No.334 自由
胸の高鳴りの中を生きていく。
ある意味、悲惨なことだ。
胸が高鳴っているということは、一種の負担を覚えているに違いないのだから。
にもかかわらず、無慈悲なベルトコンベアーで運ばれていく。
それが、自由ということの悲惨さだ。
自由において生きるということは、ある意味、一種の地獄だ。
僕は自由において生きているので、そのことがよくわかるつもりだ。
自分が自分の手作りだと、どこで錯覚した?
自分、あるいは自己なるものは、勝手に存在している。
自己に心当たりはないのだ。
自己は操作できない。
自分が自己を操れるのではなくて、自己が自分を支配するのみだ。
自分なんて権限ゼロだよ。聞いてももらえない。
どれだけ悲惨なルートでも、自己がそれを選択する限り、されるがままに運ばれていくしかない。
自己のその無慈悲さは、こちらの胸の高鳴りを、完全に無視してくれる。ちょっと待ってくれよ、とずっと言っているのに……
知ったこっちゃないんだろうな。自由というやつは本当にひどい。
僕は女が好きだ。女と、女の子が好きだ。
男はどうかというと、別にきらいではないのだろうが、女に起こるそれとは好きの種類がまったく違う。
男のほうには、ロマンチックなものがない。当たり前か。
女は強制的にロマンチックだ。
ロマンチックといえば、ロマンチックなのだが、勘弁してくれ、と思う。
そんなに次から次に恋人と出会って、次から次にやらかして、本当にへっちゃらで耐えられるほど、僕は頑丈ではない。
まあでも、しょうがないらしい。
食事なら、食い切れないぶんは食わなくていいみたいだが、女とか恋とかロマンチックとかについてはだめなようだ。胸が張り裂けるまで、胸に詰め込め、張り裂けても詰め込め、ということらしい。
このしんどさにギブアップするなら、もう、心を捨てるしかなくなる。捨てるといっても、無視する、というだけでしかないが。
そして、どうせ自分の心を無視すると、病気になる。まったくひどい仕組みだ。
むなしい、という病気になる。そりゃ、心を捨てて無視して自分を運営しているのだから、むなしいに決まっているが、わざわざ、そのむなしさには耐えられないように人間は設計されてしまっている。
晩年になって大破綻するタイプの人もあるが、僕はああいうふうになるのは、さすがに趣味じゃない。
もっと上品な、上等な自己に生まれつきたかったが、しょうがない。
僕にとっては、ほとんどすべての女性がヒロインらしいので、何百人かいれば何百人すべてに溺れなさいということみたいだ。
これはなかなか悲惨である。
まあ、もう、無駄な抵抗はやめよう。
せめて、単なるスケベに生まれついて、マシだったと思おう。
これがもし、「気に入らん者はただちに斬れ」というような自己に生まれついていたら、それこそシャレにならなかった。
かつて、人斬りがいた世では、そういう人もやはりあったのだろうか。
人間には、躊躇の機能と、決定の機能があって、その二つの機能は、両方ともゴミだ。
なぜなら、躊躇していたら間に合わないし、かといっていちいち決定していたら、これもやはり間に合わないからだ。
だからどうすればいいかというと、すでに決定しているとおりにするしかない……のだが、こういった話し方はもうやめよう。
僕は人に物事を教えるのが苦手だ。
人に物事を教えるのに、きっと高い能力を有しているが、それでも僕自身が苦手だ。
それだけじゃなく、今気づいたけど、人に「考えさせる」のも苦手だ。
これは重要なことに気づいたと思う。
考えさせるような話し方をしてはだめなのだ。僕自身がウゲーとなってしまう。
人々は、悪い頭で考えるから、誤解のプロ、みたいになってしまう。
考えさせてはいけない。オレステキ、オマエは、知らんけど、まあステキなんちゃう、やってみないとわからん、コーヒー飲もうか、田舎より東京がいいよね、というような話をしていればいい。
楽しくなってきたねえ。
得ることと失うことはイーブンに発生する。
お前は得てばっかりじゃないか、と言われたらそのとおりだが、それにしても、得るときは得るかもしれないし、同時に失うかもしれないのだ。
