No.333 小さいもの
僕は失敗もしないし凋落もしない。失敗したらそれで終わりだと思っている。
傲慢なのかどうかを気にしたことはない。
そういったことを気にするのは、ずっと先か、あるいは永遠に機会はこないのじゃないか。
そういった価値観が、いいのか悪いのかはわからない。いいか悪いかは、全てが終わってからわかることだろう。そんなことのために、今の時間を無駄にしたくない。
僕にはやることがあれこれある。あれもしなくてはならないし、これもしなくてはならない。
何一つ、取りこぼしをするつもりはない。調整をするつもりもない。
調整なんてしなくても、手の届くところは届くし、届かないところは届かない。だから調整する意味はない。取りこぼしなんて、取りこぼしたものはもう僕のものではないのだから僕の目録には入らない。
あれもこれも、やらなくてはならない。今、古い女の匂いがした。
思春期の女がこぼす匂いだ。
僕と寝た女が、幸福にはならないし、不幸にもならない。寝るには寝るが、その後どうなったかを確認はしない。女の子だって忙しいものだから、そんな野暮に時間を割かせたくない。
ただ、今、古い女の匂いがした。
すごろく遊びだって手づかみの青春だったあの日々の匂いだ。
誰だって価値観を持っているのかもしれない。それはまだわかるが、価値観を設定して実験している類とは話すことはない。
価値観というのとは、また違うのかもしれないな。
僕は価値のあるなしで、物事のやるやらないを決めていない。
価値うんぬんは外側の人間が決めることじゃないのか。
僕が僕としてやることに値札をつけたりする理由はまったくない。自分で生産したものを自分で買い取るのは不可能なことだ。
何かをやることが偉いんだ、と言いたがる風潮がいつの間にかある。
僕は、別に偉くなりたくない、と言って、いつも喧嘩になってしまう。
喧嘩するとか、人間のぶつかりあいとか、そういうものにも価値が見出されているところがあるが、僕はやはり興味を持てない。
つまり、やはり、僕は価値に基づいて動いていないのだ。
何かを、やりたいからやっている、ということでさえないみたいだ。
ほとんど、無意味にやっているというか、憑りつかれたからやっている。憑りつかれたものならやる。
憑りつかれていないものなら、どれだけ価値があったってやらない。
小さいものを極めるのが好きだ。極めるというのは大げさだが。
いついかなるときも、どうせ手がけられるのは小さいことだろう。
そして、小さいものが積みあがってこそ、大きいものになってゆく、というふうには捉えていない。ヘンな言い方だが、小さいものが小さいとは僕は思っていない。思えないのだ。
昔、バスの中で目が合った女の子がいて、たまたま、同じバス停で降りた。バスを降りてから、最後にもう一度ちらりと、彼女は僕のことを見た。
僕はその場で、地面というか、道路の縁石にどっかと座った。遠くでどこかの文化祭の声が聞こえていた。
僕が両手を広げて無言であいさつすると、振り返った彼女は立ち止まって笑い、いそいそと歩いてきた。
僕とおしゃべりをしにきたのだ。友達の顔をしていた。
それはとても小さいことだ。人生の足しにはまるでなりやしない。
だが僕は人生に足しを求めていない。
お気に入りの色を塗り重ねたいとは思っている。
それがどれだけ小さい点でも、映えて好きな色なのだから、それは積み重ねておきたい。覚えておきたいわけじゃないが、その時間はその時間を過ごしたい。
覚えるというと、僕にはほとんど覚えているものがない。ずっと夢ばかりがある。そして思い出は夢の中に分類される。だからこそ思い出を貴重に感じている。
思い出を増やすことは夢を増やすことだ。夢は、いくらでも塗り重ねたい。夢がまずしいのはいやだから。
僕は豊かになりたいのではないのだ。豊かさといって、貯めこみたくない。
そうではなく、使い果たしたい。何なら他人の分まで使い果たしたい。
今日という一日には可能性が詰まっている。それを、使い果たしていって、今日という一日のリソースを、すっからかんにしてしまいたい。
もう一度、今日という日を、たとえ神様が搾ったとしても、もう一滴も出ないぞ、というぐらい使い果たしたい。
今日をみっちり貯めこんで、明日のために、という発想はない。
