と思っていい。
ということだった。
こういったことに、原体験をまるで持たない場合、このことはどのようにも理解しづらくなるのだが、事実を言えば、音楽指揮者は当然感覚世界を捉えており、その腕にせよ指揮棒にせよ、どのように振るかという意識によっては振っていない。よく誤解されるが、それは「無意識に」振っているのでもない。振る原理が違い、そもそも身体が挙動する原理が違う。
・人間の身体は、「こう動かそう」という意識によって、動かすことができる。
・人間の身体は、感覚によって、「こう動くのか」と動きを教えてくれる機能がある。
指揮者は腕と指揮棒を、「動かしている」のではない。感覚によって「動いて」いるのだ。そこに意識はほとんどナシなのである。かといって「無意識」ではない。居眠りした運転手が運転しているのではない。その自動車は道路に合わせて自律して走るのだ。それもきわめて"有能"に。先に述べたところを繰り返すとこうだ。「感覚で挙動することはほとんど『共有』が教える」。
だから実際に、熟練した音楽指揮者は、指揮棒を振り続けたまま、もう片方の手でメモ書きをすることができる。意識をメモ書きのほうに向けても、指揮棒のほうは寸分もぶれたり乱れたりしないのだ。かといってほったらかしではない。どう動かすかを腕に教えているのではなく、どう動くかが腕によって教えられ続けている。腕がほとんど自律して動くので、楽譜にかがみこんだときに、自分の手が自分の顔に当たってびっくりする、ということが実際にある。
そのようにして、完全に感覚世界の中に置かれた腕は、強烈に「共有」され、指揮棒ごとズバッと拓けた世界を明視させるから、二十メートル離れたプレイヤーにも、その指揮棒のニュアンスをはっきりと見せることが可能になるのだ。
人間の身体の、腕一つとってもみてもそのようであるから、本来は、全身がそのように、強烈な「共有」の力を持っているはずだ。その完全体には、非凡をきわめた人にしか到達できないにしても、我々の一人一人も、それぞれに「思い込みの強い身体」と「思い込みの弱い身体」を持っている。いくら外形上のフォルムとして、プロポーションが良い身体であったとしても、それが思い込みの強い身体であった場合、それは共有を起こさない個人モノの身体であるから、外形的な良さの認知という以上には、実は相手には「見えて」いない。思い込みの弱い身体のほうが共有に近く、そういう身体はプロポーションの以前に相手によく「見えて」いるので、親しさと世界の広がりを与えてくれる。
思い込みの弱い身体のほうが、当然ながら流れ系に近く動く。感覚世界に近いほうの身体だ。感覚世界で動くことがあれば、その動きは共有の力を持つ。その人が動いているのが親しみをもって受け取られる。一方、思い込みの強い身体のほうは、意識によって(または無意識のパターンによって)「動かす」ということしかなく、その挙動は個人モノなので共有されない。よって、この人の挙動は共有されないがため、自分の挙動を「振り回している」というような印象を受ける。それは親しみどころか「近寄りがたい」と感じられる。実際に近寄られるとストレスになる。
このようにして、九折式恋あい法の唱えるところの、「思い込みから離れること」というのは、身体においても強く言いえるし、何なら、身体においてこそ強く言われるべきかもしれない。ただ、こちらの、身体としての「思い込み」、力みや、イメージをなぞった動作の振り回しなどは、「思い込みから離れる」ということへのやり方が、精神的なそれ以上に、ますますもってわからないのだ。文字通り、具体的にやり方がない。思い込みの強い身体から、思い込みをなくすということは、つまり肩こりの一つだって完全に解決するということだ。そのようなことが成し遂げられることは事実としてきわめて少ない。
よって、ここで言いうるのは、まず身体には思い込みが存分に染みついているということ、および、その身体の挙動する仕方においても、思い込みは存分に染みついているということ。身体はいつでも好き勝手に力んでいるというのが実際で、挙動はほぼ全てパターンイメージをなぞって繰り返されるだけだ。ただその中でも、やはり思い込みの強い身体と、思い込みの弱い身体があるので、せいぜい心がけ程度にしかならないにしても、思い込みの弱い身体であれるほうがよい。九折式恋あい法は、思い込みから離れることで、感覚世界に起こる「共有」を求めることを唱えている。だから、思い込みの弱い身体のほうが共有に近いし、疑いなく具体としてある身体がその「共有」に近いというのはとても有利でかけがえのないことだ。人はその身体の親しさによってのみでも、その人のことを「体験」できるだろう。