ハエを叩くときと同じだ。ハエはじっとしている。バシーンとやれば、やっつけられるかもしれない。が、逃げられるかもしれない。何もしなければハエはじっとしたままだ。
獲りに行くということは、逃げられるということの引き金を、自分で引く行為でもある。
まあそれでも、ウデのいい奴なら、逃げられたりしないのだけれどね。
将棋の棋士でいうと、一手ずつ進めていくわけだが、勝利に進んでいるのが敗北に進んでいるのかは、終わってみないとわからない。
敗北に進むのがいやなら、そもそも一手も進めなければいいのだ。実際、敗北に進むのがいやな人は、一手も進めることができない。
だからそこのところは、別にいいか、と思っていなければ、進められない。別にいいじゃないか、恋あいのひとつやふたつぐらい。あるいは友人の一人や二人ぐらい。別にいいじゃないか、仕事ぐらい。別にいいじゃないか、自分の生命のひとつやふたつぐらい……
精神的にマジメな人というのは、実はひどく強欲で、この「別にいいか」という気持ちが持てない。
そういえば、冗談でなく、マジメな人で自我防衛を持たない人は見たことがない。
マジメな人は、常に自分を守ってばかりだ。それも、とてつもなく厳重に自我防衛している。
マジメな人は、自分のマジメさを美化して捉えているが、何にマジメかというと、自分が何かを失うことに対して「絶対イヤ」ということにマジメなだけだ。
それはよくよく見ると、ひどくズルくないか。
僕が、自由に生きることの悲惨さに、必死に耐えているというのに……
拍手がもらえるかどうかは、終わってみないとわからない。
拍手されることもあるが、正直、こちらにはわからないことなので、「なんでこいつら拍手してんだ?」と思う。
でも、それは他人が勝手にやることなので、まあいいか、と思い、「どーもー」と、放っておく。
他人のやることに、あまり興味を持たないし、他人のやることに、口出ししたくないのだ。
もちろん気分はいいけれどね。
自由に生きるということは、他人も含めた世界の中へ、自分の何かを放りこむことだ。自己に由来する何かを。
それが他人にとってどういうものなのかは、僕にはわからない。
自己客観視という発想があるのもわかるけれど、自己客観視というのは、何も「自分が他人からどう思われているかを予測する」ということではないと思う。
せいぜい、自分が他人だったら、という視点で、自分のことを眺めるぐらいだろう。
うーん、それにしても、自己客観視という発想は、僕はいまいち好きになれない。単純な、幼稚な意味においてはわかるけれども。
何しろ僕は、他人のことでさえ、客観的には見られないのだ。女の子を見ると「おっ」と思うが、なぜ「おっ」となるのか、何が「おっ」なのか、僕自身にもわからない。客観的には意味不明だ。
しかも、自分がそうして「おっ」となるということが、前もってわかっているわけではないのだ。実際に「おっ」となるまでは、そんなことには決してならない、おれは落ち着いているさ、と勝手に思っているのだ。
でもたいてい、実際に女の子が目の前にいて、ニコッと笑われたりすると、「おおっ」となってしまう。どうせなるんだろ、という気が経験上する。そしてだいたい、そのとおりになる。
自己客観視なんて面倒くさいことまでして、効果的な自分の演出なんか、考えたくない。それなら一人でズッこけているほうがはるかにマシだ。
もし、この現代、この時代状況の中で、自己客観視を元に行動決定なんぞしようとしたら、誰でも即座に自殺したくなるに違いない。
自己客観視なんかアテにしている奴は、それだけで致命的にダサい。それぐらい自分でわからないようでは、自己客観視ができていないだろう。
やっぱり男も女も、かっこよくないとね……
かっこよくなるのに、一番邪魔になるものは、主義とか思想とかだと思う。
主義とか思想とかについて議論しているオッサンたちの集団を想起したまえ。
目も当てられないぐらいかっこわるいはずだ。
かといって、主義も思想も感じられない、口元がずっと半笑いの大学生も、別の方向でひどくかっこわるい。