持ってきたものを今日に全て使い果たしたい。何かを得て帰るとか、持って帰るとかいうのはまっぴらごめんだ。
小さいもの……たとえば、ダーツボードの高得点は、的が小さくなっているだろう。
そこに、正確に矢を刺せるか、ということがダーツゲームであって、これはわかる。
もし、ダーツボードが馬鹿デカくて、「こんなもの誰が投げたってブルに入るだろ」というようでは、ダーツゲームはバカバカしくて成り立たない。
僕は、「大きい目標」と聞くと、大きいダーツボードを想起して、バカバカしく感じるのだ。
「目標」は、小さいからこそ目標じゃないのか。
大きすぎる目標なら、いちいち見なくてもいいじゃないか。大きすぎて見えっぱなしなら、目の標はいちいち要らない。
大きい目標というと、「僕はグランドキャニオンになります」というような、わけのわからないことを言うのかな、という気がしてしまう。たとえば総理大臣になることを目標にするにしても、別に総理大臣が巨大だというふうには僕には感じられない。それが「大きい」という印象に映るのは、単なる意識やイメージの肥大じゃないのか。
僕には小さいもののほうが確かなものに思える。
かといって、小さいものをわざわざ愛するというような悪趣味でもない。
単に、僕自身が小さいのかもしれない。
僕自身が、ずっと小さくあって、ずっと動かされっぱなしでありたいという気持ちはある。
そう、小さくあり続けたいというのは、ずっと尖がっていたい、ということでもある。大きかったら、それは尖っているとは言えないから。
ただし、尖っているのが、カッコイイと思っているわけじゃないよ、念のため。
小さいものというのは、たぶん数学で言うところの、微分のようなものに引きあたっていると思う。
微分したら、当然、次元が変わる。次元が変われば単位も変わる。
人生の足しになるとか、覚えていることとか、そういったものを微分すると、元あった単位は崩壊し、夢とか思い出とかの単位系になる。
たぶんそういうことなのだろうが、これは余計にわかりづらくなっただろうか。
まあでも、これはしょせん、僕がやることの性質だ。
人間が生きるのを、大きく捉えると、これはまったくバカらしくなるし、僕にはそもそもどうしてもそういった捉え方ができない。
つまり、人間なんて、出生、就学、就労、納税、結婚、繁殖、死去、納骨、という8工程を経るだけの存在でしかない。
この8工程の出来栄えにキリキリすることが、生きることなんだとは到底思えないし、僕にはどうしても、そういった単位でキリキリする感覚が得られない。
微分しているのだから、単位系が違って、感覚が得られないのは当たり前だけれど。
「大きい」単位で、こうして人間の生を眺めることには、僕は縁がない。
僕の場合、心は器ではなく針だ。レコードプレーヤーの針みたいなものだ。小さいものを捉える針。もちろんツルツルで寂しいレコード盤をなぞるのは寂しいから、すばらしいものが無限に詰め込まれたレコード盤をなぞりたい。レコード盤の溝に刻まれうるすべてのものを使い切るのだ。
まあ、そんなことを言いながら、全部ウソかもしれない。実際に、そんなウマい例え話をぶらさげて毎日を生きているわけではない。
小さいものでありたい理由のひとつは、自分が小さければ、所有物を持たずに済むからだ。小さいものは所有物を持つ余地がない。
所有物は苦手だ。まず自己を所有していると、他人に対しては自己紹介をせねばならなくなる。価値観を持っていれば、価値観の紹介と説明、趣味を持っていれば、またその紹介と説明をしなくてはならなくなる。行動原理を持っていれば、その行動原理に基づいて動かねばならなくなる。
そういったことをするのがとてつもなくいやだ。さらに言うと、そういった所有物で膨れ上がっているのは老人だ。老人はある意味、所有物のカタマリだとも言える。だから老人は、老人であるということだけで、すでに疲れ切っていると思う。
所有物として、特に、「未来に向かえ」みたいなことを持たされるのが一番いやだ。そして、未来に向かっているつもりで、実は所有物に向かっているだけという、老人のパターンに倣わされることだけは御免こうむりたい。
光っていないなら未来とは呼ばない。
僕は老人を大先輩だと思っている。永遠の大先輩だ。つまり僕は、老人先輩の言うことを永遠にわからないまま生きていく。僕は小さすぎて大先輩の言うことを受け取る能力がまだない。