***
思い込みから離れるやり方について、まったく違う切り口の方法がある。それを九折式恋あい法では、インスピレーション主義と呼ぶ。人間には思いがあり、強い思いは同時に強い思い込みでもある。それによって、思い込みから離れることは至難になるのだということだったが、時と場合により、また何より人によっては、その強い思いをはるかに凌駕する、「尊厳」の対象を見出すことがある。この「尊厳」の対象をインスピレーションという。
インスピレーションというと、漠然と、刹那によぎっては人に何かを教えるもの、というイメージがあるが、ここまでの経験で知られているところでは、実際のインスピレーションはそうしてピーク的に出現するのではなく、常時そこに鎮座するというふうに現れてくる。インスピレーションはずっとそこにある。決して落雷のようではない。どちらかというと、三日月や弓張り月のように、ずっとそこに浮かんであって、その尊厳を放ち続けている。三日月を見てびっくりしたり、顔面をしかめたりするような人はないだろうから、同様に、インスピレーションに出くわした人間も、そこに驚いたり顔面を変形に飾ったりはしない。三日月のように、まるで当たり前のものとしてそこにあり、かつ、そこにありつづける。ただ尊厳だけを放ち続けている。
その尊厳に向き合い、殉じることが、自分の思いなどより崇高で、強い動機になった場合、人間は、いっそ「強制的」に、感覚世界に取り込まれることになる。それは、自分が思い込みから離れたというより、インスピレーションに吸い込まれて、思い込みから引きちぎられてしまった、というような状態だ。シャーマン的な仕事ぶりを持つ芸術家はほとんどこの形式で思い込みから引きちぎられているだろう。
このやり方はうまいやり方に思える。思い込みから離れるための、禅定めいたことをやらずに済み、ただ尊厳に引きずられるだけで感覚世界へ入り込むことができる。そうしたら当然、共有も得られるだろう。
だが結局、至難が至難であることは変わらず、やり方や方途がないことには変わりがない。なぜなら、それだけの尊厳を見出せるかどうかが、これまた「才能だ」ということで片づけたくなる類のことだからだ。尊厳の持ち方、というようなことのやり方はない。また、あくまで意識による思い込みというのは、社会生活上で必要なものであって、ただ引きちぎって捨ててしまえばいいというものではない。
もし、当人が、意識の機能を十分に頑健に鍛えていなかった場合、インスピレーションに引きずられることによって、元のところに戻ってこられなくなる、ということも十分ありうる。芸術家の一部には、そうして統合失調症になり、その後はもう回復しなかった、という人もあったに違いない。また、こうしてほとんどコントロール下にない、引きずりこまれるような急激な感覚世界への没入は、そこに起こりうる「共有」が強烈すぎて、あくまで一人対一人で向き合う恋あいの方法としては、相手の側の受け止めうる範囲を超えてしまうかもしれない。
そういったことの、結局の厄介さまで認めた上で、やはりなおインスピレーション主義は、強力で魅力的なやり方ではある。何しろ、かつての定番のように映画を観に行くことをしなくても、三日月を見上げるだけで、思い込みからの離脱が起こり、感覚世界での共有、親しさとうつくしさを明視体験できるのだ。三日月でそれができるということは、行住坐臥、無数のことについてそのようにできるということでもある。おそらく、その無数のインスピレーションを、無数のままやっていくと、お相手のほうがすぐにでも受け止めきれなくなるだろう。