じゃあどうすればいいかというと、やはり自由でいるしかないのだ。
自由は、やはり、人間にとって光なのだ。
人間はやはり、ウソをついているものがきらいなのだろう。
モテない男がやってしまう典型的な悪パターンがある。
それは、自分がモテなさすぎることに追い詰められて、「やっぱり男はぐいぐい引っ張っていくタイプでないと」というようなことを、主義思想に持ち始めるというようなことだ。
女性からすると、聞いているだけで寒気がするだろう。
つまるところ、主義思想とは何なのかというと、弱り切った人間の行き着くウソだ、ということになる。
自己に由来する中に、女をぐいぐい引っ張っていくところなんかないくせに、自分都合でそれを捏造しようとする、そのウソがどうしようもなくかっこわるいのだ。光がない。
それならまだ、僕がオッホホッホッホと笑っているほうがマシだ。
そして、突然話は変わるが、僕は何事についても、「違う」という言葉を決して言いたくないのだ。
何も違わない、とだけ言い続ける。
何も違わないのだから、誰も彼も、好き放題にやりゃあいい。
僕は僕自身が何を言うのか知らないのだ。
これからの全てのシーンで、僕は何をするのか、僕自身わからない。
わからないけれど、何かをするだろう。
それは自由においてだ。
だから、きっとここのところで誤解がとける。
自由というのは、自分都合のことを言うのではないのだ。
自分都合なんて論外で、その逆、自由は自分都合を逆行する。
自分都合を無視する、無慈悲でアクティブな支配のことを、自由というのだ。
自分都合でいえば、僕だって女の子にはやさしくしたい。ひどいことを言ったりしたくないし、そこそこ好印象で点数を稼ぐこととか、イケてるおしゃれふうの雰囲気を醸し出すこととか、有利なことをやっていきたい。いきなり手を伸ばしておっぱいを揉みながら、十年前の鳥取砂丘で見た流れ星のことを、ゆったり話し始める、というようなことは、本当は僕だってやりたくない。
が、僕の自由は、そういった僕の内心の企みや事情を、完璧に無視するのだ。だから悲惨だ。
「何も違わない」というのは、僕の自由からの声らしい。
何も違わない、か。なるほどな……
確かに、何もかも、有象無象の渦みたいなものなのだから、何かが「違う」なんてことはない。
何かを「違う」として、その「違う」を修正していったとしても、何かが伸びたりしない。
交通事故の検証を重ねたってレーサーになるわけがない、ということのようにだ。
レーサーになるためには、自由においてアクセルを踏むしかない。
だから僕は人に物事を教えるのが苦手だ。
教えるというのは、「違う」を修正していく補助をする、その営為の側面が大きすぎる。
「何も違わない」なんて言っている奴が何かを教えられるわけがないな。
僕は、自分の行動の仕方さえ、自分に教えていないというのに。
僕は文脈を組み立てたいと思う。こうして書き話しているとき、常にそう思っている。
が、僕の自由は、その文脈の構想を、一行目から粉砕してしまう。
自分の都合や、自分の気持ちや、自分の感情や、自分の思いを、優先できるものなら、どれだけ気楽なものだろう。
僕は、失敗しようのない最善の方策を採りたいのに、「何も違わない」だとか言って、なんでもかんでも放りこんでくる自由の、なんと無慈悲なものか。
また、それでしか胸が高鳴らず、それでないと光がないということが自動的にわかるこの仕組みも、なかなか苦笑させられる、タチの悪いものだ。
好きだ、と告白すると、きらいよ、と言われる。
そこで、じゃあ付き合おう、と言い出したりする、このつじつまを気にしない確信の装置。
まったく誰も彼も愛し合えばいいと思う。
僕はその中で、とにかく女の子の貞操を盗みたおそう。
毎秒ごとにエネルギーに満ちている。
静かなものだ、大きな声は好きじゃない。
ここで唐突に終われとか、つじつまがないにもほどがある。でもこれで話は済んだらしい。次があるからここで終われ、と。
[自由/了]
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