今こうして話しているのも、ほとんど所有物のふりをしたウソだな。こんなもの、僕は持ってやしない。価値観や原理を所有するのはこの先だ。この先といって、微分しているから、その「先」というほうへは一切進まないのだけれども。
僕にとっては、スタート地点が一番正しいのだ。つまり数直線上で言うとゼロ点だ。一番小さい状態の点。このゼロの点にあるときだけ、僕は僕であって、ここから一ミリでも進めばそれはもう僕ではなくなる。一ミリでも進めば老人だ。
僕にはやらねばならないことがたくさんある。あれもしなくてはならないし、これもしなくてはならない。
そして、やらねばならないことは、今後一切減らない。一ミリも進まないのだから、減るわけがない。
たとえば、恋をしなくては、とか、恋人を得なくては、とか、僕のやるべきことがあったとして、それはいくら恋をしても、いくら恋人を得ても、減らない。恋人を得たとして、次にしなくてはならないのは何か。やはり恋人を得ることだ。高校一年を終えたら、次のクラスは何年か、やはり高校一年だ。昨日、あなたは綺麗ですと告白したら、今日は何をするか、やはりあなたは綺麗ですと告白だ。昨日と同じ未来が光っている。
やるべきことが無数にあって、それらはただやってやってやりつづけるためだけのもので、何かが満了するとか済まされるとかいうことはない。だから価値観なんか機能しない。価値あることを見つけたとしても、それを満了できないのだから意味がない。価値のあることも、それなりにわかるけれど、僕はどうせ価値に到達はしない。だからやり続ける。何だってやるし、やり続けることができる。
不思議なものだ、目標は無数に、確かにあるのに。誰だってスタート地点にあるときが、一番無数の目標を観ているだろう。その目標を、塗り重ねていくだけで、目標がやがて目標でなくなる日はこない。十数年前、僕の目標は、誰でもいいからすべての女の子を笑わせることだった。それから十数年が経ち、今の目標は、やはり誰でもいいからすべての女の子を笑わせることだ。目標は今も変わらず光り続けている。これまで塗り重ねたお気に入りの色でなお光っている。ずっと同じ未来がある。
小さいものが、小さいとは感じられない。夜空の光点は無数にあって、それぞれ極限まで小さいが、それを小さいものとは感じない。背丈の小さい女の子の、小さい微笑みが、あるいは小さいおしゃべりが、僕に比べて小さいものには思えない。
かといって大きいものとも思えない。となれば、大きいとか小さいとかいうのも価値観の中に含まれるのだ。価値観をあてがわれて、大きいですとか小さいですとか差分を言われるだけなのだ。
僕にとってはすべてのものは意味がない。価値観がないので、何についても意味は受け取れない。僕が価値観を手に入れるのはこの先なのだ。一ミリも進まず、永遠に行くことのない「先」に、これからの価値観の入手がある。僕はずっとその手前に居続けている。
価値観が欲しいとはまったく思えないのだからしょうがない。
これから何かをやらねばならないという強い心だけがある。ずっと昔からあって、ずっと昔から僕はここで閉鎖なのだ。
これから何かをやっていく、強い心。そのとおりにやっていくだろう。これまでもそうやってきた。
その中で、技術の進化を求められることはいくらでもあった。技術の進化は必要だった。技術は進化させてきた。
けれども、それで僕が一歩でも「先」に出たらおしまいだ。そのときはもう「僕」が消える。僕は今の僕が大好きだけれど、この僕が消えてなくなり、あとは使うアテのない技術だけをぶらさげた醜い老人が一匹残る。
僕にとって最悪の地獄の人生というのは、何か大きいことを為し遂げなさいと要請されて、それを為し遂げたら、「為し遂げたね、じゃあ死ね」と生を終わらされることだ。
僕にだって、これまで押し付けられてきた他人の価値観からの、イメージのこびりつきがわずかながらある。これから何だってやっていくが、それが何か大きいもののように思えたら、それはとんだウソっぱちの目標だろう。世界一周することだって、小さいものに見えていなければウソっぱちだ。大きいものに取り掛かろうなんて、偉そうな気分になるだけで、無理なだけのウソっぱちだ、人間は大きいものには手が届かない。
[小さいもの/了]
←前へ 次へ→