また、そうして急激に深入りする感覚世界の中で、どのレベルでの「共有」までが起こるかは定かではない。あまりに常識離れした共有レベルの体験は、その後の社会生活を混乱させたり、社会生活への無力や無気力を引き起こしたりするだろう。特に、まだ意識機能が成熟していない思春期のうちに、深すぎる共有の体験をすることには危険が伴う。彼女の背後に家族があって、家族による世間への接続が彼女の意識機能を保護していない場合には、特に彼女は単独では深すぎる共有体験を自力では支えきれないかもしれない。
空想に耽りがちな人間が、意識上に膨らんだイメージのそれを、思い込みと共に、インスピレーションの何かだと誤解することはとても多い。そういった場合、明らかなことだが、膨らんだ空想イメージに興奮しているのは自分だけで、「共有」は何らされてゆかないという事実がある。この事実をもって、それがインスピレーションでないのは明らかだ。空想世界が膨らんでいくのは、あくまで頭の中でのことであって、それは世界が三百六十度ズバッと拓ける感覚体験とはまるで違う。そしてインスピレーションも感覚世界での体験だから、そこにこれという驚きや興奮はなく、またとってつけたような感動もないのだから、興奮している空想趣味の徒とはそこでも明らかに性質が違う。
インスピレーションというのは、三日月が放っている尊厳を、「当然だろう」と、当たり前のこととして感覚に受け続ける状態のことだ。その上で、その尊厳に比べれば、自分の思いなど全てどうでもよいと確信されるので、思い込みから離れることができる。「思い込みから離れなくては」という思い込みさえ消し飛ぶ状態だ。この状態は確かに、岡本太郎の言うように、思い込みの排除のされ方が「爆発」という感触に近い。思い込みから一時的に離れようとするやり方でなく、二度と取り戻せなくてもかまわない、と破却までするようなやり方で、このやり方はやはり安全性を無視している。
インスピレーション主義は、その危険を敢えて選ぶ、という、一切のフェイルセーフを放棄した、一回こっきりの生き様のことだ。その覚悟の上においてしかインスピレーション主義は成立しない。それこそ、これはマジのマジだ。
九折式恋あい法においては、このインスピレーション主義を、恋あい法として最高位に認めるが、同時に、これを一般には推奨しない。ただ、こうした思い込みからの離れ方もあるということは示されておくべきだ。これを、方法として推奨しないとともに、模倣や手がかりのモチーフとしても推奨しない。あくまで、どれだけ先の見えないものであっても、じっくりと時間をかけて向き合いながら、徐々に思い込みから離れていくやり方のほうが正道だ。それで九折式恋あい法は、インスピレーションを追えとは唱えず、ただ「思い込みから離れろ」と唱える。
***
以上で、九折式恋あい法の大要を話した。これ以上の枝葉末節に入ることは、もう不要で不毛だろう。
ここに話したことは、どれだけぶっとびでも、マジのマジだ。
マジのマジなら、マジのマジのまま書き話すべきだろう。それでウソ偽りなく書き話した。
一方、実のところ、浅い理解でも何かしらの足しになるように、工夫を凝らしても書いておいた。
単純に、「思い込みから離れること」と、これだけしつこく言ってあることだけでも、値打ちがある。
思い込みのままでいるから、あなたのことが見えないんだ。
思い込みのままでいるから、あなたのことが感じられない。
あなたが、思いを強くして、それを思い込みに持っていてどうするの。
好きな誰かがいるなら、ちゃんと「共有」へ向かうことだ、そこから逃げてどうする。
「上等なあなた」みたいなものを、自分で蓄えて持って行ってもだめだ。それは個人モノだ。
上等な個人モノじゃなく、もっと小さな、わずかなことから、共有モノができないかどうか、そのことを試していったほうがいい。
何をどうしたらいいか、よくわからなくなったら、帰ってくるところはいつも同じ、「思い込みから離れること」。
思い込みから離れたらどうなる?
それぐらいは覚えておいたほうがいい。
感覚が、ズバッと、三百六十度に広がって、世界が拓ける。
それで、そこで何をしたらいいんだったか。
それもやはり、覚えておいたらいい。「共有」だ。
あなたの持ち込んだものは共有なんかされない。
ズバッと、感覚が拓けた状態で、もう一度相手のことをよく見ろ。
よく見たまま、本当に、そこに「共有」のやり方があるというのが、本当の本当にわからないか?
一人でいるときに「共有とは」みたいなことを考えてもわかりっこない。
そのことについて考えろ、なんて、九折式恋あい法は唱えていない。ただ「思い込みから離れろ」としか言っていない。
思い込みから離れて、感覚世界を捉えてズバッと拓けて、何をどうすればいいのだったか。
感覚によって挙動すればいいのだった。
無意識にイメージをなぞって挙動してます、というのを、いいかげんやめよう、という話だった。
感覚によって挙動する、というのは、どうすればよいのだったか?
ここは取り違えたら一巻の終わり。
自分が思って「動かす」をしたらそれでおしまいだ。
そうではなかった、感覚によって挙動するということは、「共有」が教えてくれるのだった。たいていは目の前にいる誰かが教えてくれるのだった。
本当に、目の前の誰かは、あなたがどう感覚で挙動すればいいか、実は教えてくれている。よくよく見ることだ。ズバッと拓けた感覚でよくよく見たら、感覚で挙動するということは、「あ、こう動くものなのか」と教えてくれる。
そうして教えてもらえるだけ、感覚世界は"有能"なのだ。あなたなんかよりはるかに。
そしてまた、何をどうしたらいいかわからなくなってくるので、戻ってくるところは必ず同じ、
「思い込みから離れること」
メロンパーーン!!
思い込みから離れることだ。僕だってこうして文章を、感覚で書いているし、どう書けばいいかを教えてくれているのはあなただ。
「共有」されないものを書いてもしょうがないのだから。
最後に、まるで役に立たないまとめを書いておこう。
これが、マジなのだとは、我ながら信じたくないぐらいだ。
――恋あいとは感覚世界に得られるかけがえのない「共有」の現象である。「共有」によって恋あいは初めから親しくまたうつくしい。いきなり手を取り合う親しさが共有され、共有であるからこそそのことには驚きも起こらない。感覚が流れる中、感覚は個人モノでなくまざまざ「共有モノ」でありえるのだから、直接共有された感覚はそれ自体が互いに与える明視になる。明視は流れ系明視である。感覚が共有され流れていくのであるから、これが認知ではなく体験であることは疑いない。互いの与える明視を体験してゆく。この体験をますます恋あいという。しかし一方、現実的な我々は、社会生活の都合上、社会通念を思い込むために、感覚世界でなく意識世界に暮らしている。意識とはそれ自体が思い込みのための装置であり、これは社会生活によく役立っている。とはいえ、この意識世界にあるうちは、感覚世界の有能さの恩恵が受けられず、逆に社会生活を貧しくすることもあれば、当然ながら「初めから親しくうつくしい」という肝心のところが得られないので、恋あいは得られない。そこで九折式恋あい法は、「思い込みから離れること」を唱える。思い込みから離れたとき、それは思い込みの装置である意識機能の失脚である。ただちに、与党は感覚の機能へ移り、そこからは感覚世界が捉えられだす。ズバッと三百六十度に感覚世界が拓ける。この有能な世界に、できれば全身ごとありたく、またこの有能な世界から脱落しないよう、感覚によって挙動してゆきたい。挙動の具体的な仕方は共有が教える。そうすることで我々はすべてを「共有」することができる。共有は直接感覚への明視であり、それ自体が体験を与えてくれる。初めから親しくまたうつくしいという体験を。そう刻まれたままなお流れていく体験を与えてくれる。そこでつまるところの問題は、どのようにして思い込みから離れるか、であるが、そのことにはいっそインスピレーションに向き合って自己の思いなど尊厳の眼前に飛散させてしまうか、そうでなければ、自分がやがて死ぬということ、それもやがてと言わず今日にも死ぬかもしれないことを踏まえて、自分はフィクションであってよいし、フィクションでないと言い切れないということを観じ、フィクションに覚醒する己をもって、思い込みを溶解していくべきだ。何しろフィクションは思い込みから離れるための方法だとすでによく知られているのだから。
[九折式恋あい法/了]
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